徳川邸

第六天とは比べものにならない立派さでした。

どっしりとした洋館の応接間や引き手に房の付いた襖の

和室が記憶に残っています。

 

家達家に預けられた慶喜の娘たちに戻ります。

又、普段の躾として、食べる時には箸の先を1分以上

汚してはなりません。

箸でオカズを「ツツキ箸」や「まわし箸」にしてはいけません。

これは小笠原礼法によるものです。

 

家達家は、小笠原流を礼儀作法の指南としていました。

或る日、家元が屋敷に来て、お昼を召しあがったことが有りました。

家元は、お茶漬けを希望だという。

小笠原流では、食事の最後には、お茶漬けにするのが作法だった。

しかし、最初からお茶漬けとは無作法と思い、家元の食事後

主人の家達に申し上げたのです。

 

すると家達は、食器を見せてごらんというので、食事後の膳を

そっくり持って行ったところ、家達は家元の使った箸を手に取って

「ウーム」と唸って、老女に箸を見せました。

するとどうでしょう、箸は先1分しか汚れておりません。

「流石!家元」皆さん驚いていました。

先1分の礼法でした。

 

でも、慶喜家では、お茶漬けは下品なものとして食べたことは無い、

と云っていました。

武家と公卿とでは、作法は違うのでしょうか?

 

ちなみに「畳の縁を踏まない」というのが小笠原礼法にあるが、

実はこれは誤解であり、畳はかつて上流階級のみが使っていた

ものであり、室町時代の書院造では部屋中に畳を敷き詰めた。

そして畳の縁には、錦や厚い生地が使われており、段差があり、

その縁を踏まないようにと、成人男性であれば1畳を3歩半で

歩くことを礼法として求め、日常の躾としたのだという。

 

そして、お手洗いは、お早めにどうぞ、と云われました。

何故なら、我慢してると、大きな音がするからです。

昔は、姫や奥方がお手洗いに居る間、もう一人の女中は、

ご不浄の外にある御手水鉢の水を柄杓で叩いて

内から漏れる音を消していたという。

 

文中、もう一人と有るので、恐らく、中に1人入り世話を

してるのでしょう。

1回厠に入ると下帯から足袋まで取り替えたそうです。

旗本から上がってきた側室は、中まで入ってくるのには、

耐え切れずに拒否し、自分だけ入っていたと云います。

13代家定の生母の本寿院がそうでした。

大の慶喜嫌いでもありました。

 

大好きなトイレの話が出てますが、ここはスルー、次に進みます

 

当時は、良家の娘の躾としては、和歌が詠めて、

字が綺麗に筆で書けて、御琴が上手にお裁縫が出来れば、

それで好い花嫁になると云われたのです。

 

返事をする時でも、返事は1回「はい」と早く短くする。

「はいはい」とするのは、重ね返事といい、「はーい」は長返事、

どちらも宜しくないと云われた。

 

又、おとと様にお答えする時も「でも」「だって」とかは、

お口応えとして禁じられた。

 

普段でも、女中が掃除をしている先に居ると、

「そんなところに居るとお嫁に行っても、3日で帰されますよ」

と云われたものです。

この辺は、何しろ煩かったようです。

 

 勝海舟

この頃だが、千駄ヶ谷の徳川宗家の屋敷に勝海舟が来ていた。

徳川を救ってくれた人として重要視されていた人であった様で、

姫達が学校から帰ってくると、勝が畳の上に手をついて挨拶した

姫君に対して、「よー今お帰りかね」と座布団で仰ったのです。

その言い方があまりに横柄に感じて、部屋に戻ると

「なんて嫌な爺さんなんでしょ」と話ししたそうです。

 

そして「お窪み」というお菓子などが入ってある部屋があった。

これは、大奥への贈答品なども、全てこの部屋に納められる。

4畳半くらいの大きさで、おじじ様への頂き物が、部屋の壁際と

中央にある棚に詰まっている。

 

おばば様だと、直ぐこの部屋に品物を入れてしますが、おじじ様

(家達)は、箱をあけて皆に配るので女中には大変評判が良かった。

 

そこには、当時珍しかった果物のネーブルとかメロンが有るが、

それらは美味しい内に食べるのではなく「お窪み」に入ってしまう。

ポンカンなども食べる時は、カサカサになっている。

友達の家でポンカンを食べた時は、こんなにジューシイなんだと

吃驚したという。

 

或る時、女中たちはおやつを食べていたのです。

見ると真っ青に黴が生えた蜜柑を食べていた。

そんなもの食べるの?って聞いたら、御酒の味がして美味しいです。

と答えたという?

饅頭などは、固くなったのを溶かして御汁粉にしたりもした。

 

娘たちは、よくこの部屋に盗みに入ったそうです。

見張りを立てて行ったのです。

ただ、羊羹などもコチコチになったものをお八つを出たそうです。

 

この辺は、慶喜家と違うのです。

慶喜家は「お菓子所」といいました。

慶喜家は、毎日、大きなお盆に乗せてお八つなどに

老女が沢山乗せて出していたとあります。


 

でも、女中たちにも月に2回御振舞いが有りました。

お常式」と云われたもので新しいお菓子を饅頭を出入の菓子舗の

菊寿軒に頼むのです。

箱の中には格子のように仕切られた菓子の見本があり、

私たちも選ばせてくれた。

新しいお菓子を女中たちに食べさせたのです。

息抜きですね。