今度は慶喜家のお正月の様子です

喜佐子の日記では「今日はおたた様とお姉様は

北白川宮の所へいらっしゃいました。

私や妹はお留守の間御庭で羽根をついて遊んでる所に

奥寺先生が御帰りになるとおっしゃったのでお見送り

いたしました。

それから又羽根つきをしてると、今度は林町の叔父様と

叔母さまがいらっしゃったのでおたた様の代わりに

お辞儀に参りました。

 

それから又羽根つきをして遊びました。

夜は百人一首をして遊びました。

私の組は1回勝って妹の組は3回勝ちました」

 

最近では全く見ることは出来ませんが、正月の

鞠つきも当時はよく見られた光景でした

 

この当時の鞠つき歌を徳川元子が紹介しています。

「山王のお猿さんは赤いおべべが大好き大好き、

テンシャンテンシャン、夕べ恵比寿講に呼ばれて行ったら、

お鯛の吸物、小鯛の塩焼き、1杯おすすら、すうらすら、

2杯おすすら、すうらすら、3杯目に肴が無いとて、

名主の権兵衛さんがお腹立ち、ハテナハテナ

ハテナハテナ」

2度も繰り返してつければ上出来でした。

今はもうこうした歌などは消えて無くなりました

 

「江戸 元服式 絵」の画像検索結果

おたた様の代わりに少女が代わりに挨拶に出る。

これは武家の家では当たり前の事で留守を

任せられた者が代理で挨拶を受ける。

今なら子供ではとしないのが普通ですが、武家の家では

子供とはいえ挨拶というのはきちんと仕込まれていて、

年礼など正月の近所回りなども子供がしてたのです

 

奥の住まい

さて六天の正月というと暮近くになると総出で正月の

準備にかかり飾りなどは28日夕までに済ませてた

玄関には木に松をかけ輪飾りをしただけの門松

これは表や植木屋がした。

 

江戸の場合、13日に掃除をし門松を28日位までに

立てます。

尚、上方は門松ではなく、注連縄を張る。

従って、正月の事を松の内というが、上方では

注連の内といわれた。

 

注連縄は、結界を意味し、神域と下界を分ける

結界である。

葛西の農家

メタボンのブログ

注連飾りは、当時もセットで売られ、葛西の農村で作られ

11月半ばから作り始め、12月の年の市で売られた。

 

お供えも用意する。鏡餅の上に、角包がのる。

これは、三方の白紙の四角を折り、

その中にお目出度い昆布や勝栗、ごまめ、米等を

入れて紅白の水引きで結んだものである。

 

鏡餅の前には大きな伊勢海老が立ち掛けられ、

先には海草の「ほんだわら」が掛かっていた。

橙は三方の隅置にかれた。

こうしたお供えが幾つも作られ、それぞれの部屋に運ばれ

床の間に飾られた。

 

床の間の掛軸もお目出度い物に変えられた。

各部屋に輪飾りが飾れて、新しい達磨が違い棚の所に

置かれる。

古い達磨は赤く目入れを行い、川に流された。

この目に赤を入れる仕事は面白かったので、

お手伝いしたようです。

 

元日は早く起きた。

支度が出来ると表の人が威儀を正して挨拶に来る。

母の居間で一緒に挨拶を受ける。

 

元日の御祝膳が出るので頂く。

数の子、ごまめ、黒豆などのお皿、

口取に鱈と細いこぶの御吸物、

焼物、

銀の銚子で御屠蘇が注がれる。

杯は朱塗りの金の御紋入りである。

雑煮は、鴨雑煮。小松菜が入っている。

小松菜は、8代吉宗が名を付けた野菜です。

餅は「カチン」と云い「正月3が日は食べ上り」とされていた。

 
ちなみに、「かちん」とは、平安時代に歌会が行われ、

そこで、良い歌を作った公家には、

御褒美のお駄賃として、餅を与えられた。

歌のお駄賃が「カチン」に変わったという。

 

御雑煮は、幕末の江戸の風俗を記した『絵本江戸風俗往来』に

江戸の庶民の正月の食べ物の事も書かれています。

雑煮については「雑煮は餅に添えて小松菜・大根・

里芋を通常とす。

つゆは味噌汁を用ゆる所もあり。餅も焼きて用ゆるあり、

湯に煮て使うあり」とあり、「重詰の品は田作(ごまめ)・

数の子・座禅豆(黒豆)の三種なり。

しかし家々の式により一定せざれども、

この三種通常用ゆる所なりとす」とあります。

 

小松菜は8代吉宗が命名した野菜ですから

当然雑煮に加わります


将軍の雑煮は、文政年間(1823ごろ)の将軍家斉の

食事記録として、

御臓煮 もち・里芋・長菜・青昆布・花かつほ」とある。

 

天保年間に書かれた江戸城賄方の記録によれば、

城内での正月三が日の雑煮は、

餅、焼豆腐、里芋、青菜、花鰹」とある。

醤油仕立ての、かなり具が一杯の雑煮であったようです。

 

慶喜の住んでた六天屋敷の正月の話になります

正月のお客様は何時も大勢でしたが、この年昭和5年は

姉と高松宮との婚儀が有りますので特に多かったようです。

 

大体のお客様は玄関で御帰りでしたが、

「折衷の間」と呼ばれた応接室に通された客様には、

母がお相手をし、居ない時は私たちがお相手しました。

黒豆・ごまめ・数の子の3皿と私たちが頂くのと同じ御吸物、

其れに杯が付いた祝膳が出され、

私たちがお屠蘇のお酌をしました。

折衷の間

和洋折衷の作りであったようです

母と喜佐子姉妹

正月は30畳くらいあった台所が最も忙しくなる季節でした

オーブンで焼いた鴨で作る鴨雑煮から始まり鱈と

昆布の吸い物、刺身、鴨焼、蒲鉾、卵焼き、酢の物、煮物など

お客様が多いので数十人用の膳を用意しなければならず

目が回るような忙しさであったという

 

大人たちは大きな茶碗とお椀で食べ、姉妹は可愛らしい

朱塗りに金の御紋入りの茶碗とお椀で食べました

又、この日は、飼い猫が伊勢海老の飾りを狙うので

それを防ぐのは御次の仕事でした。

 

多くの親戚が訪問してくる。

殆どが徳川や松平の姓を持ってるので、呼ぶ時は

屋敷のある町の名前で林町様とか千駄ヶ谷様などと

呼んでました