姫君たちは、女学校に行かせるために慶喜は家達に預け、

家達はそれぞれ女中1一人づつ付けて養育した。

 華族女学校の下校

 

祖母は家達の正室で、母は長男の家正の妻で生母でしたが、

私たち子どもは生母ではなく、祖母から大いに影響を受けて

育ちました。

生母は、内気であり、何も言えなかったようで、島津家の育て方が

関係しているようでした。

 

姉妹が何人かいたが、育て方は、部屋から食事から別々であり、

全く交流が無いのです。

成人してからも、会ってもまるで他人のようであったという。

田安家に嫁入した姫も、例えば、廊下に物が落ちていた時は、

誰かが拾うまで、そこに立っていたと云い、戸田家から田安家に

嫁入した岩倉具視の孫も驚いていました。

 

この頃は、平屋の質素な家屋であったという。

孫たちの表現では「天井も低い、鴨居も低い、お粗末な建物」

これは、徳川家がまだ世間に遠慮していなければならないと、

思っていたからであるという。

 

この頃、勝海舟の3男と結婚したアメリカのクララ一家は、

赤坂溜池に近い赤坂福吉町の屋敷を訪問している。

その様子を「物々しい従者と護衛達が、一番品位のある3位様に

侍り、両側の道には使用人が並んでいた。

私たちを見ると、いかめしい恐ろしい侍全員が深々とお辞儀した。

 

若き徳川様を先頭に従者数名が付き添って、私たちは家の中に入った。

案内された客間はとても立派で、栗色の覆いをかけたテーブルが

中央にあり、ブリュッセル絨毯が床に敷いてあった。

体裁の良い椅子が周りに置かれ、隅々には屏風が立ってた。

部屋の周囲に絵が掛かっていた。

 

更に庭内を案内され、

「美しい庭園を歩いたが、日本によくある庭園法が行き渡っていた。

石燈籠の他にも、桜・桃・すもも・ばら・水仙、高さが6フィートで

周囲が4フィートもある様な大きな椿の木もあった。

婦人たちの居る所に行ったが、そこには老婦人が3人、28人の

侍女を従えて住んでいた、

最高位の婦人は気分が優れず、運悪くお目に掛かれなかった。

大勢の女の人達が廊下に出て挨拶したが、私たちは、

靴を穿いていたので中に入らず、外で15歳になる老猫と

戯れた」

 

最高位の婦人とは天璋院の事で、後の2人は実成院、本寿院でしょう。

千駄ヶ谷の宗家には天璋院を始めとして慶喜の娘など

大勢住んでいた。

将軍の生母よりも御台所が格式が上なのです。

これだけいるとお付きの女中も大勢いたことでしょう。