奥女中79-19
春彼岸頃やってきた燕が帰る頃が秋の彼岸です。この日を境に釣瓶落としに日が短くなる。と云っても、釣瓶って何?と云われそうですが。8月の末になると北から雁がやってくる。是を、「初雁」という。整然と飛ぶ様子は、雁行とか雁木、文字では雁字という言葉も生んだ。戦闘機なども編隊を組んで飛行するが、雁と同じくV字形に組んで飛ぶが、これが一番省エネであるからという。金沢兼六園に雁行橋がある。「雁」が夕空に列をなして飛んでいる様子に見えることから名付けられた。秋の彼岸には牡丹餅が食べられます。牡丹餅は、宮中の女房言葉で「萩の花」ともいい、お萩という名も有る。牡丹餅とお萩は、粒餡と漉し餡の違いや、季節の違いから区別されたと云いますが、牡丹餅が基といわれています。ぼたもちとおはぎは、それぞれ作る季節に違いがあり、その季節の花の名前に由来しています。ぼたもちは江戸時代に春のお彼岸に食べられていたもの。砂糖は貴重だったため、あんこは塩味で作られていましたが、江戸時代中期になると砂糖の入ったあんこが広まっていきました。酒井は黒砂糖ではなく白砂糖であったので喜んでます一説には小豆を牡丹の花に見立てたことから、「ぼたんもち」と呼ばれていたのが「ぼたもち」に変わったとも言われています。一方のおはぎは、秋のお彼岸に食べられていました。秋の七草のひとつである萩の花と小豆の形状が似ているため、「おはぎもち」と呼ばれていたのが「おはぎ」に変わったとされています。さらに、夏や冬に作る場合には別名があります。夏の別名は「夜船(よふね)」です。おはぎを作るときには臼でつくことはせず、米を潰して作られるため、餅をつく時のようなペッタンペッタンといった音が出ません。近隣の住人でもおはぎを“ついた”のがいつか分からないことから、夜は暗くて船がいつ“着いた”か分からない「夜船」になぞらえて呼ばれるようになりました。また、冬は「北窓」とも呼ばれ、北にある窓からは“月”が見えないことによります。搗(つ)くことをしないことから、転じて“月知らず”となったわけです。農家は牡丹餅を重箱に入れて大根畑に行き、大根の伸びがよくなるように祈った。安政元年(1854)には、牡丹餅を食べると、炎暑に当たらないという流言が広まり、菓子屋に大勢の人が殺到し、そのお蔭で糯米や小豆が何処の店も在庫が無くなってしまって大変であったそうです。江戸時代、当時は誕生日で年を数えるのではなく元日で数えました。産土神に社参する。11月には恒例となってる「髪おき」の行事をし赤飯を作って配ってる同日「白髪の儀」頭に白髪になぞらえた白糸を置く)行った。髪おきは、赤ん坊から子供になった印であり、髪を伸ばす。今は女の子だけがするが、江戸時代は、男女共にした。武家では3歳になると行った。男の子は芥子坊に。女の子は唐子髷にする。「浮世床」にも「4才ばかりの唐子髷の子を」というのがある。御祝に、赤飯を配るという習慣があり、赤飯に南天の葉を添える。「髪置きに 庭の南天 坊主にし」この時期の植物は南天。「難を転じる」として厄除けに使われました。葉は咳止めの他に防腐効果もあり彩を添える意味で弁当や料理にも使われる。或いは文久二年(1862)のコレラの大発生の時には、江戸で73、000人の死者が出た。しかし、特効薬は無く、梅干しと南天の実を煎じて飲むと効くと云われ,その為、庭から南天の木が無くなったという。