3月3日の雛祭の風習の始まりは、天正(1573-92) 以後の事といわれていますが、江戸時代になると五節供の 一つになり、民間でも行われるようになりました。 |
雛祭の由来は、平安時代からあった雛遊びと、 中国から伝わった3月上巳の祓の行事が 合体して始まったものといいます。 祓の行事は人形に酒食を供えてから、もろもろの厄を 人形に託して川や海に流す水辺の神事でした。 人形も慶長(1596-1614)のころまでは、 厄をはらうための紙などで作ったものでしたが、 その後、美しく高価な雛人形が作られて 雛壇に飾られるようになりました。 |
雛祭の食べ物は、『日本歳時記』(1688)には、 よもぎ餅(草餅)と桃花酒(桃の花を浸した酒)とありますが、 19世紀に入ると桃の花は飾り、草餅のほかに 白酒、蛤やさざえなどの貝類、魚鳥や果物の形の 菓子などが通例になります。 明治初期の『東京風俗志』(1901)には、 雛祭の供物として菱餅、はぜ(米粒を煎って膨化させたもの)、 さざえ、蛤があげられ、客には赤飯、白酒、葱のなます、 つみ入汁を振舞うとあります。 |
現在の菱餅は、赤・白・青の3段重ねが普通ですが、 上の錦絵の菱餅は白と青の5段重ねです。 『守貞漫稿』(1853)には青・白・青の3段重ねの菱餅の絵があります。 『東京風俗志』には赤白青の3色の菱餅とありますから、 赤が加わったのは明治以後のようです。 なお青はよもぎ餅ともよぶ草餅です。 |
町屋ですと、雛祭りには草餅を上げます。
よもぎを混ぜて搗いた餅です。
元々は、母子草を使ってましたが、江戸時代には、
よもぎを使うようになりました。
江戸城大奥の雛祭りは、
お花は、6,7寸の花桶3つに一杯桃や桜や椿を入れて
段の上ではなく前に飾ります。
ご仏前の花は、御伽坊主が替えますが、
御雛様の花は、お付の中臈が毎日替えます。
その他、御用達の商人から、一杯作り花が献上されます。
お雛様の花は、唐草に御紋(葵)が付いてます。
6,7寸の花桶へ桜や桃や椿も一杯入れて飾る。
幕は紅白の縮緬のを後ろに張ります。
前に金屏風を立てますので幕はよく見ません。
小さいのは御内証の物でした。
いずれにしても拝見できるのは、御末までの者で、
陪臣は見ることは出来なかったようである。
ただ、松浦静山の「甲子夜話」には、「婦女の輩は、
市坊の人にても大奥の女員に親縁あるは、
それぞれの部屋より手引きして、御庭より
御間中の御雛を見物する由、拝見せし人の言なり」
とあるので市中の人も見る事が出来たようである。