江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.31「ひなまつり」

 
 3月3日の雛祭の風習の始まりは、天正(1573-92)
以後の事といわれていますが、江戸時代になると五節供の
一つになり、民間でも行われるようになりました。
 
 雛祭の由来は、平安時代からあった雛遊びと、
中国から伝わった3月上巳
の祓の行事が
合体して始まったものといいます。

祓の行事は人形に酒食を供えてから、もろもろの厄を
人形に託して川や海に流す水辺の神事でした。

 人形も慶長(1596-1614)のころまでは、
厄をはらうための紙などで作ったものでしたが、
その後、美しく高価な雛人形が作られて
雛壇に飾られるようになりました。
 
 雛祭の食べ物は、『日本歳時記』(1688)には、
よもぎ餅(草餅)と桃花酒(桃の花を浸した酒)とありますが、
19世紀に入ると桃の花は飾り、草餅のほかに
白酒、蛤やさざえなどの貝類、魚鳥や果物の形の
菓子などが通例になります。
 
明治初期の『東京風俗志』(1901)には、
雛祭の供物として菱餅、はぜ(米粒を煎って膨化させたもの)、
さざえ、蛤があげられ、客には赤飯、白酒、葱のなます、
つみ入汁を振舞うとあります。
 
 現在の菱餅は、赤・白・青の3段重ねが普通ですが、
上の錦絵の菱餅は白と青の5段重ねです。
『守貞漫稿』(1853)には青・白・青の3段重ねの菱餅の絵があります。
『東京風俗志』には赤白青の3色の菱餅とありますから、
赤が加わったのは明治以後のようです。
なお青はよもぎ餅ともよぶ草餅です。

 

町屋ですと、雛祭りには草餅を上げます。

よもぎを混ぜて搗いた餅です。

元々は、母子草を使ってましたが、江戸時代には、

よもぎを使うようになりました。

 

江戸城大奥の雛祭りは、

お花は、6,7寸の花桶3つに一杯桃や桜や椿を入れて

段の上ではなく前に飾ります。

ご仏前の花は、御伽坊主が替えますが、

御雛様の花は、お付の中臈が毎日替えます。

その他、御用達の商人から、一杯作り花が献上されます。

 

お雛様の花は、唐草に御紋(葵)が付いてます。

6,7寸の花桶へ桜や桃や椿も一杯入れて飾る。

 

幕は紅白の縮緬のを後ろに張ります。

前に金屏風を立てますので幕はよく見ません。

小さいのは御内証の物でした。

いずれにしても拝見できるのは、御末までの者で、

陪臣は見ることは出来なかったようである。

大奥も!男の子も!心華やぐ「ひな祭り」が描かれた浮世絵【誰 ...

ただ、松浦静山の「甲子夜話」には、「婦女の輩は、

市坊の人にても大奥の女員に親縁あるは、

それぞれの部屋より手引きして、御庭より

御間中の御雛を見物する由、拝見せし人の言なり」

とあるので市中の人も見る事が出来たようである。