7日は七草粥。

唐土の鳥が日本の鳥へ、渡らぬ先に、なずな7種、

はやしてほとほと」と、囃し、菜を刻む。

この日は、七草を入れた小鉢の水に指を浸し、

初爪を切るのです。


11日は、鏡開き。

全ての御供え餅を切る。

江戸時代は鏡餅は、あくまでも手で割る。

道具を使ってはならない。

手を砕いて城を割る=攻め落とすという意味です。

15日は、小豆粥で私たちは砂糖を掛けて頂いた。

 

11日は江戸時代は具足開きの日であった

1月11日 具足開き

黒書院に家康愛用の乃朶の具足を飾る。

家康の手垢が付いていたという。

家康薨去後、久能山に安置されましたが家康を崇拝していた

3代家光が江戸城に移し、将軍家の武器の筆頭に位置付けた。

4代家綱は、この具足を模造して御写形(おうつしかた)と称し、

毎年正月11日に黒書院に床飾りされました。

この行事は代々の将軍が受け継ぎ、幕末まで続いたのです。

 

しかし、こうした鎧を見ると戦国人は強靭な体を

してたとつくづく思いますね。

 

重さが20キロ以上は楽にありそうですから、

これを付けて動いていたのです。

2代将軍秀忠も小柄で160センチも無かったが、

しかし、発掘調査ではしっかりと筋肉が付いて

いたそうで、徳川将軍もここまでは紛れもなく

戦う戦国武将であったのです。

 

「殿居嚢」には、具足開きの事を、こう記している。

「のしめ麻上下、御具足之祝餅御祝有之、

溜詰御譜代柳間衆之内、布衣以上以下お役人詰合之面々、

餅御酒被下之」とある。

女中はそこで食べてしまう。

餅の上に餡を乗せるが、その餡は砂糖の気も無い。

ただ小豆を潰したものである。

 

「殿居嚢」は以前紹介しましたが、旗本が幕府が御禁制とした

城内の作法や行事の事を旗本が記したものですが、

内部情報を無断で本にしたという罪で、旗本の家が改易に

なり、本人は流刑になり、直ぐ謎の死を遂げました。

この本のお蔭で、正確な記録が残っていた貴重な資料です。



節分は、蛤の貝に煎り豆を封じたような気がする。

虫封じと云ってました。

彼岸には、学校が春休みなので、上野と芝に墓参りでした。

寛永寺と増上寺の将軍霊廟です。

 綱吉霊廟

3月は雛祭り。

旧暦の4月に飾りました。

これは慶喜家と同じですね。

 

慶喜の正室であった美賀子の嫁入り道具であり、

江戸城開城の時、老女須賀が身を挺して持ち帰った雛道具です。

これを慶喜家では毎年飾りました。

宗家は、鶴の間の床の間の横に2間通しで

段を組み立てて4段でした。

ただ、1段目はかなり高かった。

普通の段の5,6段くらいの高さが有った。

 

子供たちは、軽いので上に上がってお雛様を並べました。

色々なものが有りました。

相当古いお内裏雛、小さいものが多かった。

 

中には、和宮の雛様もあり、神殿造りの者でした。

母のもあり、丸に十字の薩摩藩の紋で、沢山あって全部は

出せませんでした。

 

色々な格好の官女、中には狆を引いたものもあった。

「狆引き官女」といいました。

明治の頃流行したようで、犬の安産にあやかったもので

あったようです。