六天屋敷はいつもお客様が多かった。

玄関も三つ有り使い分けられていた。

表玄関はお客さま方、その横の内玄関は

家庭教師の先生方のもので、引っ込んだところに

業者などが出入りする玄関がありました。

 玄関
 
お客様が着くと、玄関右手にある「表」と呼ぶ

事務室からお迎えが出る。

因みにある華族では表の事を役所といい4、

勤める方を役人というそうですが、或る時、学校で

「うちの役所は・・」と云ったものですから、周りから

あなたの家は役所が有るの?と問いただされて

困ったそうです。

 

そして、和洋折衷で出来ていたので「折衷の間」と呼ぶ

応接室に通すのです。

折衷の間

直ぐ奥に電話で伝えられ、母が羽織を着て応接しました。

奥に居るから奥様なので、声を掛けると聞こえるのでは

奥様ではないのです。

 

羽織と江戸時代、羽織というのは、人前で着るものではないと

思われていた。

以前も紹介したが、大奥女中のませ子が

明治になってですが、千駄ヶ谷の徳川宗家に居住してた

天璋院の所に季節の挨拶に行った時の事ですが、丁度、

寒い時期なので天璋院は羽織を着てたらしく、ませ子が

行くと羽織を脱ぐのです。

ませ子は、寒いですからと止めるが、天璋院は「宜しい」と

脱いだ。

徳川宗家邸
 

今でこそ正装として認められ晩餐会や結婚式などにも

見るのは珍しい事ではないが、当時は違ったようです。

江戸城中では、身分によって厳しく着る物が

決められてます。

或る人は裃で、或るいは着流しで、羽織でと決まっていて

そのスタイルで仕事についていた。

その程度の扱いであったようです。

 

慶喜が外出し帰って来た時の様子です。

後乗りの方(別当)が、門の外で下りて門まで走り、

そこで、「お帰りーいー」長く尾を引いた大声で合図します。

すると請願巡査が外に出て来て、挙手敬礼、

門番は奥に連絡し

玉砂利の上に膝を付き礼をする。

 

一方玄関では、式台の玄関の板敷きの上に役人一同が並び

その次にお女中一同が座ってお迎えです。

この辺は江戸時代と全く変わらない。

 

請願巡査とは、町村や私人からの願い出によって巡査を派遣する制度

また、派遣された巡査。

費用は請願者が負担した。昭和13年(1938)廃止。

 

余談ですが、馬車に乗った感想を、徳川宗家・家達の

長女の豊子は、馭者席の前に馬のお尻が

2つヒョコヒョコして、時々、尻尾を上げて糞をする。

曲がり角に来ると、後ろに乗っていた馬丁が飛び降りて

横を駆け抜けて「ハイヘーイ」と掛け声を掛けて

曲がる方向に先に行くのです。

皮のシートのキュキュと軋む音や馬の臭いが懐かしい。

と宗家の娘の感想があった

 

大正になると、自動車になりました。

ビュイックとフィアットでした。

なんて面白い名前だろうと思いました。

ビックリしたりヒヤッとしたりですから。