帯は矢の字結び、着物の柄の金魚が可愛い。
金魚は5代綱吉の頃は、1匹50両くらいして到底庶民には
手が届かなかったが、この頃には、行商人や或いは
縁日で金魚を売っていた。
一般化するのは宝暦年間(1751~1764年)縁日にも露店が登場、
金魚売りもいた。
「きんぎょーえ、きんぎょ」
夏の風物詩として、この売り声が路地で聞かれるようになったのは、
11代家斉の頃、化政年間の頃と云われている。
4代家綱の世に、江戸の下谷に「しんちゅう屋」という金魚屋が
始まりで、金魚が川柳などに登場したのも寛文7年(1667)
「おどれるや 狂言金魚 秋の水」
値段は高値で売られた。
井原西鶴の「西鶴置土産」にも紹介されている。
中には尺以上のが居て、金魚1匹5両とか7両で取引されている。
これは、和金であろうと思われる。
夏の涼味の対象として、何時しか江戸の夏の風物詩となっていった。
庶民的な文芸の俳句、川柳、狂歌、錦絵などに登場。
餌は麩やボウフラ。
中期以降、高級品種が入ってくる。
ランチュウ、リュウキン、オランダシシガシラなど。
出目金や錦鯉などは、勿論、明治以降なので居ない。
綺麗な魚が水の中をすいすいと泳いでいる姿は
大変涼しさを感じるもので、ガラス張りの水槽や
金魚鉢、金が無い人は盥とか、金魚玉に
入れて観賞しました。
江戸では、「めだか」も人気で、「めだかぁ~、金魚ぅ」
という呼び声で売っていた。
金魚といえば、歩く金魚と言われた犬が居ました。
狆です。
大奥
狆は江戸時代を通じて一番の犬とされてました。
名前の由来は、「ちいさいいぬ」がだんだん縮まって「ちん」に
なったと言われている。
シーボルトによれば室町時代以降に南蛮貿易で輸入された
小型の犬が狆のもとだろうとしている。
ぶさいく(というかぶさわかというか)な人の悪口「ちんくしゃ」は
「狆がくしゃみしたような顔」の略である。
そういえば、11代家斉の頃の大奥の話しですが
三田村鳶魚氏の「御殿女中」の中に、将軍のお手付きとなった
他の奥女中の事を狆みたいな顔をしたのでもお手付きとなった
という話が出てますね。
嫉妬もあるのでしょうが、どうみても美人の系統ではないようです。
尾を振り振り歩くところから「歩く金魚」として高値で売買された
外で遊ぶ普通の犬とは違い、座敷犬である狆は、他の犬とは違い
小鳥屋で売買されたのですから、これは扱いは違いました。
好まれた理由は、鳴かない事と匂いが無い事でした。
そもそも狆という字は、中国にもなく和製漢字であった。
猫と犬の間の生き物として見られた結果であった。
長府藩の御姫様です。
着物の肩口に犬が入ってます。
大の犬好きだったのでしょう。
宗家の行事に戻る。
当日は、私たちは、朝5時頃起こされる。
顔を洗い、刷毛で水白粉を顔から首に塗られた。
唇に亰口紅を差す、振袖を着せられ、帯は矢の字である。
7時頃鶴の間に集合、御祝の式がある。
床の間の前に並ぶと家令から順に表の人が羽織袴姿の紋付で
お祝辞を述べる。
これを「土俵入り」と云っていました。
[本場所には、姿見せぬことは無し。
時々何か頬張りながらにておられ、小便も熊や八と一緒にと
立小便で前の征夷大将軍も何もあったものではない」
と評されてる。
これは、大名相撲と云い、江戸時代は大名が相撲取りをお抱えにし
有名なのでは、無敵と評された力士の雷電を松江藩がお抱えにしていた。
特に、熊本の細川家は相撲の横綱の免許を与える
司家を家臣にしていた為、熊本の吉田家が本免許を出すまで、
とりあえず、仮免許を東京の細川家で発行していたという。
これは、当時は東京から熊本まで行くのに一昼夜掛かっていた為で
行くと明治神宮の奉納相撲に間に合わなかったからという。
従って、細川家は歴代の横綱が細川家に来たので、殆どの横綱を
知っており、その中でも双葉山が印象が強いという。
細川家は、「肥後土間」と呼ぶ升席を3升保有していて、
そこは女人禁制であった。
何故なら、そこで皆物言いをつけていたので、
女性ですと興奮してしまうからだという。
一番前の席なので、真剣に見てないと、
誰かが押し倒されてきた時は
潰されてしまうので、必死に逃げたという。
大正11年には、大相撲を招いて、丁度日本を訪問していた
英国の皇太子が、千駄ヶ谷の徳川邸で開催された相撲を
見物に来ています。
ちなみに、この屋敷へは明治天皇も行幸に来ています。
わざわざ土俵を屋敷の庭に作って大相撲を呼んだものでした。
皇太子も大変喜んだという。
この皇太子は、後にエドワード8世で、後に、シンプソン夫人との
王冠を掛けた世紀の恋をし、恋の為に王位を捨てた方です。