御書物同心 終章
大番所百人場所よりは、格上でした。これは、大名の浅野侯も明治になってもそうでしたから、間違いないと思います。浅野侯は、大礼服を身に付けて普段より厚着していたので、馴れてる家来も、中々引っ張り出せず、苛立った浅野侯が「未だか」と声を出す場面もありました。その結果、違うものを引っ張りだし、浅野侯、その時少しも慌てず「それは睾である」落ち着いたものでした。でも、焦れば焦るほど余計困難にはなりますね。同意を求めてどうするの。御成りの際は、先ず、前日に御徒が該当地域を廻ります。その際、「鈴虫」と呼ばれる鉄の輪が付いたもの持って歩きます。そうすると(ジャラジャラ)という音が出ますが、是が明日将軍がここを通るぞというお知らせになります。鈴虫の音ではないですが、まぁ、細かい事は云わないで。当日は、路は前以て掃き清められ、盛り砂、立ち砂、飾りのついた手桶、箒を出しておく。地元にとっては、大変な負担です。公儀ご用は名人と言われた植木屋伊兵衛が務めていた。名字帯刀を許され伊藤と名乗っている。伊藤は、最盛期には職人100人、奉公人30人、番頭10人を抱え家の庭には1200坪の汐入の池のある庭園には、燈籠50、庭石600井筒3ヶ所が有ったという。まるで1万石の格式だと評された。汐入式とは川や海から水を引き込んで回遊式の庭園としたもので大名庭園は大体このスタイルである尾張藩上屋敷 7万5千坪今の市ヶ谷の自衛隊の所です。高い長屋に囲まれて、奥には火の見櫓が見えます。庭内には、大名庭園らしく回遊式の大きな池があります。8代吉宗の頃には、献上されてくる書物というのは、殆どが新刊のように美麗であったそうですが、吉宗は、本には、必ず、書き込みがあるのが普通であり、それが無いのは可笑しいということで、それ以降は、書き込みのある書物も受け入れたという。但し、この書き込みというのは、学問的な書き込みであればいいが、中には、悪戯書きも多いので。そうしたものは削除し将軍に提出したという。当然ながら重複してる場合もある。そうした場合、貴重であれば正副併せて保管するがそうでない場合、保管の場所の問題もあるので、献上から外す。ただ形的には、傷物としてするのである。そして、これら傷物は古本屋等を呼んで競売に掛ける。この辺は、奉行所での競売と同じであり、拾得物など競売させた。ただ、ここ生じるのが談合でした。前もってどこが落とすかを決めておく、順番です。記録では、享保17年に144両、及び銀4匁3分で売ってる。かなりの高値で本を売ってますから、相当の稀覯本であったに違いない。書物の中には、時にはいかがわしい物があったようで、偽筆のような物は書の鑑定家に、そうでないものは同心らが協議して決めたようだ。