町奉行所跡

そこで幕府の財政難の一助として奉行所は

隠売女郎として捕まえた女郎の入札を行うのです。

寛文8年(1668年)、江戸市中の私娼窟取り締まりにより

娼家主51人、遊女512人が検挙された、

入札当日、奉行所に集められ、集まった吉原の

妓楼主が入札値を付けて落札。

お金は、幕府の金庫に入る訳です。

結局、入札額は千両近くになり、これに味を占めて

何度か入札が行われたようです。

町奉行所跡

千両というと江戸の南北の両奉行所年間経費の

半分近いですから味を占めた奉行所はその後も行いました。

逆に言えば、その程度の経費で成り立ってたというのが不思議です。

奉行所の領地は、少ないですが千葉の上総にあり、

与力同心もそれぞれ小禄を与えられ、役得のある職務も

あり、無い職務もあったが、奉行所で払うものでは無かったので

経費も少なくて済んだのでしょう。

火事といえば吉原は幾度と無く大火に襲われ廃墟と化したが

其の時は町の中に大きな家を借りて営業します。

安政江戸地震による火事では、廓内の死者は千二十余人、

遊女のみで530余人を数える。

失火があったら火消も繰り出したが、大門内に入らず鎮火を待った。

焼け残りがあるとこれを焼き払ったのは、全焼でないと

仮小屋での営業が許されないからである。

これを「仮宅」と呼びました。

仮宅は江戸っ子に喜ばれました。

理由は、バラックのような小屋で商売をするのですから、

格式が無くなり、その分金が掛からない。

仮宅

但し、揚げ代は同じです。

どさくさに紛れて値段が変わらないのは、

吉原の意地でしょうか。

岡場所は町中にあるので、気軽に直ぐ行ける。

ところが吉原は格式があるので簡単には揚がれない。

それが容易に仮宅ならば揚がれる。

 

最後の理由は、従来とはまるで違う雰囲気で

あったからです。

何しろ、隣との境を屏風で仕切り、その屏風が途中倒れてくる。

或いは、3畳一間の部屋であるとか、12畳位の部屋を

割り床といって、分割して部屋を作ってるのが、

何とも新鮮であったようです。

 

しかも、仮宅は一つの町だけではなく、

あちこちの町にあるのも人気の一つで、江戸っ子は、

変な意味では、仮宅を期待していた面もあったようです。

 

弘化2年の焼失では、40ヵ所の仮宅地と

500日の営業の許可を出願しているが、

許可されたのは28ヵ所の仮宅地と250日の営業であった。
仮宅2回目くらいまでは、賑わいのある寺社の近辺の家屋を

探し出し、見苦しくないよう造作などしていた。

慣れてくるに従い、家屋を買っておき控屋にしたり、

地主家持に手付金を定期的に払い、仮宅に備えるようになった。

体裁が悪くても客は仮宅だからと鷹揚だったというから、

家屋は立派なものではなかった。

また、仮宅時は町奉行所同心の巡邏は変わりなく行われたが、

遊女・芸者の外出は自由だった。

これは歓迎されたでしょうね。

 

又、遊女の方も、違った環境ですから物珍しいし

喜んだ感じもあったようです。

但し、繁盛した分、休むことが少なくなりかなりの負担が

掛かったようで、雇い主の方は儲けたが、遊女の方は

大変であったようです。

 

売上は、この仮宅の方が良かったようで、

火事になると、敢て、大門を閉めて燃やしてしまったなどという、

嘘か本当か判らない話も伝えられている。

ちなみに大門を閉めて吉原を貸切り状態にするのは、

幾らかというと1日3千両と云います。

吉原の売り上げは、魚河岸や芝居町と同じに日

に千両と云われたのですから、それよりも高い。

 

過去にそれを行ったのが小判をばら撒いている絵で

有名な紀国屋文左衛門でした。

元禄年間でしたが、その時は千両と伝えられている。