最後に現代では最も有名な鰻。

水道橋の森山鰻店

定番の鰻は、鰻の効能は奈良時代から知られていた。

万葉集にもある有名な大伴家持の歌である。

石麻呂に われ申す 夏痩せに よしといふ物ぞ 鰻とり飯せ

もし夏バテしたのなら、鰻を食べた方が好いですと云う歌である。

「本朝食鑑」にも、「疲れを除き、腰や膝を温めて、

精力を盛んにする」と効能を記している。

 

文政年間には、深川だけでも22軒のウナギ専門店があり

しかし、値段や質はバラバラで、1皿200文もあれば、

1串16文のもある。

当然、質や焼き方やタレであろうと思われる。

 

ただ、鰻の大きさや量はたっぷりであったようで

鰻丼などは、今のようなお上品なおちょぼ口で

入るようなものではなく、大きなものが4枚あったと

いいますから食べ応えは充分であったでしょう。

勿論、江戸前ではなく旅鰻ですが、何も文句は有りません。

 

文化年間には「鰻飯」が登場。

江戸では、飯の上に乗せてタレをかけるが、上方では飯の間に

蒲焼きを入れた。

上方では「マムシ」というが、それは「飯蒸」(ままむし)が語源で、

飯に挟まれたことから、そこから、マムシになった。

値段は100文から200文。

職人の日当の半分近いですから、庶民には手が出なかった

 鰻屋

メタボンのブログ

鰻屋大和田 創業1805年

当時最高のお店と云われました

勝海舟のライバルと言われた旗本の小栗忠順家では、

切米を支給される、今でいう給料日には家族揃って

鰻を御馳走することにしてた

年に3回、当時として珍しく、夫婦で揃って食べに行っているのです。

仲の良い夫婦だったのでしょう。

金2朱というと金1両の8分の1ですから、

8朱で金1両です。

 

臼杵藩士の日記では、当時の江戸の有名店の大和田の鰻を

注文している。

4回食べたようですが、いずれも1回の料金が1朱である

1朱というと1両の8分の1ですから高いものです。

1両を10万円で計算すると分かるが、かなり高い。

従って慶喜が2分銀を出したのは当たり前なのです

 

慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いが起こり、錦旗を掲げて

官軍となった新政府軍が幕府を破り、幕府軍は敗走した。

鳥羽伏見の戦い|旧幕府軍の敗因

鳥羽伏見の戦いで錦旗を見た慶喜は戦意を無くし、

これは、慶喜が水戸藩出身であり水戸藩は水戸黄門以来

皇室を尊崇してきた手前、錦旗に対して敵に回ることは出来ない。

周囲は抗戦を強く主張するが、慶喜は主戦派の松平容保らを

引き連れて夜陰に乗じて大阪城を一旦アメリカ船に遁れ、

後に脱出し開陽丸で江戸に逃げ帰った。

 

慶喜が大坂から鳥羽伏見の戦いの後

江戸に逃げ帰って浜離宮に着いた途端、余程食べたかった

のでしょうか、家来に懐から金2分出して、鰻の蒲焼きを

買ってくるように命じたが、家来は、それに自分の金を

2分足して、霊巌島の鰻屋大黒屋に行き買ってきたという

はなしが「藤岡屋日記」に載っている。

藤岡屋日記・安政年間

 

享保年間(1716~35年)に刊行された『絵本東わらは』には、

当時の江戸の名物・名店が羅列してある。
それによると、「…サァおごらばござれ、深川八幡二軒茶や、

向島にあらひ鯉、(王子稲荷前)王子のゑびや、下屋の浜田屋、

古川の森月庵、魚藍のゑびすや、江戸橋のますや、

中橋綿や、京橋柴屋、新橋の佐倉屋、大和田うなぎ、

鈴木の蒲焼、真崎(稲荷)の田楽、洲崎のざるそば、

鈴木町のあんかけうどん、両国の油揚酒屋、親仁橋の芋酒屋、

水道橋の鯰のかばやき、中橋のおまん酢、吉原の蛇の目酢 

… 豊島屋の白酒は節句前に売切れ、稲毛のそうめん、三輪よりほそし」とある。

 

鰻の看板の逸話は、もう1説あります。

文政年間(1818年–1831年の『江戸買物独案内』によると、

近くにあった伊勢・藤堂家から土用に大量の蒲焼の注文を

受けた鰻屋・春木屋が、子の日、丑の日、寅の日の3日間で

同じように作って土甕に入れて保存しておいたところ、

丑の日に作った物だけが七日前の風味を保ち

殿様に褒められたことから、江戸中に丑の日の鰻は滋養に富み

風味が有ると評判になったという。


「土用丑 のろのろされぬ 蒲焼屋」

蕎麦・天麩羅・鮓が江戸の3大ファーストフードとするなら、

鰻は江戸のスローフードの代表であった。