静嘉堂文庫美術館で開催中の「超・日本刀入門reviveー鎌倉時代の名刀に学ぶ」展へ行って来ました。
「超・日本刀入門」はかつて世田谷岡本にて人気を博した展覧会です。
それが丸の内に帰ってきました。
武士の魂と呼ばれた日本刀は、平安時代以来、およそ千年の歴史のなかで、武器として用いられる一方、美術品としても鑑賞されてきました。
日本刀は近年一躍ブームとなり、今やその人気はすでに定着したものとなっていますが、まだまだ多くの方々にとって分かりやすい美術品とはいえないようです。
美術館や博物館で刀剣を鑑賞する際、まず壁となってしまうのが、一見しただけでは違いの分かりにくい姿かたちや、難解かつ独特な専門用語でしょう。
日本刀の姿の微妙な違いは、時代による戦闘様式の変化や武将たちの手を経てきたことによる歴史が現れています。
また独特の専門用語は、刀剣の表面にあらわれた複雑な現象を整理して共通の認識にしようとした先人たちの努力の結晶なのです。
これらを少しずつ覚えていくことで刀剣を見る楽しみが次第に広がっていくことでしょう。
本展は、「日本刀の黄金時代」と称される鎌倉時代の名刀を中心に国宝・重要文化財を含む23振を選び、その魅力に迫っていくものです。
展覧会の構成は以下の通りです。
1章 日本刀の種類
2章 名刀のいずるところ
3章 きら星のごとき名刀たちー館蔵の重要文化財
4章 武将と名刀
ホワイエ 後藤家の刀装具
日本刀独特の美しい反りや、刀身に鎬筋と呼ばれる稜線を立てた立体的な「鎬造り」の太刀の形状は、平安時代中期・10〜11世紀頃に出現しました。
それ以前に使用されていた直刀は反りがなく、突くことに主眼がおかれていましたが、「鎬造りと湾刀」とも呼ばれる太刀は斬ることに重点が置かれています。
以来、その姿は時代の要請に応えながら、江戸時代末期に至るまで少しずつ変化していきました。
日本刀の種類のうち太刀と刀(打刀)は、ともに打つ・斬る機能を持ち、一見同じもののようですが、実は身に着け方が大きく異なります。
太刀は刃を下に向け左腰に下げて携行するのに対し、刀は刃を上にして腰帯に差して携行します。
太刀や刀の中心(なかご)には、作者名や居住地、製作年月日などの銘が切られますが、作者名は原則として表側(身につけた時に外側となる面)に切られています。
では、太刀から見ていきます。
古来刀剣の五大産地の一つとして知られる備前で、平安後期から鎌倉中期まで活躍した刀工の一群を古備前派と総称しています。
刀剣書によれば古備前派の宗安の最も早いものは平安時代・治安年間(1021〜24)頃とされますが、作例は皆無に等しい。
《太刀 銘 備前國宗安》の宗安は、同銘ですが、鎌倉期の嘉禎友成の弟または子と伝えられ、類品の少ない珍品です。
総体すこぶる健全で見事に働く地・刃は、嘉禎友成と共通する作風で、所伝を首肯させます。
古備前宗安《太刀 銘 備前國宗安》(鎌倉時代 13世紀)静嘉堂文庫美術館
そして、刀です。
一平安代は、はじめ父・一平安貞から鍛刀を学び、のちに波平派57代・大和守安行の門人となりました。
享保6年(1721)、将軍徳川吉宗の命で、同じ薩摩の刀工・宮原正清とともに江戸の浜御殿にて吉宗の佩刀を鍛造します。
その功により中心に一葉葵紋を彫ることを許され、帰路の京都で朝廷から主馬首に任じられました。
《刀 銘(一葉葵紋)主馬首藤原朝臣一平安代》は大和伝を基礎に相州伝を加えた作風で、総体健全、地・刃の明るく冴えた華やかな出来の傑作です。
一平安代《刀 銘(一葉葵紋)主馬首藤原朝臣一平安代》(江戸時代 18世紀)静嘉堂文庫美術館
短刀は中世では、単純に「刀」、あるいは「腰刀」「鞘巻」などと呼ばれていました。
基本的には刃長一尺(約30.3cm)前後の短寸で、反りのない平造りを原則とし、突く・刺す機能を持っています。
打刀と同じく刃を上に向けて腰に差すか、懐中しました。
現在では刃長一尺未満のものを「短刀」と呼びます。
一方、平安時代末頃に登場した「打刀」は、腰刀よりも少し長い一尺数寸ほどの湾刀で、多くは平造りでした。
室町時代以降に鎬造りが主流となって刃長が二尺を超える長いものが現れ、長短二振の打刀をセットで差すことが流行し、江戸時代の大小二本差しに発展しました。
このうち「大刀」がいわゆる刀であり、「小刀」を差し添えの意味で「脇指」といいました。
現在では脇指は刃長一尺以上、二尺未満のものをいいます。
まずは脇指です。
水心子正秀は米沢藩領の出羽国赤湯近在に生まれ、山形藩主秋元家に抱えられて士分に列し、川部儀八郎と称しました。
日本刀が衰退した太平の世に古刀の再現を目指して「復古刀」を提唱、『刀剣実用論』などの刀剣書を著し、また多くの門弟を育成しました。
《脇指 銘 水心子正秀(花押)/文化五戊辰二月日 應清水姓源諶富需造之》は江戸前期に一世を風靡した大坂新刀の津田助広が得意とした「濤瀾刃」の写しで、差裏の中心に年紀と注文者の所持銘をそえています。
水心子正秀《脇指 銘 水心子正秀(花押)/文化五戊辰二月日 應清水姓源諶富需造之》(江戸時代・文化5年(1808))静嘉堂文庫美術館
次は短刀です。
後藤五国光は相州鎌倉鍛冶の祖とされ、日本刀の代名詞ともなった正宗の師と伝えられています。
その作刀に太刀は極めて稀で、直刃を焼いた短刀作りの名手として名高く、京の栗田口吉光と並び称されています。
《短刀 銘 國光》は上品な短刀姿でよく詰んだ小板目の鍛えは栗田口風を思わせますが、細直刃の中に特徴的な金筋の働きが認められます。
後藤五国光《短刀 銘 國光》(鎌倉時代 14世紀)静嘉堂文庫美術館
鎌倉時代以降、刀剣の生産は東北から九州までの各地域で行われ、名刀が生み出されています。
日本刀の研究では、平安時代以降、江戸時代末期までの刀剣を、慶長初年(1596)を境に大きく二分し、「古刀」と「新刀」と呼び分けます。
また古刀の時代に、多くの名工や有力な刀工集団を輩出した五つの主要生産国(山城・大和・相模(相州)・備前・美濃)の鍛刀法を五か伝と呼んでいます。
まずは、大和伝の手掻包永《太刀 銘 包永》を見てみましょう。
初代包永は、正応年間(1288〜93)頃に活躍した大和手掻派の祖です。
天蓋平三郎と称し、奈良東大寺の輾磑門(転害門)前に住したといいます。
手掻派は、大和五派のうち最大の一派で、江戸時代以降も「文珠派」として繁栄しました。
大和物の特色が存分に発揮された本作は、700余年の風雪を耐えてなお地刃の健全さを保った、大和物を代表する名刀です。
手掻包永《太刀 銘 包永》(鎌倉時代 13世紀)静嘉堂文庫美術館
そして備前伝です。
長船長光は備前を代表する刀工集団の一つ、長船派の事実上の祖・光忠の子です。
鎌倉期の刀工の中で現存刀の数や作刀レベルにおいて群を抜く非凡な名工です。
腰反りの高い優雅な生ぶの作風は、父光忠を彷彿させ、長光の前期作に比定されます。
菊唐草文の金無垢金具を用いた豪華な糸巻太刀拵が付帯します。
長船長光《太刀 銘 長光》(鎌倉時代 13世紀)静嘉堂文庫美術館
数多の戦場を駆け抜けた名将や幕末の志士たちが己の命を預けた刀。
所持した人物と名刀の逸話は、時代を超えて受け継がれてきた刀剣だからこそ、大きな魅力となっています。
静嘉堂にも歴史上に知られる人物が所持していたという刀剣がいくつか伝えられています。
最初に紹介されているのは、徳川四天王の中でも武勇で名高い本多平八郎忠勝の孫である、本多忠為所持の、一文字守利《太刀 銘 守利(金象嵌)本多平八郎忠為所持之》です。
守利は弘長(1261〜64)頃の福岡一文字派の刀工といいます。
本作の豪壮な姿や杢目鍛えで乱れ映り入りの地鉄、丁子乱れの豪麗な刃文には、最盛期一文字派の特色が発揮されています。
この太刀に所持銘をのこす本多忠為には、本作同様の金象嵌入りの豪壮な備前刀が他に3振程確認されます。
忠為が人並外れた体格で、愛刀家で会ったことが想像されます。
最後は、上杉景勝の重臣で、「愛」字の前立の兜で著名な武将である直江兼続所持の、伝 長船兼光《刀 大磨上げ無銘(号 後家兼光)》です。
兼光は長船派の嫡流で、景光の子といいます。
本作は大切先で身幅広く、先反りのついた豪快な姿で、大磨上げされており、本来は3尺余りの大太刀であったと思われます。
姿と刃文に相州風が強くあらわれた延文(1356〜61)頃の典型作です。
太閤秀吉の遺物として拝領した直江兼続の愛刀で、兼続没後は妻のお船の方により主家に献上され、「後家兼光」として伝来しました。
明治時代に新調された華麗な打刀拵が付帯します。
伝 長船兼光《刀 大磨上げ無銘(号 後家兼光)》静嘉堂文庫美術館
丸の内で初の刀剣展となる本展。
刀剣ブームがすでに定着した今、本展で刀剣の入門をしてみませんか。
日本刀を鑑賞するための第一歩となるはずです。
会期:2024年6月22日(土)〜8月25日(日)
会場:静嘉堂文庫美術館(静嘉堂@丸の内)
〒100-0005 東京都千代田区丸の内2丁目1-1
明治生命館1F
休館日:月曜日(ただし7月15日・8月12日は開館)、7月16日(火)
開館時間:10:00-17:00