慶長5年(1600年)9月15日、前日から降った雨が止み早朝は深い霧に包まれた。
東西両軍合わせ16万人の軍勢が、美濃國関ヶ原に集結。
東西両軍は、それぞれの想いがあるなか着陣を済ませ戦の開始を今か今かと待っている。
東軍
桃配山に3万の軍勢で布陣した徳川家康。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230910/19/00002-1225/44/79/j/o0871108015336405465.jpg?caw=800)
徳川家康本陣後方を守り、南宮山の西軍を抑える山内一豊。
軍艦として、豊臣恩顧の将を監視する本多忠勝。
豊臣恩顧の将を、調略で味方にした黒田長政。
東軍に開戦の狼煙を上げる竹中重門。
家康四男松平忠吉初陣を補佐する井伊直政。
抜け駆けして西軍に発砲、開戦のきっかけをつくる。
松平忠吉は、先鋒一番槍の功を得る。
豊臣恩顧の将でありながら、東軍へ味方した福島正則。
先鋒を担うも、松平忠吉・井伊直政に抜け駆けされる。
戦場の中央に布陣した、田中吉政。
西軍の石田隊と交戦。
西軍総崩れ後、伊吹山中に逃げた石田三成を捕縛。
西軍
南宮山に布陣した、吉川吉家。
主家毛利氏存続を願い、徳川家康と密約。
関ヶ原の勝敗は、ここ南宮山にあり。
松尾山に布陣した、小早川秀秋。
合戦を傍観し未だ動かない。
徳川家康からの威嚇攻撃で、東軍に寝返り西軍の大谷吉継隊を攻撃。
東軍勝利に貢献する。
南天満山に布陣した、宇喜多秀家。
西軍副将として主力を担う。
松平忠吉・井伊直政、福島正則から一斉射撃を受ける。
北天満山に布陣した、小西行長。
西軍に開戦の狼煙を上げる。
笹尾山と北天満山の間に布陣した、島津義弘。
当初、東軍で参加を決めて城に入ろうとすると拒否される。
これがきっかけで西軍に参加。
島津は、自陣に近付く部隊だけを攻撃。
笹尾山に布陣した、石田三成。
豊臣政権を蔑ろにする徳川家康を討つため挙兵。
東軍の黒田長政隊と一進一退の攻防、黒田の別働隊が側面から一斉射撃で島左近が負傷し戦線離脱。
東西両軍の開戦地
午前8時、霧が弱まったころ松平忠吉・井伊直政が抜け駆けして宇喜多隊に向け一斉射撃。
先鋒の福島正則は激怒、同じく宇喜多隊に向け一斉射撃。
ここに天下分け目の大合戦の火蓋が切って落とされる。
開戦後、未だに勝敗が決まらないのを見て桃配山から合戦の前線近くに本陣を動かす徳川家康。
南天満山と東山道の間に布陣した、大谷吉継。
松尾山に布陣した小早川秀秋を警戒、最初から陣形を松尾山に備える。
東軍に寝返った小早川隊が、大谷隊を攻撃開始。
大谷隊は、幾度も押し返す。
小早川隊に続き、赤座・小川・朽木・脇坂の四隊も寝返る。
耐えきれなくなった大谷隊は壊滅。
東西両軍の決戦地
正午過ぎ、西軍 小早川秀秋の寝返りに東軍が優勢に。
大谷隊は壊滅、宇喜多隊敗走、小西隊敗走と西軍は総崩れ。
残るは石田三成隊のみ。
今が三成の首を取る好機と見た、東軍諸隊が石田三成の陣に総攻撃をする。
床几場
東軍が討ち取った、敵将の首実検が行われました。
関ヶ原の戦いは、調略に長けた東軍の劇的な勝利で幕を閉じた。
島津の退き口
西軍の小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷隊の壊滅、宇喜多隊の敗走、小西隊の敗走、石田隊の敗走で戦場は大混乱。
取り残された島津隊は、東軍に向け敵中突破をする。
東軍の豊臣恩顧の将は道を開ける。
徳川の将は追撃を開始。
井伊直政は被弾し負傷する。
朝8時頃に始まった戦は、僅か半日で西軍総崩れ東軍の勝利で決着した。
関ヶ原古戦場記念館
関ヶ原駅前の合戦パネル
西軍 義の3にゃんマスコットキャラクター