七夕の願い 義の3にゃん | 梓慕情の眼仁奈釣り日記、お散歩日記

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伊豆半島の沖磯で眼仁奈釣りをしてます。
城、神社仏閣、史跡名勝巡りしてます。

今日は七夕🎋🌌

日本三大七夕祭り

宮城県仙台市の仙台七夕まつり、神奈川県平塚市の湘南ひらつか七夕まつり、愛知県一宮市の一宮七夕まつり。


平塚為広

戦国時代から安土桃山時代の武将。

豊臣秀吉の馬廻りとして仕える。

小牧・長久手の戦い、小田原征伐、朝鮮出兵に参加して武功を挙げる。

美濃國垂井に1万2千石の垂井城主になる。

関ヶ原の戦いでは西軍として参加。

大谷吉継の軍に属し、小早川秀秋の裏切りを警戒し陣を松尾山側に布陣。

小早川秀秋の裏切りを発端に、脇坂・赤座・朽木・小川らも裏切り、大谷軍を攻撃。

幾度か撃退するも、持ち堪えられず壊滅状態になり大谷吉継に辞世の歌を送る。


名のために捨つる命は惜しからじ

つひにとまらぬ浮世と思へば




平塚為広討死の場所。





湯浅五助(左)の墓、大谷吉継(右)の墓




大谷吉継

戦国時代から安土桃山時代の武将、大名。
越前敦賀城主、官位は刑部少輔。
永禄8年(1565年)近江國で生まれる。
出自は謎とされてる。
豊臣秀吉の小姓となる。馬廻衆の1人となり毛利攻めに従軍。
九州征伐、小田原征伐、奥州仕置にも従軍した。
越前敦賀5万石の城主になる。
二度に渡る朝鮮出兵に参加。船奉行・軍監を務める。
慶長5年(1600年)9月、東西両軍の中でいち早く関ヶ原に着陣。
開戦後、東軍 藤堂高虎・京極高知の軍勢を相手に奮戦。
正午過ぎ、小早川秀秋の軍勢が東軍に寝返り大谷隊に突撃。
押し返すも、脇坂・朽木・小川・赤座の4隊も東軍に寝返り大谷隊を攻撃。
四方を敵に囲まれ、大谷隊は壊滅。
吉継は自害した。

平塚為広からの辞世の歌に返歌


契りあらば 六の巷に まてしばし

おくれ先立つ 事はありとも


*ブラタモリの関ヶ原を放送したときに、不破の関近くの川が出ました。

この付近で、寝返った小早川隊と攻防戦を繰り広げたと思います。


石田三成の陣



石田三成
安土桃山時代の武将・大名。
豊臣家家臣、近江國佐和山城主。
豊臣政権五奉行の一人。
永禄3年(1560年)石田正継の次男として生まれる。幼名は佐吉。
羽柴秀吉の小姓として仕える。
賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに参加する。
天正13年(1585年)秀吉の関白就任に伴い、治部少輔に任じられる。
小田原征伐、奥州仕置に参加。
豊臣秀次謀反を詰問。
二度の朝鮮出兵では、後方支援で活躍。
豊臣秀吉の死後、武断派との対立が深まる。
石田三成襲撃事件の責任を取り奉行職を解任、佐和山に蟄居する。
*朝鮮出兵の時、武断派と対立していた。
慶長5年(1600年)徳川家康の会津征伐を機に、家康弾劾状を諸大名に送る。
関ヶ原の戦いでは西軍として戦う。
小早川秀秋の裏切りにより、西軍は総崩れ敗走する。
伊吹山に逃げるも、東軍の田中吉政に捕縛される。
京・六条河原で、小西行長・安国寺恵瓊と共に斬首。享年41。

島左近の陣


島左近
安土桃山時代の武将。石田三成の家臣。
石田三成から、三顧の礼で仕官を受け入れる。
知行の半分の禄という破格の待遇。
関ヶ原の戦いでは、前日の杭瀬川の戦いで勝利。味方を鼓舞する。
本戦では、自ら陣頭に立ち指揮する。
黒田長政の別働隊からの銃撃により負傷、戦線離脱後に死んだと云われる。

治部少に過ぎたるもの二つあり、島の左近に佐和山の城 と言われる逸材。

義の3にゃんマスコット
しまさこにゃん(左)、いしだみつにゃん(中)、おおたににゃんぶ(右)

七夕の願い

義の3にゃんが天下を取ること


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七夕の願い事2023