関ヶ原の戦い 西軍 島津義弘の陣跡 | 梓慕情の眼仁奈釣り日記、お散歩日記

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笹尾山の石田三成と、北天満山の小西行長の陣の間には、関ヶ原の戦いで西軍に参加した島津義弘の陣跡があります。

島津義弘
戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。
島津家第17代当主。
天文4年(1535年)島津貴久の次男として生まれる。
天文23年(1554年)初陣を飾る。
島津氏は、薩摩國・大隅國・日向國を領する勢力を保つも、その道のりは困難だった。
島津氏の九州制覇目前に、豊臣秀吉の九州征伐により降伏。
秀吉から、羽柴の名字と豊臣の姓が下賜される。
二度に渡る朝鮮出兵に参加。
味方不利な状況から、島津軍の奮戦により敵を撃破する。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは、最初は東軍に参加しようと伏見城に行くと鳥居元忠から入城拒否される。
*島津の軍勢が少ないことを疑われた。領国内の不安定で兵が出せなかった。
これに激怒した義弘は、西軍に参加することを決めた。
開戦後は、目の前に来た敵だけを駆逐。一切、陣から出ない。
石田の家臣が下馬しないで援軍要請した事に激怒。追い返した。
小早川秀秋の裏切りにより、西軍は総崩れ敗走を始める。
島津軍は、前を東軍に後ろは西軍の敗走軍により身動きが出来ない。
島津義弘は覚悟を決めた、伊勢街道に向け敵中突破を敢行する。
東軍の福島正則、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興は朝鮮での恩義があるため島津軍のために進路を開ける。
徳川家臣の井伊直政、本多忠勝、松平忠吉の軍勢が追撃。
島津軍は、捨て奸で敵を足止めする戦法で義弘を逃がした。
決死の戦法で、井伊直政は銃撃され重症の傷を受ける。
何とか追撃から逃れた義弘は、大阪城から夫人を救出。海路、薩摩國に帰還した。
1500居た兵士が、薩摩に戻ったのは僅か80名程だった。
戦後、兄島津義久が徳川家康と和解。
本領安堵を取り付けた。
元和5年(1619年)隠居地の加治木で死去。享年85。


















続く