関ヶ原の戦いで西軍を率いた石田三成の陣跡が笹尾山にあります。
石田三成
安土桃山時代の武将・大名。
豊臣家家臣、近江國佐和山城主。
豊臣政権五奉行の一人。
永禄3年(1560年)石田正継の次男として生まれる。幼名は佐吉。
羽柴秀吉の小姓として仕える。
賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いに参加する。
天正13年(1585年)秀吉の関白就任に伴い、治部少輔に任じられる。
小田原征伐、奥州仕置に参加。
豊臣秀次謀反を詰問。
二度の朝鮮出兵では、後方支援で活躍。
豊臣秀吉の死後、武断派との対立が深まる。
石田三成襲撃事件の責任を取り奉行職を解任、佐和山に蟄居する。
*朝鮮出兵の時、武断派と対立していた。
慶長5年(1600年)徳川家康の会津征伐を機に、家康弾劾状を諸大名に送る。
関ヶ原の戦いでは西軍として戦う。
小早川秀秋の裏切りにより、西軍は総崩れ敗走する。
伊吹山に逃げるも、東軍の田中吉政に捕縛される。
京・六条河原で、小西行長・安国寺恵瓊と共に斬首。享年41。
逸話として、秀吉が近江の寺院に寄ったとき茶を所望。
最初に大きい茶碗にぬるめの茶を、二杯目は小さい茶碗に少し熱めの茶を、最後は更に小さい茶碗に熱い茶を出す。
この時、秀吉は心遣いに感服して家臣に取り立てる。
続く