今日は 「ね」
私は自然が大好きです。
特に木に妙に惹かれてしまう。
それは小さい頃から両親の影響で
度々 登山をした経験が大きいと思う。
山の木々が
登山の思い出の場面場面にあったから。
親に「連れて行かされた」思い出なのに
親になった私は 同じように息子と娘を
山に連れて行きました。
で 子供たちは同じように
「連れて行かされた~」って言ってる^^
このカルタを創っていた息子が
「ね」の頭文字で
すぐに木をイメージしたこと
私はとても嬉しかったのね。
私の登山の思い出に
ほとんど言葉はありません。
頂上付近のキツイ場所では
話す余裕もなかったし。
でも 山の木々の緑と共に
体感として
場面場面をハッキリと覚えてる。
登り始めの木漏れ日の道
1歩1歩が重くなった
登山靴と盛り上がった根
狭く急な道では枝を掴んだり
幹に手をかけたり
何を話したかは覚えていないけれど
きっと子供たちも
自分なりの体感として
登山の場面
木の感触を持っていたんだと思う。
「自分らしさ」って そんな風に
言葉ではうまく説明出来ない
でも自分の中にハッキリとある
と感じるもの
なんじゃないかな。
地中にある根と同じように
その状態は
目でハッキリみることは出来ない。
木は根付いた場所で
何の疑いもなく
ただ根を太く伸ばし
その木として育っていくけれど
人は動けたり考えたり出来る分
他を見て
比べたりうらやましがったりして
自分の見えない根さえ
傷つけることがある。
子供がちょっと変わっていたり
飛び出ていたりすると
常識や一般的な安全枠の中にいる周りの大人は
怖くなって「違うでしょ」って制したりして
「自分らしさ」
は感じてはいけないもの
みたいに思ってしまうこと
私自身もありました。
自分らしさが飛び出さないように
と母の私が思ったことで
不登校や体調不良といった問題として
息子にも表れて。
そりゃそうよね。
自分らしさの素晴らしい個性という根を
断ち切られようとしていたんだもの
そんなことしたら
幹や枝や葉は
病んで枯れていってしまう。
目に見える木の本体(身体)は
目に見えない根(心)の状態を
表しているんだから。
それに
いくらおかしいとか違うとか言われても
「杉より 松の方がいいんだぞ」
と誰かが言ったとしても
杉の種から
松は育たないものね。
杉は 杉として
松は 松として
なんの疑いもなく
一心に「生」にエネルギーを注ぐから
もの言わずして
存在だけで
人間をこんなにも圧倒できるんだろう。
屋久島 縄文杉
人に説明しなくたっていい
わかってもらえなくてもいい
自分の感覚で
「これが自分」
とわかるもの
その鋭い感覚を持ち
純粋に感覚に従って生きているのが
というか
そうとしか生きられないのが
ADHDの人たち 子供たち
だと思う。
苦手なことを
いくらやれと言われても
出来ないのがおかしい
違うと言われても
やりたくないし 出来ないよね
だって それ
「自分」じゃないから
全然好きじゃないんだもん
世間にも 自分にも
ハッキリとは見えないけれど
その自分だけの感覚で
「これが自分」という根を感じ
太らせて 伸ばして 茂らせて
生きる姿を
堂々と見せて欲しい。
その種で
その根で
その自分で
間違ってないから
1本の木
として
自分を生きている時
私の気を妙に惹いて
大好きにさせたように
私や子供たちの心に
言葉なくとも深く刻みつけたように
自分らしさは
たくさんの心に
自然と与えるように
響いていくんだろうな
木のように
根を張って
自分らしく 堂々と
生きたいね 生きようね
次回は
成長 ゆっくり じっくり 時間をかけて
「進んでいない」
と焦る気持ちがあるかもしれません
でも 大丈夫
あなたはちゃんと成長しています
種から芽を出した双葉が(トトロのように)
すぐに大木になることは
現実にはありませんね
ゆっくりと時間をかける
がひとつキーワード
それがあなたの成長をより良く助けてくれます
時間をかけ
どっしり堂々としたあなたの木陰には
安心や憩いを求めて
多くの人々が集まるでしょう