歴史
平野部に点在する20余りの丘陵・山々は、現在の瀬戸内海が形成
された約7000年前(縄文時代前期) から1618年(江戸時代) の藩営
干拓により児島半島が本土と陸続きになるまで、龍ノ口山南麓 (岡
山市中区)辺りが旭川河口、海岸線であった海原(吉備の穴海) へ
児島とともに浮かんでいました。
児島の沖合いは、旭川(下記リンク) 河口の干潟で稲作が始まった
約3500年前 (縄文時代晩期) から収穫物を運搬する原始・古代の
丸木舟が行き交い、数世紀を経て島々の間にひろがった干潟によ
り航路が衰退した室町時代まで、中世の帆船が行き交う海上交通
の要所でした。
伝説
初代神武天皇が、葦原中國 (あしはらのなかつくに:日本の古名)の
平定をめざして九州から大和国 (現、奈良県) へ向われる際、紀元
前666年4月(岡山県神社誌 高島神社御由緒より西暦換算)、「吉備
の穴海」(現、児島湾)に浮かぶ高島へ仮宮「吉備高嶋宮」を御創建、
3年間滞在されました。(日本書紀)
高島、吉備国へ滞在された間、一挙して天下を平定するための船を
建造、船団を整え、食糧を備える (日本書紀 卷第三 神武天皇即位
前紀)とともに、皇兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと) らが「吉備の
穴海」の北岸(現、東区西大寺周辺) で、稲作や機織りなどの殖産を
奨励されました。
天照大神 (日の神、祖神) と崇めた太陽を仰ぐ島の南側へ創建され
た高嶋宮址へ、神武天皇を御祭神とする高島 (高嶋) 神社が鎮座し
ています。御祭神は平安時代に郡総社宮へ合祀されました。
西大寺には彦五瀬命らの産業奨励を顕彰し、「兄を祀る(まつる)神
社」 として創建された安仁神社 (古名:兄神社、社格:国幣中社) が
鎮座しています。(安仁神社御由緒) |