岡山市南区宮浦
2013. 8.27
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【三宅郷、宮浦】
宮浦をはじめ、
郡~小串~東児地区~八浜の集落は、諸国
に国郡
(くにこおり)・県邑(あがたむら村)が定められた弥生
時代の西暦135年から数世紀を経た飛鳥時代、大化の改新
(西暦646年)以後の地方制度整備(行政区画の改編)により
「備前国 児島郡
三宅郷」と称されていました。

備前国児島郡の古代行政区画
 三宅郷 = 現、郡~宮浦~小串~東児地区~八浜
 賀茂郷 = 八浜を除く現、玉野市 (玉野・倉敷の市境以東)
 児島郷 = 現、倉敷市 (玉野・倉敷の市境以西)
 都羅郷 = 現、都窪郡 (当時、島嶼)
 小豆島郷 = 現、香川県小豆島
八浜は中世に荘園 「波智・波智浜」 として三宅郷から分離。


三宅郷
の名は古墳時代の西暦556年、大和朝廷が塩・海産
物・農作物の収穫管理のため、
郡~宮浦に設置し、交易、
海運の要所として重要視されていた 
児島屯倉(みやけ)が
由来とされています。
※「屯倉」は日本書紀の表記で、古事記・風土記・木簡(荷札)
  では「屯家・御宅・
三宅・三家」と記されています。

(私考)

宮浦をはじめ、郡~小串~東児地区~八浜の集落一帯が、
塩づくり・漁労・農耕が盛んで産物に富んだ
児島屯倉(みや
)の里として「三宅郷」と名づけられたものと思います。

また、
宮浦の「浦」は入り江・海辺の意味で、 朝廷、代々の
備前国司、藩主は国家・天下安泰を祈願、崇敬し、古代から
農耕、漁労で暮らしていた集落の人々は五穀豊穣、航海の
安全を祈願し、崇敬していた
高島神社(宮)を仰ぐ海辺の里
参拝の里として名づけられたものと思います。

【絵図】
江戸時代中頃の
備前国児島郡の絵図(岡山県立図書館蔵)
で、児島沿岸の郡、小串、胸上など、古くから漁業・塩業で
栄えた村名を結んでいる往来
(現、岡山県道74号倉敷飽浦
線)
が、東児の山際・山間に記された数ある村名の中で宮浦
だけ個別に伸ばされ、往来と結ばれています。

(私考)
宮浦が、朝廷、代々の備前国司、藩主が崇敬した
高島神社
参拝の里
として、 また塩づくり・漁労・農耕が盛んで産物に
富んだ
屯倉の里として栄え、重要視された集落であったこと
を物語っていると思います。


【備前三宅氏】
氏姓は、国家・地方制度形成上の地位(国・郡・県・邑村)
に応じ、その部族・氏族の長(律令国家形成後は一般民衆)
に与えられたもので、氏姓としての「三宅」(備前三宅氏)も
「屯倉」姓と言われ、児島屯倉が由来とされています。

岡山開府、岡山城下 を築いた宇喜多氏は古代、備前児島に
漂着し、後に三宅を姓とした備前三宅氏族の末孫と言われ
ています。
<記述>
 1524年(大永4年)編纂「宇喜多和泉能家入道常玖画像賛」
 自治体編纂歴史書 (岡山県史・岡山市史・倉敷市史など)


下記サイト・文献を参照させて頂き、いにしえの児島・宮浦
に想いをはせながら、ごく個人的に記述したものです。
個人の見解
(私考)で、 専門的な考証を主張し、他の学説
等を否定するものではありません。

<参照>
児島郡「近世以前の歴史」
古事類苑全文データベース
古事記 全文検索
日本書紀 全文検索
日本書紀(朝日新聞社本)
岡山県立図書館 デジタル岡山大百科


いにしえの面影

往時に構えられた大屋敷の面影を漂わせるように

山際の茂みを囲う土塀


高 島 神 社
(高島宮遥拝所)

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いにしえの宮浦
(古代遺跡と伝説、歴史)

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