【三宅郷、宮浦】 宮浦をはじめ、郡~小串~東児地区~八浜の集落は、諸国 に国郡(くにこおり)・県邑(あがたむら:村)が定められた弥生 時代の西暦135年から数世紀を経た飛鳥時代、大化の改新 (西暦646年)以後の地方制度整備(行政区画の改編)により 「備前国 児島郡 三宅郷」と称されていました。
備前国児島郡の古代行政区画 三宅郷 = 現、郡~宮浦~小串~東児地区~八浜 賀茂郷 = 八浜を除く現、玉野市 (玉野・倉敷の市境以東) 児島郷 = 現、倉敷市 (玉野・倉敷の市境以西) 都羅郷 = 現、都窪郡 (当時、島嶼) 小豆島郷 = 現、香川県小豆島 八浜は中世に荘園 「波智・波智浜」 として三宅郷から分離。
三宅郷の名は古墳時代の西暦556年、大和朝廷が塩・海産 物・農作物の収穫管理のため、郡~宮浦に設置し、交易、 海運の要所として重要視されていた 児島屯倉(みやけ)が 由来とされています。 ※「屯倉」は日本書紀の表記で、古事記・風土記・木簡(荷札) では「屯家・御宅・三宅・三家」と記されています。
(私考) 宮浦をはじめ、郡~小串~東児地区~八浜の集落一帯が、 塩づくり・漁労・農耕が盛んで産物に富んだ児島屯倉(みや け)の里として「三宅郷」と名づけられたものと思います。
また、宮浦の「浦」は入り江・海辺の意味で、 朝廷、代々の 備前国司、藩主は国家・天下安泰を祈願、崇敬し、古代から 農耕、漁労で暮らしていた集落の人々は五穀豊穣、航海の 安全を祈願し、崇敬していた高島神社(宮)を仰ぐ海辺の里、 参拝の里として名づけられたものと思います。
【絵図】 江戸時代中頃の備前国児島郡の絵図(岡山県立図書館蔵) で、児島沿岸の郡、小串、胸上など、古くから漁業・塩業で 栄えた村名を結んでいる往来(現、岡山県道74号倉敷飽浦 線)が、東児の山際・山間に記された数ある村名の中で宮浦 だけ個別に伸ばされ、往来と結ばれています。
(私考) 宮浦が、朝廷、代々の備前国司、藩主が崇敬した高島神社 参拝の里として、 また塩づくり・漁労・農耕が盛んで産物に 富んだ屯倉の里として栄え、重要視された集落であったこと を物語っていると思います。 |