岡山市南区宮浦
2013. 8.20
FUJIFILM FinePix HS30EXR


本州と四国の間が海水流入と陸地化を繰り返した後に瀬戸内海
が形成された約7000年前
(縄文時代早期)、現在の岡山市は、龍ノ
口山
(中区)~三野・津島(北区)~矢坂山・吉備中山(同) 南麓辺りの
海岸線まで20余りの島々と児島が浮かぶ、 後に吉備の穴海 と称
される潮流穏やかな海原でした。

旭川の河口に形成した干潟で稲作が始まった縄文時代晩期から、
ここ宮浦辺りは原始時代・古代の移動・運搬手段であった丸木舟
が行き交い、数世紀を経て島々の間に干潟が発達した室町時代
まで、中世の帆船が行き交う海上交通の要所でした。





干潮時の撮影です。 満潮時砂浜は海中に沈みます。
水辺での安全 について
河川を「海、海面」、河川敷を「堤外、砂浜」に置き換えて
お読み下さい。


宮浦辺り(東児)の古代遺跡と伝説、歴史

縄文時代晩期
紀元前663年(668年)~紀元前660年
後の神武天皇
(神日本磐余彦尊:かむやまといわれひこのみこと)が、
葦原中國
(あしはらのなかつくに:日本の古名)の平定を目指し、九州
の高千穂宮から大和国
(現、奈良県)へ向われる際に宮浦沖の高島
滞在、
仮宮を創建。=吉備国高島宮(古事記・日本書紀)

弥生時代 中期~
西暦1年頃(約2,000年前)~、山間部に集落が発達。=
貝殻山遺跡
移動・運搬の重要な航路であった海、児島一帯を行き交う舟や人々を
見張る役割をもった特殊な集落(高地性集落)と考えられています。

弥生時代 大和朝廷創設期
西暦200年、諸国統治を終えた神功皇后
(じんぐうこうごう)が貝殻山の
南東、
飯盛山(胸上を行啓。
神功皇后と皇配の第14代仲哀天皇、皇子の第15代応神天皇(八幡神)
を御祭神とした神社 が、東児をはじめ児島半島一円に鎮座しています。

古墳時代
西暦400年頃から、胸上周辺(出崎~山田)
など、瀬戸内海の東西沿岸
の集落で師楽式土器を使った製塩が発達。=
出崎遺跡(海浜集落群)
その他
田井長崎鼻遺跡
(玉野市築港)、阿津走出遺跡(倉敷市児島阿津)
喜兵衛島製塩遺跡
(香川郡直島町)、師楽遺跡(瀬戸内市牛窓町師楽)

西暦556年、大和朝廷が
郡~宮浦に屯倉(みやけ:朝廷直轄領)を設置。
児島屯倉(主に塩や海産物を収穫、管理)
田令
(たっかい:屯倉、田畑の管理者) として葛城山田直端子(かづらき
やまだのあたい・みつこ)
を派遣。(古事記・日本書紀)
穴海のほぼ中央に位置した港をもつ児島屯倉は、交易、海運の要所と
して重要視されました。

児島は、その後に編纂された古事記
(712年)では本土の次(9番目)に、
日本書紀
(720年)では日本国土(大八洲)として8番目に生んだ島とされ、
児島の国魂
(くにたま:国土を営む神) である建日方別(たけひかたわけ)
を現在の
金甲山 (神之峰:こうのみね)に鎮座した(住まわせた)とされて
います。



高 島

昭和15年 文部省指定「神武天皇聖蹟伝説地」
(昭和15年 5月 6日 官報第3996号)

後の神武天皇(神日本磐余彦尊:かむやまといわれひこのみこと)が、
九州から大和国(現、奈良県)へ向われる際に「吉備国高島宮」を創建、
滞在された島。(古事記・日本書紀)
島の南側 (高島宮址) へ神武天皇を御祭神とする高嶋神社が鎮座。
島の最高所に磐座、祭祀跡があります。

昭和13年(1938年)~15年、当時の学界の総力を挙げた学術的な「文部
省神武天皇聖蹟調査」の結果、土器の出土、古代の祭祀跡があること
などから、文部省「神武天皇聖蹟伝説地」に指定されました。

吉備国
(広島県東部~岡山県全域~兵庫県西部、香川県島嶼部)には、
多くの沿岸部、島々に仮宮
(行宮あんぐう)址、伝説地が点在しており、
海上交通、交易航路の拠点作りを行ったとされています。

日本書紀で 「3年滞在
(古事記では8年滞在) の間に、一挙して天下を
平定するための船を建造・整備、食糧を備えた
(口語訳)」と記されている
吉備国高島宮」の伝説地も、ここ宮浦と、穴海の沿岸だった中区賞田
にあります。


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