縄文時代晩期 紀元前663年(668年)~紀元前660年 後の神武天皇(神日本磐余彦尊:かむやまといわれひこのみこと)が、 葦原中國(あしはらのなかつくに:日本の古名)の平定を目指し、九州 の高千穂宮から大和国(現、奈良県)へ向われる際に宮浦沖の高島へ 滞在、仮宮を創建。=吉備国高島宮(古事記・日本書紀)
弥生時代 中期~ 西暦1年頃(約2,000年前)~、山間部に集落が発達。=貝殻山遺跡 移動・運搬の重要な航路であった海、児島一帯を行き交う舟や人々を 見張る役割をもった特殊な集落(高地性集落)と考えられています。
弥生時代 大和朝廷創設期 西暦200年、諸国統治を終えた神功皇后(じんぐうこうごう)が貝殻山の 南東、飯盛山(胸上 )を行啓。 神功皇后と皇配の第14代仲哀天皇、皇子の第15代応神天皇(八幡神) を御祭神とした神社 が、東児をはじめ児島半島一円に鎮座しています。
古墳時代 西暦400年頃から、胸上周辺(出崎~山田)など、瀬戸内海の東西沿岸 の集落で師楽式土器を使った製塩が発達。=出崎遺跡(海浜集落群) その他 田井長崎鼻遺跡(玉野市築港)、阿津走出遺跡(倉敷市児島阿津) 喜兵衛島製塩遺跡(香川郡直島町)、師楽遺跡(瀬戸内市牛窓町師楽)
西暦556年、大和朝廷が郡~宮浦に屯倉(みやけ:朝廷直轄領)を設置。 =児島屯倉(主に塩や海産物を収穫、管理) 田令 (たっかい:屯倉、田畑の管理者) として葛城山田直端子(かづらき やまだのあたい・みつこ) を派遣。(古事記・日本書紀) 穴海のほぼ中央に位置した港をもつ児島屯倉は、交易、海運の要所と して重要視されました。
児島は、その後に編纂された古事記(712年)では本土の次(9番目)に、 日本書紀(720年)では日本国土(大八洲)として8番目に生んだ島とされ、 児島の国魂(くにたま:国土を営む神) である建日方別(たけひかたわけ) を現在の金甲山 (神之峰:こうのみね)に鎮座した(住まわせた)とされて います。 |