母の病状記録

母の病状記録

母の病状を記録したブログです。少ない選択肢の中で今の選択で本当によかったのか?ここに来て思い悩む日々。記録することで心の整理をしたい...そんな思いで記述しています。

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すべては2010年2月から始まりました。


【2月下旬】

胃につっかえる何かが気になり、近くのSS病院へ行く。
癌の宣告


【3月上旬】

検査で数値が異常だったため、再検査となる。


【3月中旬】

再検査の結果、膵臓癌と判明。余命3週間と宣告される。後日、『3週間』は母の聞き間違いとわかる。母はSS病院を疑い始める。それから一人で苦悩の日々を過ごす。


【3月下旬】

やっとの思いで、私以外の家族に伝える。私に相談するように説得されるが、結果4月上旬まで言い出せないでいた。


【4月1日】

母から私に電話があり、癌であることを伝えられる。ちょうど事務所移転の最中で、車の運転中であった。その後直接母に会って、SS病院が疑わしいのであれば、他の病院で再度検査するよう説得する。


【4月8日】

朝、次男の小学校入学式が始まる直前に、母から電話をもらう。別の病院で検査したいとのこと。母はやっとの思いで決心する。


【4月13日】

ネットで情報収集をした際にホスピス の存在を知る。万一のことを考え、ホスピス 病棟のあるYK病院へ母を連れて行く。その日すぐCTの検査をする。


【4月14日】

本格的な検査のため一旦入院する。その日はMRIの検査をする。


【4月15日】

エコーや他の検査をする。


しかしその結果は同じ膵臓癌と診断。しかも余命3ヶ月から6ヶ月と宣告される。母はしばし呆然。その背中が小さくうなだれていた。「あ~やっぱり」と絶望したかのようだった。その次の日から抗癌剤 投与の延命治療が始まる。


【5月上旬】

退院。1週間に1回の抗癌剤 投与。それを3週間行い1週間休む、というサイクルでワンクール済んだところで帰宅。そのころから抗癌剤 投与による貧血に悩まされる。


【6月18日】

梅雨に入ったこの時期に、母が以前から行きたがっていた熊の古道へ行く。その頃、抗癌剤 による貧血が酷く、一時化学治療を止めていた。そのせいか?体は快調だった。元気に勝浦へ出かけていった。もちろん家族同伴で。これが母にとって最後の旅行となった。


母の病状記録-那智の滝


【7月上旬】

抗癌剤 の副作用で貧血が酷く、通常の生活が困難になる。輸血して赤血球の数値を調整するため2度目の入院となる。その頃から体のだるさ(倦怠感)を訴え始めた。足腰が弱くなり始めたのもこの頃だった。腹痛も頻発する。


【8月2日】

退院。その日から訪問看護士さん、ヘルパーさん、そして私たち家族の三位一体となったサポートが始まる。
介護保険の使用状況


【9月中旬】

腹痛とむかつきに耐え切れず3度目の入院。


【10月5日】

退院。その日から以前と同じ面々で24時間完全介護が始まる。
膵臓癌の宣告から8ヶ月目の現状


【10月12日】

努力もむなしく4度目の入院。前回退院してからたった7泊目の朝だった。激しい下痢と嘔吐。しかも血が混じっていた。介護タクシーでなんとかYK病院へ搬送。体は衰弱し、自分で立ち上がることもできない状態だった。


【10月中旬】

悪液質 のため、余命1ヶ月と宣告される。


【11月12日】

奇跡的に回復し外出許可が出る。母の思い出の万博記念公園へ行く。これが母にとって最後の外出となる。4時間ぐらいで病院に戻るが、母は何度も楽しかったと言っていた。


母の病状記録-万博記念公園


【11月29日】

心のケアのため、ホスピス 病棟へ移動。これを境に、延命治療から緩和治療へと移る。
ホスピス病棟への移動


【12月17日】

午後5時半過ぎ、セデーション 開始。意識レベルで会える母との別れである。これ以降は意識レベルが低下し、眠った状態となる。担当医師から余命1日から2日と宣告される。


【12月22日】

医師の宣告に反して、母は頑張り続けた。しかしセデーション 開始から6日目の午後9時過ぎ、呼吸が停止。その後心臓も停止。そして永遠の眠りにつく。
母の最期(セデーションの終焉)


その後23日に通夜、翌24日に葬儀を行った。生前から母の遺言により家族葬とした。他にも理由があったが、身内だけの質素な葬儀になった。ただそれに反して式場が広く立派過ぎた。あの世から「やり過ぎなのよ!」って母独特の苦言を言われてそうで恐縮した。


以前から気になっていたが、母の携帯に何度もメールをいただいた方にだけに、亡くなったことをお伝えした。唯一その方だけが身内以外の人だった。


【12月24日】

あれだけ「帰りたい、帰りたい」と言っていた自分の家に、遺骨となって帰ってきた。やっとの思いで帰ってきた母。あの世で喜んでいてくれればいいのだが・・・



【お世話になった方々】

YK病院 消化器系内科主治医 S先生
YK病院 消化器系内科看護士の皆さん
YK病院 ホスピス病棟主治医 K先生
YK病院 ホスピス病棟担当看護士 Kさん
YK病院 ホスピス病棟看護士の皆さん


SHKステーション 看護師 Nさん
SHKステーション 看護師 Kさん
SHKステーション 看護師 Sさん


HF介護支援センター Hさん
N介護ステーションの皆さん
U介護サービス Nさん


そして、母の親友のFさん
入院中母のために遠方から来てくださいまして、ありがとうございました。母の嬉しそうな姿を見れたのも、今では懐かしく思います。


介護タクシーのドライバーさん

その他助けていただいた皆さん



大変お世話になりました。母のために色々としていただきまして、心から感謝しております。本当にありがとうございました。


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心の整理ということで、ここまで書き続けてきました。本当の意味で心の整理は、まだまだ先になりそうです。けど、年の瀬ぎりぎりの今日(2010年12月31日)、一旦終止符を打ちたいのも本心です。


母の四十九日も来年2月以降ですし、2011年は母の事後処理的な年となりそうです。いろんな意味でけじめをつける年でもあると思います。


このブログには、私個人の勝手な見解も数多く見受けられます。ブログだから言いたい放題とはいきませんが、すこし見解が偏り過ぎだと感じられましたら、お許しください。


医療系の情報も、私なりに収集した情報の中から記述したものです。これも偏ってたり間違っていましたら、お許しください。


最後に、同じ悩みで苦悩されている方々に、少しでも情報提供できたらと思って書いてきました。しかし最後は本人そして周りの家族の決断だと思います。本人さんにとって悔いのない終焉を迎えられますことを、切に願っております。


JoeT

(大阪在住45歳)

2010年12月31日

母はセデーションを始めてから6日目の夜に息を引き取りました。昨夜までの肩と胸全体でしていた大きなため息のような呼吸が、この日の朝からは静かな呼吸と変化していました。


昨夜の苦しげで生死をさまよっているかのような呼吸が、静かに熟睡しているような呼吸へと変化していたのです。


表情も痩せ細った意外は、深く眠っているかのように穏やかな表情をしていました。私たちは疑うことも無く、危ない峠を越えたのだと思っていました。なぜなら過去に、母は幾度も危ない状態を乗り越えてきました。奇跡を何度も起こしてきたのです。


ところが今回は違っていました。安らかに眠っていたはずの母の呼吸が、いつの間にか止まっていました。それに気付いたのも、しばらく目をそらしてからふと母を見ると、顔色が急変していました。


黄疸が出ていた母の顔は、黄色を通り越してどす黒くなっていました。その顔色がみるみる蒼白になっていきました。血の気が引いたというか、明らかな変化でした。


慌てて看護士さんを呼びましたが、すでに呼吸が無く、心拍数も徐々に下がってきました。その後30分ほどで心臓が停止しました。もちろん蘇生することなく、見守っているだけでした。


静かな最期でした。セデーション開始から今日まで眠ったかのような状態でした。そのまま眠り続けて、静かにあちらの世界へ逝ってしまったかのようでした。苦しそうな顔もせず、いつ目を覚ましても不思議でない死顔でした。


私は母の右目尻に涙のしずくを見つけました。母が闘病中に涙を流す時は、いつも右目尻からでした。その右目尻に涙のしずくが一粒ありました。死を感じて私たち家族との別れを悟ったかのようでした。寂しかったのでしょう。私は今でもそれを思い出すと、涙ぐんでしまいます。


気丈な母の涙のしずく。元気だったころの母は、泣いているのを見たことがありませんでした。いつもプライドが高く、厳しい母でした。私はそんな母が闘病中に、3度右目尻から涙を流したのを見ました。


1度目は私の長男、つまり彼女にとっての孫と病室で会ったとき。2度目はセデーションを開始する1週間ほど前に、クリスマスツリーを見せようと、看護士さんがベッドごとホスピスのロビーへ連れて行ったとき。日差しが照りつける暖かなロビーで、ベッドに横たわってクリスマスツリーを見ていた彼女の目尻には、涙が流れていました。そして3度目は死を迎えるとき。


かすかに「ありがとう。」って言っているかのような、感謝の涙に思えてなりません。激痛に耐え抜いた母も、やっと安らかに眠ることができました。そして長かった闘病生活もようやく終わることができました。


この9ヶ月間、辛いことばかりでしたが、母を通して多くのことを学ばせてもらいました。そう意味で大変貴重な9ヶ月間だったと思います。


今年1月の私の誕生日に、母の携帯へふとした思いから「私を生んでくれて、ありがとう!」というメールを送信しました。今まで言ったことのない感謝の気持ち。それをメールに託して送りました。その時何故?そんなことをしたのか?どうしてそんな気持ちになったのか?今でもわかりません。


ただわかったことは、なんのためらいもなく、口では言えない感謝の気持ちを、メールという形で伝えることができて、本当に良かったということです。


後日、母の日記を見たとき、そのことが綴ってありました。恥ずかしいような嬉しいような複雑な気持ちだったようです。また、子供時代に辛くあたったことの反省も、綴られていました。母は過去に縛られて生きてきました。常に悔いる日々だったようです。


けど、もう今は何も迷うことはありません。あの世で過去に執着し過ぎたことを、反省しているのかもしれません。だから気持ちも楽にしてください。失うものは何もないのですから。


最後に母へ伝えたいことは、「お袋、お疲れ様。もう楽にしてくださいね。色々とありがとう。」です。


さらば!お袋。たくさんの思い出をありがとう。

母は腹痛と倦怠感(極度のだるさ)で苦痛にあえいでいました。健常者の私たちには想像絶するような苦痛だと思います。


そんな苦痛にあえぐ母を9ヶ月間も見て来ました。3ヶ月前からは自宅のベッドの上でも、うつ伏せになり、じっと腹痛に耐えていました。


もう治ることのない癌。激痛に耐え続けた母。ホスピスにきてからも断続的に腹痛を訴えました。その度に鎮痛剤を投与し続けました。


苦痛で身の置き所のない体。悪液質のため栄養素の減量。言い表しようも無い倦怠感。もうどうすることも出来ません。


私たち家族からの願いは一つでした。母の腹痛と倦怠感を取り去ることでした。主治医からのすすめもあり、セデーションということになったのです。


※未だに病院側からはこの『セデーション』という言葉は聞いてませんが、内容はセデーションすなわち『鎮静』だったのです。私がネットから調べて知りました。セデーションのガイドラインを作成されている方に、お世話になっているこちらの病院名があったので、確信しました。


セデーションをすることで、失うものもありました。それは母とのコミュニケーションです。意識レベルを下げるということは、もう二度と目を合わせたり、会話したりすることができなくなるということです。詳しくは下をご覧ください。


いくつかのホームページの中で、大変理解しやすいものがありましたので、ここで紹介いたします。※無許可でリンクを貼ることをお許しください。


■セデーション(sedation)とは
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~shimizu/sedation/ppframe.htm


■安楽死と鎮静(セデーション)
http://www.bekkoame.ne.jp/~ta5111oz/hospice/sedation.html