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●毎日暑くてかなわない。数百年前の江戸時代は小氷河期であり、夏の平均気温は、現代より2、3℃低かったという。ヒートアイランド現象など無かった時代だが、町家では日除けとして簾や葭簀(よしず)を掛け、打ち水をし、縁台で蚊遣火を焚いて涼風に和んだ。

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シャボン玉売りや金魚売り、冷や水売りや心太(ところてん)売り、ホオズキ売りなど夏の風物詩も多彩であった。和中散という暑気払いの薬を売る是斎(ぜさい)売り、喉の渇きを抑えるという琵琶葉湯(びわようとう)売りもいて、町人たちは、目で舌で涼を取った。また、浴衣を着て花火見物を楽しみ、川岸の茶屋や寄席で過ごす時間は、最高の楽しみであったようだ。
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●こんな時は屋内施設に逃げ込むのがいい。図書館で書物を漁るのもよし、資料館で過ごすのもよしだ。散策よりも知識を詰め込んで脳に汗をかこうという訳だ。もう何度目だろう、江東区白河の深川江戸資料館に足を運んだ。現代の涼風、エアコンが効いた中、江戸情緒に浸ろう。

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同館は、江戸時代の天保年間末期頃(1840)の深川佐賀町の町並みを再現した展示室のほか、小劇場とレクホールを備えた文化施設だ。昭和61年(1986)のオープン以来、江戸深川に関する歴史や民俗に関する事物の展示、また文化活動の場の提供に努めている。展示室に入るとすぐ、狭い路地をさらに窮屈にする木製の天水桶に出会う。この建屋は、肥料問屋「多田屋」で、干鰯や魚〆粕、魚油を扱う問屋であった。

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●手桶も常備されているが、商家の前などに置かれている桶は、ほとんどが木製だ。船宿の「升田屋」さんのは屋号入りの桶で、江戸情緒に溢れている。水運都市江戸の船宿は、今で言うタクシープールのような客待ちの場所で、飲食を提供したり休憩も出来たという。ここでは、職人衆が集会などに利用する堅実な船宿で、信心深い亭主と律儀な女将、12才の女中と船頭2人の使用人がいるという設定となっている。

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すぐ隣りの、やはり船宿の「相模屋」さんのところにも桶がある。正面には、「水」と表示されている。この時代には、天水桶が置かれているのが当たり前の光景だったのだ。こちらは、主人と女房、16才の女中と船頭3人を使用していて、多様な客層が利用している派手な船宿という設定だ。

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●JR両国駅前にも木製の天水桶が展示されている。この地には、大相撲興行のための国技館や、その隣には江戸東京博物館(後89項後123項など)がある。博物館は、江戸・東京の歴史や文化に関わる資料を収集、保存、展示することを目的に、平成5年(1993)3月28日に開館している。周辺は、江戸情緒一杯の土地柄なのだ。

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しかし皮肉にも、現代において一番燃えやすいのは、この木製の桶ではなかろうか。まさに「火の用心」だ。(令和2年、2020年6月現在は、別の場所に移動されている)

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●続いては、寺社前の天水桶をランダムにアップしてみよう。さいたま市西区島根の島根氷川神社は、掲示板を要約すれば、弘仁2年(811)の鎮座とされ、江戸期には社領15石の御朱印状を拝領している。最近の改築であろう、社殿は真新しい。

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屋根は銅板と木製、手桶は木製、本体は陶器製、台座は鋳鉄製、その下のベースは石製という1対は、組み合わせがアンバランスな天水桶だ。桶の部分は口径、高さ共Φ70cm、総高は2.5mほどだから、存在感は充分だ。台座だけが鋳鉄製というのはかなり珍しいが、恐らく、かつては鋳鉄製の天水桶が存在したのであろう。

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●中央区湊の鉄砲洲稲荷神社。創建は承和8年(841)ともいわれるが、詳細は不明という。「鉄砲州」の地名の由来は、一説には、周辺の砂洲が細長く鉄砲の形をしていたこ事によるようだ。あるいは江戸名所図会には、寛永年間の頃(1624~)、幕府鉄砲方の井上、稲富の両家が、この砂州上で大筒の稽古を行っていた、とあるから、こちらが正解かも知れない。

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また、「この地は廻船入津の湊にして、諸国の商い舟、普(あまね)くここに運び、碇(いかり)を下して、この社の前にて積むところの品をことごとく問屋へ運送す」とある。湊の入口に鎮座する神社として、人々の信仰を集めてきたのだ。また、図会の画像の中央下に描かれた富士塚は、区内唯一の文化財だが、社殿より大きく誇張して描かれている。拝殿の右奥にそびえる現在の塚の高さは5.4mだ。

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●天水桶はコンクリート製の1対だ。大きくて迫力ある桶で、全体的にはいいバランスだが、コンクリート製はどこか味気ない。大きさは口径Φ1.130、高さは1.050ミリだ。3個の手桶は木製で、これはいい雰囲気だが、1個の大きさはΦ340、高さは520ミリとなっている。

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江戸消防記念会の「第一区 六番組 す組」が奉納しているが、「す」とあるのは、江戸町火消し時代の小組の区分けであろう。今の記念会では第1区には10の組が属していて、中央区の全域と千代田区の一部を受け持つようだ。

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火消しであるから天水桶を奉納という訳だ。この組は、前16項の中央区築地の魚河岸の近くにある波除(なみよけ)神社でも、天水桶1対を奉納している。銘は、「川口鋳物師 山崎甚五兵衛 昭和35年(1960)5月5日」であった。

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裏に貼り付けられた銘版には、「弘化3年(1846)5月吉日造之 昭和18年(1943)3月8日 第二次世界戦争に供出 昭和27年(1952)5月吉日再造之」と表示されている。初代は金属製であったに違いなかろうが、当初は誰の鋳造で、どんな形状の桶であったのだろう、興味津々だ。

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●次は、さいたま市桜区西堀にある西堀氷川神社。地域の鎮守として応永年間(1394~)に武蔵一宮の氷川神社を勧請した社とされる。ここには、江戸時代の有名な和算家・関孝和の流派の算額がある。

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市指定の有形文化財であるが、縦61cm、横94cmというから、思いのほか大きい。算額とは絵馬などに数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものだ。平面幾何図形に関するものが多く、学者のみならず、一般の数学愛好家も、あちこちの寺社に奉納している。(境内掲示を要約)

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●ここの天水桶は、明治生まれの檀家が、自分の米寿を記念して創作し平成3年(1991)に奉納している。起伏に富んでいて、三つ巴紋や飛び出さんばかりの躍動的な龍が芸術的だ。実に見応えのある1対だが、製造方法は如何に・・

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絵柄を、薄い銅板の裏側から叩き出し、最後にそれを桶の外周に丸め込んで、リベットで固定してあるのだ。力作である、お見事。これもいずれ文化財になるかも知れない。

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●続いては、足立区加平の浄土宗大光山圓泉寺。寺伝では、正保3年(1646)の開山とされていて、阿弥陀如来立像を本尊として安置している。荒綾八十八ケ所霊場71番札所だ。この霊場は、弘法大師ゆかりの88ケ所の寺院を、祈願のために参詣するもので、有名な四国遍路(四国八十八ケ所)を模して開創されている。

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天水桶1対は花崗岩製(前11項)で、大きな盃型だが光沢が艶めかしい。黒色系の石には、「黒アフリカ インド黒 山西黒(中国産)」などの種類があるようだ。下部には「上がり藤」の変形のような寺紋が陰刻されている。注ぎ込まれるのが水では無く酒だったらなどと、不埒な事を考えてしまいそうだ。

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●埼玉県春日部市粕壁の総鎮守、春日部八幡神社。元弘年中(1331~)に、この地域の武将であった春日部氏により、鎌倉の鶴岡八幡宮(後127項)を勧請したものと言われている。旧本殿は茅葺き、柱間1.6mの流れ造りで、室町期の流れをくむ桃山時代の頃のものと推定され、市内では最も古い建造物として市の指定文化財となっている。

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参道にある樹齢700年のイチョウのご神木は見応えがある。説明によると「鶴岡八幡宮のご神木の一枝が飛び来たり、一夜にして繁茂したと伝わる」という。ウィキペディアによれば、ご神木とは、「古神道における神籬(ひもろぎ)としての木や森を指す。また依り代・神域・結界の意味も同時に内包する木々」だ。

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●天水桶は「昭和54年(1979)10月15日」の造立で、作者不明の鋳鉄製の1対だが、八角形であるのは非常に珍しい。降雨を受け止められる所に位置していないが、かつては堂宇の軒下にあったはずだ。大きさは、最大径Φ1m、高さは700ミリとなっている。

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昭和57年10月には、「御鎮座六百五十年祭」が行なわれ、社殿等の大修造工事が実施されているが、その3年前に、地元の2社の不動産業者が奉納している。天水桶の塗装は最近になされたのであろう、劣化が見られない。

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●同じく、春日部市粕壁東の真言宗智山派、成田山真蔵院。天水桶に見られる紋章は、「丸に右離れの立ち葵」だ。拡大してよく見ると、茎の右側にだけ縦線が通っているが、左側だけのものもあるようだ。

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この紋で著名なのは何と言っても、徳川四天王の「本多忠勝」だ。三河武士にして譜代中の譜代で、歴戦57度の中で一度の負傷も無かったという強者であったが、京都賀茂神社の神官の出自であったため、家康の「葵紋使用禁止」に対して、一歩も譲らなかったという。

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●ここには、鋳鉄製の天水桶が1対あるが、ここでまた川口市の新たな鋳造者に出会った。大きさは口径Φ820、高さは830ミリだ。「昭和6年(1931)6月吉日 本堂改築記念」での奉納であった。この後、昭和38年(1963)10月には客殿と庫裡を建築、昭和48年11月に本堂修覆、昭和63年8月に本堂と客殿を改修、平成17年(2005)8月には、地蔵堂と水屋の建立工事を行っている。

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鋳出し文字は、「武刕(ぶしゅう)川口町 芝川鋳鉄製造所」だ。昭和30年代の話であるが、国立競技場の聖火台の作者の川口鋳物師、鈴木萬之助は、前12項で見たように、「芝川鋳造株式会社」と関わりを持っていた。この「芝川鋳鉄製造所」も関連の企業であろうか。

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●続いては、品川区小山の法華宗陣門流、芳荷山長応寺の本殿前の画像だ。開山は文明11年(1479)で、その後、三河国上ノ郷城の鵜殿永忠の養女おとくの方が、徳川家康(後107項)の側室となった事で、日比谷門内に再興されたという。現在の建物にも徳川家の「葵紋」が見られるのは、そのためであろう。

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ここの天水桶は、「大正拾三年(1924)六月」製の鋳鉄製で、「日喜代」の時世であった。総本山は、新潟県三条市の長久山本成寺というこの流派の寺紋は、日蓮宗と同じで井桁に橘だ。法華宗法に規定は無いようで、通常、「鶴丸」や「六本桜」紋が多いようだが、これは日蓮聖人の系図をたどると、諸説あるからだ。

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側面の「芳荷山」はこの寺の山号で、「東京日本橋馬喰三(丁目) 施主 長坂太郎八」が奉納している。その真下に「山寅製」の印影が見られるが、この鋳鉄製の天水桶1対の鋳造者が、川口鋳物師、山﨑寅蔵(前20項)である事を示す銘だ。大きさは口径Φ1.050、高さは1.240ミリとなっている。

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●一方、ここの寺務所前には、江戸時代に鋳造された鋳鉄製の天水桶が1対ある。大きさは口径Φ675、見えている部分の高さは525ミリだ。側面に「東岳院」と鋳出されているが、「願主 野口重右衛門」由縁の院号だろう。鋳出された作者銘は、「鋳物師 武州川口住人 海老原市右衛門忠義 文久四甲子(1864)春」となっている。

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「甲子」は、「かっし きのえね こうし」と発するが、十干と十二支の組み合わせの1番目で、古来より物事の始まりとして重んじられてきている。大正13年(1924)に兵庫県西宮市に作られた野球場は、この年の干支から「甲子園大運動場」(現阪神甲子園球場)と命名された事は、よく知られている。

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人となりだが、川口市の川口神社(前1項)の狛犬には、今も「文久元年 海老原市右衛門」の陰刻が見られる(前35項)。また、戦時に金属供出(前3項)されたが、同神社の鳥居には、「世話人 海老原市右衛門」と刻まれていたという。金属類回収令は、昭和18年(1943)8月12日の勅令であったから、名を世襲した数代前の海老原であろう。

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●この人は、前35項の通り、「萬延2年(1861)2月」に、東京高尾山の奥の院の桶も鋳造しているが、その鋳出しは、「鋳物師 川口住 市右衛門」であった。なお、後67項後94項もご参照いただきたい。

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また、鈴木茂の「川口の鋳工と作品」を見ると、戦時に金属供出したのであろう、すでに現存はしないが、「安政3年(1856)9月吉日」には、千代田区外神田の神田神社(前10項)の天水桶も鋳造した事になっている。その鋳出しも「市右衛門」であって、名字は表示されていない。

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さらに、文政(1818~)、嘉永、文久、明治年間に記された、「諸国御鋳物師姓名記」や「諸国鋳物師控帳」などを見ても、「海老原」あるいは、「市右衛門」の表記は登場しない。なぜ下の名前だけなのだろう。理由は、鋳物師達の営業権を統括していた、元締めの京都真継家(前40項)の傘下ではなかったのだ。それは営業地の侵害であり、名字の非表示は、それをはばっかったのかも知れない。

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●東急池上線には「御嶽山駅」があるが、駅名の由来となっているのが、大田区北嶺町の御嶽神社だ。天保2年(1831)建築の本殿の彫刻は見事で、区指定の有形文化財になっている。竜宮を去る浦島太郎やそれを見送る乙姫様、養老の滝、司馬温公甕割りなど、和漢の物語や故事に因んだ彫刻となっている。

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同神社のホムペによると、『創祀は、嶺村(現嶺町地区)ができた天文4年(1535)頃と謂われる。当時は小社であり祠に近いものであったと推察されるが、後の天保年間に木曾御嶽山で修業をされた一山行者が来社して以来信者が激増し、天保2年(1831)に現在の大きな社殿を建立し御霊を遷座した。

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信者の中には江戸の豪商なども多くあり、かなりの寄進がされたようである。関東一円から木曾御嶽山を信仰する信者たちが多数訪れ、その勢いは江戸、明治、大正、昭和へと続く。「嶺の御嶽神社に三度参拝すれば、木曾御嶽山へ1回行ったのと同じ」と言われていたようだ』とある。

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●ここに、どこかで見かけたような鋳鉄製の天水桶1対があったのだ。大きさは口径Φ950、高さは780ミリで、「山に丸三」など2種の紋章が見られ、「御嶽山 末廣万人講」が奉納している。背面の銘は「嘉永7年(1854)11月吉日」で、「川口 願主 増田安次郎」、「南八町堀 同増田利助」銘であった。

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後83項などでみるが、増田家の過去帳には、「3代(当主) 安政5年(1858)7月11日卒 金平」とあるが、時期的にはこの桶の願主であろうか。また、「4代(当主) 明治26年(1893)4月20日卒 2代目安次郎 俗名利助」となっているが、この人による鋳造だろうか。両名は通った幕末の大砲鋳造鋳物師だった訳で、天水桶の鋳造も同人であろう。

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前30項で訪館した、川口文化財センターの倉庫に眠っていた桶と、デザインも、製造日も全く同じなのだ。鋳造者と思われる増田安次郎は、予備としてだろうか、失敗作なのだろうか、とにかく、同じものを3個以上は製作していたのだ。そういう目で見なかったので、倉庫に眠っている桶が破損しているかどうかなど確認できていない。いつかまた折を見て、内側や裏側を覗き込んでみることにしよう。つづく。