雑記8のうどんげとゆ~ゆ~の記事の番外の部分で触れた『古明地 さとり』の心を読む程度の能力についてのなにかしらの意味や、ほか、とある地底の読心裁判という東方コスプレイベントタイトルからヒントを得た、読心裁判の理想論について、また、なぜ、この内容について知己(自分)が悩み続けるのか、その経緯などについて、書き残したいとおもいます。
なにか指摘意見や討論を要する内容がある場合は、メッセージやコメントなどで、お知らせしてくれるとうれしいです。



・心を読む程度の能力



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『古明地 さとり』の心を読む程度の能力、また、それによる影響って、なんなんでしょうか?
第三の眼を有し、その瞳は、ひと含む動物など、あらゆる思想のある生き物の考えてることおもうことなどの心を、観透かして観えてしまい、『怨霊をも恐れ怯む少女』として、ひとから嫌がられる能力であるらしいです。

そして、基本的には、動物などとしか仲良くできない性質になるらしいです。

でも、そもそも、なぜ、心を読む程度の能力が、嫌がられる能力になってしまうんでしょうか?

それは、ひと自体に、なにかしらの疚しさや、隠したい心があるからだとおもいます。
疚しさや、隠したい心は、ときにウソをつくことで、ひとは、誤魔化したりしています。

透き通った水のように純粋ではない、なにか汚れた暗闇のものが、そこには、あるんです。

ひとは、ウソをつくとき、なにを考えてるのか問いますと、自分の悪い疚しい部分を隠すため、もしくは、立場などを考えてるのが、主な意図になりますね。
大切な友を守るために、ウソをつくこともあるとおもいますが、悪い疚しい部分を隠すよりは、少ないことだとおもいます。

真のことじゃないから、真心と言っては、いけませんよね。
偽のことだから、偽心と言うようなものかもしれませんね。

基本的に、純粋な、本能的に生きてる動物、自然や野生的な思想などには、多分、この偽心の要素は、ないんじゃないかとおもいます。

こういった偽心、ウソのことがあれば、なにかの自然にはない不自然なムジュンが出てきますよね。
理にも成り立たない理不尽が出てきますよね。

そういった偽心により、詐り欺くことの詐欺などで、自然にはない不自然なことや、理にも成り立たない理不尽なことで、混乱したり、なにを信じれば良いかわからなくなる事態が、発生します。

心にもないことですよね…。

そういうことで、人間不信といった心の問題になることが出てきます。

そこで混乱し、なにを信じれば良いかわからない不信に悩み苦しみ、ときに、真心を棄て、偽心を学習しては、ウソをつくことを覚えてしまうひとも出てきます。

自然にない不自然が、こういったことで、ひとの意識に広がっていった先に、心を読む程度の能力がない場合、なにを真として心から真心で信じられるのか?

その先には、不自然じゃない自然なもの、それらの本能的に生きる動物などが意識に出てくるんじゃないのか?

ただ…心の不自然な部分も多い、人間社会の中で、なにか真心なるものを観極めていくには、結論として、心の読む程度の能力…いわゆる、読心術の能力を、身につけていくほか、なくなってしまうんじゃないかな?

自然界やそれらの動物は、純粋で真心から可愛い感じするよね。



・白黒はっきりつける程度の能力



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『四季映姫・ヤマザナドゥ』の白黒はっきりつける程度の能力、また、それによる影響って、なんなんでしょうか?
画像は、東方サッカーのラストジャッジメントから拝借。
こういう閻魔さまは、伝説上でも、多分、偉大な存在です。

時に、科学的な根拠や立証などを元に、白黒はっきりとさせないとわからないことって、世の中、実にたくさんありますよね。
個人的には、「待った!」でゆさぶり、「異議あり!」でつきつける。
そして、「くらえ!」で決定打のようなものを表明する。

白黒はっきりとつけることは、これら裁判のように、ムジュンを取り払ったうえで、根拠や立証などを元に、不当な差別などもなく、的確に判決をしなくちゃならないことになります。

それに、誤認による不自然や理不尽なるムジュンが含まれていれば、ちょっと良くないことが起こります。
「冤罪」っていう、罪のないひとが裁かれてしまう、大きな不自然や理不尽をひとの心に抱かせて、なにか純粋なものが大きく崩れる極めて深刻な事態になります。

間違いなく人間不信になったり、ひとの怨念を生み出し、復讐心などによる悲劇を誘発させるような心が出てきてしまいます。

裁判に限らず、あらゆる生活などでも、物事をはっきりと判決しながら、明確に考えて言動することも、ちょっとしたことでも、納得や理解の意味で、とても重要なことですよね。

最近の世の中では、科学などでの立証が正しき証として主力となってきましたが、昔は、かなり権力や差別的なものでの不正な裁判も、多く蔓延っていたことでしょうね。

こういったカタチで、「冤罪」による怨念を生み出しすぎる世の中になるよりは、科学的な立証の発展は、とても重要なことになっていますよね。

ただ…この白黒はっきりつける能力には、こんな科学の力が発展した環境においても、立証の困難なひとの心の部分があります。

まぁ…個人的な心や情けに、あまり感受性をつつかれてゆさぶられて、判決さえもゆさぶられてしまうのも、かなりマズい問題になりますけど、まず、ひとには、観えて比較的に証明のしやすい【身体(物理的)】の理学要素のほかに、証明がかなり難しい【心(心理的)】の理学要素が、複雑に絡んでくるわけですよ…。



・読心裁判



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心を読む程度の能力と、白黒はっきりつける程度の能力とが、組み合わさったとき、多分、ひとつの理想論が誕生する気がします。
それが、読心裁判というもので、表されたものなんでしょう。

逆転裁判のように考えるなら、罪を逃れるために隠ぺい工作を謀りウソをつくことによってあるムジュンの部分を、観抜く力が必要となるわけですよ。

そこで、その真心か偽心かを観抜くために必要とされるのが、さとりサンの心を読む程度の能力となり、それについて判決を下すのが、四季映姫さまの白黒はっきりつける程度の能力となりますね。

このことについて、以前に、質問を通じ、十数人くらいからのアンケート回答などいただいた内容から察すると、かなり嫌なものになるそうです。

…でも、知己(自分)にとって、なぜ人間としての生き物でありながら、人間不信になり、不自然や理不尽に真心までも痛めて苦しんでしまったのか?
モヤモヤと曇ったままのはっきりしない世の中に、困惑して迷惑なまでに迷い惑いながら、生活しなければならないのか?

これらに悩み続けて、どんどん悩みが広がったりする現状で、ひとつの大きな理想論として、こと「読心裁判」なるものに、すごく関心が寄ってしまいました。

こんな理想論が、もし、現実に存在するのなら、まったく、信じて騙されて人間不信に陥ることもなく、また、はっきりと明確にできて、こんな不自然で理不尽に真なる心としての大切な真心のものを痛めて苦しむ生活も、しなかったんじゃないでしょうか…?
怨念といった悪魔に変貌させるような心も、生まれずに済んだんじゃないの…?



・非科学的と科学的



具体的に書きたかった内容は、以上になりますが、これらふたつの程度の能力は、非科学(オカルト)的とされているものと科学(テクノロジー)的とされているものとして、相反するものとしても分類できそうな気がします。

実際、心を読む程度の能力には、定説のような答えとなるものが観えにくく、気の力とか、感性の力とか、また、各性格のようなものとか、こういった要素が、深く影響してきますね。

で、白黒はっきりつける程度の能力については、理科や計算などの定説のような答えとなるものが観えるようなものが、いろいろと影響してきますよね。



・あとがき



この記事の内容は、多分、特に、知己(自分)のアスペルガー症候群ゆえの経緯の要素が、深く影響があるとおもいます。

純粋なまでに真面目に、眼に映るものや、聴こえる言葉など、信じてしまったりして、即言動してしまう部分を、極めて知己(自分)にとって多大な心理痛となる不自然や理不尽となるウソの偽心なるもので、影響を受けすぎてしまい、また、ウソつきの詐り欺くような卑怯かつ汚いものが大キライで、真心を大切にしたいがために、ときに気絶したこともあるほど心が苦しみ続けてる悩みのことでもあるんです。

ただ…この記事の内容にあるものが、ホント(真心)かウソ(偽心)かなんて、これだという定説には、ならないです。
そういうわけで、なにか意見や指摘なども、受け付けてるんですから…。

また、陰気や陽気についてまとめた雑記5の内容でもありましたが、追記として、ウソによるひとへの悪影響は、とてつもない大変な事態を招きます。

ひとが陽気として認識していたものが、陰気となる【虚偽】による「裏切り」が発生し、陽気(プラス)とされてきたあらゆるものが、すべて陰気(マイナス)へと逆転してしまい、信じていた分だけ、信じられない心理を抱かせ、また、その悲劇の恐怖心をいろんなひとに観せしめてしまうことになります。

そうやって生まれてしまった、ひとがひとを深く信じない世の中なんて、本来の自然のような考え方で、あり得ますか?
心の深さが、関心が、気持ちが、それらが、深刻なまでに薄れてしまうんですよ?
人間不信のひとを、どんどん増やしてしまうんですよ?

大切であるはずの真心を持つのに、どれだけ不自然や理不尽なことで、心を痛めることになるのか、わかりますか?
また、怨念を生み出してしまうのか、わかりますか?
心を棄ててしまい、人としての道を踏み外していった外道を生み出してしまうのか、わかりますか?

ひどく裏切りを受けたひとは、陽気が深かった分だけ陰気で痛み苦しみ、それの逆となるものは、存在しません。

存在しないからこそ、医者でもなんでも、ひとを心療するのに、とても難しいことを要求されなくちゃならなくなってるような感じがしますし、それだけ深刻なことなんですよ。

…心を読む程度の能力や、白黒はっきりつける程度の能力が、ホントに超がつくほどの能力として、超能力を身につけられるなら、世を観抜き明確に変えられる程度の能力になるというのなら、勉強や学習、また、修行や鍛練なども、もっともっと追求しなくてはならないような気がしますよね。

大昔にあるような非科学(オカルト)的な伝説にあったような例えば仏の修行や鍛練なら、モンク僧のチャクラの力や、また、お坊サンや巫女のような霊の力とか、精神力の精神コマンドで、もっと愛や奇跡なることも起こせるなんて大げさな空想的な理想論でも、実際にあったなら、なにか、研究もしてみたくなりませんか?

そう…理想論を求めるために…。
自然じゃない不自然や、理にも叶わない理不尽なんかに、迷い惑い痛み苦しみ続けて真心を叶えられないことなんて、イヤなんだよ…。

2013/6/4