この記事では、ひとの感性についての内容をまとめてみます。

感性というひとなど生き物の感じる力についての学習や意味についての記事になります。

なにか記載内容に指摘や意見などあれば、コメントやメッセージでお願いしますね。



・感性の種類



主に、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚と分類される【五感】についてです。
世に通過して知れわたっている感性の分類だとおもいます。
知覚や勘などの直感的な意識の【第六感】については、この記事では、あまり大きく触れないようにします。

第六感については、具体的な根拠とかまとめることもできない感じですし、そもそもこの記事でまとめたい内容とは、違ったものになっちゃいそうですので…。



・感性を身につける



感性って、生き物の自然のような程度の能力であるとおもいます。
それが【感情】であったり、【感覚】であったり、【感触】や【感知】であったり、【感謝】や【感激】であったり、【感度】であったり、【感】として感じたりできるものっていろいろありますよね。

それらを身につけるには、教科書やノートなどの理学や文学の学習で教えられることではないとおもいます。

【触れ合う】ことが必要で、身を持って感情や感覚で教えられることだとおもいます。

それは…ひとなど生き物の心理と、とても繋がっていることだとおもいます。

でも「心理」って、理学で説明することがとても困難な内容でもあるし、理解しにくいものでもあるんですよね。

自然に生き物として感性がとても大切であるものだとおもっても、とても理解が困難でもあるもので、多分、世の中の自然とかを大切に感じようとすれば、ずっと悩み続けなくてはならないような内容でもある気がします。



・感性で考える学科目



よくある学科目のことでも、「勉強ってなんでするの?」なんて愚問な話ですよね。

そもそもなんで学習する必要があるのでしょう?

国語がなければ、物事の言語力がなく、会話や読むことに支障をきたす。
算数がなければ、物事の計算力がなく、計画や計ることに支障をきたす。
理科がなければ、物事の理解力がなく、推理や分析することなどに支障をきたす。
社会がなければ、物事の政策力がなく、倫理や社交することなどに支障をきたす。

よく現実的にリアルに考えてみると、あなたは日常で、これらを感じ教えられながら生活していませんか?

生活に触れ合うことで言語力を無意識に感じていませんか?
生活に触れ合うことで計算力を無意識に感じていませんか?
生活に触れ合うことで理解力や政策力を無意識に感じていませんか?

体育や家庭科なども、何気なく身体を動かし運動することなどから、無意識に感じているはずでしょうし。

実際に生活の中で、教科書とにらめっこしては、ノートにひたすら書いて、点数などで評価や比較されるものなのでしょうか?
ましてや、暗記など曖昧な覚え方などして、実際にその身に役に立つことなのでしょうか?

少なくとも、知己(自分)は、ホントに学習できていることなら、うまく言語や計算や理解や政策で、人間関係も含むあらゆる生活も、上手に感性で触れ合い考えることができるものだとおもいます。
自然に勉強して強くなれてるだろうとおもいますよ。

て…いうか、生活に不便のないように、必要に応じて、ある程度の基礎的なことは、自分でなにかしたいとか苦手なことを克服したいとおもえば、最低限の勉強は、したくなるとおもいますね。



・感性のないセカイ



自然に感じるはずの感性が、なんらかのカタチで、大きく崩れてしまっている感じがします。
その不自然な感じは、物理的に自然が壊されたことによるものなのか、それとも、心理的に自然が壊されたことによるものなのか…。
特にこういったインターネットのようなセカイだと、それが大きく感じられます。

例えば、こういった文字だけのこの雑記から、五感という感性で、知己(自分)の感じてるなにを感じ取れますか?
どんな表情をしている?
どんな声を出している?
喜怒哀楽の感情や感覚を認識できる?
どんな感触なんだ?

この感情や感覚は、自然なものなのか?

この画面のセカイに、ひとなどの生き物の質度や温度って、自然のように存在するのか?

例えば、この記事を観てる中で、インターネットにどっぷり浸かってしまってるそこのあなた。
なにか敏感ではない鈍感な感じになってる部分がありませんか?

現実という名の、本来、人間社会で生活するための感情や感覚のことですよ。

もしかしたら、無意識に、喋ることができなくなっていたり、生活は不監理に堕落し、周りの人間関係に亀裂など出てきたり、また、実際にはそれらを誤魔化していたりして、それらを感情や感覚で感じることができなくなってはいませんか?
喜怒哀楽の気持ちや表情さえも、わからなくなってはいませんか?

そして、現実で身体を動かす何気ない自然運動にさえ、なにか懸念をぶつけるような情けないことになってはいませんか?

脚があり腕もあり、本来の体育的な力強さや打たれ強ささえも、犠牲にしてはいませんか?

どうなんでしょう?

もし、なにか感じて息苦しさを覚えたなら、自然の空気に触れて、呼吸を整えて、時に、ヒマありゃランニングでの散歩や、ストレッチでの休息とか、なにか自然体のような意識を整えてみましょうよ。



・感性と必要悪



感性で、なにか不幸なことやグロテスクに気持ちわるいものを感じてしまったことは、ありませんか?
喜怒哀楽の気持ちや表現の中で、怒ることや哀しむことなど、陰気な感情を感じてしまうこと、ありませんか?

時にそういった感性は、鬱など精神病のような感覚を引き起こす。
絶望や恐怖の感覚を引き起こす。

じゃあ、そんな陰気な要素の感情や感覚がまったく必要ないと問われると、そうでもなく、また、喜怒哀楽でも喜びや楽しみだけの陽気の要素で、物事が成り立つわけでもないですね。


陰気の感性を学習して覚えられないからですよ。

また、ホントの陰気の痛みやツラさまで覚えずして、ホントに周りのみんなまで含み喜び楽しめる感性や、また、その幸福感や大切さを認識することさえもできませんよね。

それに…ひとは苦行の中で、それを乗り越え、鍛えられ、勉強し、強くなるものだとおもいますから。

最近の現代の世の中は、便利すぎて楽なことが実に多すぎますし、また、それを当たり前であるようにおもいこんでいることにより、感性の重要ななにかが進化じゃなく退化して衰弱してしまっているような重大な問題があるような気がします。

ときに、貧しい環境、もしくは、原始(あらゆる自然の原点)の野生のような感性で、大きく考え直してみると、感性や感覚の学習っていうのが、うまくいくような感じも、たくさんあるとおもいます。

生物学としての本来あるべき原点となるものです。

物が、ただの野原や森林や山岳とかしかない環境において、ひとは…いや、【生き物】は、なんの感性や感覚を身につけているものだとおもいますでしょうか?

不便です…便利がなく、かつ、病原菌の微生物なども含む様々な外敵さえも存在し、また、食料や飲料などもない環境、どうやって生き延びていくものでしょうか?

今の現代では、ありとあらゆる便利なものをつくってきた先人の歴史などもあり、考えられないほどの便利な世の中になってますよね。

ただ、その結果、ひと自身は、体力から知力からなにもかも弱体してしまってるんじゃないでしょうか?

視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚…これらの感じどころか、この感性の重要性や感知能力、また、これら感性の充実の幸福感さえも、忘れてはいませんか?

原始や野生の感性で考えてみると、ひとは、本来のあるべき自然の中で、生き延びていくために、また、勉強して強くなるために、どのような苦行の修行して、体力や知力、また、感性を身につけて能力を身につけていったものなのでしょうか?



・感性を触れ合う



『感性を身につける』の行で【触れ合う】と書いたこと。
これが、不自然のない自然の学習だと、知己(自分)は、おもってます。

ケンカでさえ、叩く殴るの物理的な痛み、また、心理的な痛みなども含む【痛感】という感性であり、また、加害や被害の双方の痛感もいろいろと感性を触れ合うことで、ひとは、感性や感覚でひとを理解し、また、ときに感情をぶつけてまで触れ合うからこそ、また、ひとの感性や痛感という感じをその身で学習する。
衝突することで、ひとそれぞれの価値観や意識の違いも学習する。

世の中には、【ルール】というものがありますが、もしかしたら、そのルールそのものに不自然なものがあり、自然な感性を規制されていた場合、これって、自然な感性を学習できないまま、ひとが教育されるなんてことになっていませんか?

また、【上下関係】というもので、上から眼線で、一方的に自己の価値観や意識を、脅迫じみた押しつけをしてまで教育されるなんてことになってませんか?

各個人の個性の感性や感情を、ぶっ潰してしまっていませんか?

こうやって、自然に触れ合うことのない学習を教えては、なにか重要な感性や感情そのものを壊してはいませんか?

数多くの触れ合ってきたトラブルも含む出来事なくして、知己(自分)は、感性のなにもかも、納得や理解をして学習をすることなど、できやしませんでした。

ただ…こういった触れ合う中での感性の学習の中で、絶対にしてはいけないことが、ひとつ、あげられます。

個性あるひとそのものの存在の否定といった行為、いわゆる【いじめ】や【虐待】といわれることですね。
触れ合っても、これは、もはや、ケンカでもなんでもなく、ただ、ひとの将来や生命や存在さえも否定するようなこと。

感情さえも、否定され、物理的に●されたり、また、心理的に●されたり、ただ怨霊を産み出すような悲劇だけを引き起こす。

とても、冷酷かつ残酷なことですよね。

とても痛苦しく、また、報われもしない怒り哀しいことなど、感性ある感情として、まず耐えられないとおもいます。

…ただ、こんな知己(自分)も、ひとの存在そのものを否定したようなことを言動したことは、あります。

それは、そもそも感性がないひと。
感性がなければ、感情もなく、心もない。
心配といった心を配ること、また、怒りや哀しみなどの痛みや涙さえなければ、情けもなく情けない。
ほとんどが演技まみれでウソまみれの感性や感情や感覚のないひとでなし。

ひとでなしってことは、知己(自分)にとっての意識では、もはや、その対象は、【ひとではない】とおもってます。

魔性っていう言葉があるくらいだから、感性や感情や感覚もなしに、冷酷や残酷に害を及ぼす【魔物】、もしくは、【悪魔】かなにかなんでしょう。

触れ合うことで、痛感も、涙を流すような悲痛さえも、将来や生命や存在を否定されないものなら、絶対に感性を大切にするひととして覚えておきたいことだとおもいます。



・あとがき



英才教育ってなんなんだろ?
知己(自分)は、自分自身の教育について、深く考えたことはなく、塾など習うこともなく、ただ、中学生卒業までは、好きなゲームをしたり、また、生徒同士で遊んでるばかりでした。
当時の学校の先生は、知己(自分)になにを教えたんだ?

…ただ、今、現在になって、この雑記にあるような感性の教育の意図が、当時の先生の言葉から、明かされたものだったんです。

小学生の学校生活で【身親が学校側や保護者に頭を下げて謝罪した回数は100回以上(些細なケンカなどトラブルはそれ以上)】だったといわれるほどの知己(自分)は、あえて学校内で野放しにされ、【無意識に自然に感性の教育をさせられてた】らしいです。
アスペルガー症候群の正式な認知さえなかった当時でも、学校側や先生や身親とで内密に相談していて、意図的に、ひとの気持ちを読み取るのが苦手な特性を読み取っては、知己(自分)に療育のような教育として仕込んでいたことだったんですね。

この雑記は、それら知己(自分)の認識してきた感性の基礎みたいなものを基に、最近の、人間関係の問題などを考察しまとめたものを書き残すことにしました。

知己(自分)の悩みおもうことは、感性や感情や感覚のない、自然で無邪気な笑い顔や怒り顔や泣き顔や仕草さえない、冷酷さや残酷さを感じさせる子が、痛苦しくツラくおもえてしまうこと…。

2013/7/8