『雑記29 ぼくたち異能者の学園生活 その1』の続きのような雑記になります。
まゝせんせいと学園生活についてなど、文字数の関係でまだまだ書き足りないことや、あとがきの部分をおもいっきり省くことになってしまったりなど、そこいらの書き加えをしたいために、続きを書くことにしました。
最近のアンジュ・ヴィエルジュ公式スタッフ勢力にものもーす件や、どうにもシナリオライターとのなぞなぞ遊びしてる感の件など、それらに関して触れたりあまり実際の育ちの現実から脱線しないようには書いたつもりです。
前回の記事にも書きましたが、【プライバシー関係や詮索ゲリラ襲撃への諸事情のことも考慮して現実の人間関係と実際にリンク活動するようなことをするつもりもありません】し、【知己(自分)がなぜハンドルネーム表記を『No.83 匿名希望』という匿うようなものにしたのかも配慮したうえで、リアルへのタレント視やアイドル視をしたような問いやコメントはプライバシー責任上のことも考慮したうえで絶対にやめてください。】
コメント・メッセージや記事内容に対するわかりにくい部分や誤字・脱字みたいな指摘などの問いについては良いので、よろしくお願いします。



・小悪魔の学園生活



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「このイタズラ心しか意識にないような子をいったいどうしようか?」なんていう、気が乗らなければ授業は平然とまぁサボるわ人の反応で遊ぶためチョッカイかけてケンカ巻き起こすわのトンデモ生徒のことについて、実質は半専属のようなまゝせんせいが1クラスごと秘密裏に「普通な子」たちのクラスを装った「特別な子」たちも交えたクラスを担当するようになるまで、ホントに悩んでいたそうです。
【校内の風紀を乱しまくるような言動をあまりに多発したり】、【教師として義務教育や社会コミュニケーションの最低限を覚えさせる6年間の小学校の授業を考えなくてはならない】わけですし、こんな言動や思考などが悪魔の子じみているような生徒を、どうやって生徒として受け入れられるんだろうか…?
そんな悩んでいたという割に、まゝせんせいは、【とにかく「学校より外に出ないこと」「他のクラスも含む授業妨害をしないこと」などの約束と共に、授業を出席させることよりも「いろんな人とお話したり遊んだりしてみなさい」など、学歴や成績とかまるで無視したあまりにも放り投げなことを言う】とか、むしろ【たまに壱緒になって悪ふざけに遊ぶことさえもあったり】とか、なんとも教育として「これで良いの?」って疑問におもうことも、多々、ありましたけれど。
いうならば、「彼を知りて己を知れば~」のように【そのひとそれぞれ個人・個性をひとの数だけとにかく実体験や実経験も総じて心身や実感を持ってして知ること】を何よりも子どもの頃からずっと知己(自分)に対しての学習として大切に教えられてきたわけですし、【経験はリアリティを生む】ように【リアルでも非架空なノンフィクションでムジュンのない実の人間やシナリオを実際に理深きほどに知ること】を、「いつも自分が人間であって社会も人間社会である以上は常に知り続けなさい」と、演出や演技でもシナリオライター1個人の描いた真偽が定かではない理想像(フィクション)でもない現実において大事におもうことは、こういう育ちからの教えだと記憶しています。
【おもいっきり情操教育を推奨しては英才教育を否定するようなおかぁさん像だったのがまゝせんせいでした】し、あと、【学んだり才能と評価するのは人間である以上は人間を知る理念も含めて学習能力やそれにまつわる理由や好奇心とかやる気の能力そのものであって、学歴や成績などを評価基準にまったくしない】のも、まゝせんせいでした。
「自分に命令できるのは自分自身だけなんですよ」「指図すんじゃねぇ!」なんていうマイペースな人間性で、言うことを聴かせるなんていうのは不可能だったり、【社会としては反社会な態度で制御ができない悪魔のような子(いわゆるワルガキ)】にしても、【逆に、なんにも縛られない自然体な子(いわゆる幼子みたいなもの)】として、その子そのものゝ人権や個性として素直さや気持ちを大切に受け入れてくれたり、【逆に反抗な態度をとったりする子に対して「反抗する良い子だね」「せんせいに反抗するようにあなたの考える物事を合理や正しいように進める理論を話せる良い子だね」「あなたはあなた自身で物事に対してなんの常識にもとらわれずに素直に考えたり悩んだりできる良い子だね」】みたいに、そういうように教えてもらいました。
なんだろうか、イタズラすることは好きなのにイタズラされることは嫌いなどのトンデモ自己中性格だったんですが、それにしては悪魔じゃなくて小悪魔であって、ホントにひとをいじめ堕としたりとかそんな感じの悪さはしなかったり、表面だけカッコつけて虚偽言動するようなことは大嫌いだったり、気持ちや感情表現がとにかく素直すぎていたせいか、ホントにお子様みたいでした。
【楽しめない学び屋での生活っていうのがなにより大嫌いなものでした】から、そういうところ、まゝせんせいは知っていたんでしょう。



・第2風紀委員の学園生活



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深刻に【校内の風紀を乱しまくるような言動をあまりに多発したり】、【教師として義務教育や社会コミュニケーションの最低限を覚えさせる6年間の小学校の授業を考えなくてはならない】ようなトンデモ生徒だったのに、なんでまゝせんせいから風紀委員みたいな役割を与えられたんだろう?
多分、楽しい学び屋での生活を考えることに理由があるのかもしれないです。
職員室や保健室などにふらふら遊びに来ることも多くて、特にまゝせんせいにワガマヽを言ってはお喋りしたがったり甘えたがったりしていて、次の授業の準備に邪魔になるようなこともよくありました。
そんな子に、まゝせんせいは【お手伝いしてくれたら授業の準備も速く終わるから、そうすればお話する時間をつくれる】などの交渉の話をして、ちょっとした【教師の犬みたいな立場になっている】ような気がしました。
そんな中、本来の公式に役員として立っている風紀委員のほかに、【非公式で役員として立っていないんですが別に風紀委員としての機能をしている第2の風紀委員のようなものが出来上がっている】など、そういう奇妙な校内事情にもなっていました。
そもそも、上記のように小悪魔じみていた知己(自分)が、どうしてこんな学校内の風紀のことで動くようになっていったのか、本来の素性とはムジュンしているように不思議なことみたいにもおもいます。
【楽しめない学び屋での生活っていうのがなにより大嫌いなものでした】からというのが、根本の理由かもしれません。
そして、その楽しみについては、まゝせんせいは【お手伝いしてくれたら授業の準備も速く終わるから、そうすればお話する時間をつくれる】などの交渉の話をしてくれた中で、【人間でも動物にも誰しも気持ちや感情や機嫌などの心がある】ということ、コミュニケーションとして教えられたことであり、【第2風紀委員は学校内に公式としては存在せず、別に誰に指示されたとか義務や強制でもなく、あくまでも休み時間や授業サボり時間の中での子どもの気持ちからの活動である】ことに、なにより喜んでくれました。
まぁ…この時代の頃には純粋にあったろう【無垢(むく)なる笑顔】が、まさかその真面目さを持ったがゆえに【無垢ゆえの不幸】のように人間不信・対人恐怖症みたいな冷酷かつ残酷すぎる卑劣な現実でなにも信じられくなりそうなくらいに追い詰められていくことになろうとは、当時は、おもってもいませんでした。
…人に向ける愛はあって良くても人でなしに向ける愛はあって良くないようなこと、お城の崎にある華やかだったり優雅だったりの貴族やエリートコースには、実際には【愛なんてなかった】とかだったり【逆に利用されるだけ】なのを知ったがゆえに、知己(自分)は第2風紀委員みたいに校内のこと人のこと優しかった性格を忘れて魔のようなブラックな悪魔(デーモン)の正義価値観を覚えてしまったのかもしれませんし、心が堕ちた感覚もします。
ですが、この頃の実感は、小悪魔のことにしても第2風紀委員のことにしても、実感ごと記憶の中に入れておくことで、ホントに人生に疲れるくらいになっても、感覚ごとおもい出しながら帰れる自分の中だけの子ども心とシアワセの時空間みたいなものとして、忘れることもなく大切に保管されているようです。
それに、まゝせんせいの公務員(警察官・消防士・教師などなど)としての立場や気持ちや本来のマニュアルにはない真心などを身近で感じてた親子のような身として、教科書を読むとか学歴以上に大切な公(社会)でみんなで暮らしている以上は、公の務めを果たすこと、そういう本質に気づけること、悩むこと考えることの人間性の魅力みたいなものをおもってのこともあったかとおもいます。



・社会人としての弊害



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「普通な子」としてクラスに引き入れながらも「特別な子」として、それがあたかも当然であるかのようにまゝせんせいの意向として育てられた知己(自分)は、将来、いわゆる【常識(マニュアル)がなってないひと】みたいに批判される要因にもなってしまいました。
ですが、最初からまゝせんせいは後の悲劇のことに気づいていたから、子どもの頃の知己(自分)に【常に常識に従うことが正論ではなく従うものでもない】ことを教えたかったのかもしれないです。
本来の性格を押し潰すように我慢を重ねながらの言われるがまんまの生活で、やがて自分というものが何なのかもわからなくなるほど思考機能が神経が焼き切れをして精神や人格が壊れてしまい、恨みや憎しみを抱いた悪魔化してしまって地獄からの使いのようなソシオパス系の殺人犯になったり感情暴走で殺されてしまいかねないことに。
悪魔じみたワルガキな部分はあれど、あくまでも子ども心のイタズラやそういうケンカくらいなもので、本気で悪魔みたいに怨念のカタマリのように、人を壱生みたいに憎むようなストレス社会に毒されたがゆえの成れの果てにならないように、まゝせんせいは、自律神経やそういう考える悩むこと行動すること自分自身の生き方や、自分自身と繋がる生活のひとたちとの関係や環境のことに、きちんと言われるからやるんじゃなくて自分自身の意志や理由に添って大切にすることをなにより人権という人の権利として教えたかったのかもしれません。
【人間でありながら人間を憎んで人間を辞めてしまう】だとか、【人間でありながら同じように人間の血が流れていて同じように喜怒哀楽の感情を持っているものと認識できない】だとか、そんなの魔の性のようなものが社会人だとか人間だとか、そんな常識で生命体として壊れてほしくないと、子どもの未来の可能性を考えるうえで、まず母性やそういう生きるという哲学の基礎から焼きつけたかったことなのかもしれないです。



・あとがき



学校生活、なにかと校内でやらかすことやらかすこと有名になってしまったかのようにおもいますが、ヒーローになりたい、または、ダークヒーローになりたい、そんな英雄の栄光にしがみつくテング(タレント視・アイドル視など)になりたいとかおもってもいなくて、むしろ憎んでいたとおもいます。
純粋に売り込みたいわけでもなく、生活の中での退屈しないゲーム性や陥れるような争いのない平和など、子ども心に楽しみたかったというだけなのかもしれませんし、悩んだとき、子どもの頃のまゝせんせいや学園生活での充実やシアワセだった感覚をよくおもい出します。
子ども心の中での集団生活は、ホントにケンカやトラブルもあれど、コミュニケーションからなにまで触れ合いあって喜びもある楽しさでしたし、これだけはいくらインターネットにMUGEN大の規模の読書物や視聴物やゲームツールなどあろうと得られないようなものだとおもっています。
あと、偶然なのかもしれませんが、小悪魔と第2風紀委員について観ていると、なんだか記憶の中に閉じ込めていたものをいろいろ明確におもい出したりできるので、この子に関しては、まゝせんせいが持ってた母性のように絶対に埋もれさせたり失わせたりしたくない気持ちにもさせてくれます。

2015/12/25