一から学ぶ東洋医学 No.8 東洋医学の歴史 日本編③ | 春月の『ちょこっと健康術』

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こんにちは

中国編①日本編①ときて、ようやく東洋医学の歴史も最終回です。東洋医学にかかわらず、書物も知識も制度も、初めは朝鮮半島から入ってきた。で、実は韓医学の歴史にもちょっと興味あったんだけど、さすがにそこまで関わると、それこそいつ終わるかわからなくなるので、今回はやめておきます。明治時代の医療について調べるだけでも、すごい時間かかってるし…。っていうか、おもしろがってついあっちこっち見ちゃうからいけないんですけど…。気づけばもう1ヵ月近く経ってるし…。とにかく日本編を終わらせよう。

(6) 明治~大正(1868~1926)

明治になると、政府によって日本の医学は西洋医学を取り入れる方針となりました。そう、古墳時代から1400年続いた東洋医学は、明治政府に時代遅れの烙印を押されて切り捨てられちゃった。当然のことながら、その後は凋落してしまいます。

その経過を簡単にまとめると、
●1871年(明治4年) 盲人官職・杉山流鍼治講習所の廃止
●1874年(明治7年) 医制 東京府・京都府・大阪府に発布
●1895年(明治28年) 国会による漢医継続願の否決
●1911年(明治44年) 按摩術営業取締規制・鍼灸術営業取締規制の制定

医制とは医師・薬剤師の教育・免許制度のことで、西洋医学に基づく教育を受けて国家試験に合格した者だけに医療行為を認めたもの。経過措置的に、すでに医師として開業している人には試験が免除されましたけど、漢方医はもはや医師じゃないと言われたのも同然。西洋医学を学んで資格を取らない限り、新たに開業できないし、子どもや弟子に跡を継がせることもできない。医制は漢方医の自然消滅を狙った制度でした。

それまで西洋医学と言えば蘭方(オランダ医学)だったんだけれど、医制のもとではドイツ医学を取り入れることになりました。当時の最先端医療がドイツにあると認めたこと、蘭方の医学書のほとんどはドイツ語をオランダ語に翻訳したものだったことが大きな理由とされています。当時の西洋医たちは、オランダ語から英語、ドイツ語と、語学の勉強も大変だったでしょうねぇ…。

欧米列強に対抗するためには、近代化しなければならない。それにはただちに西洋流を取り込まねばならない。明治政府のそんなあせりにも似た思いが感じられます。西洋化することが近代化なんだって、短絡的に思い込んでいた。それほどのショックを欧米から与えられたってことでしょ。軍隊とか、工業とか、建築とか、鉄道とか、どんどん取り入れる。そして医学まで完全に西洋化すると決めてしまった。

こうした動きに対して、漢方医たちも温知社をつくって、和漢医学講習所を開校したり、政治家に働きかけたりと、何とか存続できるように努力したようですが、残念ながらその願いはかないませんでした。障壁となったのは、政府の方針だけじゃないようです。いわゆる「〇〇家に伝わる秘法」ってヤツ。治療実績を証明する段になって、根拠を科学的に論理立てて説明しなかっただけでなく、治療法を公開しなかったらしい。存続できるかどうかってときに、それじゃ説得力に欠けるよねぇ…。

それと、ちまたに「なんちゃって医者」が多かったことも影響してるかもしれない。医師の門人となって学ぶのが当時のまっとうな方法として考えられるけど、独学で経験を積んだという人も多かったし、明確な免許があったワケじゃないから、本人が「医者です」と言って開業できた。中には、あやしげな薬や技を扱う人もたくさんいたようで、そういう人たちを一掃するには、制度を新しくしてしまうっていうのは手っ取り早い方法だもの。

もうひとつ、政府が西洋医学を取った背景には、外科的処置は西洋医学のほうが断然有利なことも大きいかも。日本にも金創医というケガの治療を専門にする医師はいたけれど、麻酔技術や手術法など西洋医学のほうが進んでましたから。軍隊を短期間で強くするには、育てた軍人のケガを治すことも重要。軍隊とのセットで考えると、西洋医学のほうが都合よかったんじゃないかしら。ちなみに金創医(外科医)は、内科医より地位的・学問的に低く見られてました。現代西洋医学じゃ、外科医って花形ですけどね。

江戸後期、考証学派の医家たちがまとめた書物が、大量に清に運ばれて中国語に翻訳され、重宝がられるような状態だったそうです。つまり本家本元への学問書籍の還流が起きていた。だから、もし明治政府が東洋医学を認めていたら、漢方医が治療法を公開していたら、今ごろはどんなふうになってたでしょうね。もしかすると日本漢方がさらに発展して、世界標準になっていたかも?

鍼灸按摩は、それぞれ営業取締規制が定められて、各県に管理統制がゆだねられます。4年以上の臨床経験を積んで県指定の試験に合格するか、県指定の専門学校を卒業するかして、営業鑑札を受けることが義務づけられました。杉山流鍼治講習所が明治初頭まで続いたことは、盲学校で鍼や按摩の資格が取れるようになったことにつながり、営業鑑札制度下で鍼師・灸師・按摩師という職業が残ることにつながりました(現在は厚労省管轄下の国家資格になっています)。

こうして明治以降、東洋医学は民間レベルで続けられることになるワケですが、西洋医学を学びながらも東洋医学の良さを指摘する医師もいました。和田啓十郎(わだ・けいじゅうろう;1872~1916)、大久保適斎(おおくぼ・てきさい;1840~1911)、そして湯本求真(ゆもと・きゅうしん;1876~1941)。鍼灸界にも新たな流派が登場します。

 『医界之鉄椎(いかいのてっつい)』(1910)

「漢洋折衷の療治」を行った和田啓十郎が、20年の研究成果と症例報告をまとめて自費出版したもの。漢方医学と西洋医学それぞれの長所・短所を科学的に論じています。西洋医学一辺倒になっていた当時の医学界に、まさに鉄椎を投げ込むものであり、漢方復興のきっかけをつくります。

序文には、「進歩であろうが退歩であろうが、また、長か短かということも相対的に比較して是非を判断するものである。進歩を言うものは、その退歩も同時に論じ、長所を挙げるのなら、短所も挙げるべきである。」と書かれているそうですが、これって医学以外にも当てはまるんじゃないかしら。短所だけを挙げ連ねて批判するのは、ただの悪口に過ぎないもの。

この人にも、この本にも興味津々。『医界之鉄椎』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見ることができますが、古文のような文章で読みづらい。と思ったら、現代語訳も出ているようなので、今度探してみようかな。

 『鍼治新書(しんちしんしょ) 解剖篇・治療篇・手術篇』(1892~1894)

西洋医として臨床にたずさわりながら、鍼灸の研究を行った大久保適斎が書いた日本初の鍼灸治効理論書です。古来の東洋医学的な解説は一切なく、あくまで西洋医学的な見地からとらえられていて、鍼によって自律神経を刺激することで内臓や血管に治療効果を見るというもの。鍼による自律神経反射、今では当たり前になってますが、これが最初の研究だったんですね。

適斎は、『鍼治新書』の中で、「鍼治療を医学の一科に加えることにより、その医薬所領の四分の一を占めることになる。西洋医学と東洋医学とが提携し、その東洋医学の技術を欧米に向かって誇示すべきだ」と書いているとのこと。これって、現代の統合医療の考え方につながる主張ですね。

『鍼治新書』、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで『手術篇』を見ることできますが、『手術篇』と『治療篇』は復刻版が医道の日本社から販売されています。ちなみに『手術篇』の手術は手技のこと。

明治から昭和にかけて、ほかにもメモしておきたい鍼灸界の人物たちがいます。
 奥村三策(おくむら・さんさく;1864~1912): 盲学校での鍼治教育再開に活躍
 吉田弘道(よしだ・こうどう;1865~1939 ): 鍼灸法制の改正に尽力
 松元四郎平(まつもと・しろへい;1882~1926): 『鍼灸孔穴類聚』を著した名鍼灸師
 笹川智興(ささがわ・ともおき;1863~?): 笹川流灸頭鍼を広めた
 小野寺直助(おのでら・なおすけ;1883~1968): 圧診法を提唱
 藤井秀二(ふじい・ひでじ;1884~1981): 小児鍼の研究で博士号取得し小児鍼を普及

(7) 昭和(1926~1989)

昭和になると、漢方医学復興に向けての動きが活発化します。前近代的とか徳川時代の遺物とかとそしられる中、漢方医たちは臨床実績を積み、学問的に研究を行い、論文にまとめあげ、学会・協会をつくります。そうした活動のきっかけは和田啓十郎の『医界之鉄椎』で、さらに啓十郎を師とあおいだ湯本求真の『皇漢医学』が大きく後押ししたのでした。その後東亜医学協会や日本東洋医学会が設立されます。

1970年代にアメリカで始まったホリスティック医学という考え方が世界的な動きになると、現代西洋医学以外の様々な医学療法が補完代替医療として見直され、東洋医学は一躍脚光を浴びます。何しろ、数千年の歴史と実績がありますから、当然と言えば当然よね。いまや欧米にも鍼灸学校はあるし、欧米の医師たちが中医薬大学に留学する時代となりました。

 『皇漢医学(こうかんいがく)』3巻(1927~1928)

著者の湯本求真は、幼い娘や祖父母を疫痢で亡くし、自分の無力さを責め、自分の修めた西洋医学に疑問を持ったとき、『医界之鉄椎』に出合ったと言います。和田啓十郎への入門はかないませんでしたが、膨大な量の書物や手紙のやりとりを通じて交流します。漢方医学の研究を重ね、「和漢洋折衷診療院」を開業した求真は、啓十郎と一度も面会することはありませんでしたが、1915年出版の『医界之鉄椎増補改訂版』には、当時まだ無名だった求真の臨床研究の成果が報告されています。

北里大学東洋医学総合研究所の小曽戸洋先生によれば、求真の『皇漢医学』は「現代日本漢方隆興の礎となった書」であり、「中国にもっとも強烈な影響を与えた日本漢方医書」とのこと。実際、発刊まもなく中国語版も出されてベストセラーになったとか、中国の著名な学者が『皇漢医学批評』なんていう本を出したとかいう話もあるんだそうです。

一見すると漢方礼賛の本のようですが、その総論には、「余は元来、洋漢医方折衷主義者にして、洋医方の長所は益々これを助長するとともに、その短所は断然廃棄し、その長所に配する漢医方の長所を以てせる一新医術の出現せんことを希望するものなり。」とあります。これって、統合医療の考え方よね。開業してた医院の名称も「和漢洋折衷診療院」ですしね。

求真の弟子たちは、漢方医学を研究する医師・薬剤師・鍼灸師の流派を超えた大同団結をはかります。1938年、東亜医学協会設立の中心となったのは、北里東洋医学研究所初代所長となる大塚敬節 (おおつか・よしのり;199~1980)であり、敬節に賛同した矢数道明 (やかず・どうめい;1905~2002)でした。彼らは、1950年、漢方の学術団体日本東洋医学会設立にも貢献します。

 石川日出鶴丸(いしかわ・ひでつるまる;1878~1947)

第二次世界大戦の終戦直後、GHQ(連合国総司令部)は、医療改革の一環として、「科学的でない」とか「野蛮である」という理由で鍼灸禁止令を出そうとしていました。その鍼灸存続の危機に立ち上がったのが石川日出鶴丸です。当時の名だたる鍼灸師たちも、日出鶴丸の手足となって東奔西走します。

京都帝国大学名誉教授であり、三重県立医学専門学校(現三重大学医学部)の校長を務める生理学者で、医学博士である日出鶴丸による説明は、鍼灸の効能にGHQも納得する科学的な根拠を与えたようです。また、同道した鍼灸師の樋口鉞之助に、GHQの軍医や厚生省の役人に対して実技を披露させ、決して野蛮なものではないことを証明したとのこと。今、私が鍼灸師でいられるのも、石川先生のおかげなんだなぁ…。

 原志免太郎(はら・しめたろう;1882~1991)

生没年を見ればわかるように、108歳のご長寿。100歳で『新しい灸学』を出版し、104歳まで医師として患者を診ていたということで、皆様ご存知の聖路加病院名誉院長の日野原重明先生が「108歳まで生きた先輩医師に学ぶ」として新聞のコラムで取り上げるほどの人。灸の研究で博士号を取得、灸の普及に貢献し、灸の臨床データや著作を数多く残しています。

志免太郎の研究によって確かめられた灸の効果は、白血球が増加する、白血球の食作用が強化される、赤血球と血色素が増加する、赤血球沈降速度が速くなる、血小板が増加する、血液凝固能が高まる、血液中の糖・カルシウム・補体が増える、免疫体の産生能が増加するなど。つまり、ひとことで言えば免疫力アップ。ご自身も毎日施灸されて108歳のご長寿ですから、身を以てその効果を証明された形ですね。

 沢田健(さわだ・けん;1877~1938)

大正~昭和の名鍼灸師で、沢田流対極療法の創始者。対極療法は、治癒力を高めることを主眼として、根本治療をめざし、五臓六腑の調整を行うもの。高弟には、城一格(じょう・いっかく;1879~1945)や代田文誌(しろた・ぶんし;1900~1974)らがいます。

 柳谷素霊(やなぎや・それい;1906~1959)

鍼灸の西洋医学的な研究が盛んだったころ、「温故知新の精神」をもって「古典に還れ」と提唱し、古典の研究と教育、古典に基づく臨床実績を重ね、昭和の鍼灸再興の礎を築いた名鍼灸師。東洋鍼灸専門学校の創立者。後年、素霊の弟子たち、岡部素道(おかべ・そどう;1907~1984)、井上恵理(いのうえ・けいり;1903~1967)、竹山晋一郎(1900~1969)らが中心となって、経絡の変動を調整する「経絡治療」を体系づけます。


ほかにもメモしておきたい医師や鍼灸師はたくさんいますし、東洋医学が世界で注目されるようになったエピソードもあれこれあるのですが、今回はここまでとします。書くには調べなおさないといけないし、その時間もないというか、今はめんどくさい(笑)。いいかげんに本編に入らなくっちゃいけませんしね。

一天一笑、今日も笑顔でいい一日です。

 
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