一から学ぶ東洋医学 No.6 東洋医学の歴史 日本編① | 春月の『ちょこっと健康術』

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 おはようございます

東洋医学の歴史・中国編は、「一から学ぶ東洋医学」シリーズのNo.3No.4No.5の3回で何とかまとめることができました。かなりはしょってもそれだから、鍼灸学校の教科書でも記載が少ないはずだわ。歴史にこだわってたら、いつまでたっても本編に入れないものね(笑)。ってことで、日本編も情報を絞ってサクッとお届けします。

あ、ここでひとつ気づいたことが…。余談ですけど、〇〇へんの「へん」って、「編」と「篇」がありますが、どう違うんでしょうね。「篇」は常用漢字にはないから、このブログでは「編」にしていて、古典を引用するときはそのまま「篇」にしています。ざっと調べてみたところ、「編」がフォルダで「篇」がファイルに相当すると説明されておりました。なるほど…。

(1) 古墳~奈良時代(200~794)

お気づきですか? 中国編は紀元前から始まってたのに、日本編は紀元後からです。なぜか?というと、古代の日本人は文字を持っていなかったから~。人々の経験の積み重ねで成った民間療法や養生法はあったはずだし、巫医のような存在もいただろうけど、記録がないからわからない。とは言え、文明として中国が先を走っていたのも明らかだし、多くを中国から学んだのも史実。

日本の医学史録の始まりは、「あらためて、東洋医学って何?」にもちょっと書いたように、およそ1500年前の5世紀なかば、古墳時代(ヤマト王権の頃)のこと。朝鮮半島や中国と交流するようになると、法律、制度、宗教、文化…さまざまな手本となるものが入ってきます。医学も例外ではなく、人命にかかわるものだけに、積極的に取り入れたに違いありません。

遣隋使や遣唐使の派遣は、医学の発展にも大きく貢献します。ひとつには、現地で学び、医学書を携えて帰国する人々が出てくる。また、医学の知識を持って来日する人々もいて、鑑真(がんじん;688~763)はそのひとりです。

 新羅(しらぎ)の医師、金武(こんむ)の来日(446)

允恭(いんぎょう)天皇の治療のために、大和朝廷が朝鮮半島の新羅に医師の派遣を依頼し、金武が来日したとの記録があります。このとき、中国は南宋の時代。

 百済(くだら)の医師、徳来(とくらい)の来日(459)

雄略(ゆうりゃく)天皇の時代、高句麗(こうくり)から百済(くだら)に帰化した徳来(とくらい)が来日して、難波薬師(なにわのくすし)の祖となります。薬師とは医師のことで、徳来から5代めの恵日(えにち)は遣唐使に随行して3度唐に渡り、医術を磨きます。その子孫たちも代々難波薬師として活躍したと伝えられています。

 呉人、知聡(ちそう)の来日(562)

欽明(きんめい)天皇の時代、呉の国主照淵(しょうえん)の孫、知聡が朝鮮半島から来日します。彼は、『明堂図(みんどうず)』などの医薬書を含む経典164巻や仏像、楽器を持ってきたとのこと。このとき、中国は南北朝時代。

 『大宝律令』の『医疾令(いしつりょう)』(701)

『大宝律令』の中には、医療制度を定めた『医疾令』があり、中務省内薬司に天皇家の侍医や薬生、宮内省典薬寮に医博士、医師、鍼博士、鍼師、按摩博士、按摩師などが置かれ、医学教育にも力が注がれました。

医生(医学生)の教科書として『甲乙経』、『脈経』、『本草経集注』などが、鍼生の教科書として『素問』、『針経(霊枢)』、『明堂』などが指定されていたようですから、これらの医学書はすでに届いていたことになります。不思議なのは『傷寒雑病論』がこの時代に入らなかったこと。伝来は鎌倉時代なんですって。三大古典のひとつなのに、なんでそんなに遅れたんですかねぇ…。

 正倉院(しょうそういん)の薬物(758)

当時、薬はどうしていたのでしょう。医学と一緒に薬物の採集や栽培の技術も伝えられたはずで、典薬寮には薬園師や薬園生も置かれていましたから、国内での薬物生産も行われたに違いありません。でも、地質や気候の違いもあるし、日本製で間に合ったはずはありませんよね。当然、輸入品に頼ることになる。現代でも、これは同じ。

聖武(しょうむ)天皇の遺愛品として正倉院に保存されていた薬物40品があります。1200年以上保存されてたなんて、すご~い。その多くは中国からの輸入品であり、中には南海域や西域で産出されたとおぼしきものもあるようです。

(2) 平安時代(794~1185)

平安時代になると、中国から届く医学書に注釈をつけたものが編纂されるようになります。隋唐医学が入ってから200年たちますからね。いろんな人がいろいろ書いたようなんですが、ほとんど失われています。そんな中で現存するのは、国宝の『医心方』です。

 『医心方(いしんぽう)』30巻(984)

日本にもたらされた百数十種の医学書から選択引用して、丹波康頼(たんばのやすより;912~995)が編纂した医学全書。康頼は医博士・鍼博士で、後漢霊帝の子孫で日本に帰化した阿智臣(あちのおみ)から8代目。『医心方』を献上した功績によって、丹波氏はその後900年、宮廷医として不動の地位を守ります。

引用された医学書には本場中国で消失してしまったものも含まれていて、古典の復元にも利用できるという点で非常に貴重なものとなっています。医学書に限らず、古典ではよくあることですよね、原典は無くなってても引用文は残っているなんてこと。

『医心方』は医学全書なんですが、医師の存在自体も含めて、当時の医学はすべて宮廷のために存在しましたから、江戸末期1860年に多紀(たき)氏によって公刊されるまで、一般の医家の目に触れることはなかったそうです。900年も秘匿されていた『医心方』、e國寶で見ることができますよ。

宮廷医には、康頼を祖とする丹波家のほかに、和気清麻呂(わけのきよまろ)の子、広世(ひろよ)を祖とする和気家もありました。後世、丹波家の子孫である多紀家も、和気家の子孫である半井(なからい)家も、医家として活躍します。

(3) 鎌倉時代(1185~1333)

鎌倉時代、日宋貿易が始まると、印刷された医学書が次々と輸入されるようになります。また、鎌倉政権になって、本格的な武家社会になると、医学の担い手の中心は、宮廷医から僧医へと移ります。留学生として中国へ渡った僧たちは、かつて空海(弘法大師;真言宗)や最澄(伝教大師;天台宗)がそうであったように、仏教だけでなく医学の知識も持ち帰っていたんですね。

 『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1211)

臨済宗の開祖、栄西(えいさい/ようさい;1141~1215)が、鎌倉幕府に献上したもので、「茶は養生の仙薬なり…」で始まる養生書。2度にわたる宋留学で学んだ茶と桑の養生法を、二日酔いに苦しむ3代将軍源実朝に伝えました。それ以前にも、貴族や僧侶の間で喫茶(お茶を飲むこと)は行われていたようですが、この『喫茶養生記』によって一気に国内に広がります。

 『頓医抄(とんいしょう)』50巻(1302~1304)

僧医の梶原性全(かじわらしょうぜん;1266~1337)によって編纂された医学全書。『諸病源候論』や『太平聖恵方』など、宋からもたらされた医学書をもとに編纂されているものの、性全の経験や自説も加えられている点で、当時としては画期的なものでした。また、民衆医療に貢献する目的で、仮名混じりの和文で書かれていることも、それまでの医学界にはないことでした。

性全は、奈良西大寺で仏法を、京都で和気・丹波両家から医学を学んだ後、鎌倉極楽寺の僧で救済事業に尽力した良観房忍性(りょうかんぼう・にんしょう;1217~1303)に招かれ、忍性の建てた桑ヶ谷療養所で働きました。


日本における医学の黎明期、医家の家系は朝鮮半島や中国から渡来した人たちの子孫だったんですね。そして、平安時代までは、医学は王侯貴族のものだったんですね。鎌倉時代、禅宗の広がりは医療の広がりでもあり、武家だけでなく庶民にとっても意義深いものだったんですね。

一天一笑、今日も笑顔でいい一日にしましょう。

 
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