一から学ぶ東洋医学 No.7 東洋医学の歴史 日本編② | 春月の『ちょこっと健康術』

春月の『ちょこっと健康術』

おてがるに、かんたんに、てまひまかけずにできる。そんな春月流の「ちょこっと健康術」。
体験して「いい!」というものを中心にご紹介します。
「いいかも?」というものをお持ち帰りくださいませ。

おはようございます

東洋医学の歴史日本編①を書いていて、頭の中に???と浮かんでいたのは、なぜ僧医だったのかということ。仏教と医学の二足のわらじ…。どっちかひとつでも身につけるのは大変なことなのに…。書とか絵とか、芸術的なものなら、まだわかるけど…。政府としては大勢留学させるのは大変だから、ついでに医学も学ばせたのかしら…。いや、留学はめったにないチャンスだから、僧たちが貪欲にあれこれ学んだのかしら…。それとも、もともと僧が医師の役割をはたしていたのかしら…。なんていうことを勝手に考えてました。

道教は不老長寿の仙人が理想の姿だから、養生や医学が結びつきやすいのは理解できるし、中国編①に登場した医家たちの中に、道家が少なからずいたことは知ってたんだけど、仏教はどうなの? 衆生を救う道のひとつとしての医学ってことかしら? 心身一如の教えがあるから? 道家の影響? 薬師如来の存在? このあたり、いずれ調べてみたいなぁ~と思っています。ともかく、昔の日本には僧医がたくさんいたってことですね。

余談ですが、こんなふうに疑問を持つと、興味の先が思わぬ方向へ進んで行きますね。知らなかったことを知るのって楽しいし、知識の幅も広がっていいんだけど、意識が本筋からはずれていっちゃって、記事アップがどんどん遅れてく~。それに、今回は道教、仏教、そして儒教も絡んでくるから、もう大変! どこを落としどころにすればいいのやら、もう、迷う迷う迷う。そしてアップがまた遅れる~。気づけば1週間! すみません。言い訳です。

さて、本題に入りましょう。今回は、室町から江戸まで。中国は明から清の時代、金元医学の熟成期でした。日本でも独自の見方をする人たちが出てきて、医学も少しずつ日本化していきます。

(4) 室町~安土桃山時代(1336~1603)

平安時代までは、中国の医書から日本に合いそうなものを選んで編纂しているけど、引用文を並べていて、内容的には丸写しの状態だったらしい。とにかく学ぶことに必死だったんじゃないかなぁ。だって、中国で1000年かけて積み上げられたものがいっぺんに入って来て、さらに新しいものが次々入ってくるんだもの。

鎌倉~室町時代になると、知識の遅れもだいぶ埋まってきて、余裕が生まれたのでしょう。医家としての臨床経験を踏まえ、日本の風土や生活もじっくり考え合わせて、独自の視点でまとめられた医書がつくられるようになっていきます。

 田代三喜(たしろ・さんき;1465~1537)

三喜は通称で、名は導道、明に留学して李朱医学を中心に金元医学を学んで帰国し、後に後世方(ごせいほう)派と呼ばれる流派の祖となった僧医…というのが、田代三喜についての説明です。Wikipediaにも、ツムラのHPにも、埼玉県のHPにも、そのように書かれています。で、私もそのまま書こうとしてたのですが、異説をみつけちゃいました~。

それは、ツムラ・メディカル・トゥデイの漢方医人列伝、田代三喜の回で、語っているのは元東京理科大学薬学部教授の遠藤次郎先生。遠藤先生は、沢庵(たくあん)禅師の著書に、三喜と導道は別人で、明に留学して金元医学を持ち帰ったのは導道であり、三喜はその導道から医学を教わった、つまり三喜は明に留学していない…と書かれているというのです。医学史的には留学したことになっていて、国学史的にはそうじゃない…とか。その真相やいかに。

新しい発見があると、歴史って書き換えられますからね。たとえば鎌倉幕府の開府、昔は1192年って学校で習いましたけど、今は1185年になってますから。いずれにしても、三喜が僧医であり、医聖とも呼ばれるくらい医学に精通した人で、李朱医学(李杲と朱丹渓の医学)に詳しく、それを曲直瀬道三に教授したことは確かなようです。著書に『酬医頓得(しゅういとんとく)』、『和極集(わきょくしゅう)』などがあります。

 曲直瀬道三(まなせ・どうさん;1507~1594)

日本医学中興の祖、東洋医学史上最高の名医とも言われる人。京都の出身で、1516年相国寺に入って学問を身につけ、1528年足利学校に遊学。このとき田代三喜に出会って医学を学び、1545年京都に帰って啓廸院(けいてきいん)を設立、医学教育に力を注いで数多くの優秀な後進を育てます。啓廸の啓は「ひらく、教え導く」。啓蒙の啓ですね。廸は「すすむ、ただす、みち」なので、学校名としてピッタリ♪

道三は、明で出版された当時最新の医書を集め、中でもとくに朱丹渓学派(養陰派)のものを研究して、「察証弁治(さっしょうべんち)」と呼ばれる理論を確立して体系化しました。「察証弁治」は現代の「弁証論治」とほぼ同じみたいです。道三は、足利義輝、毛利元就、織田信長、豊臣秀吉など、当時のそうそうたる権力者たちを診察したとのこと。

道三医学の集大成といわれる『啓廸集(けいてきしゅう)』(1571)をはじめ、日本初の独立した小児科専門書『遐齢小児方(かれいしょうにほう)』、『鍼灸集要』、『薬性能毒』などの専門書のほか、養生のポイントを俳諧にした『養生俳諧』や、性生活の養生書『黄素妙論』まで、数々の書籍を残しています。

(5) 江戸時代(1603~1868)

1639年に幕府によって鎖国政策が確立されると、貿易は長崎に限られ、中国から輸入される医書も減っていきます。もっとも、清での医学の進歩は停滞気味でしたから、目玉となるような医書もなかったと言えばなかった。明に比べたら、清の影響は小さい。となると、鎖国が続く中で起こることと言えば、そう、「日本化」です。

古典も含めた中国の医書や日本の医家たちが著した医書が、製版印刷によって次々と刷られて、全国に行きわたる。多種多様の書物を学び、独自の理論を展開する医家たちが出てくる。やがて、長崎から蘭学が伝わるようになると、西洋医学の蘭方に対して、東洋医学を漢方と呼ぶようになって、日本の漢方医学として大成期に入っていきます。

 古方(こほう)派と後世方(ごせいほう)派

明代の中国では、主流だった宋金元医学に対して、王履(おう・り)の『医経溯洄集(いけいそかいしゅう)』を始めとして、方有執(ほう・ゆうしつ)の『傷寒論条弁(しょうかんろんじょうべん)』や喩嘉言(ゆ・かげん)の『傷寒尚論篇(しょうかんしょうろんへん)』など、古典に戻ろうとする動きもありました。それに触発されて、『傷寒論』に医学の理想を求める医師たちが、江戸中期に登場します。古典の処方で、古方ってことですね。

古方派に対して、当時まだ主流だった田代三喜と曲直瀬道三に始まる宋金元医学を基盤とする流派を、後世方派と呼ぶようになります。『傷寒論』の漢代に比べれば、宋金元は後世、新しい時代ですからね。

新しい学問がどんなに画期的で素晴らしいものでも、いかにもてはやされているとしても、どうしたって疑問を持つ人は現れるものです。こと医学となれば、「こんなはずはない!」というケースだって多々あるはず。人の身体はそれぞれ違いますし、環境も生活も違えば、同じ病気だからといっても、同じ治療で同じように回復するワケじゃないもの。当時の日本で最先端だった曲直瀬流医学でも、どうにも当てはまらないケースがあったからこそ、古方派が登場したんじゃないかしら。

な~んて思っていたら、ちょっと違ったみたい。後世方派が陰陽五行論にこだわりを持って、論理ばかりをこねくりまわす風潮で、臨床家というより学者っぽくなりすぎたらしく、現実的な治療という面がおろそかになっているために、古方派が出現したと言われています。理屈じゃ病気は治らない、病気を治すには処方が大切…理よりも実ってことですかね。

古方派には、名古屋玄医(なごや・げんい;1628~1696)、後藤艮山(ごとう・こんざん;1659~1733)、香川修庵(かがわ・しゅうあん;1683~1755)、山脇東洋(やまわき・とうよう;1706~1762)、吉益東洞(よします・とうどう;1702~1773)などがいます。この人たち、古方派としてひとくくりにされてますけど、それぞれけっこう個性的。いずれ折を見て、ひとりずつ取り上げてみたいものです。陰陽五行論を全否定する人もいたらしいから。

対する後世方派は、道三の息子である曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく;1549~1631)、香月牛山(かつき・ぎゅうざん;1656~1740)などです。江戸中期以降、古方派の勢いが止まらなかったらしく、後世方派はなんとなく尻つぼみになったような感じでしょうか。

 折衷(せっちゅう)派

後世方派なんて頭でっかちなんだから…と言ったかどうかは知らないけど、そんな感じだっただろう古方派も、後世方派に対して理論武装が必要になります。なぜ古方なのか説明できなきゃ、患者だって納得できないものね。後世方派の陰陽五行論に対抗しうる自論を展開するようになる。すると、ちょっと行き過ぎじゃない?と思う人が出てくる。論議も二極化すると、逆に歩み寄ろうとする動きが出るでしょ?

そんな中で、蘭方もジワジワ広がりを見せますから、後世方派と古方派のいいとこどりをよしとする折衷派が登場します。中には、後世方と古方だけでなく、いいものなら蘭方だって取り入れようという人たちも。いいですね、いいとこどり。頑固一徹守っていくのも悪くないですが、臨機応変に、よりよいものをめざして、他者の意見にも耳を傾ける姿勢って好きだなぁ。

折衷派には、東洞の息子である吉益南涯(よします・なんがい;1750~1813)、和田東郭(わだ・とうかく;1744~1803)、華岡青洲(はなおか・せいしゅう;1760~1835)、本間棗軒(ほんま・そうけん;1804~1872)、浅田宗伯(あさだ・そうはく;1815~1894)などがいます。

 考証学派

現代は、時代考証とか、文化考証とか、ドラマや映画を撮るときだって、必ず裏を取るでしょ? それと同じように、客観的な事実に基づいて、過去の真相を究明しようとする学問が考証学。中国の清代に興った学問ですが、医学分野においては日本の江戸後期に花開きます。

幕府の医官や藩医のように、世襲で身分の約束された知識階級にいる人たちは、臨床の傍らで学問にいそしむ余裕が、時間的にも金銭的にもあったんですね。幕府や藩という権力をバックにして、文献や資料を集めるのもたやすい位置にいましたし。そんな人たちが漢方医学の基礎学問を考証しました。

考証学派には、目黒道琢(めぐろ・どうたく;1739~1798)、奥医師の多紀元簡(たき・もとやす;1755~1810)、元簡の息子の多紀元堅(たき・もとかた;1795~1857)、森立之(もり・たつゆき;1807~1885)などがいます。

 『大和本草(やまとほんぞう)』21巻(1709)

『養生訓』でおなじみの貝原益軒(かいばら・えきけん;1630~1714)が編纂した本草書(薬物全書)。1607年に渡来した『本草綱目』の分類法に益軒独自の分類も加え、1362種について由来や形状、利用法などを記載。薬用の植物、動物、鉱物だけでなく、農産物や加工食品についても書かれていて、本草書なんだけれども博物学書の様相も呈している。

『大和本草』は、決して『本草綱目』の翻訳版じゃない。『本草綱目』をお手本にはしているけれども、益軒の長年にわたる調査観察の集大成なんですね。『大和本草』は、国立国会図書館のデジタルコレクションや中村学園の貝原益軒アーカイブで見ることができますよ。

 意斎(いさい)流の打鍼(だしん)術
 
律令制が崩壊すると、『医疾令』下の鍼博士や鍼師は民間へと流れます。室町時代には、鍼治療を専門とする鍼医として活躍するようになると、その中から、中国にはなかった鍼術が編み出されます。安土桃山から江戸にかけて広まった意斎流の打鍼術は、そのひとつ。打鍼術は、↓写真のような小さな木槌を使って、鍼をトントンと腹部に打って治療する方法です。

 (Wikipediaより)

その打鍼術を創始したのは、御薗流あるいは夢分流と呼ばれる流派の祖、御薗夢分斎(みその・むぶんさい)で、世に広めたのは夢分斎の弟子の御薗意斎(みその・いさい;1557~1616)であると言われてきました。夢分斎からの口伝をまとめた『鍼道秘訣集』に、打鍼術の技法が書かれているせいでしょう。私も学校でそう習いました。

ところが、最新の鍼灸学校の教科書には、「打鍼法は、診察と施術部位は腹部に限局するが、全身の疾患を治療するものである。これを広めたのが意斎と号する者である。」とだけ書かれているんです。さらに注釈には、「禅僧の夢分が創案したといわれているが、真偽は明らかでない。また、打鍼を広めたのは意斎と号する者であったが、同時代に御薗・松岡・山田の3姓のイサイが確認されており、従来のように御薗意斎が打鍼法を生み出し、その流派を意斎流とすることには問題があることが最近の研究で明らかになった。」とあります。

誰がつくって誰が広めたかは置いといて、『鍼道秘訣集』は確かに御薗流(夢分流)のものだし、打鍼を使うのも確かです。昔は刺したようですが、現代に復活した打鍼法は、先のまるい鍼を使って軽く刺激するだけです。一度だけ専攻科の同級生に施術してもらったことがあるんですが、なかなか興味深いものでした。ご興味ある方は、北辰会(ほくしんかい)にお問い合わせくださいね。

 杉山和一(すぎやま・わいち;1610~1694)

和一は、現代の鍼師のほとんどが使う管鍼法(かんしんほう)を編み出しました。管鍼法は、鍼管と呼ばれる鍼より少しだけ短い管を使って、管から出っ張った鍼の頭を指でたたくことで、鍼が刺さる瞬間の痛み(切皮痛)を感じにくくする手法です。どんなものかは、「日本の鍼は中国の鍼と違うの?」をご参考にどうぞ。

また、和一は検校として幕府の庇護を受け、1860年ころ、時の将軍綱吉の肝いりで、世界初の視覚障碍者の教育施設とされる『杉山流鍼治療導引稽古所』を開設しました。これ以降、鍼と按摩が視覚障碍者の職業として定着していきます。鍼とあんまマッサージの勉強が、現代の盲学校でもできるのは、ここから来ているんですね。


近世、とくに江戸時代は、東洋医学にとって実に華々しい時代。残された記録もたくさんありますから、おもしろい話も多くて興味がつきません。いずれまた時間をとって、あれこれ調べてみたいなぁ…。全日本鍼灸学会ふくしま大会が始まりました。今日から郡山です。

一天一笑、今日も笑顔でいい一日にしましょう。

 
東洋医学講座の目次→満月
ツボの目次→やや欠け月
リフレクソロジーの目次→半月
妊娠・産後・授乳・子どものケアの目次→三日月
アロマセラピーの目次→新月
『養生訓』の目次→星空
体操とストレッチの目次→夜の街
からだのしくみ・食・栄養の目次→打ち上げ花火
からだの不調と対処法の目次→お月見
養生法・漢方薬・薬草・ハーブの目次→桜
ブログの目的・利用法・楽しみ方の目次→観覧車
東日本大震災 関連記事の目次→富士山