こんばんは
中国は国の歴史が長いだけあって、東洋医学の歴史も長い!メモっておきたい古典だけを厳選してピックアップしても、「一から学ぶ東洋医学」シリーズのNo.3とNo.4で終わらなかった…トホホ。今回は宋から清まで1000年分行っちゃいます。これで中国編は終了♪
宋代に印刷技術がぐーんと発達したので、現存する医学書の数も一気に増えます。印刷によって発行部数が多くなると、保存される数も多くなるのは当然のことよね。ということは、リストされる医学書も多くなりそうですが、きりがないので、厳選の上に厳選を重ねます。
(5) 北宋~南宋時代(960~1279)
宋代は、歴代皇帝が医学に強い関心を持ったそうで、国家プロジェクトとして医療政策が推進されます。医学教育を行う太医署(後に太医局)、医薬行政を担当する翰林(かんりん)医官院、囚人に医療を施す病囚院、貧困患者を受け入れる安済坊、老人や孤児、病人などを収容する福田院など次々設置。そして、医学書の編纂と出版を専門にする校正医書局も設立されます。
医学史において、校正医書局の存在は大きい。医学書の収集・整理・校訂・編纂・刊行が仕事ですから、新しいものだけでなく、重要な古典の校訂本も印刷されるようになった。そうして医学書が広く普及すると、医家たちの水準もアップして、医学がさらに進歩しますからね。宋代の代表作には『太平聖恵方』や『銅人腧穴鍼灸図経』があります。
『太平聖恵方(たいへいせいけいほう)』100巻(992)
翰林医官院の王懐隠(おう・かいいん)らの医学者が、勅命によって編纂したもの。宋代以前の古典はもちろんのこと、民間処方も広く調べて書き上げたもので、当時の医薬学の集大成と言えるもの。何しろ100巻ですからね。
この時代の医学書は、宋朝から贈られたものも含め、日本にも数々入ってきていて、現存するものも多くあるようです。ネット検索すると、この『太平聖恵方』も、嵐山web博物誌や文化財ナビ愛知などがヒットしますよ。
『銅人腧穴鍼灸図経(どうじんしゅけつしんきゅうずきょう)』3巻(1026)
医官院の王惟一(おう・いいつ)が、勅命によって撰した経脈経穴の標準テキスト。国家試験のために、経脈経穴を統一、14経354穴としました。翌年には、これに基づいて立体的な銅人(銅製の等身大の経穴人形)が2体つくられます。1体は医官院に残され、もう1体は誰もが触れられるように大相国寺仁済殿におさめられました。
銅人も国家試験用で、全身には規定された経穴が穿たれています。つまり、354個の穴が開けられている。試験の際にはろうが塗られ、目隠しした受験者が正確に指定されたツボに鍼を通すと、中の水銀や水が流れ出すようなしくみなんだとか。うわ、むずかしそう~。ちょっとでもずれたら、鍼が刺さらないどころか、折れるよね、きっと。
日本にも、江戸時代に『銅人腧穴鍼灸図経』を研究した幕府の侍医、山崎宗運が江戸医学館で鋳造した銅人があって、その写真が東京国立博物館のブログに載っています。
(6) 金~元時代(1115~1368)
宋代と重なる時期もありますが、金・元の時代には、医学理論の再構築が行われるようになって、革新的な理論を展開する医家たちが登場します。中でも、とくに医学の発展に影響を与えた医家たち、攻める治療(瀉法)をとった劉完素と張従正、補養する治療(補法)をすすめた李杲と朱丹渓の4人を金元四大家と言います。また、鍼灸学で重要な『十四経発揮』が出ます。
劉完素(りゅう・かんそ;1110~1200;劉河間(かかん)ともいう) 寒涼派
病の多くは火熱によって引き起こされたり悪化したりする、風・湿・燥・寒などの邪も火と化す、火熱が身体を消耗させる…という火熱論を展開しました。火熱に対して寒涼薬で攻める治療を行ったため、後世、寒涼派と呼ばれるようになります。防風通聖散は完素がつくった処方。
張従正(ちょう・じゅうせい;1156~1228;張子和(しか)ともいう) 攻下派
病は人の身体にもとからあるのではなく、風・暑・湿・火・燥・寒の邪気が外から入ったり体内にできたりすることで生じるため、治療には邪を攻めて病を追い出すのがよい…という攻邪論を展開。発汗させる、吐かせる、排便させるという治療法をとったため、後世、攻下派と呼ばれます。
李杲(り・こう;1180~1251;李東垣(とうえん)ともいう) 補土派
脾胃が傷つくことで百病が生じる、生命活動の源泉であり健康の根本である元気の盛衰を左右するのは脾胃である…という脾胃論を展開。脾胃の気を補う治療法をとったので、後世、補土派(脾胃は五行の土に属すため)あるいは温補派と呼ばれます。補中益気湯は李杲がつくった処方です。
朱丹渓(しゅ・たんけい;1281~1358;朱震亨(しんこう)ともいう) 養陰派(滋陰派)
人体には、心の君火、肝の相火、命門の相火があるのに対し、水は腎だけなので、相対的に常に陽が有余で陰が不足する…という相火論を展開。陰を滋養することで火を鎮める治療を主としたため、後世、養陰派あるいは滋陰派と呼ばれます。
『十四経発揮(じゅうしけいはっき)』3巻(1341)
滑寿(かつ・じゅ;1304~1386;伯仁(はくじん)ともいう)が、当時一般に流布していた経脈経穴図に不足や間違いがあることを憂えて、古典を調べ直してつくったもの。経脈が体表のどこを通って体内をどう流れているかを示す流注に加え、経脈の性質や働き、所属する経穴について解説しています。
(7) 明~清時代(1501~1912)
明から清にかけては、宋~金・元の医学が引き継がれ、拡充されて、大成の時期を迎えます。この時代に発刊された医学書はたくさんあるでしょうが、ぜひとも記録しておきたいのは『本草綱目』と『医宗金鑑』、そして温病(うんびょう;おんびょうと読むこともあり)に関するもの。
『本草綱目(ほんぞうこうもく)』52巻(1578)
明代の医家、李時珍(り・じちん;1518~1593)が27年の歳月をかけてつくった薬物学全書。1892種にのぼる薬物、1109枚の絵図、11096種の処方が掲載され、本草書の代名詞となっています。完成は1578年ですが、出版されるのは1596年。その価値が世間に認められるまでに20年近くかかったんですねぇ…。
『本草綱目』の初版本は金陵本と呼ばれ、完全な形で現存する7点のうち4点が日本に保存されているとか。そのうち国立国会図書館にあるものはデジタルコレクションになっていて、ネット上で見ることができますよ。
『医宗金鑑(いそうきんかん)』90巻(1742)
清朝の勅命によって、呉謙(ご・けん)らの医官が編纂した医学全書。歴代の医家たちの説をまとめた上で、図を加えたり覚えやすいように歌にしたりという工夫がほどこされて、臨床における実用書として使いやすいように編集されているんだとか…。
呉有性(ご・ゆうせい;生没年不詳)と温病四大家
明代末期の1642年、呉有性が『温疫論(うんえきろん;おんえきろん)』を著すと、『傷寒論』の不足を補うものとして脚光を浴びます。「風でなく、寒でなく、暑でなく、湿でもない。すなわち天地の間にある一種の異気によって起こったもの」を「温疫」としました。
清代になると、葉天士(よう・てんし;1667~1746;葉桂ともいう)、薛雪(せつ・せつ;1661~1750)、呉瑭(ご・とう;1758~1836;鞠通(きくつう)ともいう)、王士雄(おう・しゆう;1808~1868)の温病四大家が出て、温病学理論が大成されます。
温疫と温病は違うのか? 温病は発熱性の伝染病で温疫と同じとする温病=温疫説と、発熱性の疾患が温病であり、その中で伝染性を持つものを温疫とする温病>温疫説があるようです。で、傷寒と温病の違いは、さむけの有無で分けられています。つまり、さむけがなく、いきなりポーンと発熱するのが温病ってこと。
(8) 清~その後
清朝末期~中華民国の時代になると、政策として西洋医学が盛んに取り入れられるようになり、東洋医学(中国伝統医学)が軽んじられるようになっていきます。明治の日本と同じ状況ですね。中華人民共和国が成立すると、共産党政府によって中国伝統医学の復興がはかられ、理論体系が再編・統合されました。
一天一笑、今日も笑顔でいい一日です。
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