第七どんとこい 「高天原の犯罪」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「高天原の犯罪」(天城一、日本評論社『天城一の密室犯罪学教程』所収)


こんにちは てらこやです。



──取り上げる本はミステリーですが大丈夫。ネタを割ってはいないはずです──



読み手がページをめくる。あるいはひとつの行から次の行へと移る。あるいは文字から文字へと視点を移動させる。その運動の推進力のひとつとして、謎の提示をあげることができるでしょう。


謎とは、読み手のもつ既存の認識体系では把握できない事態、状況としましょう。またここで認識とは、すでに起こってしまっている事態、状況、推移しつつある事態、状況、これから起こりうるであろう事態、状況について、それがなぜ起こっているのか(起こりつつあるのか)を、それが起こっても別にかまわないのだと自分自身を納得させるための思考基盤とでもしておきましょうか。


謎とは、なぜそれが起こっているのか納得のいかない事態、状況のことです。


自然における事態、状況を納得するための代表的な認識体系が科学的合理性であり、人間の引き起こす事態、状況を納得するための認識体系が、例えば、共通のものとされる道徳性であったり、倫理性であったりします。他にも自然や人間の引き起こす事態、状況をひっくるめて、宗教的な認識体系において納得しようとしたりします。まだまだ無数に認識体系はありますし、国や文化によっても認識体系は異なります。きっと、ひとつの認識体系によってのみで事態、状況に対抗するひとは少なく、多くのひとは様々な認識体系を重複して運用することで、地がありやなしやの漠とした世界でなんとか立ち上がろうとしているのでしょう。


謎が提示されるとき、わたしたちは不安と同時にある種の期待も抱きます。不安の方は勿論、わたしたちの認識体系の脆さが露呈するからであり、人間の脆弱性が露わになるために起こります。しかし、一方で、謎とは、わたしたちに新たなる認識体系の可能性を告げる予兆でもあります。不安を乗り越えて、謎を謎としてその存在を認めることで、翻ってわたしたちは自分自身の認識体系のアップデートの必要性を感じ、どのように考えればその事態、状況を納得させることができるか考えることが可能になるわけです。


小説一般において、謎は明示されることもありますし、暗示されることもあります。またその謎が解明されることもあれば、ただ提示されるだけに留まることもあります。多くの優れた作品において、容易には納得しかねる状況、事態が起こっており(起こりつつあり)、少なくともわたしたちの認識体系を揺さぶります。そして時に──恐ろしく時間がかかり、優れた読者や評論家が協力しながら──新たなる認識、とまではいかなくてもこれまでの認識体系の幅の多少の拡大が行われることがあります。


それはあまりに広大な世界に対して、月に矢を射るような虚しい所業かもしれません。しかし、勇気ある読み手は謎を抹殺し、世界の納得可能な側面のみに生きることを拒絶し、世界全体を生きようとします。このあたりに、読み手の誇りと快楽が伴うのでしょう。


多くのミステリーにおいて、謎は明示されます。そしてほとんどのミステリーにおいて、登場人物たちはその解明に挑み、明示された謎は解明されます。


ミステリーの謎においてはトリックが用いられます。多くのトリックはわたしたちの既存の認識体系の隙をついているに過ぎず、それを解くときも既存の認識体系をうまく応用すれば解けるものがほとんどです。


それはそれで読み物として楽しいのですが、本当に感心するミステリーとは、さきにいった優れた小説と同様、わたしたちの認識体系を揺さぶるものです。さらに、ミステリーというジャンルの肝であるさきのトリックと、認識体系の揺らぎとが有機的に連動しているとなれば、わたしたち読み手は涎を垂らして喜ぶしかありません。


天城一の「高天原の犯罪」とはつまるところ、こうした有機的な連動を恐ろしいほどの短い枚数で、手際よくやってのけた奇跡的なミステリーです。この作品において、わたしたちの認識体系は揺さぶられます。それと同時に、いかにわたしたちの認識体系が揺さぶられているのかが暴かれます。


天城一の作品は、ほんの少し前まで、見つけるのに苦労しました。てらこやも、この作品を「透明人間大パーティ」というアンソロジーで読みました。しかし、今はその諸作品がまとめられ、一般の書店でもまだ販売されています。ぜひ手にとってみてください。


ネタ……割ってないよね?


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