ナメル読書

時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。


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吉行淳之介「食卓の光景」(新潮文庫『娼婦の部屋 不意の出来事』所収)

二十年程前、渋澤龍彦にのめり込んでいた私はその関連から吉行淳之介のいくつかの作品を読んだのだが、それらが私の興味をかすりもしなかったのは、吉行淳之介の主題と言われる性愛というものがまったくに陳腐であるからでもあるし、その文体が陳腐だからでもあるし、その生が私のそれとはまったく異なるもののその異なりがだからといってとりたてて隔絶したまた別の何かとして存在を主張するわけでもない、つまりつまらないからでもあるのだけれども、今、特に考えがあるわけでもなく読んだ短編集から例えば次のような文を読むと、その救いがたさに翻って当時の自分の感慨が現時点では変わらないことが知らされる。

「男のものの考え方と、女の考え方と、根もとから組立て方が違っている部分がある。結局、最後まで、男と女とでは理解し合えない空白な部分が残ってしまう。そのため、男はその空白の部分を躯と躯の触れ合いで埋めようとする。そして、そのことによって、その空白が埋まった、と錯覚することがある。その錯覚が一生つづいている男は、しあわせといってもよいだろう。しかし、そのことによって、じつはその空白の部分は一層拡がっているのかもしれないのだ」(「青い花」)

とても陳腐だけれども、この一文が現代日本文学の主題の一角を未だに、端的に表していることを振り返ると戦慄を覚える。

その必要を感じることはないのだが、吉行淳之介の作品に可能性を見いだすとしたら、それは性愛から離れたところにあるだろう。特に次のところは、性愛から離れたところを描いた直後に、離れているとはいえ近接しているが故に自らも世界もその主題であるという性愛と思わず結びつけてしまうのであるが、それを意識的にか無意識にか、非常に素人くさいやり方で打ち消すところに、滑稽さがある。

「口を開くと、赤い粘膜がある。その中に、獣の肉などを押込み、顎の骨をがくがくと動かして、やがて咽喉の方へ食物を移動させる。咽喉の肉がぴくりと上下して、唾液と混ってぐちゃぐちゃになったものが胃の中に落込む。待ち構まえた胃は、黄白い液をそそぎこみながら、その全体をもくもく動かしはじめる。そして、やがてそのドロリとしたものが、胃から腸に送りこまれるわけだが、何メートルもの長さの腸管の末端の方には、すでに滋養成分を吸い上げられた食物の滓、つまり糞便がぎっしりつまっている」(「食卓の光景」より、以下同じ)

「食事をするときの剥き出しのなまなましい感じは、どこか性行為に似ているところがある。童貞が、美女と向い合って食事をすることに、困惑をさらには恐怖に似た感じを覚えるのは、当然のことといえよう」

「当然のことといえよう、と私はおもうのだが、しかしすべての童貞が女を伴ってレストランに入ることに恐怖を感じるかどうかは、きわめて疑わしい。他人の心は計り難いのである」

特に最後の一文は、陳腐ではあるが無視もできない文学を駆動させるあまりに自明な前提であるものを、あたかも結論であるかのように登場人物に語らせており、それによってその登場人物の陳腐さを際だたせるのならばともかく、どうやらそうではないらしいところに、次に吉行淳之介の諸作品を読むのは二十年後だなと私に決意させたのである。



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野坂昭如「俺はNOSAKA だ」(新潮社、『俺はNOSAKAだ』所収)

A.

 「俺はNOSAKA だ」というタイトルは、「俺はNOSAKA だ」でなければならない。「俺がNOSAKA だ」ではいけない。

 この作品は限りなく野坂昭如に近似した「俺」を主人公としている。「俺」は自身の作品の映画化を許可する契約を結ぶため、またそれによって多額の外貨を得るためにアメリカ領事館で手続きを行う。しかし、本来なら些細な手続きであったはずのものが、相手方とのコミュニケートの手抜きによって、「NOSAKA 」(パスポート表記)と「NOZAKA 」(契約締結者名)とが食い違ってしまったために、「俺」は自身が「NOZAKA 」であることを証明しなければならない羽目になる。

 上の一事のみを見るならば、タイトルは「俺はNOZAKA だ」とすべきであろう。しかし、それはまったくに誤っている。なぜなら、自身が「NOZAKA」でもあることを証明しなければならない事態に陥ることで、「俺」は自身が「NOSAKA」であることにすら、いや野坂昭如であることにすら 根拠が見いだせなくなるのである。いやいや、それもまた転倒としている。そもそも自身が野坂昭如であることの偶有性を直視せざるを得ないが故に、「NOZAKA 」であることの証明もまた、それが弁護士による保証や形式的な宣誓手続きといった簡便な方法によって可能であるとしても、それをすることはできないのである。何故なら、「野坂昭如」という偶有性に対峙することが、「俺」の唯一の倫理であるからだ。

 なぜ自身の偶有性がこれほど強烈に換気されるのか。ひとつは空襲によって、養父母をはじめ家族が皆死んでいったにも関わらず自分(と伝記的には幼い妹)のみが生き残ったからである。そしてもうひとつ、こちらの方が特異であろうが、ほとんど名無しと言ってよい状態で少年院から、実父の元へ引き取られ、それによって生き残った体験である。

 「当時、一週間に一人の割で同室の少年が死に、その少年が実は田島谷昭如で、俺はその身の上話をきかされ、野坂の名を知り、まんまと欺したとしても、まずはばれなかっただろう」

 同じ経験をすれば、上のようなことは仮想として浮かぶかもしれない。しかし、それが「NOZAKA 」の証明を実質自らの意思において拒否するような、そのような強烈な枷ととして機能するのは非常に特異なことである。これではまるで、存在していないにも関わらず存在していることを要請され、その事態を認識する己がいるのだからなんらかの形で存在しているのだろうと主観的には認めざるを得ないにも関わらず、己の傾向性は非存在を向いているようではないか。

 助詞であるところの「は」と「が」について、私は次のように理解している。

 ・「は」は話題の提示であり、主部と述部との距離
  が相対的に遠い。私の感覚で言えば、次のような
  ニュアンスである。
  →俺について言うと、まあ、NOSAKA だ。

 ・「が」は主部と述部とを最短で結ぶ。
  →俺がNOSAKA だ、文句あっか。
 
 上のふたつを懐疑の文にしてみるとおもしろい。

 ・俺はNOSAKA なのか?

 ・俺がNOSAKA なのか?

 「は」では、野坂であることへの懐疑と不信であるのに対し、「が」では、「俺」は「NOSAKA 」なるものを前より知っていて、それがなんと己であったことへの不思議が表現される。

 本作品のタイトルとして、いずれが適切であるかは明瞭であろう。

同著者「プレイボーイの子守唄」(同書所収)

B.

 「プレイボーイの子守唄」はエッセイである。自身の娘を絶対的に甘やかさざるを得ない心性を、戦中になくなったふたりの幼い妹に求めている。

 ひとりは紀久子といい、少年昭如が可愛がっていたのだが、急性腸炎であっけなく亡くなってしまう。もうひとりは恵子といい空襲で生き残った、養父母の家における、唯一の縁者である。といっても、焼け出されたときには1歳にも満たない。

 中学生の年頃である昭如はなんとか生き長らえなせようとするが、案の定失敗する。あの時代に子どもが子どもをそだてることなぞ不可能事なのだ。そもそも不可能であることは事後的な認識というよりも、すでに当時においてこそ一致した認識であった。だから論理的には例え少年昭如が妹の食料をピンはねしたことも、いつまでも泣き止まぬ恵子の頭を殴って静かにさせた(乳幼児の頭に打撃を加えると、脳震盪を起こす)ことも恵子の生死には関わりのないことである。

 「ぼくは、恵子を愛していたと自信をもっていえるが、食欲の前には、すべて愛も、やさしさも色を失ったのだ」

 これをある種の極限状況と見るならば、もはや昭如の他者危害という反道徳は、己の生を尊重するという道徳によって克服され得るだろう。少なくとも、他人である私たちが単純に昭如を道徳的に非難することは難しい。

 しかし、野坂昭如のみはいくらそれをカヴァする道徳的根拠があろうと、自身の手が具体的行為としてなした反道徳を忘れることができない。この場合、野坂昭如の体験は反道徳にあるのであり、道徳は背景であり理屈だからである。

 この後に、理屈に逃れることなく反道徳の記憶を失わない者こそ道徳的なのだ、とでもいえば、キレイなまとめだろうか。しかし、そんな道徳概念のこねくりまわしに野坂昭如が付き合うとは思えない。おそらく野坂昭如は、なぜ昭如が昭如であって、恵子が恵子でなければならなかったのか、という偶有性の暴力にただ曝され続けたのだ。そして、その継続する経験が、「骨餓身峠死人葛」他の小説を招いたのである。

 偶有性の暴力に曝されて、人は死を求めはしない。なぜなら、死によってもそうした偶有性の形象は消えはしないからである。そのような者であったものにとって、死は偶有性の完成でしかない。それは偶有性への屈服またはからの逃避でしかないのだ。偶有性の暴力を避けるには非存在である他ない。無論、非存在は偶有性の克服ではないし、そもそも不可能事である。しかし他にどのような志向があるのだろうか。偶有性との対峙を余儀なくされた以上、他に道はないように思われる。だから、野坂昭如は時に非存在として振る舞ってしまう自身に、戸惑うのである。

 

  
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Fr・デュレンマット「約束」(平尾浩三訳、同学社)

 ミステリとは、直感的にはエラーと思われる設定された謎に対し、論理的な手続きを踏み、解を導出することによって物語を収束させると同時に、読み手に対してカタルシスを与えるものであると、一応言うことができる。勿論ミステリも運動としての小説の一部であるので、上の定義らしきものを逸脱する志向を有する作品は多く、例えば、古くは「狂人の論理」が持ち出されたが、これは言うまでもなく、常人には理解しがたい合目的性であり、論理の偏重の変種でしかないし、あるいは、謎が絶対に解決され得ないことを示す場合にも、ミステリにおいては論理的な語り口においてなされざるを得ず、ミステリにおいて論理の至上を揺るがすことはやはり困難であるし、よしんばそれが数歩でも成し遂げられた時には、それはミステリと呼ばれず、単なる小説と呼ばれるものと思われる。

 一方、ミステリとは非常に容易に乗り越えられている、あるいは犯されているともいえる。なぜなら謎の提示と解決は小説の筋立ての骨格を提供し、読み手に対してはそれ故の安心感と一定のカタルシスとを保障するからである。社会的に重要であると思われる問題が、ミステリの意匠を借りて書かれることがあるのは、さきの保証書をつけてその問題を作品化した方が、より多くの読み手を得ることができるという、必ずしも否定することは許されない書き手の功利的計算が働いている。

 次のように述べることは許されるだろうか。ミステリが論理性を自己目的とする時、その他のファクターは論理のための従属的地位であるより他ない。一方、ミステリという形式が意匠として利用される時、それを利用する側、すなわちーーこの言葉は嫌いなので使いたくないのだがーーテーマは重要なものであるか、少なくとも書き手は重要であると信じているものであらざるを得ない。それは深刻な色味がつけられることが多く、滑稽であったものを私は知らない。

 デュレンマットの「約束」はお世辞にも優れた小説であるとは言えない。小説家に元州警察本部長が語るという形式であるが、いくら終盤に本部長にミステリ批判をさせる意図があったにせよ、ほとんどの章のはじめを「H氏の話はつづくーー」などと始めているのはスマートではないし、そのために小説全体が説明臭く、かつ書き割りのようになってしまっている。数日で書きつづったメモを、無理矢理小説に落とし込んだ印象を与える。端的に言えば、表現方法において十分に練られたものであるとはいい難い。

 しかし、ほとんどメモの集積であるが故に、デュレンマットの意図が明確であることも事実である。すなわち、デュレンマットはミステリという形式において、論理に従属するわけでもなく、またあまりに深刻ぶったものでもない、単なる愚かさを書いているのである。

 後者との連関についてはもう少し書いておいて方がよいかもしれない。デュレンマットの描く愚かさは、まったくもって深刻なものではない。それは直感的には感じる必要のない形而上的な愚かさを告げるものでもないし、これまで社会的・時代的パラダイムにおいては認識されなかった愚かさを明らかにするものでもないし、道徳的あるいは法的に重大な愚かさを示すものでもない。それはーー次のように表現するのであればーーあまりに明白にすぎる愚かさであり、その明白さの故に、いずれにせよ「頭のよさ」への強迫観念を抱いている、論理を自己目的とするミステリとミステリを形式として利用する小説とを攻撃するのである。



※以下、事件の真相に触れる。



 主人公格の警部マテーイは、栄転直前に起こった少女凌辱殺害事件に接し、疑似的な回心のようなことが起こり(ちなみにこの回心に説得力がないこともこの小説の弱点である)、栄転も警部の職も捨て、売春婦と、その娘が殺害された少女と似ているがために、彼女を撒き餌にすれば、殺人者をとらえることができるに違いないと考え、猟場としてガソリンスタンドを経営するという愚を犯す。

 さきの元本部長は(事件はこの本部長が現役の時のものである)部下をコントロールすることができぬ愚か者であり、マテーイに代わって事件を担当した警官は単なる功名心の固まりである。そして、マテーイの推論が真実味を帯びた時、マテーイと警官たちは少女の監視を始めるのだが、それが効を奏しないと分かると、逆上し、集団で当の少女を殴りつける始末である。ちなみに、この失敗の後もこの愚かな策に期待を寄せるマテーイは、文字通り始末におけない。

 殺人者は、落ちぶれた名家の老婆が結婚した、知的な障害があると思われる若い男であった。男は特定の少女を見ると、「天の声」を聞いたとして、最終的に殺害してしまうのである。障害者と性、あるいは犯罪については、現在タブー扱いを止め、ようやくのこと課題として認知され始めたところであるが、時代的に、デュレンマットにその種の深刻さがあったかどうかは分からない。そして、その殺人者の妻である老婆は、男の少女殺しに気づいていたものの、それを社会的に明らかにすることによって、仲の悪い姉より嘲笑されることに耐えられず、真実を明らかにすることができず、さらには、男に「天の声」を聞かせるような少女を恨むほどである。

 これほど私たち読み手にとって明白な愚かさばかりが続くのは無論デュレンマットの意図であろう。それに対して私たちは義憤を募らせるばかりのつまらない読み手であるわけにはいかない。その連続の意図を、あまりに身近に過ぎて気づくことができないというそれこそミステリの一定石を敷衍して書いてみせた意図を考えなければならない。
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筒井康隆「聖痕」(新潮文庫)

 筒井康隆を好むはーーその愛読者が皆思うようにーー人後に落ちないつもりで、少年期に翌日学校があるにも関わらず辞めることがあたわず夜を徹して読み切った本二冊の内のひとつは筒井康隆「旅のラゴス」であったし(もう一冊は坂口安吾「不連続殺人事件」)、未だミステリをほとんど知る前に「ロートレック荘殺人事件」を読んでその極北に触れてしまったし、「虚人たち」、「残像に口紅を」及びその当時のエッセイ群によって小説の虚構性の前景化=メタフィクションに触れることにより小説世界がただあるものではなく、書かれるものであることもまた書かれるに値することであるということを思い知らされた。また「夢の検閲官」といった短編が新春の新聞に掲載された時代はどれだけ幸福なものであったのかと、体験をしていない過去を偲ぶこともある。

 しかし、筒井康隆はあまりに聡明に過ぎるが故に哀しい。最後までプロットを構築しなくては書くことはないと、あるエッセイで書いていたが、それはおそらく本当のことであるだろう。また、そのプロットとは確固たる方法論によって貫かれているはずなのだが、その方法論を完全にコントロール下においている、あるいは、それに対してあまりに忠実であるが故に、それは「小説」としてはあまりに秩序だった美しさを有するがため、小説としての無秩序への志向性を有した運動を欠いており、結果、哀しいのである。

 ここでくれぐれも言っておかなければならないのは、方法論をもって書くから運動を欠くわけではないということである。方法論を持たぬ小説家など、論外である。しかし、小説家は方法論を徹底するが故に内部から自壊がはじまり、その自壊が完結しないように辻褄を合わせ続け、その内部から外部への自壊とそれを押し留める努力との、同一人内での真逆な志向性による滑稽さが小説という運動を始めるのだ。

 筒井康隆とも親交の厚い大江健三郎が次のことを述べている。

 「それで、私はどうしたかというと、できるだけ意識的に自分の文学をつくっていこうと考えたのです。小説はやはり、まず、言葉を書く。夢中になってある分量書いてしまうと、そこに無意識に出てきたようなものが混じり込んでしまう。それをできるだけ自分として意識的につくり上げていくというふうにしたいと思って、それで書き直すということを始めました」(大江健三郎他「日本語と日本人の心(岩波現代文庫))

 この言葉に偽りはないだろう。特に大江健三郎が無意識を頼りに書いたことはないものと思われる。大江健三郎は方法論に対して徹底して自覚的な小説家であり、「小説の方法」や「新しい文学のために」といった自らの文学論を明かした著作もある。しかし、特にさきにあげた著作の中でとりあげられるロシア・フォルマリズムや文化的両犠牲といった概念は、大江健三郎に方法論を与えたというよりも、大江健三郎の方法論に対して近似の名前を与えたのだといった方がよいであろう。そして、ここで確認しておかなければならないのは、大江健三郎の小説が大江健三郎の評論を大きく裏切るように、その小説も大江健三郎の方法論を裏切っているのである。最も方法論に対して自覚的であった時代に書かれた「同時代ゲーム」でさえ、第一章において、すでにして最大の自壊が始まっているのであって、その危うさを内包していることこそが運動という小説なのである(だから、「M/Tと森のフシギの物語」よりも「同時代ゲーム」の方が小説である)。

 筒井康隆「聖痕」は、幼少期に変質者によってペニスを切断された美しき者、葉月貴夫の齢の重なりを追った物語である。それは谷崎潤一郎「細雪」には似ず、北杜夫「楡家の人々」に似た豊潤と構築美を有しており、「貴夫は笑いながら言う。それがぼくの贖罪羊だったんだよ」という終わりを読み、愉悦と名残惜しさの入り交じったため息をつかぬ読者はないだろう。

 しかし、この小説はあまりに哀しい。なぜなら、この小説は次の問いを、すなわち幼少期にペニスを切除されリビドーの源泉を失った者の半生というのはどういうものになるのだろうか(はたして書き手は小説として書くことができるのだろうか)という問いばかりを誘発するのであり、筒井康隆自身も作中でそれが課題であると宣言に等しいことを書いているからである。

 「しかし貴夫には興味が持てなかった。いずれも主人公たちが肉欲、あるいはそこから昇華された衝動に振りまわされているように思えてならず、そもそもそれを書いた作者自身が作中人物たちと同じ官能の奴隷であり文学性の高さというのがより多くのリビドーによる営為から生まれたものではないかと思えたのだ。つまりは華麗な文学的表現も、実は作者の剥出しの性欲を覆い隠すための鎧に見えたのだった」

 この課題に対し、葉月貴夫があたかも聖人のように生涯を送ると「される」ことで律儀に回答がなされる。すなわち、「色欲から解き放たれたリビドーの呪縛もなくエディプス・コンプレックスとも無縁だったため自分が如何に自由で平和な半生を送ることができたことか」という葉月貴夫の感想がすべてである。

 意味がないこととは思いつつ、この課題の設定と回答に対して感想を述べるのであれば、聖なる者としての葉月貴夫は、「聖なる者」とは思うことができない。それは、幼少期のペニス切断という出来事が葉月貴夫に対して、まったくPTSDといった後遺症を負わせていないことから生じるものではない。仮にそのように葉月貴夫が描かれたとしたら、この小説は90年代に流行した、これぞ真実のPTSDであるとがなり立てる小説群の、あまりに空しい後追いとなってしまうだろう。よって、幼少期のペニス切断にも関わらず、淡々と自分なりの生活をこなしていく葉月貴夫には確かにあまりに陥りやすい傾向性を避けたが故にある、小説における希少性を帯びており、それは確かに聖なる者と結びついてもおかしくはない。しかし、私にはどうしても、先天的に美しく、だが性愛については知る能力を欠いており、知力体力に優れ、金銭に執着することの無く、食への探求に専心するだけの葉月貴夫を、リビドーの欠落による聖人であるとは思えないのである。端的に言えば、先天的な美しさはともかく(これはペニス切除と関係がない)、この程度の属性は、ペニスがあったとしても、リビドーが溢れでていたとしても、現れうるのではないかと思うのである。

 しかし、上の感想は空しい。なぜなら、私は筒井康隆の設定した課題と回答とがあまりに秩序だって美しいが故に、小説としての運動を欠いており、哀しいと思うからである。さきに引用した本文をご覧いただければすぐに気づかれるように、課題および回答そのものが、初期から筒井康隆の方法論を支えているフロイトによる諸概念に覆われている。勿論フロイトが悪いわけではない。ましてやフロイトが古いわけでもない(古典を古いといって切り捨てる人間は古典が古典である所以、すなわち永続的に汲み取り続けられる井戸であることを知らぬ阿呆である)。フロイトが自らの方法論によって臨床にあたる際、方法論と臨床との相克がフロイト自身を破ることになったダイナミックスを、本作には感じられないのである。先に筒井康隆はメタフィクションの書き手であると書いたが、本作においてはひとつの階層(課題ー回答)においてのみしか読み手を導くことができず、従って読み手もその課題ー回答が成功したか否かしか論ずることができない。しかし、「聖なる者」とはそのようなつまらぬものではないはずだ。ある階層に身をおきつつも、図らずもメタレベルに侵入してしまうもの、その結果ある階層にメタレベルのものをもたらすことでその安定性を揺るがす者が「聖なる者」であると私は考える。

 私が筒井康隆の作品に「聖なる者」を、そして小説を見るのは、「幻想の未来」である。
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 昨年の、まったく覚えのない文を読んでみると、昨年9月以降読書感想文を書くのを辞め、あるいは書くことができなくなり、かろうじて読むことを継続するのをーーそうする必要などないにもかかわらず表明しているのだがーー表明しているものの、それはあたかも自らの意思において保守化=再読を行うことを宣言しているように振る舞いつつも、容易に察せられるように、あの頃の私には未知の文を読むという労苦を背負い込む力が残っていなかったのである。ならば本を読むことなぞ辞めてしまえばいいのかもしれないのだが、病の中で仕事に復帰し、吐き気を催しながら通勤する毎日を重ねる中で、精神的に貧しい私はせいぜい慣れ親しんだ書き手の本を読むことにしか逃避先を求めることができなかったのであろう。私はあの頃に関わらず、ひとに対して逃避することができないのである。その傾向は、配偶者ができてからも、子をもうけてからも変わることがなかったし、今後も彼らを逃避先とすることはなかろうと思われる。私はきっと、生涯の終わりにおいても、人間的関わりの内のある種を為す方法を知らないままに、それに憧れを抱きつつ、瞼が閉じられる予期がある。 
 時々、俯瞰する自分なしに、他者に抱きすくめられる自分を想像する。

漫画部門:

 今年も私の神経をほぐしてくれたのは、仲間りょう「磯部磯兵衛物語」(集英社)だった。吉田戦車やうすた京介がセンスで勝負するギャグ漫画家であるのに対し、仲間りょうは異質であると思われる。そこには非日常に対する日常を扱った漫画の血液が確かに流れているのにもかかわらず、ただ日常であることや、あるいは日常における水平のズレを描くことでギャグを紡ぐことをよしとしようとはせず、垂直に逃れようとする。しかし、それを書き手の個性の発露にではなく、むしろその発露を恥じらいとし、できる限り抑えようとして、それでもかつ、垂直にズレてしまうことに垂直のおかしみと安心との本来あり得ない共存が可能になっているである。

 前回松井優征「暗殺教室」(集英社)の感想として、「その建設的完成度が保障された」と書いたのであるが、本年完結した今作はその期待に見事に答えてくれた。E組は22名であり、はじめは勿論主要人物しか記憶に残らないのであるが、作品中盤には全員のアイデンティティが確立され、皆に対して愛着を抱くことができる。特異な設定はともかくとして、書き手の目標は、ただひとつのクラスを描ききることにあったと思われ、それは成功したのである。落ちこぼれクラスでの落ちこぼれは勿論、赤羽や中村など、抜群の秀才が序盤でクラスに馴染んでいるように見えながら、実は最後の最後まで本当にはーー天才の自覚なき天才である渚と異なり、マイノリティである自覚的な秀才であるからこそーー馴染んでいなかったのであろうと予感させ、それが渚と赤羽との直接対決によって明らかとなり、また、その対決によって自己の内のわだかまりが解消されることが、私には非常に高度なテクニックであると思われた。

 福本伸行協力「中間管理録 トネガワ」(講談社)は、スピンオフとして秀逸な作品である。「カイジ」シリーズの非日常、というか異常世界に対して、人間が人間である限り当然まとわりつく日常を「カイジ」の文法において描くことで異常世界における人間離れした「人物」を単なる人間に落としている。今年最も笑わせてもらったマンガであるが、そろそろ無理がきているのも確かであって、例えば第4巻の兵藤会長の影武者には、ギャグとしての非日常が独自に現れてしまい、それを「カイジ」の文法で描くとやかましくなってしまう。

 大人の事情でのりつけ雅春「しあわせアフロ田中」(小学館)により「アフロ田中」シリーズが復活した。嬉しい限りである。

 さてマンガ部門の大賞は以下である。

 山本崇一郎「からかい上手の高木さん」(小学館)

 これまでに述べてきたマンガにおける日常というのは、決して現実世界の日常を写したものではなく、私たちが考える日常、あるいは私たちの望みを汲んだ日常であり、あくまで私たちが日常と見なす日常に過ぎない。と、するのであれば、マンガにおいては限りなく真正としての日常を描こうとする日常マンガと(これは通常日常マンガとは呼ばれない)、さきの意味での日常系マンガ、そして非日常マンガがあることになる。無論、これは上の3つがあるというよりは、3つの極が並ぶ内に、各作品の配置がグラデーションを描いているというべきであろう。
 さて、「高木さん」は日常系マンガの典型といってよいだろう。まだ幼さを残した中学生男子(西片)が、幼さを過分に残しつつも彼よりは自我に目覚めている中学生女子(高木さん)にからかわれるという話である。高木さんは西片に恋心を抱いているし、そうした自分を遠くから眺めるほどに成熟しているので(ただし感情までが制御できるわけではない)からかいによってそのエネルギーを消費させるのであるが、西片は幼いのでそうした高木さんの自覚に気づくことはなく、かろうじて恋心が伝染されるだけである。その(現実にはあり得ぬ)ギャップが、いつの昔か知らぬ間に愛されていたという不確実ながら望ましい記憶を刺激してくれる。ただし、高木さんがこれほど聡明で自我の発達が順調であるならば、西片との恋心を介したからかいをするのはせいぜい1年程なのだろうな、と、確信できることに一抹の哀しみがある。

評論部門:

 今年のはじめはカント「判断力批判」(篠田英雄訳、岩波文庫)を再読した。私はこの読書感想文において、すぐれた作品の条件として、書き手はそれを記している間はそれが何であるのか知ることができないが、記している間も、記し終えた後も、それが必然であることを確信しているもの、といったことを繰り返し、ほぼそれだけを書いてきたのであるが、それは結局のところカントのいう「主観的合目的性」ということになる、というよりはおそらく以前に読んだときからこの概念が頭に巣くっていたのである。他に実は読んでいなかった「プロレゴメナ」(篠田英雄訳、岩波文庫)、「視霊者の夢」(金森誠也訳、講談社学術文庫)も読んだ。

 カントに関する書籍としては下記を読んだ。

 ①石川文康「カント入門」(ちくま新書)
 ②中島義道「カントの読み方」(ちくま新書)
 ③中島義道「悪への自由」(勁草書房)
 ④中山元「自由の哲学者カント」(光文社)

 再読した①はやはり入門書としては最良のものの内のひとつであるが、この本をさきに読んで、カントの書を読もうとすると、①の解説を確認する読み方になってしまうので、それだけは止めた方がよい。
 中島義道はカントを、カントが書いたままに忠実に理解しようとする。つまりラディカルに読むということであり、その本も分かりやすいとはいえないが、丁寧に論を追っていけば必ず得るもは大きい。特に③において、カントの道徳論が、世間一般でいう「道徳」と異なり、いかに熾烈なものであるかが知らしめられる。実は中島義道の本としては「カントの時間論」(講談社文庫)にも手を出したのだが、さすがに歯が立たなかった。
 ④はあまりに網羅的に過ぎて、解説書としての歯ごたえも感じられなかった。中山元は光文社新訳文庫で多くのカントの書を訳しているので、その注釈や解説を読んだ方が有益であろう。

 柄谷行人「憲法の無意識」(岩波新書)に参照として出てきたことから手に取った豊下楢彦④「昭和天皇・マッカーサー会談」(岩波現代文庫)、⑤「安保条約の成立」(岩波新書)を読み、終戦から10年ほどの戦後期について興味を抱くようになった。
 吉田茂については高坂正尭「宰相吉田茂」(中公クラシック)での再評価、つまりワンマン宰相かつ対米従属の主導者との感情的反感から、「戦争に負けて、外交に勝つ」ことによって米国をいなし、経済復興の礎を築いたという見方が現在においても影響を残しているが、④、⑤はそれを否定するものである。すなわち、米軍の沖縄駐留の承諾というカードを早々と手放した以上、吉田茂は外交でも負けたというものである。さらに④で衝撃的なのは、吉田茂、マッカーサー(および後任のリッジウェイ)の他に「政治的」プレーヤーは他にいて、それは昭和天皇に他ならぬというのである。非常にスリリングな本なので一読をお勧めする。

 政治哲学においては平等をいかに定義し、何をもって格差をとらえ、誰がどのような権限で、いかなる方法をもってして、それを達成するのか、あるいは平等を目的とすることはそもそも正しいことなのかが議論されるのであるが、死を平等に取り扱うということは問題として設定しうるのであろうか。結果主義とするなら、死は単に死であり、どのような死に方をしようと死者は等しく扱われるべきである。手続き主義ならぬ過程を重んじるならば、死への道程によって死者の取り扱いは異なるだろう。しかし、そもそもこのように平等を考える必要などあるのだろうか。この問題は生者の平等を考えるときよりも強く迫ってくるように思われる。
 そうしたことを考える上で、加藤典洋⑥「敗戦後論」(ちくま学芸文庫)、⑦「戦後的思考」(講談社学術文庫)、⑧「戦後入門」(ちくま新書)は有益である。
 ⑧はよく整理され読みやすいのであるが、これを十全に摂取するためにはやはり⑥、⑦を読まねばならないだろう。特に⑥所収の「戦後後論」で説かれる「可誤性」の可能性(確立されたイデオロギーに立って正誤を判断するよりは、誤っているかもしれない場所から判断する方が倫理的=文学というもの)は、もはやイデオロギーが後退し、個々人が独善に立って正誤を判断し、声を拡散し、サークルを形成する現代において、批判的に検討されるべきものとして重要である。また⑧において、マルコス政権後のフィリピンの対米政策が紹介されているが、これは恥ずかしながらまったく知らないことだった。すべてのことには功罪があり、この成功体験がドゥテェルテ大統領という功罪を生んでいるのだろう。
 新書は宇野重規「保守主義とは何か」(中公新書)をあげておきたい。トランプ大統領の選出に代表される反リベラル(ただし、保守主義=反リベラルではない)の潮流を理解するために、保守主義の基礎を学んでおいて損はないだろう。

 上記の通り、評論部門はふたつの大きな流れを追ったので、特に大賞は選ばない。

日本の小説:

 今年は再読ばかりであった。
 よってあげる本すらない。

海外の小説:

 S・ミルハウザー「エドウィン・マルハウス」(岸本佐和子訳、河出文庫)はナメル読書で取り上げた。その時には書かなかったが、小説を批判するために「小説」を書くのであるなら、あれほど長々書く必要もないのではないかと思わないでもない。
 今年はS・エリクソン「きみを夢見て」(越川芳明訳、ちくま文庫)、「Xのアーチ」(柴田元幸訳、集英社文庫)が訳出(文庫化)された。「黒人」や「女性」へのS・エリクソンの固執が何に基づくのかは知れないが、書き手の目配せは明らかであるにも関わらず、それらがいったいどのような問題を背負い込んでおり、その問題が(あるとしたら)どのように物語と有機的に結びついているのかはついに分からなかった。思わせぶりなだけに、肩すかしをくらった気分がした。
 V・ソローキン「青い脂」(望月哲男・松下隆志訳、河出文庫)は、スターリンが登場してからはとても楽しむことができた。様々な意匠を凝らしていると思われるのだが、およそ理解することができなかった。
 現代において探偵ほど物語にしやすい存在はないだろうが、ミステリのようにはじめからの開き直りがない限り、その形式においてP・オースターの影響を免れることは至難の業に違いない。それを、あまりにパルプであることに徹することによって、P・オースターの呪縛から徹底的に逃げきったのがC・ブコウスキー「パルプ」(柴田元幸訳、ちくま文庫)である。P・オースターの「探偵」がアイデンティティを失っている、あるいは剥奪されていくのだとしたら、C・ブコウスキーの「探偵」は属性が複数あり、ひとつが死んでも、すぐに別の属性が救い出される。使い捨てによる、不死である。

 M・ウェルベックを読むことによって、私ははじめて自信を喪失した西洋人、疲れ果てた西洋人、西洋人であることを哀しむ西洋人に出会ったような気分に陥った。評論などにおいて、西洋人であることを懐疑する西洋人があることは知っている。しかし、彼らがそう書くとき、彼自身は知識人として、西洋人からは浮遊したところにあり、言葉を書き付けるものの、その言葉の刃を引き受けてはいない。しかし、M・ウェルベックの作品において、ウェルベックは作品内の人物になりきり(時に同じ名前をつけることもある)、西洋人が、西洋人または非西洋人に責められるのではなく、他ならぬ西洋人である自分自身に責められ続ける様を引き受けている。そして、下にあげるいずれの作品(例外をあげるとすれば「服従」だろうか)においても、その責めを逃れることをーー作中で主人公はその道を模索するのであるがーー見いだすことはできない。

 ⑨「服従」(大塚桃訳、河出書房新社)
 ⑩「ある島の可能性」(中村桂子訳、河出文庫)
 ⑪「地図と領土」(野崎歓訳、ちくま文庫)
 ⑫「プラットフォーム」(中村桂子訳、河出文庫)

 ⑨より⑫へと読んでいくと読みやすいが、最もすぐれているのは⑫である。

 今年のブックオブザイヤーは⑫である。

 ※2016/12/31 03:30 
  誤字脱字、表現のおかしさはありますが、眠いので、年が明けたら直します。

 それではよいお年を。
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