ナメル読書

時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。


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『七つの大罪/等活地獄』(中上健次「奇蹟」河出文庫所収)

 作品はじめ、呪われた仲本の血を継ぐタイチが、路地の誕生と死とを見守るオリュウノオバと連如の元を訪れる。やくざ者にも関わらず「おとろし」と取り乱すタイチに事情を聞くと、自分の女が、産んだ奇形の子を殺したというのである。

 私はこの「おとろし」を、子の異形に対する感情か、その子を殺した自分の女に対する感情であるかと思ったのだが、後の頁を見ると、それが裏切られることとなった。おそらく、他の多くの読者もこの裏切りを経験するのではないだろうか。そして、このおよそ尋常ではない「おとろし」があるからこそ、本作は、己の血というなぞりやすい題材を、必然としてまっさらの上に書き付けることができたのではないのだろうか。

 本作を含む連作「奇蹟」は、タイチを中心とした仲本の血を継ぐ若い衆たちを回想するという形式をとっている。しかし、その作品内で明確に描かれるように、回想といってもある時点から一方的に過去を振り返るわけではない。振り返っていた者が、タイチたちに現前したり、あるいは自らとタイチたちとの境界が不明瞭になったりすることで、つまり超越的な立場がなくなることで、路地の者たち同士の関係によって生じる時間以外の時間はなくなってしまう。あるいはこれを、歴史の喪失と呼んでもいいのかもしれない。私はこの歴史の喪失をさらに輪廻と呼び変えてもよいかどうかは知れないが、少なくともこの輪廻は外から眺められるものではなく、体験され続けられているものであるだろう。

 ここにおいて血は、単に己に流れているという事実のみを指すわけではない。それ以上に、各世代の各々相互の時間的な関係が無効になった世界において、路地とともに、血が関係を作り出している。正確には、血を軸とした各々の関係が、世代間といったような歴史のように見えるだけなのだ。もっと言えば、路地と血が、歴史の喪失を作り出しているとも言えるだろう。

 だから、通常己の血を題材とした諸作品において登場人物が拘泥するような、血による因果律がタイチを恐れさせることはない。血は単に関係を示すだけであって、ここにタイチが父で、殺されたのが子、といった因果の流れといったものはない。己の血が、子の奇形を、あるいは、母の子殺しを引き起こしたという認識は、身振り素振り口振りではあるかもしれないが、この作品の限界上、タイチには持ち得ないものである。

 「俺ら、本当はあんなにおとろし姿かいね?」

 タイチはこう述べる。

 それは疑問の形をしているが明白なことであり、異形の子が産まれる前からすでに了解されたことなのである。
 


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「溶けてゆく名前」(砂田麻美)
「素晴らしい食卓」(村田沙耶香)

 雑誌"MONKEY vol.13"は、「食の一ダース 考える糧」と題して、食に関する小説を集めている。

 上にあげたふたつは、特に印象に残った作品であるのだが、両者の中に出てくる道具としての料理が、あるひとつの対照、すなわち「完成させないための道具ー完成のための道具」という対照を描いており、このふたつの項による作品、つまり「完成を避ける作品ー完成された作品」は、私の中での相反するふたつの好みを示している。

 「溶けてゆく名前」は、ある特定の名字の持ち主にのみ発現する遺伝子疾患があるという設定の作品。当の名字をもつ主人公は、自分の名字を変えることを決意するのだが、改名の日、これまで調整役をしてきた役所の人間より、バニラアイスをふるまわれる。改名から二週間ほど経過し、無気力な状態に陥った主人公は、ふるまわれたバニラアイスを思い出す、という話だ。

 名字の変更といえば、現在でも多くは女性に降り懸かることなので、あたかもジェンダー上の問題意識において読んでしまいがちであるが、私にはそれ以上の問題意識があると思える。それは「強い制度」から「強くて弱い制度」への認識の移動といえる。

 例えばM・フーコーは、衛生管理制度などを叙述することによって、殺害可能性によって担保される権力より、生を付与することによって担保される権力(生権力)へと権力観を転換させた。具体的には、「健康」という言葉・概念を生み出し、それを軸とする制度によって維持される近代国家という権力である。

 この作品においても、生存のために名字の変更を国是として進めているのだから、生権力は働いているといえよう。しかしこの作品が入り組んでいるのは、改名させる権力が、近代国家において欠くことのできないとされる氏名の同一性を、婚姻や養子を原因とすることなく、断ち切っているということである。つまり、戸籍制度を潰しているのである。いやいや名字くらい変わったって、台帳にその履歴は残る訳なのだから、それで戸籍制度が潰れることはないし、ましてや近代国家を脅かすことなどないではないかと思うひともあるだろう。私だってそう思う。

 しかし、ステートとしての国家はともかく、ネーションとしての国家がどうやらそれを忌避しているのは、夫婦別姓の議論(これは変わるべきなのに変えない者を問題とする議論)や氏名の変更の困難から伺うことができる。あるいはこの困難は、単に法、特に契約の安定性のために要請されているのかもしれないが、だとするならどうやらステートとしての国家による忌避となってしまうのである。さらにマイナンバーがかくも浸透せず、さらに単に番号によって社会的同一性を保つことなどとても不可能な状態にあるのをみると、私たちにとっても文字を配した固有名へのこだわりは強いらしい。

 名字によって発現する遺伝子疾患という、やや都合のよすぎる設定により、しかし、自然因子によって、生権力が行使されると同時に、その制度が潰されるという状況を作り出した本作品は独特であると思う。名字の変更によって主人公らのアイデンティティがどうなるかなど、どうでもよい問題である。

 「素晴らしい食卓」は、異文化共存を冷笑的に描いた作品。主人公である「私」と夫はハッピーフューチャーフードという、宇宙食のような近未来的バランスフードを普段食している。ある日、婚約者の両親を招いて食事会を開きたいので私に同席してほしいと、実の妹より連絡がくる。私は不安になる。なぜなら、妹は、自分が実は異世界の住人であるというフィクションに依存しており、魔界都市の料理というでたらめを作るからだ。しかし妹を説得できないままに食事会に出ると、婚約者はお菓子とフライドポテトによる食事しかできず、その両親は地域特産の昆虫の甘露煮を持参しているのだった。皆が皆、互いの料理の不気味さに呆れつつ、しかし、開き直っているところへ、食に関する研修を受けて考えの変わった夫がやってきて、という話だ。

 「素晴らしい食卓」を見ると、「ハッピーフューチャーフード」・「魔界都市の料理」・「お菓子とフライドポテト」・「昆虫の甘露煮」という道具としての料理が、律儀に異文化を示すという機能を果たしている。好悪含めて、無駄なく、分かりやすい。

 一方、「溶けてゆく名前」の「バニラアイス」はどうだろう。あるいはこの道具としての料理も無駄なく、分かりやすいものであるかもしれない。例えば、タイトルの「溶けてゆく」にかけて、名字を変更することによって、アイデンティティが変容していく主人公を示しているのかもしれない。しかしそうだとするなら、主人公のアイデンティティの変容は単なる無気力でしかなく、実生活においては大変だろうが、小説作品としてはさして独特なものではない。またそうなると、どうやらこの作品の主題は名字の変更によるアイデンティティの変容となってしまい、そうであるなら、端的に失敗である。

 ひいきの引き倒しかもしれないし、その可能性も高いのだが、この作品が「強くて弱い制度」を描いているのだとしたら、この状況と「バニラアイス」との間には単なる偶然以外の何者もなく、ただ「バニラアイス」はまたひとたび制度が弱められる瞬間を刻む役割を果たしているに過ぎない。またはだからこそ「バニラアイス」という特定の料理に、特別で過剰な、しかし故のない意味が付与されている。



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「家守」(志賀直哉、岩波文庫『志賀直哉随筆集』所収)
 
 小説において「私」は、意図をもって行為する、あるいは意図を持たずにふと行為する、はたまた近く書かれるにもかかわらず未だ為されていないが既にして確定している行為より事後的にあるものとなされた意図なるものがしかし一番のはじまりとして行為を生み出す、というそれぞれに異なった見解があるのだろうが、それは決していずれの見解が正しいものであると決定することができず、よしんば私小説というものを単に事実をありのままに書くことへの意思を前提としたものだとし、また小説内においていずれかの見解であるのだとしても、私たちはその書かれたのだというある見解が正しいものであるとすることはできない。小説内の「私」であろうと、現実の「私」であろうと、行為の原因を求める理由そのものが、私たちが言葉を用いて反省を継続するよう宿命づけられているからであり、また、その言葉をないものとして、行為の原因を求めることは、不可能でもあるし、無意味でもあるからである。しかし、小説内の事実として行為がなされたことは確かであり、その行為がそれ以後においてどのように評価されるかを考える時には、さきの見解を前提としなければならない。

 ここではある行為が後に否定される場合を考えよう。最も単純なのは、行為の結果が行為の意図を裏切った、あるいはふとした行為が自らを窮地に追い込んだ、とする場合である。この時、行為の否定には理由があるし、それにより小説の見通しが保証される。しかしそうでない場合、その行為を否定する私は、自らの意図--それが行為の前提であれ行為からの遡及によるものであれ--や、行為前後の功利的状況によってその否定を導出するのではなく、もっと理に合わないもの、結びつけることができないもの、一般化できないものによってその導出がなされてしまっているのである。

 例えば志賀直哉「家守」は、上に述べたような通常ではない行為の否定により、読み手としての私たちは途端に通常なる圏域より放出されるか、あるいはあまりに私的なもの--しかし、それは決して小説内の「私」や書き手である「私」ではなく、それら「私」が傾向するほかなかったある奈落の先--に懐かれることになる。くれぐれも注意しておかなくてはならないのは、それが「私的な意図」を書いた作品ではないのはもちろん、真の小説であるなら書かれることは必然であったにもかかわらず、その行為の否定が私的に了解されるわけでも、殊更に意図されたものではなく、その行為の否定が事実を書いたという事実あるいは約束事の内に織り込まれてしまっているということである。だから、それは決して「家守」の主題--「主題」なるものがあるなら、という話であるが--ではないのだが、しかし、にもかかわらず「家守」が小説であることを支える唯一の根拠なのだ。書き手は書き手としての宿命として、常ならぬ行為の否定を書いてしまい、読み手はそれによって魅惑される。

 朝、「私」は天井より落下した家守を見つける。「自分は炭取から火箸代りにしていた杉箸を持って来て家守をつまみ出そうとした」。「自分は殺さないとまた晩に入って来るだろうと思った」。だから「私」は箸を家守りの脳天に突き刺したのだが、死にきらない。しかしもはや死んだも同然だったので、「死骸は箸からぬいて庭の隅へ捨てた」。
 朝食をとって後、窓外に雀が死にかけの蝉をなぶっているのを見て、さきほど捨てた家守の様子をみに庭に出ると、はたして家守は、「片眼は飛び出したまま、脳天は穴の開いたまま」生きていた。「そして自分は気味悪さと同時にある怒りを感じた」。
 なので「私」は竹箒で濠に落とそうと掃いたのだが、勢い余って家守は遠くに飛ばされ、ついに見つけられなくなる。「私」には「家守が生きている事は凶事のように思われた」。しかし幸い半月ほ出張する用があったので、他人に留守宅を頼む。

 以上がこの作品の要約である。ひとによっては行為の否定などないと思われるかもしれないし、それは素直であるが故に正しいかもしれない。また、ひとによっては家守を殺したという行為が、当の家守が生きていたことによって否定されていると思われるかもしれないが、それは上記に言う常ならぬ行為の否定ではない。それは殺しきれなかったことへの悔やみによる行為の否定(「自分はもしこの家守がこのまま自然に元通りのからだに癒ってしまうだろうと考えられたら生返った事を喜べたかもしれない」)であり、殺すという意図が貫徹されなかったことによる行為の否定であり、殺しきれなかった事実を知ったことによる主観的功利の低減による行為の否定であるかもしれない。しかし、そうした読み取りのみではこの作品の魅力を説明できないと私は思う。

 脳天に穴が開き、片眼の飛び出した家守が生きているはずがない。しかし、にもかかわらずそれは生きていた。注意を促すべきは、自然の生命力の豊潤を謳っているわけではないということだ。それは、単に起こり得ないことが起こってしまったから、その事実が殺害という行為を否定し、「私」は気味悪さと怒りとを感じたのである。先の引用にある「生返った」という言葉は、主観的には死んでいるものとばかり思っていたので主観的には「生返った」と感ぜられた、というのみではなく、同時にその台詞は、事実「生返った」ことを表しているのだ。そして、その生返りが気味悪さと怒りとを喚起するわけではなく、生返りがいとも容易く、事実として書けてしまい、その書かれてしまったという事実に気味悪さと怒りとを感じているのである。

 少なくとも志賀直哉のある私小説は、事実を事実として書いたことにより、小説として優れているわけではなく、事実を事実として書くというその約束事において、事実とはなり得ないものも、書いてしまいさえすれば事実であるのだという形式による反転した暴力に「私」が対峙されるという事態に私的である所以があるのだ。

 常ならぬ行為の否定は家守の生返りのためである。しかし、なぜ家守は生返らなければならなかったのか。それは「私」の傾向として、私的な領分の内に閉じられたままである。




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「さして重要でない一日」(伊井直行、講談社文芸文庫)

会社員の位置づけというのはとかく時代による差異をこうむりがちであると見られていて、世代を論じるための肴としやすい。それに対し、広い意味での官僚組織は近代のメルクマールのひとつといってよく、それを描くことは小説(近代小説)を成立させる近代を描くことであり、かつ、その近代を批判することであるとして、会社員小説の普遍性を述べることも可能であろう。しかし、それはそれこそ伊井直行自身が取り組んでいることなのだから、ここでは世代論を弄んでおきたい。ただし、世代論といっても、統計的に厳密なものではなく、私の実感によるのだから、それこそ酒の肴程度である。

例えば、30代半ばくらいの私は「就職氷河期世代」ともいえようし、もっとこっぱずかしい命名によれば「ロスト・ジェネレーション」であるのだろう。端的に言えばバブル崩壊のあおりを最も被った世代であるといえ、私の実感を述べれば、この世代はふたつの極に分かれている。すなわち、困難な就職活動に成功した組(勝ち組)と失敗した組(負け組)である。前者はこの成功によっていびつな誇りを抱きがちであり、自分を現実主義者であると思いこんで、あと十年しても「社畜」的働きもやむなしなどと発言してしまうだろう。後者は被害者意識と無力感に苛まれがちであり、その逃避行動として、90年代に流行した精神病理が選択されている。前のふたつは無論極端としても、この世代に共通しているのは、経済に対する政治の無力という認識であろう。だからこれよりもうひとつ下の世代(これをseals世代とでもいっておこうか)が、いささか空想的な(と、上の世代には見える)政治に目覚める時、上の世代はその熱狂に、(95年のオウム真理教体験も想起され)「ひいてしまう」のである。しかし、seals世代の方が、がむしゃらな政治的に正しい言説によって、例えば「社畜」的働きを否定し、それが功を奏しようとしていることを考えれば、これはやはりよい悪いの問題ではなく、単に私の世代は、政治的熱狂に浸ることができないが故にアドバンテージもディスアドバンテージも有しているという、つまらぬまとめしかすることができない。

「さして重要でない一日」で描かれる会社員(平成当初に30歳手前)というのは、「バブル世代」といってよいだろう。僻み根性の強い私の世代からすれば、唾棄すべき人々と言える。そこでは、経済も、政治も見事に喪失せられ、所与とする組織内での立場をこなしながら、私的な情動を弄んでばかりだ。しかし、だからこそこの会社員小説において、後の世代では見られない程の無色な、あるいはかなり純粋な官僚組織と、これもまた経済的にも政治的にも相対的に自由な私的情動とがあざなわれることによって、「バブル世代」以前の、組織をして人間疎外と認識してしまう条件反射を逃れることができている。そして、さきにも述べたように、だからこそ私の世代のような経済への無力や、seals世代のような政治への熱狂に陥らざるを得ない者らには描くことのできない、肯定すべき平坦さでもって官僚組織が描かれている。


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南勝久「ザ・ファブル」(講談社)

本作2巻に次のシーンがある。

殺しの天才である佐藤(仮名)が就寝の準備をする。ベッドの上に枕を配置し、その上に掛け布団をかぶせ、人型をつくると、裸身の佐藤はバスタブの中にすくんで眠る。

これは寝込みを襲われた場合に対処するための方途なのだろうが、私にはそれだけでは割り切ることのできない、妙に惹かれるものを感じたーーと、いうのは少なくとも主観的な意識の流れ、あるいは後になって振り返ってみてそう思われる意識の流れとは反していて、実際にはそのような魅力を感じたのが先であって、そればかりがしばらく持続し、その後数時間経って、ようやくその合理的な理解に達したのだ。けれども、依然として私の中には、その合理性によってのみでは解消することのできない残余があり、その残余の魅力を説明することが、今回の目的である。

ベッドに人型を作った後に、佐藤は瞑目し、手を合わせる。この行為には、いくつかの解釈が可能だろう。例えば、これは身代わりとなる人型に対して、佐藤が供養として手を合わせていると考えることもできるし、また、自分自身に対して、真面目に供養している姿をしてみせることで、笑いを誘っているのかもしれない。

しかしどのような解釈をとろうとも、この行為がこれまで(2巻以前)とこれ以後(2巻以後)の佐藤の行動原理に照らして、似つかわしいとも思えると同時に、似つかわしくないとも思える。この相反するふたつの感慨はなぜ生じるのだろうか。

佐藤が社会的な規範に従うことができない、というよりもおそらく先天的な理由からそうした規範をそもそも認識し得ないことは本作を一読するだけでも瞭然のことだ。佐藤がこれがフツーだと自覚的に行為をする時にほど、それは社会的にはまったく普通ではないことが明らかとなってしまう。そしてだからこそ、「殺し」という反社会的な目的と達成する時には、最も合理的な手段をとることができる。つまり佐藤はある意味において凄まじいといってよい合理主義者ーーという表現も誤っていて、正確には合理的であらざるを得ない人物なのだがーーそれは社会的な規範から眺めれば狂っている。

独自の合理性に拘束されざるを得ない佐藤であるが、だからといって彼が目的合理性にのみ支配されているとはいえない。例えば、トレーニングとして森に入るときには、同行者に決してちり紙一枚捨てるな、と強く命じる。これは社会的な規範における合理性には必ずしも沿わないかもしれないが、一般に自然を崇める行為として認められるものである。

では人型をつくる行為は殺し屋としての合理的行為であり、それに手を合わせることは、必ずしも合理的とはいえない素朴な宗教的行為として納得してしまえばよいのだろうか。さきに示したように、仮に私が佐藤の行為をはじめにそのように解釈し、しかも残余の魅力があったというのであれば、この合理的解釈をさしあたりの前提として受け入れてもよいだろう。だが、私にとってもその合理的解釈をさしあたりとしても受け入れることが誤っているように感じられるのである。なぜなら、私にとって、そうした解釈ができないけれども魅力であるものとしてこの場面は迫ったからである。だから、これまで「残余の魅力」といった言葉を用いていたのだが、これすら捨てなければならない。主観的な意識の流れを信じるならば、それは解釈可能に対する非解釈可能なものとしての魅力が残ったのではなく、そもそもの解釈を鈍らせるような、解釈を拒む魅力があったのではないかと考えなければならないのだ。

さて、次々と前言を捨てていこう。佐藤の行為に対して、「彼の行動原理に照らして」、相反するふたつの感慨が生じると書いたが、そもそも「彼の行動原理」(狂った合理性・素朴な宗教性)などに照らして、ふたつの感慨を抱いたのであろうか。おそらくそれは異なる。私は、解釈を拒む魅力に形を与えるために、「彼の行動原理」なるものに照らしたのだと仮構し、それから「彼の行動原理」を小器用に導き出したのである。

おそらく、佐藤は自身の主観においては行動原理を持っていると思われる。それはしばしば佐藤が「プロ」を口にすることからも明らかである。しかし、それは読者にとっては、あるいは私にとっては外れたものだ。それは先に述べたように、その行動原理が社会規範に照らして狂ったものであるからではない。また佐藤のボスが口にするように、佐藤という存在のもつ天才が時代にそぐわないものであるからでもない。それは佐藤があまりに抵抗なく「佐藤」という仮名を受け入れてしまえることからも分かる、単に器にすぎないからだ。

それは殺し屋としてのスキルだと佐藤は説明するが、例えば、額を指で突つくだけで、語り口を完璧に変えたり、感情を変えたりするというのは、何者でもなければできないできないことだ。内面というものが人間に備わった本質ではなく、近代社会に対する相関物であるとする考えをとるのであれば、内面のない佐藤は社会から疎外されているどころではなく、そもそも社会なるものがなく、従って社会と内面という対立の間にある存在としてもないのである。あるのは、ただ脳をもった物理的存在である。

ここまでくると、最初にあげた場面の魅力の理由も少しわかるように思える。なぜあの場面において読者は、あるいは私はこころ動かされたのか。そこにはとても残酷なまなざしがある。ものごころつかぬ幼児が、猿が、あるいはロボットが、単に蓄積された記憶の偶発的な連合によって、ベッドに人型をつくり、手を合わせたとしたら。

私たちはそれに対して微笑ましさと不気味なものとを感じ、こころ動かされるのである。



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