ナメル読書

時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。


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田中小実昌「ポロポロ」(河出文庫)

 「やがて、ポロポロもしずまった。しずまる、なんて言うのはおかしい。だが、まるで言葉ではないものに、言葉をくっつけるのだから、かんべんしてほしい」(「ポロポロ」)

 田中小実昌の諸作品の基底にある態度が上記引用にある。つまり、言葉という道具では決して表現できないものに対して向けられている、あるいは向かざるを得ない意識である。それは、未だ言葉によって表現されていないものを表現しようという、小説を書く者の探求の態度とは異なっている。田中小実昌において、それは探求の末に表現すべきものでもないし、力みを伴う使命として表現しなければならないものでもない。自己の内にある宿命の自然によって語る過程において、便宜的にある文字列を置いたに過ぎず、だからこそ「かんべんしてほしい」のである。

 「足にあった軍靴をはこうなんてとんでもない、足のほうを軍靴にあわせろ、と軍隊では言う。これは、合理の反対の非合理のようにきこえるが、足にあった寸法の靴をはくのは、自然なことであって、合理ではない。やはり、足を軍靴にあわせろ、と言うほうが合理だろう」(「寝台の穴」)

 上記引用について考えてみると、「自然」や「合理」といった言葉が仮初めに置かれたものに過ぎず、では何をのべたいのかと言えば、それら言葉を便宜的に置かなければ語ることができないという田中小実昌にとっての宿命である。「足にあった寸法の靴をはく」ことは、はたして「自然」なことであるのだろうか。「ポロポロ」と同じく、一見すれば適切な言葉であるように思われるが、よく考えればそれは非常に危うい用法であるように思われる。そして、その危うい用法は、他の鈍感な書き手と異なり、敏感に過ぎる田中小実昌によって、おそらく恥じらいながらに書き付けられたのだ。「合理」についても同様である。ここにおいてもはや、「合理」は一見の適切さはなく、自覚的な逆説のために置かれているように感じられる。しかしそうではない。ここでの「合理」はもはや「非合理」に限りなく近接するわけではなく、もはや意味を浮遊して、単なる配置された文字列となるのである。このように言葉が本来の意味も、本来からは逆の意味も持たなくなってしまうのが戦争である--などとまとめることができれば楽であるのだが、それを許してくれない、と、いうより、それすらはぐらかしてしまうのが田中小実昌であるのだから質が悪い。

 田中小実昌の宿命に何があるのか。その内実を知ることはできない。と、いうより、それはおそらく内実があるものではなく、眼前にある事象に対する態度であるのだ。

 「憎む、というような、たいへん直接的な感情でも、やはり学習しないと、その感情があらわれてこないのではないか。
 しかし、あのときの中国人の子供たちは、大ぜいでいたので、ぼくは、学習という言葉が、ぼくにつかえるようになったとき(と言っても、これがはじめてだが)、ああ、あの子たちは、あの子らなりに、日本兵への憎しみを学習したんだな、とおもった。学習というと、ひとりではなく、みんなでやるような感じを、ぼくはもっていたのだ」

 「憎む」という言葉でしか表せぬ眼前の事象を語るために、あるいは語らざるが得ないために、ここでも田中小実昌は「学習」という言葉を、その一般的な意味から浮遊させて使用している。田中小実昌がなんと言おうと、「学習」は集団でも一人でも、意識的にでも無意識的にでも可能なのは、誰もが知っていることである。引用した最終行に対し、私たちは浮遊する言葉をただよしとする田中小実昌ではなく、それに対しなんとか辻褄を合わせようとする田中小実昌の姿を見なければならない。当然その試みは失敗するのであるが、にもかかわらず浮遊する言葉を削るわけにはいかなかった宿命もまた、私たちは見なければならない。

 ある「憎しみ」というある時点におこった事象を語るために、田中小実昌は「学習」という浮遊する言葉を使用せざるを得なかった。このように、筆者は自分の眼前にあった特有の事象を、おそらく理由のつかないままに、ただ語ろうとするのである。

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C・アイラ「文学会議」(柳原孝敦訳、新潮社)

 でき得る限り大きな書店に行き、よほど大層なものでない限り大抵は買えるくらいの紙幣を数枚ポケットにつっこみ、一瞬目にいれるだけでそれがいかなる本かを知っている-知ることなどついにないのであるけれど-その背表紙に触れることはせず、そのいちいちで立ち止まり、著者名と署名のみを見て、だからといって前知識がないのだからいくら思考を凝らしたって意味がないかのように見えるが、しかし一応思考のためのテーブルに置かなければ、直感もまた働かないので次々とテーブルに置いていき、僕はいたってそのテーブルが小さいものだから、一度置いたものも次に置かれたものに押されて落ちてしまうものもあるものの、それもまた偶然性に委ねるというもので、店内をある時間をかけて回った後には、年齢による疲労と喉の渇き、そして直感と偶然性とによって選択された一冊の本が残り、ある自明視されている事柄の、それがあまりに長く自明とされてしまったためにそれが自明であるということだけが長期間に渡って伝承されてきた事柄の、それが自明たる所以を求めるという、地味でありかつ実入りの少ない作業を終えたときの充実感に似た感情の起こりが生じる。決して高揚感と期待とによってその本が開かれることはなく、むしろ不安と恐れを抱きながら読み進められ、案の定、僕はその本について物語りとしての事態はともかくとして、本としての事態についてはその予感しか感じとることができないのだ。しかし、多くの前知識によって事態を把握したかのようにみえてなぞっているにすぎない読書に比べ、それはどれだけ欺瞞の少ない読書なのだろうか。事態はついぞ把握しきることはない。なぜならそれは言葉で書かれるからであり、基本的に小説は言葉で書かれるからである。

 C・アイラについて、僕は何も知らなかった。今でも何も知らないし、ついぞ何も知ることはないかもしれない。ただその作品を読んで感じたことは、その作品が劇であり、劇であるにもかかわらずそれを小説にすることによって、劇ではできないことを劇的に行っているというこよである。

 広く芸術と呼べばいいのだろうか。様々な様式があり、それは必然的にその様式でなければ表現できぬ専門領域を表している。音楽が得意とすること、絵画が得意とすること、文学が得意とすること、総合芸術と言われる映画も得意とすることはあるが、前三者の領域を容易に犯すことはできない。また文学においても、例えば、劇と小説とでは得意とする領域は異なる。しかし僕がここで立ち止まらざるを得ないのは、劇作品は舞台での現実的な上演可能性を考慮して書かれるのか、と、いうことだ。すべて芸術はその様式への規定を裏切り続ける運動であると僕は勝手に考えているので、劇もおそらく上演不可能性の志向が、すでに劇の発生の際に劇作家の頭に生じることは容易に想像できるし、また実際に書かれたものも-僕はあまりに劇について知らないから実例をあげることはできないが-あると確信できる。

 しかし、ここで僕が区別したいのは、上演不可能な劇を敢えて書くという姿勢と、劇という形式では表現しきれえぬものを表現するために小説という形式上で無理矢理劇を書くという思えば欲張りな行為であり、アイラの作品は後者であると言える。ごく一般的に言って、劇とは発せられた言葉と身体の振るまいによって、決して明示できぬメッセージを-しかしそれがメッセージであることは間違いのないメッセージを-暗示することであるが、アイラは小説という、内省または地の文を言葉にのせることでいくらでも説明は可能であるが、にもかかわらず説明しきれない徒労によって逆説的に何らかを暗示する様式を用いて劇を成立させようとする。僕はさきの一応の定義において、アイラは基本的に発せられた言葉と身体の振る舞いにやはり重点を置いていると考えたために、その作品を劇であるとしたのである。

例えば、前にスズメバチを懇ろに弔うシーンがあるので、僕は次の文で笑ったのだが、これは劇における笑いである。

『スズメバチはカルロス・フェンテスの体のではなくネクタイの細胞を採取してきたのだ。唇からうめき声が漏れた。
 「役立たずのスズメバチめ、売女のおふくろともどもくたばりやがれ!」
 「えっ?」ネリーはびっくりして言った。
 「いや、気にしないでくれ。こっちのことだ」』

さきの引用は通常の劇においても可能であろう。しかし、僕は、アイラが小説の様式において劇を書いた理由を、単にクローン製造機から巨大な怪物がとめどなく溢れる出来事や、パンクでありながらパンクを否定する少女がスーパーマーケットを派手に破壊する出来事をただ描きたかったためであるとは思えない。そうではなく、この非現実的な出来事と、内省または地の文を補助としなければ成立し得ない言動の効果によってしか暗示することができなかったもの-それは、それの一歩手前において、偉大なるものの継承=翻訳の拒否であったり、愛への裏切りによる愛の更新であったりと言い得るだろうが-への志向性がその理由に他ならない。



 
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「羆嵐」(吉村昭、新潮文庫)

 文学は「健康」と対極のところにあるかのように考えられ、論ぜられることがある。また、同じく「正道」とは対するところにあるとされることもある。つまり、文学は一種の「病」であり、「逸脱」というわけだ。このような二極対立を仕立てあげ、いずれかをそれであると規定できるのであれば、それはどれだけ単純なものであり、貧弱なものであるのだろうか。

 しかし残念ながら、また悦ばしきことに、文学とは一生涯をかけても喰らい尽くすこくとの叶わない豊潤である。それは時に過剰に「病的」であり「逸脱」であることもあれば、時に過剰に「健康」であり「正道」であることもあるし、あまりに「平々凡々」に過ぎることもある。その形容に対する対象とが論理矛盾を起こすとしても、お構いなしに事実において過剰であってしまうという運動こそが、文学であると一応いっておくしかない。

 僕は医学的な診断において寛解に向かいつつある病の持ち主であるといえるが、その方向が過剰を内包しているかどうか知れないし、現在のところその方向性の中に過剰を見いだす意義はなく、直感としては過剰とはいかにもそれがありそうだと意識するところではなく、あまりに自然に意識の上を流れていくようにあるのではないかと思う。しかし、その直感に従って自らの文学という運動を行うかどうかはしばらく自由にしておきたく、今は病のために生じ、病のために中断した、読書の感想という私的な、あるいは公的な仕事を行いたい。

 さきの「文学」の一応の取り決めを適応するのであれば、吉村昭の作品は、その巧みな文章に過剰があるのではなく、下敷きとする事実に過剰がある。そして、その指摘は著者の名を貶めることにはならない。なぜなら事実を、それが「過剰」であると喧しく宣伝しているにもかかわらずまったくつまらない単なる希少な出来事に過ぎないものを「文学」であると宣う者が多い中で、著者はその嗅覚を頼りに独り書くべき事実を選定し、抑制された文章を紡ぎ、静かに置いていくからである。そして、著者の側に過剰を見いだすのであるなら、そうした過剰な事実を見つけずには入られない定に求めるべきであろう。それがどんなにつまらない投影と言われようと、「羆嵐」における銀四郎は著者と重なり、羆とは過剰な事実なのである。銀四郎の熊への志向性は過剰である。

 極限状態における死者の扱い、人を喰った羆の肉を食うというしきたり、自然の無情、いずれも過剰な事実であるが、それをなんらかの学問的技術によって分析することには、私は興味を抱かないし、その能力もない。ただ、過剰であることは明白であるのだからそれで十分である。また著者の過剰の分析にも勿論興味はない。と、するのであれば、過剰を前にしたという出来事を私はただただ紹介すべきであろうか。それもひとつの終結であるかも知れず、感想ではなく批評を書いた者にはそうした人間もあった。小林秀雄である。しかしそれなら面倒をしてたらたら文章をしたためるでなく、これ読めと本を渡せばよいだけの話となり、この文章に生活の糧がかかってなどいない私はなおさらそうするべきだろう。さもなければ単なる時間の損失である。

 しかし、既に文章を書いてしまっている以上、私の中には何らかの動因があるのだ。それが結果損失であったとしても、私は私なりの感想の書き方を模索しなければならない。しばらくの不在の間に環境が変わり、脳が変わった。以後も変わるものと思われる。私は既にそのほとんどを忘れてしまった過去の感想とやらを読み返しながら、いかに人間がインテグレードされておらず、その実底流においてどこか一貫しているものを感じ取った。さしあたっては、この奇妙な矛盾が漂う文章を垂れ流すことになるだろう。

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ブッコブ2015

9月以降記事が途絶えたのは、僕がありがたいことに仕事に復帰したためと、読書と言えば雑誌・漫画を除いて柄谷行人、大江健三郎しか読まなくなったためだ。読書が習慣となってこのかた乱読に次ぐ乱読であったけれども、ようやくのこと集中的に読むことの大切さを知るようになった。これが保守化をもたらすのか、新しいスタイルを生み出すのかは不明だが、現在の気分としては、くだらない作品にかかずらうことで時間を失いたくないということだ。

さて、今年、というか昨年読んだ本の中から良作をご紹介する企画も4回目である。もはや初期の頃のような情熱はないので、淡々とご紹介させていただきたい。

評論部門:

良くも悪くも時間だけはあったので、大部を読むことができた。

M・フーコー「言葉と物」(渡辺一民、佐々木明訳、新潮社)
G・ドゥルーズ「差異と反復」(財津理訳、河出文庫)


また今年になってようやく次の本を読んだのだが、やはり名著と呼ばれるものは読んでおいた方がいいと痛感された。

浅田彰「構造と力」(勁草書房)
東浩紀「存在論的・郵便的」(新潮社)
     「一般意思2.0」(講談社)


他に文庫化された名著として次のものを挙げたい。

酒井直樹「死産される日本語・日本人」(講談社学術文庫)

漫画部門:

松井優征「暗殺教室」(集英社)
は1巻からずっと追っていたのだが、ここにきてその建築的完成度が保障されたので、完結の暁には確実にブックオブザイヤーに入る(よって今回は入らない)。

不安と悲しみの日々を慰めてくれたのは仲間りょう「磯部磯兵衛物語」(集英社)だった。これだけ淡々としているギャグマンガというのも珍しいのではないだろうか?

精神の不安から実家に収容されていた時期もあったのだが、その時に読んだのは金平守人「エロ漫の星」(少年画報社)だ。タイトルから偏見をもたずに、と、いうよりもむしろ偏見をもって読んだ方がラストの盛り上がりを堪能することができるだろう。

同じく実家で読んだ漫画からブックオブザイヤーを選びたい。

ブックオブザイヤー

西森博之「お茶にごす」(小学館)
名作「今日から俺は」の作者によるものであるが、後者がエネルギーをあっちこっちに放出させることによって、ある種の力技で作られたものであるのに対して、前者は老獪な技術でエネルギーを一点に集中させた作品であり、完成度だけでいえば「今日から俺は」を超える作品だと思われる。「やさしさ」を与えたり、もらったりする対象であるとのみ考えているひとに読んでもらいたい。

もう一冊。

福光しげゆき「中2の男子と第6巻」(講談社)
登校拒否を起こした中2男子の元に、幻想の師匠=美人のお姉さんが現れて・・・という話であり、最初の数回こそは単に設定ありきの結局日常系に落とすのかと落胆させられそうになるが、あにはからんや、それは作者の企みであり、回を進めるごとに、この作品が相当の野心作であることが明らかにされる。作者は度の過ぎた妄想を平然と語ることにその異常性があるのであるが、その度の過ぎた妄想をツールとして、いよいよストーリー作品に用いだしている。もちろん驚くべきことは、ここにおいても「平然と」それがなされるということだ。

新書:

評論部門との兼ね合いで3冊あげておきたい。

中山元「フーコー入門」(ちくま新書)
小泉義之「ドゥルーズの哲学」(講談社現代新書)
岡本裕一郎「フランス現代思想史」(中公新書)


海外小説:

記事にしたが、フローベール「ボヴァリー夫人」(山田ジャク訳、河出文庫)を読んだ衝撃は忘れることができない。やはり近代小説はその始原において終わっている、あるいは始まっていないのだ。また今年は、A・ロブ=グリエ「消しゴム」(中条省平訳、光文社古典新訳文庫)M・ビュトール「合い間」(清水徹訳、岩波書店)R・ルーセル「アフリカの印象」(岡谷公二訳、平凡社ライブラリー)A・カヴァン「氷」(山田和子訳、ちくま文庫)と、「小説」という概念を批判する志向性としての作品を多く読んだ。そのため、僕はいわゆる「小説」というやつを見限るようになったのだ。

また雑誌"MONKEY"(Switch Publishing)では相変わらず、良作が訳されている。

ディケンズ「眉に唾をつけて読むべき話」(柴田元幸訳、vol.5)
ロンドン「病者クーラウ」(村上春樹訳、vol.7)

日本の小説:

ただつらつらと印象に残った作品をあげてゆきたい。

谷崎潤一郎「吉野葛」(新潮文庫「吉野葛・盲目物語所収)
(この何とも不安定な作品がなぜにひとを惹きつけるかについては、別冊文藝「谷崎潤一郎」(河出書房新社)、小森陽一「緑の物語」(新典社)を読まれたい)

奥泉光「滝」(創元推理文庫「ノヴァーリスの引用/滝」所収)
この方の作品は以前に文芸誌で助教授が主役のものを読んで、あまりのひどい冗長さに呆れかえり、他は読む必要がないなと思っていたのであるが、この作一つで評価が反転した。「男」という概念の偽装された純粋性をあまりに見事に表現しすぎているので、危険な作品であるが、危険でない作品などに何の意味があるのだろうか?

内村薫風「MとΣ」(新潮社「MとΣ」所収)
記事では高評価し過ぎた気もする。最近では時空を跳躍させるものが流行っているので、それに乗っているだけかもしれないが、それでも気になる存在ではある。

筒井康隆「巨船ベラス・レトラス」(文春文庫)
筒井康隆と言えば最後の長編と言われる「モナドの領域」が話題であり、僕も読んだのであるが、というかそれを読んだ後に本書を読んだのであるが、パラ・フィクションの実践が未だ手探りであるのに対し、メタ・フィクションは自家薬籠中の物であり、完成度ではこちらの方が高いと思われる。なので氏には今後も長編を書いてほしいものだ。

中野重治「空想家とシナリオ」(講談社文芸文庫「空想家とシナリオ・汽車の罐焚き所収」
これもまた、小説とは差し引き無となる運動に過ぎないことを暗示している作品であるように思える。

萩原正人「ダメアナ」(伽鹿舎「片隅 01」所収」
基本的に九州でしか買えない雑誌なので、読む機会は制限されるだろうが、だからこそ敢えて挙げておきたい。上ではあまりの「小説」というものに辟易していると書いた。この作品もまた「小説」である、が、その落胆を上回る切実さを感じさせたならば、もはやちょこざいな小説像など不要であろう。

講談社文芸文庫より「現代小説クロニクル」シリーズが刊行されたが、その中から記憶に残った作品も挙げていきたい。

吉行淳之介「菓子祭」(2巻)
古山高麗雄「セミの追憶」(4巻)
目取真俊「水滴」(5巻)
町田康「逆水戸」(6巻)
伊井直行「ヌード・マン・ウォーキング」(7巻)
楊逸「ワンちゃん」(7巻)

また小説ではないが、小沢健二「赤い山から銀貨が出てくる」("MONKEY Vol.6")
は、知を顕示するための道具としか使用できない凡百の小説家たちに読んでもらいたい随筆である。

ブックオブザイヤー:

中上健二「鳳仙花」(新潮文庫)
ただただ、今まで読んでなくてすんませんでした。

と、いうことで、もちこされた2015年の宿題はおしまい。

現在も穴倉読書は続いているので、果たして記事が書けるかどうかも不明ですが、アップしたらよろしくお願いします。








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「МとΣ」(内村薫風、新潮社)


単行本「MとΣ」収録作の内、「2とZ」、「MとΣ」を集中的に取り上げる。


いずれの作品も時間的・空間的隔たりを乱暴とも言える仕方で飛び越えるという手法を用いている。例えば、以下に引用するように(「2とZ」より)。


「ニコも息子を脇に抱える。その息子の体の重みは、ニコに負荷をかけるが、そのために──いつか国境を突破する時を想像し──彼は深夜に腕立て伏せを続けていたのだから、まさにニコの筋肉はついに訪れた本番、晴れ舞台に活き活きとするほどだった。強く息子を引っ張り上げ、抱き、周りの人間に後れを取るまいと走る。バッファローの集団さながらに駆ける者たちの一員となる。砂埃が上がり、周囲は茶色に曇る。その足音に、別のところからコツコツと鳴る響きが重なるのが、聞こえるだろうか。ベルリンの壁崩壊の記事が書かれた朝の新聞が風で舞い、それを踏みながら渋谷の雑居ビルの階段を上がってくる、カイドウの靴の音だ」


ここでは冷戦時代のハンガリー─オーストリア間の国境から、2000年代と思われる日本の渋谷へと空間的、時間的に跳躍が行われる。こうした作品内での現象は、2つの作品において頻繁に行われる。


この手法=現象によって作品は何を伝えたいのだろうか?例えば、「2とZ」であるなら「ほどほどに争いを起こし、けれど壊滅的なものにはならぬように調整し、偉い人間たちが話し合いや駆け引きをしている。実際にそうしなくてもよい。そう見せかけることが何より重要だ」ということ、「MとΣ」であるなら意志を越えた暴力の発生とそれを抑止する倫理的意志の普遍性とやらであろうか。だとするならば、これら作品は突飛な手法を用いてつまらぬテーマを呈示する陳腐なものであるという謗りを避けることはできないであろう。


しかし、そもそもの問いが違っているのである。「作品が何を伝えたいのか」、というあたかも作品は何かを伝える輸送器であるかのように考えるその前提が誤っているのだ。私たちはここにおいて手法が何のためにあるのではなく、手法そのものの意義について問わなければならない。


M・フーコーは古典主義時代(17、18世紀)を表徴=名付けることの時代であるとし、事象を説明する言説として脱歴史的・空間的な類似が幅を利かせていたとしている。その後、人類の言説には断層が入り、表徴の限界(合理性の時代)、時代的条件の導入へと変化する。現在の私たちの言説は、科学的合理性を最も妥当な方法としながらも、人文学的領域においては時間的・空間的差異(多様性)の尊重を唱えることによって普遍性そのものに疑義をも挟み込んでいるといったところであろう。類似という言説=方法は忘れさられたのである。


そうした忘却された類似という方法=言説への回帰への志向性そのものがこれら作品の意義であることは、これら作品のタイトルを見てもすでに明らかであろう。類似という方法によって何を示したかになど大した意味はないのである。人類が忘れてしまった言説法を再現していることそのものに意義があるのだ。


文学とは主題ばかりでなく、その手法そのものにも意義があることを忘れてはならない。無論、その手法ばかりでは一発芸の謗りを免れないのも確かではあるのだが。


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