ナメル読書

時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。


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「さして重要でない一日」(伊井直行、講談社文芸文庫)

会社員の位置づけというのはとかく時代による差異をこうむりがちであると見られていて、世代を論じるための肴としやすい。それに対し、広い意味での官僚組織は近代のメルクマールのひとつといってよく、それを描くことは小説(近代小説)を成立させる近代を描くことであり、かつ、その近代を批判することであるとして、会社員小説の普遍性を述べることも可能であろう。しかし、それはそれこそ伊井直行自身が取り組んでいることなのだから、ここでは世代論を弄んでおきたい。ただし、世代論といっても、統計的に厳密なものではなく、私の実感によるのだから、それこそ酒の肴程度である。

例えば、30代半ばくらいの私は「就職氷河期世代」ともいえようし、もっとこっぱずかしい命名によれば「ロスト・ジェネレーション」であるのだろう。端的に言えばバブル崩壊のあおりを最も被った世代であるといえ、私の実感を述べれば、この世代はふたつの極に分かれている。すなわち、困難な就職活動に成功した組(勝ち組)と失敗した組(負け組)である。前者はこの成功によっていびつな誇りを抱きがちであり、自分を現実主義者であると思いこんで、あと十年しても「社畜」的働きもやむなしなどと発言してしまうだろう。後者は被害者意識と無力感に苛まれがちであり、その逃避行動として、90年代に流行した精神病理が選択されている。前のふたつは無論極端としても、この世代に共通しているのは、経済に対する政治の無力という認識であろう。だからこれよりもうひとつ下の世代(これをseals世代とでもいっておこうか)が、いささか空想的な(と、上の世代には見える)政治に目覚める時、上の世代はその熱狂に、(95年のオウム真理教体験も想起され)「ひいてしまう」のである。しかし、seals世代の方が、がむしゃらな政治的に正しい言説によって、例えば「社畜」的働きを否定し、それが功を奏しようとしていることを考えれば、これはやはりよい悪いの問題ではなく、単に私の世代は、政治的熱狂に浸ることができないが故にアドバンテージもディスアドバンテージも有しているという、つまらぬまとめしかすることができない。

「さして重要でない一日」で描かれる会社員(平成当初に30歳手前)というのは、「バブル世代」といってよいだろう。僻み根性の強い私の世代からすれば、唾棄すべき人々と言える。そこでは、経済も、政治も見事に喪失せられ、所与とする組織内での立場をこなしながら、私的な情動を弄んでばかりだ。しかし、だからこそこの会社員小説において、後の世代では見られない程の無色な、あるいはかなり純粋な官僚組織と、これもまた経済的にも政治的にも相対的に自由な私的情動とがあざなわれることによって、「バブル世代」以前の、組織をして人間疎外と認識してしまう条件反射を逃れることができている。そして、さきにも述べたように、だからこそ私の世代のような経済への無力や、seals世代のような政治への熱狂に陥らざるを得ない者らには描くことのできない、肯定すべき平坦さでもって官僚組織が描かれている。

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南勝久「ザ・ファブル」(講談社)

本作2巻に次のシーンがある。

殺しの天才である佐藤(仮名)が就寝の準備をする。ベッドの上に枕を配置し、その上に掛け布団をかぶせ、人型をつくると、裸身の佐藤はバスタブの中にすくんで眠る。

これは寝込みを襲われた場合に対処するための方途なのだろうが、私にはそれだけでは割り切ることのできない、妙に惹かれるものを感じたーーと、いうのは少なくとも主観的な意識の流れ、あるいは後になって振り返ってみてそう思われる意識の流れとは反していて、実際にはそのような魅力を感じたのが先であって、そればかりがしばらく持続し、その後数時間経って、ようやくその合理的な理解に達したのだ。けれども、依然として私の中には、その合理性によってのみでは解消することのできない残余があり、その残余の魅力を説明することが、今回の目的である。

ベッドに人型を作った後に、佐藤は瞑目し、手を合わせる。この行為には、いくつかの解釈が可能だろう。例えば、これは身代わりとなる人型に対して、佐藤が供養として手を合わせていると考えることもできるし、また、自分自身に対して、真面目に供養している姿をしてみせることで、笑いを誘っているのかもしれない。

しかしどのような解釈をとろうとも、この行為がこれまで(2巻以前)とこれ以後(2巻以後)の佐藤の行動原理に照らして、似つかわしいとも思えると同時に、似つかわしくないとも思える。この相反するふたつの感慨はなぜ生じるのだろうか。

佐藤が社会的な規範に従うことができない、というよりもおそらく先天的な理由からそうした規範をそもそも認識し得ないことは本作を一読するだけでも瞭然のことだ。佐藤がこれがフツーだと自覚的に行為をする時にほど、それは社会的にはまったく普通ではないことが明らかとなってしまう。そしてだからこそ、「殺し」という反社会的な目的と達成する時には、最も合理的な手段をとることができる。つまり佐藤はある意味において凄まじいといってよい合理主義者ーーという表現も誤っていて、正確には合理的であらざるを得ない人物なのだがーーそれは社会的な規範から眺めれば狂っている。

独自の合理性に拘束されざるを得ない佐藤であるが、だからといって彼が目的合理性にのみ支配されているとはいえない。例えば、トレーニングとして森に入るときには、同行者に決してちり紙一枚捨てるな、と強く命じる。これは社会的な規範における合理性には必ずしも沿わないかもしれないが、一般に自然を崇める行為として認められるものである。

では人型をつくる行為は殺し屋としての合理的行為であり、それに手を合わせることは、必ずしも合理的とはいえない素朴な宗教的行為として納得してしまえばよいのだろうか。さきに示したように、仮に私が佐藤の行為をはじめにそのように解釈し、しかも残余の魅力があったというのであれば、この合理的解釈をさしあたりの前提として受け入れてもよいだろう。だが、私にとってもその合理的解釈をさしあたりとしても受け入れることが誤っているように感じられるのである。なぜなら、私にとって、そうした解釈ができないけれども魅力であるものとしてこの場面は迫ったからである。だから、これまで「残余の魅力」といった言葉を用いていたのだが、これすら捨てなければならない。主観的な意識の流れを信じるならば、それは解釈可能に対する非解釈可能なものとしての魅力が残ったのではなく、そもそもの解釈を鈍らせるような、解釈を拒む魅力があったのではないかと考えなければならないのだ。

さて、次々と前言を捨てていこう。佐藤の行為に対して、「彼の行動原理に照らして」、相反するふたつの感慨が生じると書いたが、そもそも「彼の行動原理」(狂った合理性・素朴な宗教性)などに照らして、ふたつの感慨を抱いたのであろうか。おそらくそれは異なる。私は、解釈を拒む魅力に形を与えるために、「彼の行動原理」なるものに照らしたのだと仮構し、それから「彼の行動原理」を小器用に導き出したのである。

おそらく、佐藤は自身の主観においては行動原理を持っていると思われる。それはしばしば佐藤が「プロ」を口にすることからも明らかである。しかし、それは読者にとっては、あるいは私にとっては外れたものだ。それは先に述べたように、その行動原理が社会規範に照らして狂ったものであるからではない。また佐藤のボスが口にするように、佐藤という存在のもつ天才が時代にそぐわないものであるからでもない。それは佐藤があまりに抵抗なく「佐藤」という仮名を受け入れてしまえることからも分かる、単に器にすぎないからだ。

それは殺し屋としてのスキルだと佐藤は説明するが、例えば、額を指で突つくだけで、語り口を完璧に変えたり、感情を変えたりするというのは、何者でもなければできないできないことだ。内面というものが人間に備わった本質ではなく、近代社会に対する相関物であるとする考えをとるのであれば、内面のない佐藤は社会から疎外されているどころではなく、そもそも社会なるものがなく、従って社会と内面という対立の間にある存在としてもないのである。あるのは、ただ脳をもった物理的存在である。

ここまでくると、最初にあげた場面の魅力の理由も少しわかるように思える。なぜあの場面において読者は、あるいは私はこころ動かされたのか。そこにはとても残酷なまなざしがある。ものごころつかぬ幼児が、猿が、あるいはロボットが、単に蓄積された記憶の偶発的な連合によって、ベッドに人型をつくり、手を合わせたとしたら。

私たちはそれに対して微笑ましさと不気味なものとを感じ、こころ動かされるのである。



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吉行淳之介「食卓の光景」(新潮文庫『娼婦の部屋 不意の出来事』所収)

二十年程前、渋澤龍彦にのめり込んでいた私はその関連から吉行淳之介のいくつかの作品を読んだのだが、それらが私の興味をかすりもしなかったのは、吉行淳之介の主題と言われる性愛というものがまったくに陳腐であるからでもあるし、その文体が陳腐だからでもあるし、その生が私のそれとはまったく異なるもののその異なりがだからといってとりたてて隔絶したまた別の何かとして存在を主張するわけでもない、つまりつまらないからでもあるのだけれども、今、特に考えがあるわけでもなく読んだ短編集から例えば次のような文を読むと、その救いがたさに翻って当時の自分の感慨が現時点では変わらないことが知らされる。

「男のものの考え方と、女の考え方と、根もとから組立て方が違っている部分がある。結局、最後まで、男と女とでは理解し合えない空白な部分が残ってしまう。そのため、男はその空白の部分を躯と躯の触れ合いで埋めようとする。そして、そのことによって、その空白が埋まった、と錯覚することがある。その錯覚が一生つづいている男は、しあわせといってもよいだろう。しかし、そのことによって、じつはその空白の部分は一層拡がっているのかもしれないのだ」(「青い花」)

とても陳腐だけれども、この一文が現代日本文学の主題の一角を未だに、端的に表していることを振り返ると戦慄を覚える。

その必要を感じることはないのだが、吉行淳之介の作品に可能性を見いだすとしたら、それは性愛から離れたところにあるだろう。特に次のところは、性愛から離れたところを描いた直後に、離れているとはいえ近接しているが故に自らも世界もその主題であるという性愛と思わず結びつけてしまうのであるが、それを意識的にか無意識にか、非常に素人くさいやり方で打ち消すところに、滑稽さがある。

「口を開くと、赤い粘膜がある。その中に、獣の肉などを押込み、顎の骨をがくがくと動かして、やがて咽喉の方へ食物を移動させる。咽喉の肉がぴくりと上下して、唾液と混ってぐちゃぐちゃになったものが胃の中に落込む。待ち構まえた胃は、黄白い液をそそぎこみながら、その全体をもくもく動かしはじめる。そして、やがてそのドロリとしたものが、胃から腸に送りこまれるわけだが、何メートルもの長さの腸管の末端の方には、すでに滋養成分を吸い上げられた食物の滓、つまり糞便がぎっしりつまっている」(「食卓の光景」より、以下同じ)

「食事をするときの剥き出しのなまなましい感じは、どこか性行為に似ているところがある。童貞が、美女と向い合って食事をすることに、困惑をさらには恐怖に似た感じを覚えるのは、当然のことといえよう」

「当然のことといえよう、と私はおもうのだが、しかしすべての童貞が女を伴ってレストランに入ることに恐怖を感じるかどうかは、きわめて疑わしい。他人の心は計り難いのである」

特に最後の一文は、陳腐ではあるが無視もできない文学を駆動させるあまりに自明な前提であるものを、あたかも結論であるかのように登場人物に語らせており、それによってその登場人物の陳腐さを際だたせるのならばともかく、どうやらそうではないらしいところに、次に吉行淳之介の諸作品を読むのは二十年後だなと私に決意させたのである。



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野坂昭如「俺はNOSAKA だ」(新潮社、『俺はNOSAKAだ』所収)

A.

 「俺はNOSAKA だ」というタイトルは、「俺はNOSAKA だ」でなければならない。「俺がNOSAKA だ」ではいけない。

 この作品は限りなく野坂昭如に近似した「俺」を主人公としている。「俺」は自身の作品の映画化を許可する契約を結ぶため、またそれによって多額の外貨を得るためにアメリカ領事館で手続きを行う。しかし、本来なら些細な手続きであったはずのものが、相手方とのコミュニケートの手抜きによって、「NOSAKA 」(パスポート表記)と「NOZAKA 」(契約締結者名)とが食い違ってしまったために、「俺」は自身が「NOZAKA 」であることを証明しなければならない羽目になる。

 上の一事のみを見るならば、タイトルは「俺はNOZAKA だ」とすべきであろう。しかし、それはまったくに誤っている。なぜなら、自身が「NOZAKA」でもあることを証明しなければならない事態に陥ることで、「俺」は自身が「NOSAKA」であることにすら、いや野坂昭如であることにすら 根拠が見いだせなくなるのである。いやいや、それもまた転倒としている。そもそも自身が野坂昭如であることの偶有性を直視せざるを得ないが故に、「NOZAKA 」であることの証明もまた、それが弁護士による保証や形式的な宣誓手続きといった簡便な方法によって可能であるとしても、それをすることはできないのである。何故なら、「野坂昭如」という偶有性に対峙することが、「俺」の唯一の倫理であるからだ。

 なぜ自身の偶有性がこれほど強烈に換気されるのか。ひとつは空襲によって、養父母をはじめ家族が皆死んでいったにも関わらず自分(と伝記的には幼い妹)のみが生き残ったからである。そしてもうひとつ、こちらの方が特異であろうが、ほとんど名無しと言ってよい状態で少年院から、実父の元へ引き取られ、それによって生き残った体験である。

 「当時、一週間に一人の割で同室の少年が死に、その少年が実は田島谷昭如で、俺はその身の上話をきかされ、野坂の名を知り、まんまと欺したとしても、まずはばれなかっただろう」

 同じ経験をすれば、上のようなことは仮想として浮かぶかもしれない。しかし、それが「NOZAKA 」の証明を実質自らの意思において拒否するような、そのような強烈な枷ととして機能するのは非常に特異なことである。これではまるで、存在していないにも関わらず存在していることを要請され、その事態を認識する己がいるのだからなんらかの形で存在しているのだろうと主観的には認めざるを得ないにも関わらず、己の傾向性は非存在を向いているようではないか。

 助詞であるところの「は」と「が」について、私は次のように理解している。

 ・「は」は話題の提示であり、主部と述部との距離
  が相対的に遠い。私の感覚で言えば、次のような
  ニュアンスである。
  →俺について言うと、まあ、NOSAKA だ。

 ・「が」は主部と述部とを最短で結ぶ。
  →俺がNOSAKA だ、文句あっか。
 
 上のふたつを懐疑の文にしてみるとおもしろい。

 ・俺はNOSAKA なのか?

 ・俺がNOSAKA なのか?

 「は」では、野坂であることへの懐疑と不信であるのに対し、「が」では、「俺」は「NOSAKA 」なるものを前より知っていて、それがなんと己であったことへの不思議が表現される。

 本作品のタイトルとして、いずれが適切であるかは明瞭であろう。

同著者「プレイボーイの子守唄」(同書所収)

B.

 「プレイボーイの子守唄」はエッセイである。自身の娘を絶対的に甘やかさざるを得ない心性を、戦中になくなったふたりの幼い妹に求めている。

 ひとりは紀久子といい、少年昭如が可愛がっていたのだが、急性腸炎であっけなく亡くなってしまう。もうひとりは恵子といい空襲で生き残った、養父母の家における、唯一の縁者である。といっても、焼け出されたときには1歳にも満たない。

 中学生の年頃である昭如はなんとか生き長らえなせようとするが、案の定失敗する。あの時代に子どもが子どもをそだてることなぞ不可能事なのだ。そもそも不可能であることは事後的な認識というよりも、すでに当時においてこそ一致した認識であった。だから論理的には例え少年昭如が妹の食料をピンはねしたことも、いつまでも泣き止まぬ恵子の頭を殴って静かにさせた(乳幼児の頭に打撃を加えると、脳震盪を起こす)ことも恵子の生死には関わりのないことである。

 「ぼくは、恵子を愛していたと自信をもっていえるが、食欲の前には、すべて愛も、やさしさも色を失ったのだ」

 これをある種の極限状況と見るならば、もはや昭如の他者危害という反道徳は、己の生を尊重するという道徳によって克服され得るだろう。少なくとも、他人である私たちが単純に昭如を道徳的に非難することは難しい。

 しかし、野坂昭如のみはいくらそれをカヴァする道徳的根拠があろうと、自身の手が具体的行為としてなした反道徳を忘れることができない。この場合、野坂昭如の体験は反道徳にあるのであり、道徳は背景であり理屈だからである。

 この後に、理屈に逃れることなく反道徳の記憶を失わない者こそ道徳的なのだ、とでもいえば、キレイなまとめだろうか。しかし、そんな道徳概念のこねくりまわしに野坂昭如が付き合うとは思えない。おそらく野坂昭如は、なぜ昭如が昭如であって、恵子が恵子でなければならなかったのか、という偶有性の暴力にただ曝され続けたのだ。そして、その継続する経験が、「骨餓身峠死人葛」他の小説を招いたのである。

 偶有性の暴力に曝されて、人は死を求めはしない。なぜなら、死によってもそうした偶有性の形象は消えはしないからである。そのような者であったものにとって、死は偶有性の完成でしかない。それは偶有性への屈服またはからの逃避でしかないのだ。偶有性の暴力を避けるには非存在である他ない。無論、非存在は偶有性の克服ではないし、そもそも不可能事である。しかし他にどのような志向があるのだろうか。偶有性との対峙を余儀なくされた以上、他に道はないように思われる。だから、野坂昭如は時に非存在として振る舞ってしまう自身に、戸惑うのである。

 

  
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Fr・デュレンマット「約束」(平尾浩三訳、同学社)

 ミステリとは、直感的にはエラーと思われる設定された謎に対し、論理的な手続きを踏み、解を導出することによって物語を収束させると同時に、読み手に対してカタルシスを与えるものであると、一応言うことができる。勿論ミステリも運動としての小説の一部であるので、上の定義らしきものを逸脱する志向を有する作品は多く、例えば、古くは「狂人の論理」が持ち出されたが、これは言うまでもなく、常人には理解しがたい合目的性であり、論理の偏重の変種でしかないし、あるいは、謎が絶対に解決され得ないことを示す場合にも、ミステリにおいては論理的な語り口においてなされざるを得ず、ミステリにおいて論理の至上を揺るがすことはやはり困難であるし、よしんばそれが数歩でも成し遂げられた時には、それはミステリと呼ばれず、単なる小説と呼ばれるものと思われる。

 一方、ミステリとは非常に容易に乗り越えられている、あるいは犯されているともいえる。なぜなら謎の提示と解決は小説の筋立ての骨格を提供し、読み手に対してはそれ故の安心感と一定のカタルシスとを保障するからである。社会的に重要であると思われる問題が、ミステリの意匠を借りて書かれることがあるのは、さきの保証書をつけてその問題を作品化した方が、より多くの読み手を得ることができるという、必ずしも否定することは許されない書き手の功利的計算が働いている。

 次のように述べることは許されるだろうか。ミステリが論理性を自己目的とする時、その他のファクターは論理のための従属的地位であるより他ない。一方、ミステリという形式が意匠として利用される時、それを利用する側、すなわちーーこの言葉は嫌いなので使いたくないのだがーーテーマは重要なものであるか、少なくとも書き手は重要であると信じているものであらざるを得ない。それは深刻な色味がつけられることが多く、滑稽であったものを私は知らない。

 デュレンマットの「約束」はお世辞にも優れた小説であるとは言えない。小説家に元州警察本部長が語るという形式であるが、いくら終盤に本部長にミステリ批判をさせる意図があったにせよ、ほとんどの章のはじめを「H氏の話はつづくーー」などと始めているのはスマートではないし、そのために小説全体が説明臭く、かつ書き割りのようになってしまっている。数日で書きつづったメモを、無理矢理小説に落とし込んだ印象を与える。端的に言えば、表現方法において十分に練られたものであるとはいい難い。

 しかし、ほとんどメモの集積であるが故に、デュレンマットの意図が明確であることも事実である。すなわち、デュレンマットはミステリという形式において、論理に従属するわけでもなく、またあまりに深刻ぶったものでもない、単なる愚かさを書いているのである。

 後者との連関についてはもう少し書いておいて方がよいかもしれない。デュレンマットの描く愚かさは、まったくもって深刻なものではない。それは直感的には感じる必要のない形而上的な愚かさを告げるものでもないし、これまで社会的・時代的パラダイムにおいては認識されなかった愚かさを明らかにするものでもないし、道徳的あるいは法的に重大な愚かさを示すものでもない。それはーー次のように表現するのであればーーあまりに明白にすぎる愚かさであり、その明白さの故に、いずれにせよ「頭のよさ」への強迫観念を抱いている、論理を自己目的とするミステリとミステリを形式として利用する小説とを攻撃するのである。



※以下、事件の真相に触れる。



 主人公格の警部マテーイは、栄転直前に起こった少女凌辱殺害事件に接し、疑似的な回心のようなことが起こり(ちなみにこの回心に説得力がないこともこの小説の弱点である)、栄転も警部の職も捨て、売春婦と、その娘が殺害された少女と似ているがために、彼女を撒き餌にすれば、殺人者をとらえることができるに違いないと考え、猟場としてガソリンスタンドを経営するという愚を犯す。

 さきの元本部長は(事件はこの本部長が現役の時のものである)部下をコントロールすることができぬ愚か者であり、マテーイに代わって事件を担当した警官は単なる功名心の固まりである。そして、マテーイの推論が真実味を帯びた時、マテーイと警官たちは少女の監視を始めるのだが、それが効を奏しないと分かると、逆上し、集団で当の少女を殴りつける始末である。ちなみに、この失敗の後もこの愚かな策に期待を寄せるマテーイは、文字通り始末におけない。

 殺人者は、落ちぶれた名家の老婆が結婚した、知的な障害があると思われる若い男であった。男は特定の少女を見ると、「天の声」を聞いたとして、最終的に殺害してしまうのである。障害者と性、あるいは犯罪については、現在タブー扱いを止め、ようやくのこと課題として認知され始めたところであるが、時代的に、デュレンマットにその種の深刻さがあったかどうかは分からない。そして、その殺人者の妻である老婆は、男の少女殺しに気づいていたものの、それを社会的に明らかにすることによって、仲の悪い姉より嘲笑されることに耐えられず、真実を明らかにすることができず、さらには、男に「天の声」を聞かせるような少女を恨むほどである。

 これほど私たち読み手にとって明白な愚かさばかりが続くのは無論デュレンマットの意図であろう。それに対して私たちは義憤を募らせるばかりのつまらない読み手であるわけにはいかない。その連続の意図を、あまりに身近に過ぎて気づくことができないというそれこそミステリの一定石を敷衍して書いてみせた意図を考えなければならない。
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