ナメル読書

時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。


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南勝久「ザ・ファブル」(講談社)

本作2巻に次のシーンがある。

殺しの天才である佐藤(仮名)が就寝の準備をする。ベッドの上に枕を配置し、その上に掛け布団をかぶせ、人型をつくると、裸身の佐藤はバスタブの中にすくんで眠る。

これは寝込みを襲われた場合に対処するための方途なのだろうが、私にはそれだけでは割り切ることのできない、妙に惹かれるものを感じたーーと、いうのは少なくとも主観的な意識の流れ、あるいは後になって振り返ってみてそう思われる意識の流れとは反していて、実際にはそのような魅力を感じたのが先であって、そればかりがしばらく持続し、その後数時間経って、ようやくその合理的な理解に達したのだ。けれども、依然として私の中には、その合理性によってのみでは解消することのできない残余があり、その残余の魅力を説明することが、今回の目的である。

ベッドに人型を作った後に、佐藤は瞑目し、手を合わせる。この行為には、いくつかの解釈が可能だろう。例えば、これは身代わりとなる人型に対して、佐藤が供養として手を合わせていると考えることもできるし、また、自分自身に対して、真面目に供養している姿をしてみせることで、笑いを誘っているのかもしれない。

しかしどのような解釈をとろうとも、この行為がこれまで(2巻以前)とこれ以後(2巻以後)の佐藤の行動原理に照らして、似つかわしいとも思えると同時に、似つかわしくないとも思える。この相反するふたつの感慨はなぜ生じるのだろうか。

佐藤が社会的な規範に従うことができない、というよりもおそらく先天的な理由からそうした規範をそもそも認識し得ないことは本作を一読するだけでも瞭然のことだ。佐藤がこれがフツーだと自覚的に行為をする時にほど、それは社会的にはまったく普通ではないことが明らかとなってしまう。そしてだからこそ、「殺し」という反社会的な目的と達成する時には、最も合理的な手段をとることができる。つまり佐藤はある意味において凄まじいといってよい合理主義者ーーという表現も誤っていて、正確には合理的であらざるを得ない人物なのだがーーそれは社会的な規範から眺めれば狂っている。

独自の合理性に拘束されざるを得ない佐藤であるが、だからといって彼が目的合理性にのみ支配されているとはいえない。例えば、トレーニングとして森に入るときには、同行者に決してちり紙一枚捨てるな、と強く命じる。これは社会的な規範における合理性には必ずしも沿わないかもしれないが、一般に自然を崇める行為として認められるものである。

では人型をつくる行為は殺し屋としての合理的行為であり、それに手を合わせることは、必ずしも合理的とはいえない素朴な宗教的行為として納得してしまえばよいのだろうか。さきに示したように、仮に私が佐藤の行為をはじめにそのように解釈し、しかも残余の魅力があったというのであれば、この合理的解釈をさしあたりの前提として受け入れてもよいだろう。だが、私にとってもその合理的解釈をさしあたりとしても受け入れることが誤っているように感じられるのである。なぜなら、私にとって、そうした解釈ができないけれども魅力であるものとしてこの場面は迫ったからである。だから、これまで「残余の魅力」といった言葉を用いていたのだが、これすら捨てなければならない。主観的な意識の流れを信じるならば、それは解釈可能に対する非解釈可能なものとしての魅力が残ったのではなく、そもそもの解釈を鈍らせるような、解釈を拒む魅力があったのではないかと考えなければならないのだ。

さて、次々と前言を捨てていこう。佐藤の行為に対して、「彼の行動原理に照らして」、相反するふたつの感慨が生じると書いたが、そもそも「彼の行動原理」(狂った合理性・素朴な宗教性)などに照らして、ふたつの感慨を抱いたのであろうか。おそらくそれは異なる。私は、解釈を拒む魅力に形を与えるために、「彼の行動原理」なるものに照らしたのだと仮構し、それから「彼の行動原理」を小器用に導き出したのである。

おそらく、佐藤は自身の主観においては行動原理を持っていると思われる。それはしばしば佐藤が「プロ」を口にすることからも明らかである。しかし、それは読者にとっては、あるいは私にとっては外れたものだ。それは先に述べたように、その行動原理が社会規範に照らして狂ったものであるからではない。また佐藤のボスが口にするように、佐藤という存在のもつ天才が時代にそぐわないものであるからでもない。それは佐藤があまりに抵抗なく「佐藤」という仮名を受け入れてしまえることからも分かる、単に器にすぎないからだ。

それは殺し屋としてのスキルだと佐藤は説明するが、例えば、額を指で突つくだけで、語り口を完璧に変えたり、感情を変えたりするというのは、何者でもなければできないできないことだ。内面というものが人間に備わった本質ではなく、近代社会に対する相関物であるとする考えをとるのであれば、内面のない佐藤は社会から疎外されているどころではなく、そもそも社会なるものがなく、従って社会と内面という対立の間にある存在としてもないのである。あるのは、ただ脳をもった物理的存在である。

ここまでくると、最初にあげた場面の魅力の理由も少しわかるように思える。なぜあの場面において読者は、あるいは私はこころ動かされたのか。そこにはとても残酷なまなざしがある。ものごころつかぬ幼児が、猿が、あるいはロボットが、単に蓄積された記憶の偶発的な連合によって、ベッドに人型をつくり、手を合わせたとしたら。

私たちはそれに対して微笑ましさと不気味なものとを感じ、こころ動かされるのである。



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