ナメル#13 「約束」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

Fr・デュレンマット「約束」(平尾浩三訳、同学社)

 ミステリとは、直感的にはエラーと思われる設定された謎に対し、論理的な手続きを踏み、解を導出することによって物語を収束させると同時に、読み手に対してカタルシスを与えるものであると、一応言うことができる。勿論ミステリも運動としての小説の一部であるので、上の定義らしきものを逸脱する志向を有する作品は多く、例えば、古くは「狂人の論理」が持ち出されたが、これは言うまでもなく、常人には理解しがたい合目的性であり、論理の偏重の変種でしかないし、あるいは、謎が絶対に解決され得ないことを示す場合にも、ミステリにおいては論理的な語り口においてなされざるを得ず、ミステリにおいて論理の至上を揺るがすことはやはり困難であるし、よしんばそれが数歩でも成し遂げられた時には、それはミステリと呼ばれず、単なる小説と呼ばれるものと思われる。

 一方、ミステリとは非常に容易に乗り越えられている、あるいは犯されているともいえる。なぜなら謎の提示と解決は小説の筋立ての骨格を提供し、読み手に対してはそれ故の安心感と一定のカタルシスとを保障するからである。社会的に重要であると思われる問題が、ミステリの意匠を借りて書かれることがあるのは、さきの保証書をつけてその問題を作品化した方が、より多くの読み手を得ることができるという、必ずしも否定することは許されない書き手の功利的計算が働いている。

 次のように述べることは許されるだろうか。ミステリが論理性を自己目的とする時、その他のファクターは論理のための従属的地位であるより他ない。一方、ミステリという形式が意匠として利用される時、それを利用する側、すなわちーーこの言葉は嫌いなので使いたくないのだがーーテーマは重要なものであるか、少なくとも書き手は重要であると信じているものであらざるを得ない。それは深刻な色味がつけられることが多く、滑稽であったものを私は知らない。

 デュレンマットの「約束」はお世辞にも優れた小説であるとは言えない。小説家に元州警察本部長が語るという形式であるが、いくら終盤に本部長にミステリ批判をさせる意図があったにせよ、ほとんどの章のはじめを「H氏の話はつづくーー」などと始めているのはスマートではないし、そのために小説全体が説明臭く、かつ書き割りのようになってしまっている。数日で書きつづったメモを、無理矢理小説に落とし込んだ印象を与える。端的に言えば、表現方法において十分に練られたものであるとはいい難い。

 しかし、ほとんどメモの集積であるが故に、デュレンマットの意図が明確であることも事実である。すなわち、デュレンマットはミステリという形式において、論理に従属するわけでもなく、またあまりに深刻ぶったものでもない、単なる愚かさを書いているのである。

 後者との連関についてはもう少し書いておいて方がよいかもしれない。デュレンマットの描く愚かさは、まったくもって深刻なものではない。それは直感的には感じる必要のない形而上的な愚かさを告げるものでもないし、これまで社会的・時代的パラダイムにおいては認識されなかった愚かさを明らかにするものでもないし、道徳的あるいは法的に重大な愚かさを示すものでもない。それはーー次のように表現するのであればーーあまりに明白にすぎる愚かさであり、その明白さの故に、いずれにせよ「頭のよさ」への強迫観念を抱いている、論理を自己目的とするミステリとミステリを形式として利用する小説とを攻撃するのである。



※以下、事件の真相に触れる。



 主人公格の警部マテーイは、栄転直前に起こった少女凌辱殺害事件に接し、疑似的な回心のようなことが起こり(ちなみにこの回心に説得力がないこともこの小説の弱点である)、栄転も警部の職も捨て、売春婦と、その娘が殺害された少女と似ているがために、彼女を撒き餌にすれば、殺人者をとらえることができるに違いないと考え、猟場としてガソリンスタンドを経営するという愚を犯す。

 さきの元本部長は(事件はこの本部長が現役の時のものである)部下をコントロールすることができぬ愚か者であり、マテーイに代わって事件を担当した警官は単なる功名心の固まりである。そして、マテーイの推論が真実味を帯びた時、マテーイと警官たちは少女の監視を始めるのだが、それが効を奏しないと分かると、逆上し、集団で当の少女を殴りつける始末である。ちなみに、この失敗の後もこの愚かな策に期待を寄せるマテーイは、文字通り始末におけない。

 殺人者は、落ちぶれた名家の老婆が結婚した、知的な障害があると思われる若い男であった。男は特定の少女を見ると、「天の声」を聞いたとして、最終的に殺害してしまうのである。障害者と性、あるいは犯罪については、現在タブー扱いを止め、ようやくのこと課題として認知され始めたところであるが、時代的に、デュレンマットにその種の深刻さがあったかどうかは分からない。そして、その殺人者の妻である老婆は、男の少女殺しに気づいていたものの、それを社会的に明らかにすることによって、仲の悪い姉より嘲笑されることに耐えられず、真実を明らかにすることができず、さらには、男に「天の声」を聞かせるような少女を恨むほどである。

 これほど私たち読み手にとって明白な愚かさばかりが続くのは無論デュレンマットの意図であろう。それに対して私たちは義憤を募らせるばかりのつまらない読み手であるわけにはいかない。その連続の意図を、あまりに身近に過ぎて気づくことができないというそれこそミステリの一定石を敷衍して書いてみせた意図を考えなければならない。