ナメル読書

時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。


テーマ:
野坂昭如「俺はNOSAKA だ」(新潮社、『俺はNOSAKAだ』所収)

A.

 「俺はNOSAKA だ」というタイトルは、「俺はNOSAKA だ」でなければならない。「俺がNOSAKA だ」ではいけない。

 この作品は限りなく野坂昭如に近似した「俺」を主人公としている。「俺」は自身の作品の映画化を許可する契約を結ぶため、またそれによって多額の外貨を得るためにアメリカ領事館で手続きを行う。しかし、本来なら些細な手続きであったはずのものが、相手方とのコミュニケートの手抜きによって、「NOSAKA 」(パスポート表記)と「NOZAKA 」(契約締結者名)とが食い違ってしまったために、「俺」は自身が「NOZAKA 」であることを証明しなければならない羽目になる。

 上の一事のみを見るならば、タイトルは「俺はNOZAKA だ」とすべきであろう。しかし、それはまったくに誤っている。なぜなら、自身が「NOZAKA」でもあることを証明しなければならない事態に陥ることで、「俺」は自身が「NOSAKA」であることにすら、いや野坂昭如であることにすら 根拠が見いだせなくなるのである。いやいや、それもまた転倒としている。そもそも自身が野坂昭如であることの偶有性を直視せざるを得ないが故に、「NOZAKA 」であることの証明もまた、それが弁護士による保証や形式的な宣誓手続きといった簡便な方法によって可能であるとしても、それをすることはできないのである。何故なら、「野坂昭如」という偶有性に対峙することが、「俺」の唯一の倫理であるからだ。

 なぜ自身の偶有性がこれほど強烈に換気されるのか。ひとつは空襲によって、養父母をはじめ家族が皆死んでいったにも関わらず自分(と伝記的には幼い妹)のみが生き残ったからである。そしてもうひとつ、こちらの方が特異であろうが、ほとんど名無しと言ってよい状態で少年院から、実父の元へ引き取られ、それによって生き残った体験である。

 「当時、一週間に一人の割で同室の少年が死に、その少年が実は田島谷昭如で、俺はその身の上話をきかされ、野坂の名を知り、まんまと欺したとしても、まずはばれなかっただろう」

 同じ経験をすれば、上のようなことは仮想として浮かぶかもしれない。しかし、それが「NOZAKA 」の証明を実質自らの意思において拒否するような、そのような強烈な枷ととして機能するのは非常に特異なことである。これではまるで、存在していないにも関わらず存在していることを要請され、その事態を認識する己がいるのだからなんらかの形で存在しているのだろうと主観的には認めざるを得ないにも関わらず、己の傾向性は非存在を向いているようではないか。

 助詞であるところの「は」と「が」について、私は次のように理解している。

 ・「は」は話題の提示であり、主部と述部との距離
  が相対的に遠い。私の感覚で言えば、次のような
  ニュアンスである。
  →俺について言うと、まあ、NOSAKA だ。

 ・「が」は主部と述部とを最短で結ぶ。
  →俺がNOSAKA だ、文句あっか。
 
 上のふたつを懐疑の文にしてみるとおもしろい。

 ・俺はNOSAKA なのか?

 ・俺がNOSAKA なのか?

 「は」では、野坂であることへの懐疑と不信であるのに対し、「が」では、「俺」は「NOSAKA 」なるものを前より知っていて、それがなんと己であったことへの不思議が表現される。

 本作品のタイトルとして、いずれが適切であるかは明瞭であろう。

同著者「プレイボーイの子守唄」(同書所収)

B.

 「プレイボーイの子守唄」はエッセイである。自身の娘を絶対的に甘やかさざるを得ない心性を、戦中になくなったふたりの幼い妹に求めている。

 ひとりは紀久子といい、少年昭如が可愛がっていたのだが、急性腸炎であっけなく亡くなってしまう。もうひとりは恵子といい空襲で生き残った、養父母の家における、唯一の縁者である。といっても、焼け出されたときには1歳にも満たない。

 中学生の年頃である昭如はなんとか生き長らえなせようとするが、案の定失敗する。あの時代に子どもが子どもをそだてることなぞ不可能事なのだ。そもそも不可能であることは事後的な認識というよりも、すでに当時においてこそ一致した認識であった。だから論理的には例え少年昭如が妹の食料をピンはねしたことも、いつまでも泣き止まぬ恵子の頭を殴って静かにさせた(乳幼児の頭に打撃を加えると、脳震盪を起こす)ことも恵子の生死には関わりのないことである。

 「ぼくは、恵子を愛していたと自信をもっていえるが、食欲の前には、すべて愛も、やさしさも色を失ったのだ」

 これをある種の極限状況と見るならば、もはや昭如の他者危害という反道徳は、己の生を尊重するという道徳によって克服され得るだろう。少なくとも、他人である私たちが単純に昭如を道徳的に非難することは難しい。

 しかし、野坂昭如のみはいくらそれをカヴァする道徳的根拠があろうと、自身の手が具体的行為としてなした反道徳を忘れることができない。この場合、野坂昭如の体験は反道徳にあるのであり、道徳は背景であり理屈だからである。

 この後に、理屈に逃れることなく反道徳の記憶を失わない者こそ道徳的なのだ、とでもいえば、キレイなまとめだろうか。しかし、そんな道徳概念のこねくりまわしに野坂昭如が付き合うとは思えない。おそらく野坂昭如は、なぜ昭如が昭如であって、恵子が恵子でなければならなかったのか、という偶有性の暴力にただ曝され続けたのだ。そして、その継続する経験が、「骨餓身峠死人葛」他の小説を招いたのである。

 偶有性の暴力に曝されて、人は死を求めはしない。なぜなら、死によってもそうした偶有性の形象は消えはしないからである。そのような者であったものにとって、死は偶有性の完成でしかない。それは偶有性への屈服またはからの逃避でしかないのだ。偶有性の暴力を避けるには非存在である他ない。無論、非存在は偶有性の克服ではないし、そもそも不可能事である。しかし他にどのような志向があるのだろうか。偶有性との対峙を余儀なくされた以上、他に道はないように思われる。だから、野坂昭如は時に非存在として振る舞ってしまう自身に、戸惑うのである。

 

  
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