週刊誌 Le Nouvel Observateur の2011年8月4-10日(通巻2439)に掲載された Norvège : la bonne réponse (ノルウェー:優れた答え)という記事です。事実関係も8月4日以前のものです。ついでに、同誌に掲載された Le nouveau père de la Nation (新たな国父)という記事も引用しておきます。
(文中に登場するノルウェーの方々の名前の読み方は、ほとんどローマ字読みにしてあるので、間違っていると思います、申し訳ありません)
Monde
NI CHASSE AUX SORCIÈRES, NI ANGÉLISME
Norvège : la bonne réponse
Si l’attentat d’Utoya a décimé une partie de la relève travailliste, il a aussi déclenché un grand débat et entraîné une vitalité démocratique qui constitue la meilleure réponse au tueur
ウトヤ島のテロ行為が労働党の交代要員の一部を大量に殺戮したとして、それはまた壮大な論争を始動させ、殺害者に対する最良の答えとなる民主主義の生命力を結果としてもたらした
DE NOTRE CORRESPONDANTE
アスタ・セーラスは93歳のノルウェー人女性だ。彼女は王国の第二の都市、西海岸にあるベルゲンに住んでいる。これまで政治組織の内部で活動したことはなかった。しかし、オスロの中心部とウトヤ島で77人の死者を出した7月22日の襲撃の数日後、労働党のカードを手にした。「私にはあとどれだけ生きる時間があるかわかりませんが、何かをしたかったのです」と、インタビューしに来たノルウェーのメディアに説明した。
テロ行為後に初めて公の場に姿を現した時、政府の長、イエンス・ストルテンベルグはノルウェー国民に、「さらなる民主主義」によって暴力に答えるように説いた。以来、ウトヤ島で殺された全ての人々の名において、王国の若者たちに政治参加するように求めさえして、首相は絶えず激励を繰り返し続けた。殺された人の多くは労働党青年運動の中で責任ある地位を占めていた。11人は、9月12日の市町村・地域選挙の候補者のリストで、当選するために十分に良い位置を占めていた。
「組織に登録しよう。論争に参加しよう。あなた方の投票権を利用しよう。」 首相が発したメッセージは受け入れられた。かつてこれほどまでに、ノルウェーのあらゆる傾向の政党がかくも短期間に加入申請を記録したことはなかった。労働党と労働党青年同盟はまだ計算していなかったが、殺戮の1週間後に、保守党は600人の新たな活動家を数え、進歩党とその青年運動は580人の新規加入者を記録した。一方で左翼社会党は290人の加入者を記録する。
2週間前からのノルウェー国民の目的は、殺戮の実行者、アンネシュ・ベーリング・ブレイヴィクに、そしてその行動に感化されかねない全ての人々に、自らの闘いが予め敗北していることを示すことである。そしてノルウェー社会がもっと強いことを。敬意と連帯が暴力に打ち勝つことを。保守党の副党首、イアン・トーレ・サンネルは証言する、「7月22日に最悪のことが起こったとすれば、その後我々は、ノルウェー社会が提示できるより優れたことを目撃している。助け合い、団結する人々、責任ある市民社会を。」
人類学者トマス・ヒランド・エリクソン Thomas Hylland Eriksen によれば、ある変化が起こったという。「我々はとても小さな国だ。人々のつながりは極めて緊密だ。だから我々は、実に明確な家族という感覚を持っている。しかし初めて、この家族は移民を含んでいる。」 ウトヤで殺された複数の若者は外国で生まれたか、外国出身の両親を持っていた。多くの移民は、殺人者がノルウェー人であってアルカイーダのメンバーのイスラム過激派テロリストではなかったことを知って安堵した。最近数週間に、複数の大臣、政府の長、ハーコン皇太子がイスラム教徒の共同体を訪問した。「二週間前から、ずっと前からに比べて、ノルウェーでイスラム教徒であるということがはるかに容易になっている」と、トマス・ヒランド・エリクセンは認める。殺人事件以来、国民統合の呼びかけが増えている。この人類学者は「もはや民族的基盤ではなく、市民的あるいは共和国的帰属に基づいた新しいナショナリズム」の出現を指摘する。
国民にならって、政治のリーダーたちは7月22日以来の聖なる統合を擁護する。彼らは、9月12日の投票を目指した選挙運動の開始を8月15日に延期することを決定した。8月1日月曜日の臨時会期に集まった議会を前に、イエンス・ストルテンベルグは、「この悲劇に憎悪と復讐心ではなく、団結、尊厳によって、そしてさらなる民主主義を求ることで答えた」ノルウェー国民に範をとるように議員を激励して、尊厳に満ちた選挙運動を弁護した。
首相は内省を呼びかけた。「我々政治家、ジャーナリスト、論客には皆、このような仕方で意見を表明したことは間違っていたと言う権利があり、そしてそのことで尊敬されるべきだ。」 しかし、「表現の自由に対する魔女狩り」に身をゆだねること、あるいは誰であれ罪を負わせることは、問題外だ。「スケープゴートを探す時ではない」と、彼を支持して、外交のトップ、ヨーナス・ガール・ストーレ Jonas Gahr Støreは強調した。
しかしながら、誰もがこの意見に賛成しているわけではない。2週間前から、ノルウェーでは、アンネシュ・ベーリング・ブレイヴィクが数年間活動家だった右翼大衆迎合で排外主義の勢力、進歩党(FrP)によって広められた憎悪の風潮を非難する声が高まっている。「FrPは、イスラム教徒が我々の文化を破壊しようとしている、イスラム過激派がノルウェー社会を変えその支配権を握ろうとしていると言うことでに時間を費やしている」と、労働党の国会議員、スウェイン・ロアルド・ハンセンSvein Roald Hansenは見る。確かに、アンネシュ・ベーリング・ブレイヴィクが起こした行動で同党を非難することは問題外だ。「しかし、この種の思想が芽生える土地に肥料を撒くことは止めよう」と、同議員は投げかける。FrPの党首、シヴ・イエンセンSiv Jensenは、これからは「言葉の選択がかつてないほど重要になる」と認める。党の内部では、複数の議員が、移民に関する論争における特定のレトリックの使用をあえて非難する。例えば、ノルウェー社会の「卑屈なイスラム化」への不変の言及など。
日刊紙『アフテンポステン』の政治記者、ハラルド・スタングヘレHarald Stanghelleはそれでも、ほとんど幻想を抱かない。「一定の期間は、論争はより礼儀正しく慎ましくなると私は考える。我々を結集させる価値観の方が、我々を分裂させる価値観よりも多く語られるだろう。しかし、徐々に、襲撃前の論争に戻っていくだろう。」 というのは、政治学者スウェイン・トーレ・マルティンセン Svein Tore Marthinsen が指摘するように、「多くの人々はイスラム教徒と移民を恐れている、そしてこれからも恐れ続ける」からである。さらに、ノルウェーの論説委員は警戒する、「我々が言えることまたは言えないことを、ブレイヴィクが定義すべきではない」と『アフテンポステン』でヘルゲ・ルーラス Helge Luras は記す。襲撃後、複数の新聞が、インターネット上の討論のフォーラムを閉鎖するか、利用者の身分提示を要求してアクセスを制限することを決定した。ヘルゲ・ルーラスによれば、それは間違いである。「このような行動は、ブレイヴィクの思想に反論するよりも、表現の自由は幻想に過ぎないという彼の主張を支持することになりかねない。」
ハラルド・スタングヘレは同意する。「論争が白昼堂々と、これらの極端な意見を共有する人々に反論し話し合うことが可能な、公共の場で行われることが重要だ。論争が押し殺されても、それは存在し続けるだろう。ただし、地下に潜って。そして、誰もが沈黙する時、常に陰謀を信じることがより容易になる。」
ANNE-FRANÇOISE NIVERT
Le Nouvel Observateur 2439 du 4 au 10 août 2011
Le nouveau père de la Nation
彼が行くところ、どこでも喝采される。7月22日の襲撃によって起こった損害を確認するために来た、荒廃した政府の本部前でも、イスラム社会の代表者と面会したオスロのモスクの出口でも。若者たちは彼の腕に飛び込む。彼のフェイスブックのページは支援のメッセージで溢れている。
やや退屈で、よそよそしい、国家の偉大な長というよりは妥協の人としばしば描写されていたノルウェー首相、イエンス・ストルテンベルグは、およそ10日間で、国民的英雄となった。ノルウェー人の94%が、彼は模範的な仕方で7-22後に対処したと考えている。彼の反対派でさえ、称賛する。それでも1か月前、連立政権のトップとして過ごした6年間の後に窒息したと言われていたものだ。52歳にして最後の任期を務め、その後は恐らく国際舞台に身を投じるだろうと推測する者も既にいた。9月12日の選挙の前に、40%を超える投票の意向を得て、彼の政党は今や世論調査での記録に達している。
元外務大臣と国務大臣の息子とて、ストルテンベルグは人生の半分以上を政治に捧げてきた。外交官と結婚し、二児の父である彼は、議会、次いで政府に入り、2002年に最終的に党のトップに選ばれる前に、労働党青年組織の指導部でキャリアを積んだ。7月22日、執務室の前で爆弾が爆発した時、彼は自宅にいて、翌日にウトヤで行うはずの演説の原稿を書こうとしていた。襲撃の数時間後、彼は記者会見を開く。
メッセージは明確だ。それは続く日々にも変わらない。「我々は決して自らの価値観を捨てない。我々の開かれた社会がこの試練にも耐えられることを示さなければならない。暴力への答えが、さらに多くの民主主義であるということも。さらに多くの人間性も。」
翌日、ノルウェー国民は初めて、自らの指導者が、ウトヤの殺戮の生存者をうでに抱きしめて、涙にくれている姿を発見する。1979年以来毎年夏に彼が訪れる島、ウトヤの。「地獄に変わった、私の青春の天国。」 4日後、日刊紙『ヴェルデンス・ガング』(『VG』)は、首相の写真の上に見出しをつける。「我々の新たな国父。」
ANNE-FRANÇOISE NIVERT
Le Nouvel Observateur 2439 du 4 au 10 août 2011
ここでは、「犯人を厳罰に処せ」、ましてや「死刑を復活しろ」なんて言葉は、一度たりとも出てきません。そういう意見が当地に全くないとは言い切れませんが、社会を動かすことはないでしょう(そういう声を殊更に大きく取り上げたがる、どこかの国は地球上に存在しますが)。
「アメリカの9-11」から10年(世界の9-11から38年、日本の9-11から6年)の今日、どこかの国やどこかの国では、憎悪を呼び覚まそうとする「報道」が跳梁跋扈するのかもしれませんが、こういう日にこそ、冷静になる意味で、今回取り上げた記事を再読するのも悪くはないかと、勝手に思いました。
(本当は、同誌の2011年8月25-31日に掲載された Les révoltés de Fukushima (フクシマの反乱者たち)という記事を掲載できればよかったのでしょう、震災から6か月の日としては)