1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2017-01-16 21:50:14

アーサー王伝説

テーマ:文学

フランスのギュイエンヌ(現アキテーヌ地方、ボルドーが中心都市)伯の娘に、アリエノール・ダキテンヌという女傑がいた。

 

最初の結婚(1137年)の相手がフランス国王ルイ7世だったのだが、国王とともに遠征に加わった第2回十字軍でのいざこざと、帰国してからも国王の愛し方への不満が続き、ローマ法王に近親結婚を理由に結婚を解消してくれるよう申し立てをした。

 

カトリックは離婚を認めなかったので結婚自体を無効にしてもらったのですね。結婚から15年後の1152年に結婚解消の認可が下りるや、その2か月後には、フランスのノルマンデイ地方に領地を持つアンジェ伯のアンリ(ヘンリー2世)と再婚してしまった。ヘンリ2世は後に英国王となりアリエノールは英国王妃となって、息子にリチャード1世と末っ子のジョンなどを産んだ。

 

トウールの近く、フォントヴロー修道院にあるアリエノールの墓

 

しかしアンジェ伯アンリ(ヘンリー2世)との結婚が後に英国とフランスの間に百年戦争を引き起こす遠因となった。アリエノールの末っ子のジョン王は愚か者で、フランスにあった広大な領地をすべて失い、アキテーヌ伯領だけが残った。

 

1328年にフランス、カペー朝の王だったシャルル4世が没し、男子の継承者を失った。従兄弟のヴァロワ伯フィリップはフィリップ6世として戴冠式を迎えたが、イングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップ6世の王位継承に異を唱え、自らに王位継承権があると主張、ここに英仏百年戦争が始まった。

 

アリエノールという女性は十字軍に参加し中東まで遠征したことをみても、頑強な身体の持ち主で、男勝りな気性の女性だった。 アンリ2世と結婚してからも王宮は一か所に固定せずフランスのあちこちを馬または馬車で移動した。

 

フランス国王との結婚を解消するなどアリエノールはまた、初の女権運動家(フェミニスト)でもあった。従来の結婚は女性を子孫を作るための家畜同然に扱い、恋愛感情など無視したしきたりで、「宮廷風恋愛」だけが真の恋愛だとして、結婚している身であっても貴族、とくに騎士たちと愛の詩を交わすことを奨励した。

 

彼女が最初の結婚で産んだ娘、マリー・ド・シャンパーニュとともに吟遊詩人たちのメセナになりに騎士道物語を書かせた。

 

娘のマリーはシャンパーニュ伯に嫁ぎトロワ(Troyes)の街に宮廷を構え、吟遊詩人のクレチャン・ド・トロワに「荷車のランスロ」と「パーシヴァル」を書かせた。このふたつは「アーサー王伝説」に組み込まれ、今日もなお盛んに映画や演劇の下敷きに使われている。

なお、アリエノールの呼称はフランス南部のオック語の読み方で、北部オイル語ではエレオノールと読む。

 

「アーサー王伝説」をプランタジネット朝がその正統性を保障するために利用した感がある。大陸にあった「シャルルマーニュ伝説」 に対抗するためにアーサー王の墓や騎士たちが上下の別なしに座った円卓が見つかったと宣伝した。

 

アーサー王伝説は、ケルトの伝説に起源があるようで魔法使いの「メルラン」に象徴されるように、フランスのブルターニュ地方と 大ブリテンとの共通の民話的土壌の上に、「アーサー王伝説」が形づくられていったようだ。

 

クレチャン・ド・トロワ以前にもイングランドにはジェフリー・オブ・モンマスGeoffrey of Monmouth (1100年頃ウエールズで出生)が 「ブリタニア列王伝」「マーリンの預言」など、「アーサー王伝説の原型」とも見てとれる書を書いており、それを補完または書き直す形で、「トリスタンとイゾルデ」などのエピソードが加わった。

 

アーサーが異父姉で魔女のモルゴースと束の間に交わした愛で出来た不義の息子で悪の化身、モルドレッドに致命傷を負わされ、聖剣エクスカリヴァーを湖に戻すよう忠実な家臣パーシヴァルに言い残す場面など、賢明な国王が理性では統治し切れない下層意識や悪の分野と、王国を立て直すために「聖杯」を探しに出た円卓の騎士たちが、旅の途中でつぎつぎと倒されてゆき、最後にもっとも身分の低い厩番のパーシヴァルが聖杯と出合い、アーサーに聖杯の酒を呑ませ正気を取り戻させる、といったような中世の騎士たちの生き様が活き活きと描かれている。

 

近代になってからはブルフィンチが「中世騎士物語」を書いており(1858年)野上弥生子の訳が岩波文庫から出ている。面白いので是非一読をお薦めします。

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
同じテーマ 「文学」 の記事
2017-01-15 20:42:31

エル・シド(ル・シッド)

テーマ:歴史

フランスの貴族制度は非常に古くからあり、フランク族の一部族のクロヴィスが北方から侵入してきて、現在のフランスのシャンパーニュ地方のランスのカテドラルで聖油による秘跡を受けフランスの国王の座についてからフランスの王朝とカトリックとの結びつきが始まるが、クロヴィスは古くからあるフランク族の貴族制とローマの貴族制度を合体させフランスの貴族制度とした。

 

ローマ法には「ポテスタス potesta 」という家父長権などの個人に属する権能があり、原義は「力」という意味らしいが、これを公的に拡大してpotesta publica 公権力とした。この公権力は必ずしも世襲制ではなかった。

 

またボッシュの作か他の画家の作かが議論されている「手品師」の項にも出て来た「パトリキ」(patrici)は、古代ローマの血族貴族が起源で、王政期から元老院を構成し、王を合議で指名していたらしい。

 

フランスに限って「騎士」をみると、フランク王国における土地知行政の発達とともに、農民層から法的に分離し、封建社会における支配層を形成した。その特有な精神類型と行動様式を「騎士道」と呼んだ。

 

 

「騎士道ではキリスト教的倫理の影響が強く、イスラム教徒との戦いは、騎士最高の義務のひとつとみなされ……」と(ブリタニカ)にあるのをみると、今日の「ダエッシュ、IS、イスラム過激派」への対応の仕方を想起してしまう。異民族間の闘争の歴史を引き摺ってる 国とそうでない日本とでは、人々の深層心理での反応は違うだろう。

 

昔見た映画で、チャールトン・ヘストン、ソフィア・ローレン主演の「エル・シド」はまさに、ここに書かれた騎士道の見本のように描かれていたが、「エル・シド伝説」のモデルになった実在の騎士ロドリゴ・デイアス・デ・ビバールはイスラムとも組んでキリスト教徒とも戦った。

 

キリスト教=善、イスラム=悪とカテゴリックな勧善懲悪主義でなく少数の邪悪なキリスト教徒と少数の善良なイスラム教徒というプラグマティズムで臨んだのだろう。バレンシアを取り戻した後は、キリスト教徒もイスラム教徒も同様にエル・シドの臣下として扱われ、エル・シドはカステイラ、サラゴサと共に狂信的なムラビト朝と戦い、死後もミイラとなって数十年間バレンシアを守り続け、ムラビトの軍勢が再度バレンシアに攻め寄せた時は、遺体を愛馬の背に括りつけて出陣させ、敵兵が怖れをなして逃げ出したため、妃以下廷臣が無事城を抜け出すことが出来たという。

 

エル・シドが使った剣テイソーナは、1999年の分析によりコルドバでダマスカス鋼を使って造られたと判明し、現在はブルゴス博物館所蔵となっている。

 

叙事詩では妖精によって鍛えられたとあり、アーサー王伝説の聖剣エクスカリバーが湖の妖精に守られるのと似たところがある。

 

フランスでは三大古典劇作家のひとりコルネイユが「ル・シッド」という作品を書いている。

 

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-01-14 21:57:22

貴族と騎士道

テーマ:歴史

ヨーロッパでなにが興味深いかと言えば、それは歴史、とりわけ日本人の男の子にとっては、封建時代、中世の貴族と騎士の存在だろう。 はじめてヨーロッパへ来た年にあちこちを見て回ったが、どこでも古いシャトーやミュゼアムには、銀色の光沢を放つ甲冑と太く長い剣が展示してあった。英国ではウインザー城とかロンドン塔とか大英博物館とか、もうどこだったか記憶は朦朧としているが、大広間の壁際いっぱいにずらっと甲冑が並べられてるのには圧倒された。

 

騎士( Knight, chevalier ) ヨーロッパ中世の武装騎重戦士。広義には国王と全封臣団を含み、狭義には下級貴族をさす(ブリタニカ)。

 

 

「神の思し召しによってこの世に生をうけるのは、平民ならば働くため、地を耕し、仕事にいそしみ、生活に必要なものを生み出すため、 聖職者は、信仰の仕事のため、そして、貴族ならば、徳を高め、正義を維持し、みずからを正しての立ち居振る舞いによってひとの 鑑となるためである。教会の保護、信仰の宣布、圧政からの民衆の救済、公共の福祉の維持、暴力と暴政に対する闘争、和の擁立、これら国家の最重要事は、(とシャトランはいう)、いずれも貴族のつとめである。」 (ホイジンガ「中世の秋(上 Ⅲ 身分社会という考え方 p111 堀越孝一訳 中公文庫)

 

これを読むとへえ~とほんまかいなとため息が出てしまう。が、本来はそうした役柄をもっていたものなのだろう。江戸時代の日本の武士、赤穂浪士が民衆に讃えられたのも、失われたと信じられていた武士の本道を示して見せてくれたからであろう。(その意味でも、 堀部安兵衛が説いた「武士の分」は正しかった)。


日本では貴族といえば、平安貴族、平安末期から江戸時代にかけて「公家」と呼ばれ、手早くいえば天皇を補佐する高級官僚。 後醍醐天皇の時代、足利尊氏と楠正成、新田義貞などの南北朝の時代の「お公家さん」は顔に白粉を塗り口紅すら差して、公家言葉を使い、いくさの現状など無視して、ひたすら正成に尊氏を成敗せよとせまり、結果正成を犬死させてしまった。

 

ブリタニカ百科事典を続けて見ると、ヨーロッパの中世・近代初期では、「領主階層、騎士階層と、貴族階層とを同義に用いたこともある」

どうりで、ほとんどが映画から得たイメージなので、貴族と領主、騎士とがごっちゃになってて、よくわからん、どうなってんだろ? と好奇心が働くので、ちょっくら整理しておこうと思うのです。

 

 (つづく)

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-01-13 20:27:52

強風と入歯の決断

テーマ:老人

昨夜はフランスの北半分、50以上の県に強風注意報が出て、ところによっては風速120km/時となるというので、午後早くに買い物に 行き、降り始めた雨の中を5時半には帰って来た。予想より風雨は激しくなかったので安心したが、風は夕食後の8時頃から強くなり、 用心にしっかり閉めて置いた筈の鎧戸が音を立てたり、開いたりした。

 

寝床に就いてからも、空を吹きまくるごうごうという風の音はますます強まり、家の脇の杉の木が折れねばいいのだがと、恐れながら眠った。夜明け前の6時頃に、いちばん健康な猫のトラジニが外へ出してくれと鳴くのでドアを開けに降りたが、その時はもう風は鎮まって雨も上がっていたので安心してもうひと眠りした。

 

毎週金曜の早朝に回収に来るゴミを木曜の夕方に歩道に出しておくのだが、今朝、そのゴミ箱を門の中に入れる時に、被害はなかったか、向かいの公園を見まわしたが、マロニエの木も枝ひとつ落ちていず無事だった。

 

しかし、ニュースは全国で23万7千世帯が停電の被害にあったと伝えている。また南仏で、庭の木が強風で根こそぎ薙ぎ倒され、不幸にも下敷きになって女性が死亡した、と伝えている。

 

 

18年前にも、北フランスでやはり1月に強風が吹き荒れこのときはかなり怖かった。上空をごうごうと唸りを立てて通り過ぎる風の音が すさまじかった。被害もそうとうでた。

 

その頃はまだフォンテンヌブローに住んでいたのだが、森の松、モミなどの針葉樹が10万本ほども薙ぎ倒された。時々散歩に行って観慣れた場所も景色がすっかり変わってしまった。近所のある有名なお方の家の芝刈を任せられていたので観に行くと、すぐ横に生えていた杉の大木がまっぷたつに折れ、屋根の上に倒れ落ちて枝が屋根を貫いていた。家主さんが日本におられたので急いで電話し2日後には駆け付けて来られた。そういった経験もあるので風は怖いのだ。

 

2枚の画像はお借りしました。

 

ひと月ほど前から奥歯が痛み始め、3日前に歯医者さんに診てもらった。もうだいぶ傷み切ってるので抜くよりしょうがない、と診断された。

 

オーセールの街の私立の診療所にアポを撮って歯全体をレントゲンでパノラマ写真を撮ってから奥歯を抜いてもらう。2年前に左の奥歯を抜かれ、その前、若い頃にも両側の一本手前の奥歯を抜かれ、こんどのが残った最後の奥歯なので出来れば抜かずに治療できないかと願ったのだがダメなようだ。

 

結局、抜歯後に左右2本づつ入歯を作ってくれるという。家計状況からあまり高いようだと困るので訊いてみると10万円弱の見積書を出してくれた。義歯はフランスの強制保険ではほとんど払い戻しがなく、任意保険でカバーするのだが、そちらも2割程度しか払い戻しがない。つい1月1日から新しい任意保険に切り替え、最初の保険料の振り込みをしたばかりなので、払い戻しをしてくれるかが気がかりではあるが、奥歯がないことにはご飯も噛んで食べられないので、やはり入歯を作ってもらうことに決めた。

 

レントゲンは来週の19日。歯の関係は混むので早めに予約を入れないと一か月近く待たされもする。夏のバカンス前後は3か月待たされることもある。なのでレントゲンの翌日に歯医者さんにアポをとった。

 

ああ、入歯か! まあ、総入歯じゃないのが、慰めだ。

 

むかし爺さんが食事のたびに入歯を口から出して茶碗に入れたさ湯で濯いでいた。あれほど年齢を感じさせる光景はないもんだ。幼稚園ぐらいだった子供には実にショッキングだった。

 

左右の奥歯2本づつの入歯を作ってもらい、ご飯が美味しく噛めるようになるのを祈ってます。

 

ボッシュの「聖アントニウスの誘惑」の絵は、まだ中央パネルの火事の場面と、右翼のパネルが残ってるのですが、この辺からはアントニウスに限らず、内面的なキリスト教の信仰にかかわることなので、今は書ける状態にない、と判断しました。機が熟したらいつかまた続きを書きたいと思います。

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
2017-01-12 21:28:38

14・15世紀のペスト

テーマ:歴史

1348年、ペストは中東から風に乗ってジェノアの港に上陸した。火矢を放ち、武器をもって、疫病を追い払おうとしたが無駄だった。 病原菌は目に見えなかったし、風ではなく、船に乗ってやってきたネズミにたかる蚤がもたらしたものだったから。

 

空気感染するペストはたちまち北イタリアに広まり、春には南仏のマルセイユ、ナルボンヌ、モンペリエを、そしてローヌ河の渓谷を遡り 春にはリヨンに、8月にはパリに、10月にはロンドンに達した。1349年には、商業ルートを通じて全ヨーロッパに蔓延した。

黒死病と呼ばれたこの疫病は7世紀以来、ほとんど絶滅したかのようだったが、飢饉で衰弱した人々を薙ぎ倒した。感染は電撃的だった。数メートル先でも吐き出す息から、患者と接触し、着物に触っただけで感染した。48時間のうちに死体は黒く変色した。

 

フィレンツエでペストを体験したボッカチオはこう書き残している。

 

「病気の初期は男も女も、鼠径部と脇の下に腫れを生じ、大きなものは普通のリンゴほどにもなり、あるものは小さくて卵ぐらい、もっと 小さいのもある。すこし経つと感染の様子が変わり、腕の内側や腿に黒または鉛色の斑点が生じる。このような兆候が現れてから3日もするとほとんどすべての感染者は死んでしまう。この疫病に力を与えているのは、病人から健康な者に、あたかも乾燥した、あるいは油を塗ったものを火に近づけると燃え移るように、病気がうつるからだ。フィレンツエの城壁の内側で、確実に10万以上の人が命を失った。」

 

この犠牲者の数字については、ステファニという年代記作者は、9万6千とし、現代の歴史家は5万から8万人としている。

地域によって犠牲者の数は異なるが、死者の数のより厳密な計算でも、ヨーロッパの人口の35%がペストにより失われた。

現代でペストとおなじような災害が降りかかったとしたら、死者の数は3年で2億人に上り、第二次世界大戦による犠牲者の4倍にもなる。

 

飢饉と同様に、いちど居ついたらペストはヨーロッパにしっかりと食らいついて人々を離さなかった。 1360-1362年にまた戻って来て、この時は若い人が犠牲になった。さらに、1368-1370、1375-1378、1380-1383、 1399-1400、1418-1420、1433-1434、1438-1439、1457-1458と続いた。そして、ペストが流行らない時はコレラと結核が流行した。

 

パリ周辺を含めたイル・ド・フランスでは1348年と1444年の間に人口の半分が犠牲となった。トウルーズでは人口が3万人だったのが1348-1350年の間に2万2千500人に減った。イエープルでは3万人が1万8千人に。アラスでは2万人が1万人に、チューリッヒでは1万2千300人が4千700人に。英国では1348年に375万人だった人口が1400年には210万人にも減った。神聖ドイツ帝国は35%人口を失い、フランスは50%減った。

 

トマス・バザンはその「シャルル7世の歴史」の中でこう書いている。

「シャンパーニュ地方、ボースの麦畑、ブリから、ガテイネから、シャルトル、ドルー、メンヌ地方から広がる広大な平野、フランスの、ノルマンデイーのボーヴェの、コー台地の、セーヌからアミアンとアベヴィル方面へ、サンリス、ソワッソン、ヴァロワからランまで、その北のエノー方面まで、耕作もされず放置されたまま、住む人すらなく、雑草と藪に覆われ、ひとっこ一人いない、不毛の砂漠が広がっているのを目にした。」

 

時代は少し下がりますが、「聖アントニウスの誘惑」を描いたヒエロニムス・ボッシュは1516年に没しますが、死因はペストだったといわれています。

 

上の図は、1550年頃、ジャック・ル・ブックが描いたとされるボッシュの肖像画(紙に木炭と赤いチョーク、アラス市立図書館蔵)

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。