フランス語と日本語のバイリンガルのブログサイトを作りました。
なにか偶然にでもリンクに出会いましたら、ちょいと寄り道してください。

https://v4.simplesite.com/#/pages/439463657?editmode=true#anchor439463657

ここをクリックしてみてください。

いまはトライアル中ですが、徐々に向上を目指しますゆえ。








 
             

  • 22Apr
    • リンゴと菜の花

      しろたえが咲いてから、一気に庭が華やかになりました。                  青空に映えるしろたえ↑ ここ5日間連続して晴天が続きました。昨日は抜けるような青空で初夏の陽気でした。この冬は長く雨ばかりだったので猫たちも痩せて弱ってしまい久し振りの日光に身体を伸ばして昼寝です。                 トラジニ↑                   ベベノワール↑めのおも肩や腕が痛いので日光浴をしてるうちに眠っていました。向かいの公園のマロニエの木も若葉に覆われポプラも芽が出ています↓初夏のようなお天気も今日で終わり。空は薄雲がかかっています。しろたえは散ってしまい、代わってリンゴの花が満開です。晴れた日の午後は気温が28℃まで上がり、蕾が出たと思ったら翌日は満開でびっくりしました。隣の家は専門学校の先生ですが急な転勤らしく工事中の家をほったらかして実家のオーヴェルヌへ帰ってしまい、ここ3年間ほど空き家です。庭は猫たちの格好の遊び場になってます。庭に昔からある洋梨の木に沢山の花が咲き実も生りますが誰もとらずに落ちてしまう。隣との境にウチの洋梨も咲きましたが、まだ小さいです。隣とウチのポワール(洋梨)の花↑チューリップは前の前の家主さんが植えたのが芝刈りをしなかったら沢山顔を出しました。観賞用(花だけで実がならない)フランボワーズ ↓ フランボワーズまたはグロゼイエ・ドルヌマン菜の花が真っ盛りで散ってしまう前に写真を撮ってきました。菜の花に囲まれた農家↑いつもジアン(Gien) に買い物に行く途中の道路脇の風景です。奥の集落はラヴォー( Lavau )村↑「いいなあ~」と思いながらも停まったことがなかったので、今日は道端に停めてゆっくり写真を撮りました。こういう古い農家がまだこの辺りには残ってるんです。「いいなあ~」と思うのは、特にこの農家が デユーラーを思い出させるからです。デユーラーは15世紀後半から16世紀初めのドイツの画家。古い農家の絵は素晴らしいですね。ここはブルゴーニュとサントル地方の境界、県で言えばヨンヌ(Yonne)県とロワレ(Loiret)県の県境になります。ブルゴーニュはロワール河畔の軽やかで明るい風土と違って質実剛健です。ブルゴンド族はゲルマン系なんですね。道端にはタンポポと競うように「ククー」が咲いています。さくら草の一種らしいですが日本にあるかわかりません。小さな青い花は「忘れなぐさ(ミョーゾテイス)」、ギザギザの葉はイラクサ。リラが3分ほど咲きました。満開を待って写真を撮ろうと思います。(*^▽^*)

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  • 21Apr
    • 巴里の耐乏生活 Foujita という画家 その⑦

      画家たちの窮乏を見るに見かねた裕福な人が自分の家にカンテイーヌ Cantine を設けて食事を振る舞った。モンパルナスのボアソナール街にあるアメリカ婦人のカンテイーヌでは、ジャガイモやマカロニ料理にコップに三分の一ずつのワインも付いていた。そこが2・3か月で閉鎖されてしまうと、ロシアの女流画家で裕福なスウエーデン人のパトロンが居たマリー・ヴァシリエフのアトリエでカンテイーヌが開かれた。台所では2・3人の画家が交代で炊事をし、貧しい食事を分け合った。食事の後、マリーは好んでパリに着いたばかりの頃、アンリ・ルソーに求婚された時の話をした。なぜ結婚しなかったのかという皆の問いにマリーはルソーには死の匂いがしたと答えた。マりーのカンテイーヌには画家の外に音楽家や詩人、政治亡命者たちも来た、トロツキーも姿を現したという。藤田のトレードマークとなったおかっぱ頭もこの頃に出来た。それは理髪店に行く金がなかったから自分で髪を切って生み出したスタイルだった。髪が長く伸びて眼の前を塞ぐので鋏で切り揃えた。時には横を数段長さを変えて切ることもあった。これらはみんな耐乏生活から出た藤田の知恵なのだった。オランダ人の画家ヴァン・ドンゲンはその頃の画家仲間ではいちばん売れていて羽振りの良い 暮らしをしていたらしい。たまに画家仲間をパリの社交界の人々とのデイナーに招くことがあった。藤田もある晩招かれて、食事の後の余興を乞われて詩吟を唄いながら剣舞を披露したところ大喝采を受けた。これがドンゲンも気に入って以来仲良くなり、フォリー・ベルジェ―ルなどキャバレーの舞台に立ち、藤田とふたりで即興のデッサンを観客の見ている前で4・5分で描いてみせる芸をやった。ネコを抱いている裸婦の絵は藤田がネコを担当しドンゲンが裸婦を描く。同時に始めて同時に終え、一幅の絵を完成させるという芸。こうした芸の外には藤田は他の画家のモデルをやって小遣いを稼ぎどうにか飢えを凌いでいた。これもまた藤田の工夫の一つで、こうして稼いだ小銭は、家に帰ると空中に放りあげる。小銭は あちこちに散らばり、見えなくなってしまう。ほんとうに困った時に床に這いつくばって探すと隠れていた銭が見つかる。藤田は写真では痩せて華奢にみえるけれども、子供の頃から柔道をやっていて体力と耐久力はあったらしい。戦時下のパリで餓死寸前の日々を送りながら、画家として必ず世に出て見せるという意志を貫くにはよほど固い信念と耐久力がなければできないことだ。ドイツ軍はいよいよパリに迫り、モンパルナスでも大砲の音を聞くようになった。 作家の島崎藤村は身の危険を感じて、磁器で有名な南西部のリモージュへ疎開した。藤田も戦争中1年間だけはロンドンに疎開している。ロンドンではテーラーに住み込んで下働きをしながら洋服の仕立てを覚えた。後になって藤田は手に入る布地で自分の気に入ったスタイルの服さえ仕立てている。日本人経営の骨董店で仏像の修復などもした。セルフリッジで象牙細工や七宝、貝細工、漆細工などの技法を覚えた。特に象牙細工の技法を覚えたこと、象牙の質感を細工技術を通じて触覚的にとらえたことが後に裸体画の肌の独自な表現と技法に役に立った。赤貧生活のなかで藤田は自分が描く絵の独自性の追求を続けた。パリという世界の芸術の中心で認められるには独自の個性を打ち立てなければ成功はありえない。人の真似ではなく、だれもやっておらず、どこにも存在しなかった新しいものを創り出さなければならない。大曲で生まれた私は生まれながらの「つむじ曲がり」で、と後年ふざけて語ったが、人の真似は死んでもやるまいと決意していた。時の流行(マチスやブラマンクなど)が幅広の筆で描くことなら俺は逆に細筆の真書(しんがき、楷書の細い字を書くのに用いる筆)で描いてやろう。マチスのように派手な色を多様に使って受けるのなら俺は黒と白の無彩色の画面を作ってやろう。スゴンザックが厚塗りで認められてるなら俺はコローのような薄塗りでゆこう。藤田は風景画ではコローにいちばん惹かれていたようだ。こうして人の逆手を行くことで独自性を追求した。藤田のデビューは裸体画だったのだが、修行時代の藤田は裸体画が描けずもっぱら風景画を描いた。構図の研究から500枚も風景画を描き、裸体画を描くようになったのは8年後のことだった。1914年に描いた油彩の風景画「巴里城門」はパリの風景を借りて東洋画の持つ詩情を見事に表現した作品で、藤田自身後にアルゼンチンへ行った時に画廊のショーウインドーで見つけ大枚をはたいて買い戻し以来ずっと秘蔵していた。ここで芸大の卒業制作に戻るのだが、黒田清輝が教え子の学生みんなの前に藤田の絵を持ち出して「悪い絵の見本」とこきおろしたことは前に書いたが、その絵が房州の風景に漁師などの人物を配したものだったのか、それとも自画像だったのか? という疑問が残る。夏堀氏は、美術学校予科の卒業制作が房総の風景だったと書かれているが、近藤史人氏の「異邦人の生涯」には黒を使った「自画像」だったとしておられこのほうが黒を避けよと指導していた黒田清輝に真っ向から反抗した藤田という面が明らかなので解りやすい。その辺の追求はまた別として、藤田の黒について深く考えて後に裸婦像に黒を使い、それによってパリでのデビューを飾ったことを考えれば、西洋の真似事よりも日本の独自の伝統を西洋で発揮したことが世界的な評価につながったことを考えると誠に意味深い。「黒田を筆頭とする日本の紫派が禁じていた黒こそ日本の最も得意とする色ではないか」と翻然として悟った藤田。しかし、黒色では到底日本の先輩たちには勝てないと知るや、反対の白を、その白色の麗しさを土台に使って、白を白色として生かし、その白色によってさらに黒を生かすことを考えた」(夏堀全弘著「藤田嗣治芸術試論」110頁)   (つづく)

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  • 20Apr
    • Léonard Foujita という画家 その⑥

      藤田がパリに着いた翌1914年、第一次世界大戦が勃発した。父親は30歳まで仕送りし生活を支えてくれるという約束をしていてくれたが、困ったことに日本からの送金が途絶えてしまった。当時藤田は家賃を一か月11フラン払っていた。将来の暮らしを考えて藤田はパリ郊外に猫の額ほどの土地を買い野菜など栽培していたのだが、その土地も徴用されてしまった。「飛行機の襲来は連日続き、私の地処も塹壕に化され、自分の用意は根底から覆されて、無一文に ならねばならぬ羽目となった。自分の理想とか計画とかは容赦なく壊されていくという事が初めて 良くわかった」(藤田嗣治著「巴里の昼と夜」)多くの日本人がパリを去ったが藤田は残った。大使館に出かけ石井菊次郎大使に、「この丈夫な若い身体で臆病にもパリから逃げる気にはなりません」と啖呵を切った。川島とザッキンとともに軍隊に志願したが、赤十字の救護員に回された。小学校の校庭で担架を運んだり包帯を巻く訓練を重ねたが前線に送られることはなかった。灯火管制がしかれ、夜空襲のサイレンが鳴ると人々は灯りを消して地下室に逃げ込んだ。そうした中も藤田は絵を描き続け、アトリエの天井から明かりが漏れていると隣人からたびたび非難を受けた。生活費に困り、食うや食わずの生活を余儀なくされた。3日間、水だけ飲み、芋一個だけ食って暮らす日も続いた。ひもじいのと絵描きの体力を保持するために近所の肉屋で猫にやると言って肉のモツを買いスープにして食べた。「それにしてもしかし身体は大事だから裏通りの肉屋で肉のモツを十文飼猫にやるからと毎日買いに行って、スープに煮出してたべて居た。肉屋は大きな呼声して猫の肉十文とはりあげる。何週間かたった日におまえの処に猫は居ないじゃないかと問われて、その猫は俺の事だと言ってやった」(夏堀用手記)藤田嗣治 「トラ毛の猫」↑ 1929、紙に墨と水彩。29x20 cmこの頃、ドルドーニュ地方のマルザックに行き、幸運にも、世界的考古学者アベ・ブルイユが丁寧に説明をしてくれて洞窟画を観た。数万年前の人類が描いた洞窟画の線は藤田に輪郭線による形象の把握と表現に深い暗示を与えた。やがて秋から冬が来て、藤田はアパートにあった燃える物すべてをストーヴに入れて燃やした。ベッドも机も売り払い、絵の具箱もシュヴァレと呼ばれる画架も木枠も、食器も匙やナイフまでも売り払い、箸も売ったので絵筆を箸にして食事をした。果てはせっかく描きためた100枚近くの油絵も、これだけは残す価値があると認めた12・3枚のみ 残しすべて暖房の燃料となり消え果てた。油彩画の材料となる木枠は燃やしてしまい、キャンバスや絵の具を買う金もないので、もっぱら鉛筆でデッサンばかりをした。何もないがらんとした床に寝転がり、心に浮かぶままの形をデッサンした。デッサン用の紙も買えず、包装紙やなんでも手に入る限りの紙をしわを伸ばしてその上に描いた。この時のデッサン一筋に集中した訓練が後の作品の絶妙な冴え(線)となって活きるのだ。藤田のデッサンは独特で、めのおが上野で北斎と同時に藤田嗣治展を観た時に感じ取ったこと―― この二人の画家のデッサンには共通するところがあると、その通りのことを藤田自身が語っている。日本では、特に彫刻や油彩画の基礎教育となるデッサンに際し「マッスを摑め」と教える。彫刻のためのデッサンならマッスを摑むことが大事なのはわかる。しかし二次元の絵画の基礎となるデッサンを輪郭線で描いてなぜいけないのか。日本画の伝統はなんとしても線にあるのだ。対象を観察し、生きたものとして心に収める。紙の上に鉛筆なりコンテなりで線を引く―― この時は、心に映った像を紙に写し取る行為に変わっている筈だ。頭と心が命ずるまま手を動かして線を引く。写真と絵、デッサンが異なるう理由はここにある。藤田はフルスピードで走り抜けるオープンカーに乗った複数の人物を正確にデッサンすることが出来たという。動体視力が発達していたとか言われてもいる。走っている馬と騎手を瞬時にして捉え動きを絵に描くことが出来たドガにも共通するところがある。藤田は少年の頃から北斎の絵が好きだったという。共通した才能を持つ者同士の間で惹きつけるところがあったのだろう。藤田はデッサンの最初の線は「いちばん興味を惹かれたところから始める」と言っている。手なり口許なり、いちばん面白く感じ、ここを描きたいと感じるところをまず描いてしまう。そこを描けばもうほとんど絵は出来上がったと同然で、あとの形は自然とできてしまう。「私が描く場合には、尤も一番興味を感じた場所例えば膝に現れた皺が面白いと感じた瞬間に直ちにこれを捕へ、或は脚の組合せに一番興味を引いたらば脚の方を描き了って胴より頭へ描き上げて行く、顔面中で口と鼻とに癖があって眼を引くとすれば即ち口から描く、後に眼へ発展し額へと延びて行く、尤も強く自分の興味を打った所から初める故、既にその部分だけ出来ていても画は大半を完成して得る訳となる。自然に延長して行く方向は自由になるままにまかせて行くのである。単にアンスピレーションの湧いて来るのを待ち絵に着手を只気永に待つと云ふ事より興味を湧かして物をインテレストする事が尤も肝心である。面白みを感じ描かく興味の一筆を下ろせば画は運ばれて行くのである。」(「腕一本」に藤田自身が記述したデッサンの心がけ)藤田が描いた「猫」なり少年や女性の顔、口許なり、たった一本の線で、「おお、たしかにこういう表情をしている」と感じさせる作品が無数にある。藤田は信じられないほどの訓練と集中力で絵に打ち込んだ。一日に14時間から長い時は18時間も絵を描き続けた。文字通り寝食を忘れて、デッサンと絵の修行に打ち込んだ。それだけの意志力と体力を備えそれを維持するためにスポーツもした。時間が経つのも忘れ、物音がしても気付かず、煙草の火が膝に落ちてズボンが火事になっても気付かずに絵を描き続けた。   (つづく)

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  • 19Apr
    • Léonard Foujita のモンパルナス時代

      藤田嗣治が着いた1913年のパリは、シャンゼリゼ劇場でストラビンスキーの「春の祭典」がニジンスキーの振り付けで上演され、美術史上では日本に紹介され始めた印象派の時代は既に終わり、フォーヴィスム、キュービスム、素朴派の時代に入り、そしてシュールレアリズムが台頭しようとしていました。ピカソら若い芸術家がたむろしていた集合アトリエ「洗濯船」があったモンマルトルに代わり、パリ南西部の低い丘陵地に、ブルターニュ地方へ行く列車の出発駅を中心に広がった町モンパルナッスに、家賃が安いこともあり芸術の町として世界中から若いアーチストが集まり始めていました。藤田はモンパルナス通りを少し入ったシテ・ファルギエール通りにあったみすぼらしいアパートにアトリエを見つけそこを借りて住みはじめます。同じ建物の隣部屋にモデイリアニが、そしてリトアニアから無一文で出てきたスーチンが居ました。次の画像は 1913年パリ到着の年に藤田が描いたスーチンのアトリエと題する絵です↓Atelier de Soutine, 1913 、キャンバスに油彩。41.2x33.2cm。ランス美術館蔵他にも、スペイン人のピカソはじめ、ロシアから来たシャガール、ブルガリア生まれのパスキン、オランダ人ヴァン・ドンゲン、イタリアのモデイリアニ、ポーランドのキスリングといった画家仲間がいました。彫刻家ではザッキン、ブランクーシ。フランス人ではドラン、ブラック、ヴラマンク、女流画家のマリー・ロランサン。詩人ではマックス・ジャコブ、アポリネール……彼らは貧しいなかでそれぞれ独自の美の創造を目指し、仕事をした後、毎晩のように、カフェ・ラ・ロトンドやラ・クーポール、ル・ドームにたむろして時に破天荒なお祭りをやったのでした。後に批評家のアンドレ・ワーノッド(André Warnod )はこれら芸術家のグループを「エコール・ド・パリ(パリ派)」と呼びました。カタログにあるこの批評家の文を引用しますと「L'Ecole de Paris existe. Plus tard, les historiens d'art pourront, mieux que nous, en définir le caractère et étudier les éléments qui la composent; mais nous pouvons toujours affirmer son existence et sa force attractive qui fait venir chez nous les artistes su monde entier. Les artistes de l'Ecole de Paris deneurent fidèles à une certaine figuration.」 (André Warnod, in Comoedia, 27 janvier 1925)和訳:「エコール・ド・パリ(パリ派)は存在する。後年、美術史家は、われわれよりずっと良く、この派を構成する要素を研究し、その性格を定義することができるだろう。しかし、われわれはパリ派が存在していて、世界中からアーチストをわれわれの許に招き寄せ惹きつける力を持っていると主張することができる。エコール・ド・パリのアーチストたちはある種の具象芸術に忠実であり続けている。」(アンドレ・ワーノッド、1925年 1月 27日付、コメデイア掲載の記事)パリに着いた当時の藤田は、セザンヌ、ルノワール、ゴーギャン、ゴッホはまったく知らなかった、と述べています。藤田は先にパリに来ていた日本人画家、川島理一郎と知り合いになります。当時パリに学んでいた日本人画家は17・8人居たといわれています。川島は舞踏家レイモン・ダンカンに心酔しており、美はすべてギリシャの初めにかえるという独特の哲学を持っていて、その哲学を体現するかのように川島はギリシャ風の衣装を着て街を練り歩き、藤田もいっしょに、白い貫頭衣を被り、足にはサンダルを履き、腰に刀を差して練り歩いたそうです。この時の姿を実際に見た人の中に、作家の島崎藤村がいます。藤村は当時41歳。「新生」事件と呼ばれる問題を姪との間に起こし、心を整理しようとパリに滞在していました。藤村は小山内薫と親しく、その親戚の若者がパリに来ていることを聞き知っていました。二人はカフェで出会います。この時の藤田の様子を藤村は「エトランゼエ」に記しています。「藤田君は、厚い毛糸で織った寛闊な上衣の胸のあたりにネクタイを結んで、皆の中に腰掛けていた。耳のあたりまで垂れ下げた美術家らしい黒い髪も私の眼に付いた。風俗正しい巴里で破格なのは美術家だが、その中でも藤田君のは窮屈な様式を捨てている方だった。……様々な方法の生活の試みは、単なる好奇心や一時の出来心からでなく、ギリシャの昔に帰ろうという所から来ていた。……夢見るものはそこまでヨーロッパの源に遡ろうとするところにあるらしかった。この試みは時には奇異に、時には突飛に見えた。でも藤田君は平気でそれを続けようとしていた。最初の内こそ私も『巴里にはいろいろな美術家が居る』と思ったこともあったが、それで押し通そうとする藤田君の忍耐を笑えなくなった。それに、少し見慣れたら破格な服装もさほどに思われなかった」藤田は「奇矯な行動」とか「目立ちたがり」とか後に日本人批評家から言われた動機からではなく、作家・島崎藤村が見抜いたとおり、「ヨーロッパの源」に迫ろうとする夢を真面目に試みていたのでした。同じ建物の隣のアパートに居たモデイリアニとは藤田が「親友」と書くほどに友情を深め、後にズボロフスキーの奨めで南仏のカーニュにも一緒に行って滞在し、パリに戻った冬、モデイリアニが寒い夜を一晩外で明かし、それが元で死んでしまった時は、非常に悲しみ、その葬儀に数少ない参列者として加わりました。40年以上も後に、晩年の藤田が日本を捨て、パリに戻った時、記者会見の締めくくりに「私が死んだらモンパルナス墓地のモデイリアニのそばに埋めてください」と語ったほどでした。モデイリアニについては15歳のめのおが映画を観て、パリに行こうと決心したこともあるので、後日もう少し詳しく書きたいと思っています。隣人スーチンは、モデイリアニの晩年を描いた映画「モンパルナスの灯」にも出てきます。スーチンが描いた絵を見てモデイリアニが「いいな」と感心する場面です。しかし、この映画に藤田が少しも出てこないのは何故か? 不思議に思えます。ハイム・スーチンは、ポーランドとの国境に近いリトアニアの小さな村で貧しいユダヤ人の仕立屋の11人兄弟の10番目に生まれました。藤田と同じ年にパリに着いています。貧しくて肉を描くにしても買えないので肉屋から借り、描いた後返すというやり方をしていたそうです。独特のゆがんだ線と鮮烈な色彩で、肉塊や貧しい人々の姿を描きました。パリのチュイルリー公園とコンコルド広場の間にあるオランジュリ美術館(昔の印象派美術館)には20点ほどスーチンの絵が掛けられています。身だしなみにまったく気を遣わず、風呂に入る習慣が無く、頭はぼさぼさで油にまみれ、虱がわいていました。痒くてたまらなくなると藤田のアトリエを訪ねては、膝枕して虱をとってもらったそうです。「スーチンの頭の中にはしんじられないくらいたくさんの虱がいてね、それをひとつひとつつぶしてあげるんだ。そうするととても幸せな顔をしてね……」と藤田は晩年になっても君代夫人に笑顔を浮かべながら語ったといいます。8歳年下のスーチンを藤田は弟のように可愛がったのでした。  (つづく)

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  • 18Apr
    • 模索時代の Foujita

      「植民地用の白ヘルメット、馬鹿に延びた麻地の上着に不釣り合いに細く短いズボン、深ゴムの 黒靴」といういで立ちで、マルセイユそしてパリに着いた青年藤田。この恰好からしてすでに多少、「奇を衒う」青年藤田の性向が伺えます。横浜出航が6月18日だから日本は梅雨から真夏に向かうころ。南回りの航路なのでシンガポールとかマラッカ海峡とか熱帯地方を経て、紅海、スエズ運河を通り地中海に入った。45日間の航海です。「航海に汗ばんだ」麻地の上着と藤田が書いている(「地を泳ぐ」)とおりだったでしょう。だけど漫画タンタンがコンゴに冒険に行って被るみたいなアフリカの奥地探検家とか英国植民地支配者が被った帽子をどこで手に入れたんだろ? あの時代、東京にそんな店まであったのかな?これはベルギーの漫画家エルジェ Hergé が「コンゴのタンタン」に描いた絵ですけども出版は1931年ですからずっと後ですよ。「三島丸」でマルセイユに向かう藤田嗣治の船上の写真がカタログに載ってたのでスキャンして貼り付けます。エルジェが描いたタンタンとそっくりモードですね。ズボンの細いのは最近の流行だから特におかしくはないけれど、生真面目にネクタイ締めてるとこなんか可愛いいですね。さて、子供の頃から夢見たフランスにいよいよ上陸です。パリに着きエドガー・キネ街、オデッサ通りの安ホテルに身を落ち着けるとすぐにモンパルナッスを訪れます。モネ・ピサロ・シスレ、ロダンなどが日本では流行し、白樺などで盛んに紹介されていた時代。 「それらの大家を包容する芸術の国フランスへ――そのフランスを目ざして故国を後にする時の自分の決心は、旧式だけれども男子一度志を立てて郷間を出づ――といった工合で、自分の精神が徹(とお)らなかったら、志が成らなかったら再び日本に帰らない決心だけは堅くしていた。」(「在仏17年」藤田嗣治画集で語った言葉)芸術、美術の中心パリで必ず成功してみせる、と、この内向的な青年は心の底に固い決心を抱いていたのですね。少年時代から燃やし続けた静かな炎がこの時燃え立たんとするのを抑え、冷静に絵画の基本から徹底的に見直す戦略を実行してゆきます。ここで藤田嗣治の画風につきちょっとだけ印象を述べますと、佐伯祐三にみられるような烈しい情熱を直接画面にぶつけるのではなく、一見冷たくも見える理知的な画面構成をしたうえで根気よく画面を作って行く。そこが藤田の絵が「職人的」と評される所以だと思うのですが、そうした画法に観られるとおり、パリに着いても焦ることなく己が進むべき道を模索するのでした。ルーブルへ通いエジプト、アッシリア、バビロンといった東洋と西洋の接点の芸術を研究から手をつけます。パリ到着の二日後に、スペイン人のオルテスと知り合いになり、ピカソのアトリエに連れて行ってもらう。当時のピカソはキュービスムの時代。ピカソはそのとき藤田にドウワニエ・ルッソーの絵(夫人の像)を見せます。藤田は印象派とはまったく違うルッソーの絵に非常に感動するのでした。「絵画はじつにかくまで自由でなければならなかった」日本で受けた教育が黒田の模倣に過ぎなかったこと、黒田が、紫派が禁じていた黒こそ日本のもっとも得意とする色ではないか、と翻然として悟り、ピカソの家から帰るや、「クロダ先生ご指定の絵具箱」を床に叩きつけて壊しました。「クロダがクロはダメだと言いおった。ダメなのはクロダでクロでなければだめなのだ」と呟きながら……(笑)。上は、ルッソーに刺激を受けて描いた模索時代の藤田のパリ郊外、マラコフの風景画です。    (つづく)

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  • 17Apr
    • Foujita の青年時代

      明治36(1903)年、嗣治17歳。東京高等師範附属中学校(後の東京教育大学付属、現在のつくば大学付属)4年の頃より(当時の旧制中学は6年制)嗣治はフランス留学の準備のため、暁星学園の夜学に通い、3年間通学してフランス語の勉強を始めました。Léonard Foujita 展のカタログ(Musée Maillol/ Culturespaces Fonds Mercator 刊、フランス語)にはこう書いてあります。L'attrait pour Paris est tel qu'il suit dès l'âge de 17 ans les cours du soir organisés par l'école privée l'Etoile du matin, Gyosei, à Tokyo. Cette institution, fondée par des frères marianistes en 1888 ……。ここで暁星学園という学校について触れますと、フランスのボルドー付近出身の司祭ギヨーム・ジョゼフ・シャミナード氏がフランス大革命時、弾圧を逃れスペインに亡命しますが、後にボルドーに戻り1817年にマリア修道会(女子)、マリア会(男子修道会)を設立します。これを基に世界的に広まった修道会の共同体を総称して「マリアニスト marianistes 」と呼んでいます。日本には1887年5人のマリア会員が派遣され、翌年東京に暁星学園が創設されました。1891年には長崎に「海星学園」、1898年「大阪明星学園」、1901年横浜「セント・ジョセフ学院」、1946年「札幌光星学園」が創立されています。1917年作、パリ郊外、ポルト・ダルクイユの風景↑ キャンバスに油彩、日本の個人所蔵嗣治に戻りますと、明治38(1905)年、19歳で中学を卒業、すぐにフランスに留学したかったでしょうが、父親が息子の将来を気遣って、陸軍軍医の先輩に助言を求めたのですね。その先輩は軍医総監の石黒忠直と森鴎外なのです。森鴎外がこういう助言をくれた、と「巴里の横顔」に嗣治自身が書いています。「仏蘭西に行くのも宜いが何しろ日本の画会と云ふものは非常にごたごたが多いから、矢張り美術学校に入って先生方と近付きになったり、色々の絵描の人と知り合ひになった方が宜い、今後日本に五年も居るのは惜しいが、五年間は学校に入って居れ、何にも宜い成績を得なくても宜しい、遊んで居っても構わないから学校に入れ」藤田が鴎外が言ったとして書いていることなので言葉通りとは言えないでしょうが、嗣治青年がパリへ独り出て世界的名声を得るなどと誰も予想しなかったでしょうから、将来画家として独り立ちするために人脈を作っておけと保守的な助言をしたのでしょうね。嗣治は父親と森鴎外の意見に従って渡仏を延期し、入学準備のために彰技堂画塾で本多錦吉郎についてデッサンを学びました。これは「線を右の方から左の方へ一本づつはすに並べるやうな非常にむづかしいデッサン」だったと「巴里の横顔」に書いています。しかし、その訓練がパリへ出てから役に立ち、藤田の作品に決定的な効果として現れます。同年4月、東京美術学校予備科入学。同級に岡本一平(かの子の夫で、岡本太郎の父)が居ました。学校は怠けがちで先生たちの受けも悪く、なかでもフランスで後期印象派(日本では紫派と呼ばれていた)のラファエル・コランの指導を受け、帰国後日本に洋画の中心的指導者となった黒田清輝からは、卒業制作を生徒皆の前に置いて「悪い例」としてコキ下ろされたのでした。この卒業制作は房州に出かけて見た風景をもとに描いたものらしく、「房州大東岬辺りの月見草が咲いている夕焼けが迫った海岸の構図で、前方の網をつくらう漁師や、立ってる紺かすりの娘や、その他の船やいろいろのものが一ツ一ツ別々になって、それを寄せ集めてかいたのが明白に分って……印象派ではなかったのが(黒田教授の)ご機嫌に叛いたのだった」、と藤田嗣治直話として夏堀全弘氏が「藤田嗣治芸術試論」(三好企画2004年刊行)に書いています。黒の線描を得意とする藤田が「黒を使うな。陰は紫色をしている。よく観察してみろ」、とフランス仕込みの後期印象派の理論をそのまま日本に当て嵌めようとした黒田教授と(日本では陰はやっぱり黒に近い色をしてますよね)ウマは合わなかった青年藤田は情熱を絵に向かわせる代わりに恋愛に向けるのでした。房州旅行で女子美術出身の鴇田(トキタ)登美子という女性と恋に落ち、駆け落ちに成功して正式に結婚します。しかし、嗣治の渡仏後に登美子が文部省の検定試験に合格したのを嗣治が嫌い、ふたりは離婚することになります。明治43(1910)年、嗣治24歳の3月、東京美術学校本科を卒業しました。渡仏はすぐには出来ず、3年間、文展に毎年出展しますが、いちども入選できずに落胆の連続でした。やっと父から「フランスへでも行ってゆっくり勉強して来い」と言われ、飛び立つ思いで船に乗ったのでした。大正2(1913)年6月18日、藤田嗣治27歳、横浜から日本郵船の三島丸に乗船し、45日の航海の後、マルセイユに到着しました。    (つづく)

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  • 16Apr
    • Foujita の少年時代

      今回のレオナール・フジタ展では、幼少期の画家の写生帖(6歳)、渡仏の翌年(1918年)に描いた「人形を抱く少女(Petite fille à la poupée)」,渡仏2年後の「少年仏陀( Le petit Bouddha) 」などが観られ非常に興味をそそられました。渡仏の翌年に描いた「人形を抱く少女」(キャンバスに油彩、1918年作、オランダ個人蔵)「少年仏陀 Le petit Bouddha 」 1919 年嗣治6歳の頃の写生帖 ↑めのおは数年前、日本に一時帰国した際に上野で藤田嗣治展を観たのでしたが、その時にこの画家のデッサン力、一本の線による対象の把握の仕方がやはり浮世絵とか南画とか日本画の伝統から出ていることを発見したのでした。それはちょうど同じ時期に上野で開かれていた「北斎展」を観た後でもあったことと関係がありますが、北斎の天才的なデッサン力が藤田のそれと通じるところがあると分かったことが最大の収穫でした。藤田の伝記を調べてみて、そのことがなお一層はっきりするので、まずそこから書きます。日本の友人などに藤田の絵の話をすると「藤田は平面的で深みが無い」とか「職人的だ」とか 「パリの社交界で人気取りをして評判を高めた男」などといった悪口が必ず返ってきます。めのおもやはり「職人的」という評価は良い意味で藤田の作品に当てはまると思います。しかし日本の伝統である職人芸を徹底し独自の技術を開発し、日本画と洋画の掛橋をして見事 世界的に成功を収めたフジタという画家はやはり並外れて優れたアーチストだと思っています。藤田嗣治の誕生から渡仏までの伝記を知るとそのことが一層明らかになります。藤田嗣治は明治19(1886)年11月27日東京牛込の江戸川大曲で生まれました。 四人姉兄の末っ子で次男でした。父、藤田嗣章(つぐあきら)は当時陸軍一等軍医正、後大正6年に軍医総監となります。森鴎外の後任ですね。母、政は旧幕臣の小栗信の次女ですが、嗣治が5歳の時、父の任地熊本で亡くなります。政の姉・淳は陸軍一等軍医正・小山内建に嫁ぎ、小山内薫(劇作家)、岡田八千代を生んでいます。岡田八千代は小山内薫の妹で画家・岡田三郎助の妻です。三郎助は黒田清輝と同じフランスに留学しラファエル・コランに師事しました。さて父方ですが、藤田嗣治自身が父が語ったとして書いている文にこうあります。「……私の祖母は南画の春木南湖や同南溟の一族であるから、(嗣治に)その血が伝わったものか。」(藤田嗣治著「私の父と母」「陸軍軍医中将藤田嗣章」257p)また後年藤田嗣治自身が「地球を泳ぐ」に書いている言葉、「実際南画の面白みなどと云ふものは、到底少年には理解できないものである。東洋の芸術にはみんな幾らかさう云ふヒネクレタところがある。その味が分かるようになるには、一種の心境に達するだけの鍛錬を要する。」(174頁)藤田は4・5歳の頃から絵を描き始めました。7歳で東京高等師範附属小学校に入学。この頃の9歳の時に描いた「逃げる支那兵」「松崎大尉」 「威海衛戦」などは太平洋戦争中日本へ帰り従軍画家として戦争画を描いたことと無縁ではないと思うのでいつか観たいと思います。人物の動きや雲の描写も正確で、構図が優れているといわれています。明治33(1900)年、14歳となり東京高等師範附属中学校に入学。長姉・喜久(蘆原英了の母)の嫁いだ蘆原家より通学しました。喜久の夫・蘆原信之は父嗣章の副官でした。中学1年の時、画家になる決心をして父に手紙を書きます。これが嗣治と父親の性格を示していて面白いのですね。父親と対峙して口頭で画家になりたいと希望を述べる勇気が無かったので、同じ家に居たらしい父親宛に手紙を書き投函した。この時のことを嗣治は「巴里の横顔」にこう書いています。「中学に入りましてから私の親爺は出来るなら私を医者にしようと云ふので、私はどうしても絵描きになりたいのでありますが、それを親爺の前で言ふのは非常にむづかしいので、私は一本の手紙を書きまして近所の郵便箱に入れました。それが夕方親爺の手許に帰って来て、其の晩直ぐ膝下に呼びつけられて非常に怒られるかと思ったら、親爺が五十円の札をくれまして、是で絵の具箱を買って来いと云ふので、直ぐ神田の文房堂に行って色々絵の道具を買って来て、つまり油絵は中学一年の時に初めて描いたのであります。」(藤田嗣治「巴里の横顔」236頁)   (つづく)

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  • 15Apr
    • Leonard Foujita という画家 その①

      いまパリのマイヨール美術館で「FOUJITA - Peindre dans les années folles」が開催中です。マイヨール美術館(Musée Maillol) の場所は 59-61, rue de Grenelle, Paris 75007 ( グルネル通り )。7月15日まで開かれています。もう20日ほど前になりますが、3月28日「藤田-狂気の時代に絵を描く」展を観てきました。Foujita については書くことがいっぱいあるので、これも数回に分けて連載になると思います。いま気づいたのですが藤田の名前はローマ字表記でFujita とばかり思ってましたが、フランス語ではFoujita なんですね。狂気のfou と合わせたのかなどと思いましたが、そうじゃなく、1898年(藤田が生まれたのは1886 年なので12歳)に描いた油彩「雌鶏と卵」には既に嗣治 Foujita と署名してることから藤田自身が選んだ綴りなのですね。この美術展のカタログでも藤田がパリのモンパルナスに棲みつき、活動を始めた以後はFoujita と表記し、それ以前と途中日本に一時帰国した時の関連事項には FUJITA と表記しています。マイヨル美術館があるグルネル通りは、めのおにとって人生を変えることとなった一大転換点があった場所なので、ここに立った時は深い感慨に襲われ、44年の昔が甦りました。グルネル通りがリュ・ド・バック( rue de Bac )と交差するこの辺り、ここに44年前に約半年間住んだのでした。この辺りは官庁街で通産省、農水省、文部省があり、奥に見えるドームは聖クロチルド聖堂。こんな一角に広い中庭付きのお屋敷を持っていたご夫婦が日本に来られた時にめのおがガイドをし、以来文通を続けて、パリに来るならウチに泊まれと、出入り自由の一部屋のカギを渡され無償で半年間住まわせて貰ったのでした。ご夫婦の寛大に対しては今もグラチチュードの念を抱いています。これについては後ほど詳しく書きます。毎朝、この交差点を曲がり、右手に見える赤い日除けのついた小さなカフェのカウンターで「プチ・クレーム」を注文しクロワッサン一個の朝食を採ったのでした。Foujita 展の入場券を買うのに列ができてました。ネットで前売り券を買っておけば並ばずにすむのですが、そんなに混んではいないだろうと高をくくり、雨に降られてしまった。クルマをSèvres-Babylone の地下駐車場に置き、久しぶりにリュ・ド・バックをゆっくり歩こうかとシャトーブリアンが歿した館の前を通った頃は降ってなかったのに、10分ほど並んで待つ間に振りだし、あと一人で建物の中に入れる時になって激しくなり、頭からずぶ濡れになってしまいました。  (つづく)

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  • 14Apr
    • アーサー王伝説 最終回

      連載のいよいよ最終回です。前回、黒沢監督の「七人の侍」について書きましたので、最終回も映画の話で締めくくりたいと 思います。アーサー王伝説に基づく映画の最近作は2004年と2017年のふたつがあります。2017年の「キング・アーサー」はUSA、英国、オーストラリア合作、ガイ・リチー監督。ワーナーブラザーズが制作費1億7500万ドルをつぎ込んだ超大作でした。が、予告編を観ただけでも、巨像が破壊の限りを尽くし、最近流行のやたらめったら爆破と暴力の嘆かわしいバカ場面の連続で、伝説もここまで落ちたか、みてられんわ、てな印象です。さもあらん、興行はまったく振るわず、ハリウッドで最大の赤字を出し、WBは1億5千万$の赤字を計上したとのことです。伝説を使えば必ず当たると安易な考えが辿った末路でしょう。2004年の「King Arthur」はこれと比べるとずっと地味ですが、これまでの伝説を基にした映画と 一線を画し、この連載の3つ前、「アーサー王伝説その⑳」に「アラン族の役割」と題して書きましたが、最近の歴史学上の仮説を大胆に解釈し脚色したもので、それなりに時代ものの味わいがある作品となっています。大胆なのは、舞台を中世の騎士道ではなく、古代末期(紀元5世紀頃)にとっていること。古代ローマ帝国が東西に分裂し、うち西ローマが衰退に向かった時期です。円卓の騎士たちも中世の騎士ではなく、ローマ帝国に徴用された騎馬遊牧民族のサマルテイア人の騎士でアーサーがその頭という設定です。サマルテイア人については後に書きます。USA,アイルランド合作。監督はアントワーン・フークア。配役は、アーサーにクライヴ・オウエン。 ランスロットにヨアン・グリフィズ。グウイネヴィアにキーラ・ナイトレイ。あらすじ:ハドリアヌスの城壁の北で暮らすローマ人貴族マリウスの息子アレクトを救出せよ、とローマ帝国の最北端の防人である要塞の司令官から命令が下ります。命令を受けたアーサーとその隊員たちは、その日で15年に渡った契約が切れ自由の身になるというのに。自由になる前に最後の使命を果たせとの命令に仕方なくアーサーと仲間は北へ向かいます。ハドリアヌスの城壁の北には、ブリトン人に反乱を企てるウオード。それを率いるメルラン(マーリン)。身体に刺青をし色を塗ったピクト人。さらに新たに侵略してきたサクソン人らがローマの支配を打ち崩そうと戦いを挑んできます。ピクト人というのはpictsまたは pictiと書き、彩色されたという意味で、彼らの戦士たちが体に色を塗っていたことからきています。鉄器時代から中世初期に現在のスコットランドの東と北に棲み、367年頃から王国を形成しローマを攻撃しました。7~8世紀に強盛を誇り、843年頃スコットランドの他部族と合し、ケネス・マクアルピンが支配権を握った、とブリタニカにあります。ブリトン人にとりピクトはやっかいで、最初ピクト撃退のためにサクソン人を雇ったのですが、サクソンもブリトンの土地が欲しいので、敵となり、ブリトン人はサクソンとも戦わねばなりませんでした。映画ではサクソン人を野蛮この上ない人種のように描いていますが、サクソンの長(王)はイングランド王家の始祖ともいえる初代ウエセックス王セルデイックで、アーサーと一騎打ちをして討ち殺されます。北へ向かったアーサーの騎馬隊は最初ウオードに襲われますが、マーリンの指令で救われやっとのことでマリウスの館に着きます。マリウスはピクト人はじめ先住民にキリスト教に改宗を強い、改宗しない者を地下牢に閉じ込めて拷問を加えています。それを知ったアーサーは、地下牢の壁を壊して囚われていた者たちを解放します。そのうちの一人の女性がピクト出身のグウイネヴィアでした。サクソン人が攻めてくると知りアーサーの一隊は、目的のアレクトを馬車に乗せ、マリウスに囚われていた人々を一緒に連れて決死の逃走を行います。途中氷結した湖にサクソン軍をおびき寄せ、氷を割って湖に落し溺れ死にさせるのに成功しますが、この時、氷を割るのに決死の働きをしたダゴネットが戦死します。この場面は美しく見ごたえがあります。グウイネヴィアは弓の名人ですが、拷問で手の指が曲がって使えなくなっていたのをアーサーが治療します。ある晩、マーリンの魔法なのか二人は偶然森の中で出合い、愛を確かめます。ランスロットはサマルタイ出身の騎士でアーサーとは幼少の頃からの無二の親友です。このサマルタイですが、紀元前4世紀~紀元後4世紀にかけ、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団です。この中から、アランという名の遊牧民が強大になります。漢文史料には「阿蘭」と出てきます。考古学的に2世紀から4世紀に於ける黒海北岸の文化を「後期サルマタイ文化」と呼ぶそうですが、この文化の担い手がアランでした。アランは後に、フン族の大移動期に、ドナウ河流域から北イタリアに侵入し、一部はガリアに入植しました。さらにその一部はバルバロイを統治するためにローマ人によってブリテン島に派遣された、ということです。アーサーとその仲間の騎士はアレクトを無事ハドリアヌスの要塞に届け、晴れて自由の身になります。しかし、サクソンが要塞に攻め寄せるとわかり、アーサーはただ独り、ローマの地方部隊の指令官の徴である金色の鷲の形の軍旗を掲げ、丘の上に立ち、去ってゆく仲間を見送ります。晴れて契約を完遂し自由の身となった、ランスロット、トリスタン、ボース、ガラハッド、ガウェインですが、長年生死を共に戦ってきたアーサーがただ独りサクソンとま見え討ち死の覚悟を見せているのを見て、騒ぐ血を抑えられず、ひとりひとり覚悟を決めて視線を交え、結局は全員がアーサーの許に駆けつけます。グウイネヴィアも弓隊を率いて駆けつけ、マーリンも反乱軍を率いてアーサーの味方に馳せ参じます。攻め寄せるサクソン軍に対し城砦側は、油を含ませた藁の塊りや溝に火を点けて対抗し、騎馬隊は少数ながら散々にサクソン軍を翻弄します。サクソン軍を率いるセルディックにトリスタンが殺され、ランスロットがセルディックの息子シンリックと相打ちで命を落とします。そして、アーサーとセルディックの一騎討ちとなり、激しい戦いの末にアーサーはセルディックを倒し、勝利を収めるのでした。平和が訪れた後、アーサーとグウイネヴィアはストーンヘンジが立つ聖地で結婚式を挙げ、アーサーは王となります。ストーンヘンジの場所は結婚式を挙げる場所じゃない、との批判もあります。題名の「King Arthur」 ですが英語の King はサクソン起源だそうです。敵だったはずのサクソンの言葉を王として使うのはおかしい、との指摘があります。まあ、伝説は史実とフィクションとが入り混じって、そこがまた面白いのですが、物語を楽しみながら歴史を知る、という効能がありますね。「聖杯探求」についてまだ書き足りない気がしますが、グラアルと多少関係がある「カタリ派」について次の連載をしようか、と思っています。では、この辺で、「アーサー」とは一旦お別れします。    (´_`。)

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  • 13Apr
    • 再び黒沢監督の七人の侍 アーサー王伝説その22

      この連載を締めくくる前に、またちょっと寄り道して、黒沢明監督の「七人の侍」に触れたい。めのおがパリに着いたばかりのころ、出会うフランスの学生が口々に「クロサワのセット・サムライ」がいい、いいと褒め讃える。「Sept Samurais」とは黒沢明監督の「七人の侍」のことだ。ちなみに、めのおがパリに着いた当時とは年代で言うと1974年5月で44年前のこと。黒沢明監督の「七人の侍」ほどフランスで評価の高い日本の映画はない、とそれから数年経って改めて知った。大抵のフランス人が黒沢監督と映画のタイトルを知っている。この映画をむろんめのおも日本で見ていたが、なぜフランス人が口を揃えて「七人の侍」をここまで激賞するのか解らずにいた。後になってDVDで見直し、なるほどと納得がいった。むろん、あの戦闘場面の映像のダイナミスム。雨の中、泥まみれの戦いの迫力。それだけでも若い人を惹きつけるに十分だ。が、それだけではない、と多少なりとも世の中の仕組みや思想というものに自分なりの思いを馳せる年代に達していためのおは悟った。これは「優れて思想的な映画である」と。戦後のある時代、日本は労働運動、学生運動が盛んだった時代があった。今の若い皆さん方には遠い昔の話としか思えないだろうが、めのおが若い頃は、それこそ生き方、人生を左右する重要な問題だった。「労学提携」という言葉に聞き覚えのあるお年寄りは居られると思う。1960年代後半から70年代にかけて中国では文化大革命と呼ばれる嵐が吹きまくった。インテリは眼鏡を掛けているだけでブルジョワ不良分子と見做され「つるしあげ」を食い、自己批判を迫られ、首枷をはめられて曝しものにされた。「学生は農民の苦労を知るべきである」と学業を中断させられ強制的に農村へ送られた、そういう体験を持つ北京生まれで父親が外交官の中国人青年とパリで知り合いになった。文化大革命の結果は、農民は半可通の指導者に泥を固めた高炉を作らされ、鉄鉱石を入れても使い物にならない鉄ばかりを大量に作り、その間、実っていた穀物の収穫もできず、腐らせてしまい、食糧不足から大飢饉となり2千万人とも言われている大量の餓死者を生むこととなった。知識人は労働者・農民に加担し、ともに労苦からの解放のために闘うべきである。戦後のアメリカやフランスの知識人たちはこう主張した。サルトルはその代表的存在だった。戦国時代、農民が盗賊と化した野武士の襲撃に収穫もすべて強奪され苦しんでいる。どうにかしてください。お武家さま。助けて下さい。と4・5人の百姓から一人の武士が救いを求められる。貧乏百姓に味方したところで武士にとってなんの得もない。むろん助けた暁には多少のお礼を百姓はするだろうが、命の危険の方が大きい。百姓が言うお礼は「白米を腹いっぱい食べさせる」というもの。しかし、「なんのためのサムライか?」と良心に自問する侍がいる。侍は本来、誰かを守るために戦闘訓練を積んできた。武器を持たぬ百姓が野武士に襲われ困っているなら助けるのが侍の本分、使命ではないか? だが、武士の中にも本当の武士は少ない。浪人して食い詰めた侍のリクルートが始まる。野武士は大勢で攻めてくるので、守る侍の一人一人の力量がものをいう。剣術にも長け、とっさの判断ができ、ユニークな侍でなければ、団結してかかっても勝つ見込みはない。こうして七人の侍が選ばれる。最年長の侍を志村喬が演じている。小柄ながらがっしりと肉が締り、腰にさした刀を左手で押さえながら腰を据えて走る姿は見事だ。サムライとしては下級に属すかもしれないが優れた知性と戦略能力を持つ。クロサワの「7 Samurais」こそ、「士」と「農」という階級の差を越え、悪しき野武士を相手に共に戦う連帯の姿。「働く者」に加担し、命すらも捧げる知識人の悲しくも潔い姿を描ききった傑作と、めのおは評価を定めた。労使の利害をめぐっていまだに対立の絶えないフランス社会に育った青年に、なおのこと、知識人の本来的姿を映像に描ききった黒沢の映画が感動を与えるのは故なきことではない。黒沢監督35歳の時、1946年公開の「我が青春に悔いなし」という作品がある。1933年に起きた京大滝川事件と1944年のゾルゲ事件に着想を得ているという。京大事件というのは京都大学法学部の滝川幸辰教授が中央大学法学部で行った講演「復活をとおしてみたるトルストイの刑法観」の内容が無政府主義的として文部省と司法省内で問題化したことに端を発する。滝川(京大)事件は軍国主義の道を突き進んでいた当時の日本の権力が、共産党、マルクス主義の嫌疑のみならず自由主義、リベラルな思想内容で国を批判する知識人たちへ弾圧を開始した事件として特色がある。黒沢監督の映画は、滝川事件にゾルゲ事件という歴史的には関係の無いスパイ事件に着想を得て作られているが、若き日の監督が既にこうした思想的なテーマを映像によって表現しようと志していたことを知った時、めのおは「七人の侍」というウエスタンにもパロデイー化された大衆的作品に思想的背景を見たのもまんざら的外れではないと思った。さて、肝心の「七人の侍」に戻る。多勢に無勢、いくら剣術の達人でも、集団で攻めてくる野武士との戦いにほとんどの侍は命を落とす。最後に残ったのは指導者の志村喬と村の百姓の娘と恋に落ちた若者(木村功演じる岡本勝四郎)と一人の侍だけだった。戦い終わり、侍を捨てて百姓になる勝四郎を残し去ってゆく侍二人が投げる視線の先は……、土饅頭に刀が突き立てられた侍たちの墓である。刀を墓標がわりに突き立てた土饅頭の侍の墓。そのイメージは、ずっと後になってフランスで「エクスカリバー」「メルラン」「キャメロット」など「アーサー王伝説」を下敷きとした映画を見るたびに、めのおの脳裏で重なっていった。       ヽ(;´ω`)ノ

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    • 伝説と慣習の関係  アーサー王伝説 その21

      めのおが黒沢の「七人の侍」の最後の場面、野盗に襲われる農民に加担して死んだ侍の墓、土饅頭に突きたてられた刀のイメージと岩に突き刺さったエクスカリバーのイメージとが重なり、この二つはもしかして関連があるかもしれないと考えたことは、この連載の最初に書きました。今日発見したウイキペデイアのテキストは、アラン族の一部はモンゴルまで行き、モンゴル族と同化し、15世紀には有力部族長まで出現し名前を留めたと書いています。日本の武士の起源には諸説があるようですが、モンゴルの遊牧騎馬民族と、どこかで繋がっている 筈と考えても、まったく突飛な連想として排除はされないだろうと思います。アラン人の中にモンゴル人と同化した人間がいれば、アラン人の風習がモンゴルにも伝わったと仮定しても否定はできない筈です。「アーサー王伝説の起源」の著者は、墓に剣を突き立てるのは、アラン族の長を埋 葬する時の「しきたり」だったと書いています。しかし、他にも説を唱える人がいて、その中には、古代から中世にかけて剣を造る刀鍛冶が鉄を鋳込む際に鋳型に融けた原料を流し込み、冷えてから取り出す際の仕草、鋳型から中身の剣を引き抜く動作が、聖剣を岩から引き抜く行為の原イメージとなったと主張しています。言われてみればそんなに的外れとは言えない説だと思います。さらに、ランスロットが荷馬車でグウイネヴィア姫を救出に向かうのも、西欧では荷馬車は囚人が刑場へ引き出される時に乗せられる乗り物ですが、遊牧民族のアラン人にとっては日常の乗り物だったから不思議はない、としています。どこにも忌まわしいイメージは無い筈だというのですが、剣の道を乗り越えて無事グイネヴィア姫が囚われていた岬の城に辿り着き姫を救出したランスロットに姫は、荷馬車が現れた時、一瞬ランスロットが乗るのを躊躇したと非難します。姫がなぜランスロットが荷車に乗るのをためらったことを非難したのか? よくわからないのですが、めのおは、そんな詮索よりも「アーサー王伝説」が内包する、われわれ現代人の心をも魅了する 幾つかの主要なテーマに注目した方が良いと思います。古今東西の、文学、演劇、映画に尽きない 主題を提供している「アーサー王伝説」ですもんね。主君に対する忠誠心。日本では義経・弁慶の主従関係が歌舞伎と映画に繰り返しとりあげられ、 忠臣蔵を日本人は涙を誘われながらこれからも見続けるでしょう。騎士に課せられる「試練」。困難に挑戦する勇気を讃え、困難をを乗り越えた先に待ち受けている報酬。これは現代でも受験の「狭き門」とか、企業で盛んに奨励されるチャレンジ精神と起源を一つにしています。忠臣蔵は、めのおは時の体制に立てつき異議申し立てをし、艱難辛苦を乗り越え団結した結果、武士道の義務、武士の「分」を示そうとした家臣、体制の無理強いと虐めに抗し得ず切腹して果てた主君の無念を仇討の形をとって成し遂げた浪人となった四十七人の侍の集団テロのドラマだと思っています。ランスロットは、主君の妃であるグウイネヴィア姫と相愛の恋に陥りますが、プラトニックラヴを維持し、不義を避けるために宮廷を離れ森に隠れます。しかし姫が敵に浚われると一人で救出に赴きます。途中、馬に逃げられ、そこへ荷馬車と小人が出てきたので荷馬車に乗ります。姫が囚われている城は岩だらけの岬の先端にある城で、そこへ渡るには、幾つかの「試練」を経なければなりません。ランスロットは一番困難な「刃を上向きに並べた剣の道」を渡ることを選びます。そして剣の道を無事渡り切り、姫の救出に成功するのでした。   (つづく)

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  • 12Apr
    • アラン族の役割 アーサー王伝説 その⑳

      この書(前記事の終わりに触れた「アーサー王伝説の起源」)の中で、著者はアーサー王伝説の中心を形作る様々のエピソードと道具立て、聖剣エクスカリバーや荷馬車に乗ってグウイネヴィア姫の救出に赴く騎士ランスロット、などがアラン族の風習と伝説とパラレルの関係にあることを詳細に明かしています。そして、なにあろう「アラン族」はローマ人が植民地として征服したゴロワ(ガリア)、南ブリテン島、南ゲルマニアの広大な領土を支配、管理するために雇った、いわば地頭、代官あるいはその下で働いた管理職として西ヨーロッパの地で活躍した民族だというのです。「アラン族」の痕跡は、例えばフランスのブルターニュやノルマンデイー地方に地名として現在も残っています。アランヴィル、アランソンなど。さらにアランを姓と名前に持つ人も多いです。たとえば、一昔前の国語の教科書なんかに載っていたフランスの評論家、哲学者のアランなど。アーサー王と並んで伝説のヒーロー、ランスロット(Lancelot)についても、この本の著者は、西洋の騎士の模範となったランスロットの名前そのものをアランと関係づけています。すなわち、フランスの南西部に現在ロット県というのがありますが、ロットのアラン(Alain de Lot) が ランスロットの名前の由来だとしています。ローマは植民地支配の為に地方官を派遣し、その下で現地人のゴロワ人やケルト人を支配するために管理能力あるアラン人を使ったといいます。そしてアラン人の中に英雄的な長が実在し、民間伝説となってペン・ドラゴンとかアーサー王のモデルとなった。伝説のヴァリアントには強大になったアーサー王が軍を率いてローマに攻め昇り皇帝となったというのまであります。アラン人は西シベリアからカスピ海、黒海に居住し、世界最古の遊牧騎馬民族国家を築いた民族で、古代ギリシャの歴史家ヘロトドスも記述を残しています。カザフスタンなど現在のイランの北方を中心に毛皮の交易などで生計を立てていました。インド・イラン系の言語をもち、BC3世紀にはサルマタイ人の圧力により衰退しクリミヤ半島に逃げました。「アーサー王伝説の起源」の著者は、アラン族はモンゴル系のフン族とは関係が無いと書いています。   (つづく)

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    • 七人の侍とエクスカリバー アーサー王伝説 その⑲

      ところで日本の熱田神宮にご神体として奉齎されている三種の神器のひとつ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」は須佐之男命が大蛇を退治たときに、尻尾から出てきたとされ、後に「倭建命(やまとたけるのみこと)」に渡され野火に囲まれた命がこの剣で草を薙いだことから別名「草薙ぎの剣」とも呼ばれています。アーサー王伝説と「やまとたける」の伝説を学術的に比較研究されている方日々もおられます。 アーサー王伝説研究会日本支部も存在するんですね。アーサー王伝説は魔法の甕のように汲めども尽きぬ話題を包み込んでおり、ここではそのごく一部に触れたにすぎませんが、最後に振出しに戻って、「アーサー王伝説」と黒沢明の「七人の侍」の関係について述べてからこの連載を締めくくりたいと思います。少し長いですが、まずはあるテキストの引用から。出典はインターネットの百科事典「ウイキペデイア」。=== 以下引用 =====オセット人は、スキタイ、サルマタイ、アラン人などの古代の黒海北岸一帯で活動したイラン系民族の後裔と考えられている。彼らは諸民族と混交を重ねていく中で、アス人と自称したオセット人の先祖がハザールの解体後、カフカス山脈北麓の低地地帯に王国を形成し、カフカス先住諸民族の強い影響を受けた独自の文化を発展させた。13世紀前半、アス人の王国はモンゴル帝国によって征服され、首都マガスを始めとする諸都市は壊滅的な打撃を受けた。これ以来アス人はモンゴルの支配下に入り、モンゴルの支配を嫌って逃亡した若干のアス人はハンガリーに逃げ込んで同地でヤース人と呼ばれる民族集団になった。ヤース人はその後ハンガリー人への同化が進み、現在はハンガリー人の一部と考えられている。また、アス人の一部は降伏してモンゴル軍に加えられるとそのまま中国に移住し、元に仕えるアスト人親衛軍を構成した。「アスト」は「アス」のモンゴル語による複数形である。メルキト部出身のモンゴル人将軍バヤンに率いられたアスト人親衛軍は元朝治下のモンゴル高原で行われた数多くの戦争で大きな戦果をあげ、14世紀前半に頻発した後継者争いを巡る政変において重要な役割を負うことになる。こうして中国でモンゴル人の遊牧民と同化していったアストの人々は1368年に元が中国を放棄してモンゴル高原に帰るとこれに従って高原の遊牧民の一集団となり、長らくモンゴル民族の 中の部族名としてアストの名が残った。例えば、15世紀前半にモンゴルのハーンを擁立してオイラトと熾烈な争いを繰り広げた有力部族長として、アスト部族のアルクタイという者の名が伝わっている。一方、カフカス北麓の低地に残っていたアス人も、良質な草原地帯であるこの地方へと遊牧を広げようとするジョチ・ウルスのテュルク系 遊牧民の圧迫を受けてカフカスの山岳地帯へと南下を余儀なくされ、現在の北オセチアに移住して4つの部族集団からなる部族連合を形成した。また、一部のア ス人(オセット人)はカフカス山脈を越えて南下し、南オセチアの領域に入って群小村落共同体を立てた。山岳地帯に入った彼らは民族統一国家を打ち立てるこ とはなく、北オセチアのオセット人は西方のカバルダ人、南オセチアのオセット人は南方のグルジア人の支配下に入る。17世紀に入るとロシア帝国の北カフカースへの進出が進み、18世紀末から19世紀初頭にかけて、 オセチアの一帯はロシアによって併合された。==== 引用終わり =====結論を急ぐ形になり読者には何のことか解らないかもしれません。ここで重要なのはオセット人 とモンゴルの関係なのです。オセット人とは現在のオセチア。そう、北京オリンピックの真っ最中にロシアの戦車が侵入してグルジアと戦火を交えた、あの戦場になったオセチア。オセチアは現存するオセット人(アラン人)の最後の居住地とされており、この種族が持っていた伝説が「アーサー王伝説」の起源だと主張する新説が近年出版されました。副題を「スキタイからキャメロットへ」とし、C. スコット・リトルトンとリンダ・A・マルカーの共著。「アーサー王伝説の起源」という題で、日本訳が1998年に辺見葉子、吉田瑞穂訳で青土社から出版されています。この書の中で、著者はアーサー王伝説の中心を形作る様々のエピソードと道具立て、聖剣エクスカリバーや荷馬車に乗ってグイネヴィア姫の救出に赴く騎士ランスロット、などがアラン族の風習と伝説とパラレルの関係にあることを詳細に明かしています。その内容についてはここでは長くなり過ぎますので次回に……。   (つづく)

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  • 11Apr
    • 理想の王国建設 アーサー王伝説 その⑱

      諸侯たちは、「あんなお馬番の若造に臣従ができるか」とか、事情通の者は「あいつは不義の子だ」と反発し王位継承者と認めようとしません。とりわけアーサーの異父姉をそれぞれ妃にもつオークニーとノルガリス侯は他の諸侯を引き連れアーサーに反旗を翻します。アーサーを素直に国王と認めたのは弱小国のカメリアードと貧しい民衆だけ。アーサーはメルランの助けを借りて隣国カメリアードの危機を救い、その娘グウイネヴィア姫を娶ります。オークニーとノルガリス侯に率いられた反アーサー軍とアーサー軍全軍が戦場で対峙しています。 総攻撃になれば双方に多大な死傷者が出るのは必定。その時、アーサーはエクスカリバーを抜き単身で敵陣へ進み、ノルガリスに向かいエクスカリバーを差出し「私は王の印としてこの剣を授かったが貴公がどうしても臣従しないというならば、この剣で私の首を刎ねるがよい」と首を差し出します。言われた侯はエクスカリバーを受け取るや、すわ敵将の首をと振りかざしますが、剣に異様な力が働いて剣を振り下ろせません。聖剣を実感した侯はアーサーの前に膝まづき、家臣として臣従を誓うのだった。「戦争は避けられた!」両軍の兵士全員が歓喜に躍り上がって喜びます。その後、いくつもの試練があり外敵をすべて追い払い、王国に平和が訪れました。その機を逃さず、 アーサーは円卓の騎士団の結成を宣言します。「真理と友愛に基づいた王国の建設」。円卓には上座下座の区別がありません。円卓を囲んで座る騎士の全員が対等で国事に審議を尽くすというアーサーの理想主義の表現でした。このように、国王の権威を認めさせる「物」としての剣が重要な役割を果たしています。 (つづく)

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  • 10Apr
    • お馬番だったアーサー アーサー王伝説その⑰

      映画では人間の心理は会話やナレーション、独白などの言葉に加えて、顔の表情や動作、行動で表すことができます。騎士道物語がわれわれ日本人にも興味深いのは「髷物(まげもの)」のちゃんばらが面白いのはもちろんとして、主に対して臣従を誓う家臣たちの心理がよくわかるからだと思います。アーサー王伝説でも若いアーサーがどのように王権を確立し諸侯の信頼と臣従を獲得しえたかが語られます。ひとつはエクスカリバーという聖なる剣によって。さらにメルランという魔術師に助けられながらではですが、アーサー自身が王に相応しい英知と深慮、部下と民衆への仁愛の持ち主だったことが強調されます。出生と同時にアーサーは約束によりメルランの手に渡り、メルランは養父としてエクトールにアーサーを預けます。エクトールには実の息子のケイが居ます。アーサーは出生の秘密を知らぬまま成長します。映画では村祭りに馬上試合をするため諸侯が集まり、エクトールとケイも試合に出場しにやってきます。アーサーは単にふたりのお付き、「お馬番」でしかありません。ところが、ケイの出場寸前に剣が盗まれてしまいます。早く探して来いと養父に言われアーサーはケイの剣を探して走りまわりますが盗人はどこかへ逃げ隠れて見つかりません。その時、アーサーは一本の立派な剣が岩に突き立っているのを見つけます。手をかけてみたところなんなく抜けてしまうのでした。アーサーを探しに来たケイは父親に、自分が抜いたと嘘をつきますが、エクトールは事情を察し、もういちど剣を岩に戻してやってみろと命じます。その頃になるとエクスカリバーを抜いた奴がいると噂がひろまり、大勢が岩の周りに集まってきます 。あんな若造が抜いたんなら俺だってと力に自信のある者が次々に試しますが誰も抜けません。アーサーがふたたび試みるとなんなく抜けてしまいます。「王様の誕生だ!!」人々は叫び交わします。エクスカリバーには「この剣を抜くものが真の王位継承者」と明記されています。エクトールはアーサーに「おまえはイングランドの王ペンドラゴンとイグレーヌのあいだに生れた子だ」と出生の秘密を明かします。  (つづく)

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  • 09Apr
    • 庭で花見

      イランシーへ行ったものの、サクランボの花はまだ開いてなく、おまけに木が僅かばかり 残ってるだけで、ブドウ畑に変身していたのでした。(Ownd のぽよだん滞在記、投稿記事をご参照ください)でも、この3日間お天気が良くて気温も20℃近くに上昇した日もあり、庭の桜「しろたゑ」が開花してくれました。肥料もやらず手入れもほとんどしないままなのに、毎年たくさんの花をつけてくれるこの桜の木には ありがとうと感謝の気持ちが沸きます。それだけに、なかなか別れがたい。もう3年も前から、「これが見納め」と別れの盃を交わしたのに、今年もやっぱり花の下で一献傾けることが出来ました。今年はシャンペンなんて豪華なわけにはゆかず、ウイスキーの水割り、というかスパークリング・ウオーターで割るので「ハイボール」ってことになります。使うのは「バドワ Badoit 」。フランスのガス入りミネラルウオーターには昔から「ペリエ」がありますが、これはピリッと舌を刺す辛みがあるので、使わない。もう20年以上昔になりますがペリエは工場のフィルターに雑菌がついたままろ過したことが発覚してリコール騒ぎとなり、以後10年余り売り上げは大幅に減少。その間隙を縫ってバドワが伸びたのですが、めのおは飲んでみるとバドワの方がはるかにソフトで美味しいので、以来ずっとバドワファンです。最近では老舗のペリエも盛り返しましたが、レストランでバドワを注文すると、代わりにイタリア産の「サンペルグリノ」を奨められることが多いです。イタリアのセールス攻勢が功を奏してるみたいです。バブルの頃に日本企業もたくさんフランス進出を図ったのですが、住んでたフォンテンヌブロー近くの地域開発プロジェクトに参画していた某ゼネコンさんに現地採用してもらいました。本社からは若い建築家が独りだけの連絡事務所でした。ある日なにかのきっかけで、将来もフランスに住み続けるなら、小さな庭付きの家を買って、庭には「さくら」を植えたい、と告白した所、若い日本の建築家は「はっはっは」と声を立てて笑いました。日本人が伝統的に桜に寄せる「情」を笑ったとすぐに理解できましたが、めのおもその頃から20年も前だったら、彼と同じような反応をしただろうな、と思います。2年前のちょうど今の季節に姫路城を訪れました。生まれ故郷、というか4歳と5歳の二年間を祖母と二人きりで暮らした育ちの国へ、自分のルーツを確認に行ったのでした。日本海側の養父に行く前に、姫路の駅前で果物屋を営んでいた母方の祖父の家に預けられ、甘い果物の匂いに包まれて店先の歩道の地面にビー玉など転がして遊んでいたことを思い出しながら、まだ道路が拡張される前のことだったので、この辺になるかな? と時折立っている彫刻像を鑑賞しつつ夕刻のお城を目指したのでした。亡くなった母が姫路出身で、「ハクロ城」「シラサギ城」が自慢でした。改装なったばかりの「白鷺城」の天守を見上げながら宴会の準備をしている大勢の人をかき分けるように進み、やがて夜空に浮かびあがるほんのり薄緑色を帯びた照明に照らし出された天守を見、石垣を囲んだ満開の夜桜を見ることが出来た時、ほんとうに涙が出るほど感動したことを告白します。日本人の心、満開の桜が美しいのは伝統だからではありません。余計な観念無しにほんとうに美しい、美ごとです。伝統を馬鹿にしてはいけません。飛び入りの投稿でした。         ヾ(@^▽^@)ノ

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    • アーサー王伝説その⑯

      前回、アーサー王と騎士たちが座ったとされる円卓が実在すると書きました。英国ウインチェスター城に飾られてるんです。中心部に紋章化された5弁の赤バラと不思議なことに赤バラに重なって白バラが描かれています。 英国では周知のとおり赤バラは大貴族ランカスター家の紋章で、白バラはヨーク家の紋章。王位継承をめぐる「ばら戦争」は1455年から1485年の30年間続きました。ランカスター家のヘンリー7世とヨーク家のエリザベスの結婚により両家の戦いが終わり、ここに示されるように赤バラと白バラが合体しました。円卓は全体が25の放射状に区切られ、交互に緑とベージュに塗られています。上部の区切りの 部分に王冠を頂いた王の肖像が描かれ、あとの24の区切りの円周部には、それぞれ円卓の騎士の名前が記されています。一番目に王国に破滅をもたらすモルドレッドが記されているのはどういうわけだろう?間を省略して8番目にアーサーの乳兄弟で国務長官のケイ。11番目にランスロットの従兄にあたるボールス・ド・ガニス Bors de Ganys。18番目にアーサーの甥のガウェイン。19番目のトリスタンは Tristram Lyens と書かれています。21番目はペルスバルですが Percyvale と書かれています。23番目のランスロットは Lancelot due Lake。そして24番目、アーサー王の左手に座すのはランスロットの息子のガラハットGalahallt。聖杯の騎士とされているのはペルスバルのほかにガラハットとボールスの三人なんですね。13世紀の作者不詳「ランスロ聖杯物語」では、この三人のうち聖杯の神秘を見たガラハットは恍惚のうちに死んでしまい、ボールスがアーサーの宮殿に報告をもたらします。この円卓はヘンリー8世の治世の初期、神聖ローマ皇帝カルロス1世(カール5Charles2世) 来訪の折、塗りなおされたとされています。紅白のバラが15世紀の「ばら戦争」の終結を示す とすれば、円卓が作られてから250年以上後に描き加えられたと推定できます。ウインチェスター城 とアーサー王伝説のかかわりは深い。というのも、クレテイアン・ド・トロワ 以降のこの伝説の文書として残り、しかもアーサー王伝説の集大成ともいうべきトマス・マロリーの「アーサー王の死」の写本が1934年にウインチェスターで発見されているからです。トマス・マロリーはウェールズ出身の騎士で1470年に「アーサー王の死」を書きました。 散文ロマンスのこの大作はイギリス最初の出版業者ウイリアム・キャクストンの手で印刷本に されヨーロッパ各地で広く読まれました。1934年に発見された写本はより原典に近いとされウインチェスター本と呼ばれています。日本では、筑摩書房から2004年から2007年にかけてウイリアム・キャクストン版全5巻が 井村君江訳で出版されました。トマス・マロリーの「アーサー王の死」ウイリアム・キャクストン版の 初の完訳です。そしてより原典に近いとされるウインチェスター写本の完訳も出版の年は定かでありませんが、 最近になって青山社から上下2巻で出ました。「完訳アーサー王物語」とタイトルされ、中島邦夫、 小川睦子、遠藤幸子の訳です。ISBN 4915865622  (つづく)

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  • 08Apr
    • エロスとアガペー アーサー王伝説その⑮

      アーサー王が異父姉のモルガンと同褥するのはモルガン(もしくはモーブ)がアーサーに懸けた催眠術によるのですが、同じ伝説中のエピソード、円卓の騎士の一人トリスタンがイゾルデと恋に陥るのは媚薬を飲んだためでした。詩人のドウニ・ド・ルージュモンが「愛」にはエロスとアガペーの二種類があると書いたことは先にふれましたが、騎士道恋愛は極めて人格的愛、プラトニックな恋愛関係を示すことが多いです。しかし、伝説の中の恋、なかでもトリスタンとイゾルデの恋は媚薬のせいだとして甚だ唯物的な解釈を示しています。近年英国の心理学者たちが、恋愛感情をもつに至った男性数十人と、その対象となった女性を調査した結果、いずれも女性から発せられたエストラゲン(女性ホルモン)を男性が吸収し、それが脳下垂体まで昇り恋愛感情を喚起したという研究発表をしました。これはテレビで放映されたこともあり、かなり一般的なやはり唯物的な解釈の例といえます。ともあれ、媚薬とか催淫剤とかは昔から存在したようだし、現代では、若者がデイスコテックで初対面の相手に催淫剤入りドリンクを飲まされ、そのままベッドインという話など良く聞くし、精神分析医に催眠術を掛けられ淫行に及ばされた女性数人が裁判に訴え出た例さえあります。現代ではランスロのようにアガペーの対象として女性に命を捧げ忠義を尽くす男性を見出すのは至難の技に違いありませんが、すべての女性の深層にはランスロ希求が眠っていることもまた否めないのではないでしょうか。(エロスとアガペーについてはブログ友達の牛山馬男さんが造詣が深く、めのおにもドウニ・ド・ルージュモンの「愛について」を読めと奨めてくださったのですが、正直めのおはこの本を拾い読みしかしていなくて通読したいとは思うものの、ただいま、引っ越し準備中で、段ボール箱に入れてあり、どの箱だったか見分けがつかず、読むことが出来ません。いずれ落ち着いたら、再度このテーマに取り組みたいと思います。)アーサーは、臣従する騎士たちの協力を得て団結して外敵を追い払い国土に平和が齎された時、 自らの発案で「円卓の騎士団」を作りました。円卓は上座下座が無く全員が平等の位置につき国事を審議します。アーサーの家臣を重んじそれぞれが対等で議論を尽くして欲しいという意思の表れでした。騎士たちが丸く座った「円卓」が実在します。英国のウインチェスター城の大広間の壁に掛けられています。直径5.5m の大きなテーブルで、樫材で作られ13世紀(1250〜1280年の間)に作られたと鑑定されています。次回はこの実在の円卓について書きますのでお楽しみを。  (つづく)

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  • 07Apr
    • 聖杯探求 アーサー王伝説その⑭

      肉体関係はなかったにせよ、グウイネヴィア王妃とランスロの恋愛関係を知り、自らもモルガンと近親相姦の罪を犯してしまったアーサーは雷に打たれ魂が抜け「腑抜け」になります。腑抜けとなったアーサーの前へ近親相姦によってできた息子モルドレッドが現れ、力ずくでお前の王位を奪って見せると宣言します。王国の荒廃を自覚したアーサーは円卓の騎士全員を集め、王国の危機を救うには「聖杯」グラアル Graal を見つけ出す以外にないと宣告します。国の隅々、森の奥、世界の果てまでも行き、草の根を分けて「聖杯」を見つけ出すよう全員に懇願します。こうして円卓の騎士全員が「聖杯」探究に出発するのですが、数年の歳月を掛け、地上のあらゆる 土地を探したにもかかわらず聖杯を見出すことはできません。のみならず、成長し「悪」を代表するようになったモルドレッドは、母親で魔術師のモルガンと計らい円卓の騎士を次々と殺してしまいます。最後に残ったのがペルスバルで、彼は一旦グラアルを見るのですが「漁夫王」に遠慮してグラアルかと訊きただすのを躊躇します。そのため聖杯を逃してしまいますが、モルドレッドに殺されかけ、朦朧とした意識の中で再度「聖杯」を見、夢の中で聖杯とともにアーサーの許へ行き、腑抜けの王の口へ聖杯を運び中味を飲ませるのでした。意識を取り戻したアーサーは残った臣下にすぐさま出陣を命じ、鎧兜を着け、白馬にまたがり、幟を棚引かせて「悪」の支配者モルドレッド成敗に進撃します。荒廃し冬景色だった国土にたちまち春が訪れます。このように、クレテイアン・ド・トロワのペルスバルはキリスト教倫理が極めて濃厚に書かれています。   (つづく)

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  • 06Apr
    • 「ちょうどそのとき」 アーサー王伝説その⑬

      19世紀フランスのバルザックの小説にも、ロシアのドストイエフスキーの小説にも「ちょうどそのとき」という、見ようによってはとっても都合の良い作家のプロット設定がたびたび出てきます。でも、この偶然による運命的出会いというのは決してバルザックとド翁の独占じゃなかったようです。神話・伝説となってる物語作者にもプロットの工夫に「ちょうどそのとき」が見られますから、これは読者を惹きつける昔ながらの伝統技術だったようですね。アーサー王伝説は現代に至るも映画や演劇、ミュージカルのネタとしてさまざまな脚色を施されながら40を超える作品を産んでいます。グウイネヴィア姫とランスロットの不倫の恋もいろんな出会い方がありますが、どれにも共通してるのは、ランスロットが王妃を恋することの危険を感じ自ら身を引く、あるいは森に隠棲し、あるいは放浪の旅を続け、あるいは田舎で農民と一緒に農作業に専念したり、と隠れて恋し続けることですね。ランスロとグウイネヴィア姫は互いに見初め恋し合い、そのまま恋が進行してしまうことは、王妃という立場から、重大な結果を招くことに気づきますが、心の底に燃える炎を抑えることができません。ランスロも騎士道の精神から姫の前から身を引くことを決心し、森に隠れに行くと姫に告げます。これが見納めになるやもしれず、二人は自然引きつけ合い抱き合って接吻を交わします。それが最初で最後のただ一回の接吻だったにもかかわらず、運命のいたずら、「ちょうどその時}通りがかったゴーヴァンに見られてしまうのでした。「エクスカリヴァー」とか「メルラン」とか、これまで語ったヴァージョンでは円卓の騎士の一人のゴーヴァンが、その決定的場面を見て、騎士の立場から放置できないと会議の席で王妃とランスロの不倫を訴えるのでした。もうひとつのヴァージョン、「First Knight 」(邦題「トウルーナイト」)では、これらとかなり違ったプロットで、あるいはクレテイアン・ド・トロワの「ランスロット」にいちばん近い形と言えるかと思いますが、エクスカリバーやメルランの神話的、神秘的、魔術的要素をすっかり消し取って5世紀イングランドの領主間の争い、家臣の裏切り、政略結婚と誠の恋といった、政治的リアリズムでメロドラマを仕立てあげています。「First Knight 」は全場面英国でロケしたそうですが、監督がジェリー・ザッカー、1995年制作のUSA映画です。もうかなりな年配に達していたショーン・コネリがアーサー王役を演じ、ランスロをリチャード・ギヤ、グウイネヴィア姫を「サブリナ」のジュリア・オーモンド、悪役のマラガント王子をベン・クロスが演じています。この映画では、恋し合う二人の抱擁の場面をアーサー王自身が偶然来合せて見てしまう設定になっています。あああ、今宵かぎり、今後いっさい会うのは止めましょうというランスロの申し出に、恋心を抑えきれず最初で最後、ただ一回の抱擁と接吻をしてしまう。それというのもグイネヴィア姫はアーサー王を恋したから結婚したわけではなく、父のレオネス公国を脅かす元アーサーの円卓の騎士団の一人だったマラガントの攻略をアーサー王に護ってもらおうと、どちらかというと政略結婚でアーサーに嫁いだからでした。嫁ぐ途中でもマラガントに襲われ、嫁いでからもマラガントの部下に誘拐され、いずれもランスロに 救出され、その武勲によりアーサーはランスロを騎士の中でも最高位の「First Knight 」に叙任し「円卓の騎士団」の長に任命したのでした。信頼を寄せていた家臣と妃に裏切られたアーサー王は激怒し、二人を捉え城の広場で領民が見守る中、公開裁判に掛けます。しかし、裁判の最中にマラガントの軍勢が城に攻め寄せアーサー王を殺し城を乗っ取ろうとします。アーサー王は死の覚悟を決め、並みいる領民に手に触れるかぎりの物はなんでも手に取って武器にし徹底抗戦せよと呼びかけ、自らもマラガントに向かって行きますが、敵の矢を胸に受け致命傷を負ってしまう。被告席に立たされていたランスロは敵兵の剣を奪い、一騎当千の戦いを見せ、傷つきながらもマラガントと一騎打ちに及んでこれを討ち取ります。この最後の場面は緊張感が溢れ、とてもドラマチックに仕立てられています。死の床でアーサー王はランスロにキャメロット王国とグウイネヴィア姫を私の代わりによろしく頼むと遺言して死にます。遺体を薪を積んだ舟に乗せ、火矢を放って火葬にする場面で END マークです。このアーサー王を舟に乗せ送り出す点では共通してますが、火を掛けて火葬にするか、それとも致命傷を負ったままのアーサー王を漂わせ「アヴァロン Avallon 」という島へ漂着させるか、二つのヴァージョンがあるんですね。ブルターニュの人々は、アーサー王は生き続け、いまに帰って来る、と伝説を信じたようでした。王国の名「キャメロット」で有名なのは、ブロードウエイ・ミュージカルで「キャメロット」がありました。1960年から63年にかけ873回上演されたそうです。その頃のめのおはまだこれが「アーサー王伝説」に基づいてると知りませんでした。キャストは、グウイネヴィア姫をジュリー・アンドリュース。アーサー王をリチャード・バートンと豪華キャストです。以下 読み方がわからないので英語のまま記しますが、Morganに Le Fey M'el Dowd.、Lancelot Du Lac に Robert Goulet, Mordred に Roddy McDowall という顔ぶれでした。   (つづく)

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フランスの北ブルゴーニュ地方に住んでいます。ロワール河にも近く、ワインに恵まれています。牧歌的で少し...

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