1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
2016-05-25 22:55:43

赤穂事件 その④

テーマ:歴史
雨続きだが、気温はそれなりに上がってきたので、生け垣が伸び放題。


banquette



1週間後、晴れ間を見てやっと刈りました。まだ、ちょっと残ってますが……。


垣根



親の仇が愛する人の父という構図は、フランス古典劇のコルネイユの「ル・シッド」にある。

父親から侮辱されたので敵を討ってくれと懇願された青年は、父を侮辱した相手が愛する恋人(婚約者)の父親でやがては義理の父親になる人なので困惑する。実の父親の遺恨を果たすか、愛する人の父親を尊重すべきか? 葛藤がはじまる。

似たような構図はシェークスピアの「ハムレット」にもある。国王だった父親は伯父に毒を盛られて殺されてしまう。父親の亡霊が現れて仇を討ってくれという。
オフェリアへの愛を優先し生きるべきか? 父親の仇を討つべきか?「生きるべきか、死ぬべきか? 」葛藤が起こる。葛藤がライトモチーフとなって劇を引っ張ってゆく。


亡君の仇を討つべきか否かで、お家断絶、ご家老から退職金を貰って赤穂城を後にした旧藩士たちの胸にも多かれ少なかれ葛藤が生じた。討ち入りに加わろうと決めていながら親への慮りと板挟みになり葛藤に耐えきれず自害した萱野三平。芝居になった「お軽、勘平」のエピソードなど。

小学校の4年から6年まではクラス替えもなく、3年間ずっと同じ顔触れで卒業したのだが、私が居たクラスは生徒の数が47人だったので、みんな「赤穂義士」と同じだと、討ち入りの義士に一人ひとり生徒を割り振って遊んだものだ。

赤穂義士は47人か? 46人とすべきではないか? との議論がある。

3・4月に日本に滞在した時に大河ドラマ「最後の忠臣蔵」が始まって、その一回目を観た。

寺坂吉右衛門。 吉田忠左衛門組足軽で3両2分二人扶持、39歳。

足軽が武士(士分)に入るか否か、で義士に入れるべきか否か? なのか、いや、寺坂は大石内蔵助が留めたにもかかわらず討ち入りに加えてくれと懇願し、加わったのだが、吉良を討ちとったあと泉岳寺へ行く途中で行方をくらました。逃亡説といや、討ち入りの実相を内匠頭の正室阿九里(あぐり)、後に瑶泉院(ようぜんいん)と浅野大学はじめ、関係者に伝えてくれ、と大石から頼まれ生き残った説とあるためであろう。

大河ドラマでは、討ち入り前に寺坂に大石は、裏門隊と表門隊との連絡係、斥候をやってくれと命じる。そして、吉良邸での戦闘のすべての場面を実際に眼にしたのは、寺坂だけなのだから、のちのち、世間がどのように討ち入りをゆがめて批評することになるや分らないから、お前が「生き証人」となって実際を伝えてほしい、これは私の遺言だから、と足軽の寺坂に家老がじきじきに依頼する場面があった。

吉良邸の玄関脇に立てた「口上書」には討ち入りの理由を述べたあと最後に全員の署名があり、そこに寺坂吉右衛門の名もあることから四十七士とすべきだろうと私は思う。足軽は位として武士の最下級だったとしても侍の端くれなのだろうから。

いったんは、籠城し城を受け取りに来た軍勢と一戦交えたのちに大手門で全員切腹と決めたのち、大石はやはり城は明け渡すべきとした。


赤穂城1



赤穂の城は、現在は石垣だけで僅かに大手門の傍に櫓が残ってるのみで、草むらばかりの屋敷跡だ。


片岡



海岸に内匠頭の祖父が造らせた平城で石垣の中に、大石や片岡源五衛門の屋敷などがあった。天守閣は土台だけで結局は建てられなかった。


赤穂城2



内匠頭の正室阿九里(あぐり)は幼少の頃、10歳になるかならないかで赤穂へ入り長矩と同棲の後結婚した。その時の持参金が浪士討ち入りの費用に使われたであろうと推定されている。

城の明け渡しとは、浅野内匠頭の祖父が造ったとはいえ幕府に取り上げられてしまう。藩がお取り潰しになると、浪々の身となる藩士へ退職手当を支払わねばならない。城に備え付けの武具なども幕府に取り上げられ、それ以外の船だとか家具を売却する。

阿九里の持参金は製塩業者に貸し付けられていたが、それを返済させ、さらに藩札(藩が発行していた兌換紙幣)を額面の6割で引き取ることを承服させ、藩の解体を処理した。大石の手元に残った金額はおおよそ7000万円と推定されている。

最も多く使われたのが播州赤穂浅野家のお家再興のための工作資金であり、次が江戸の撥ねあがり急進派の暴発を防ぐために使者を派遣するための旅費に使われた。その他、浪士の暮らしが成り立たなくなった時には援助金をたびたび与えた。こうして討ち入り前に大石は手持ち資金をほぼ使い尽くし、手をつけまいと取っておいた瑶泉院の持参金から出た利子を武具購入費に充てた。

映画やテレビドラマで定番となっている赤穂浪士討ち入りの衣装、幕末の新撰組が着ていた白黒のジグザグ模様の羽織、あれも創作で、鉄の兜で頭を護り、鎖帷子を下腹に巻いて切られにくいようにした。赤穂藩は江戸の火消の親玉で、消防隊の衣装で討ち入った、というのが昔読んだ小説にあったが、そんな揃いの衣装を買うだけの金はなかった。ひとりひとりが思い思いの格好をして戦いに備え、兜も浅い小さなもので額を護ったらしい。

吉良邸には討ち入りに備えて、清水一角などの腕利きを雇い入れていたが、士気が圧倒的に討ち入り側が高く、一時間あまりで吉良側の抵抗は鎮圧されてしまった。吉良側で切死にした数12名。赤穂浪士は死者ゼロ。討ち入り時に門から飛び降りて足首をくじいたのと池に落ちた程度で、討ち入り側のチームワークと準備の周到さ士気の高さが勝敗を決めた。

城を明け渡してから討ち入りまで、家老の大石が京都祇園の一力茶屋で遊蕩に耽ったとか、さまざまなエピソードが芝居になっている。浪士が貧困に耐え艱難辛苦のうえ、当初の目的を達したのが、江戸庶民の共感を呼んだ。

大石は当初、浅野家再興を目標とし、堀部安兵衛など血気にはやる江戸詰めの旧家臣を宥めるのに腐心した。安兵衛は大石宛の手紙で「たとえ大学様が100万石の大名になってお家再興がかなったとしても、吉良上野介が生き残ってこの世に居る限り、大学様が世間に顔向けできないじゃありませんか。吉良を討つべきです」と諫めた。

「このままでは、武士の一分が立ちません」という。

この「分」とはどんな意味なのだろう?

「足軽の分際で」とか「分限を知れ」とか言う。そのときの分は限られた範囲、行動を狭く限定する意味に使われる。

しかし、安兵衛のいう「分」は「社会から期待されている武士としての役割、道徳的な職分」といった意味のように思う。

赤穂藩には軍師山鹿素行がいた。赤穂城跡にも素行のブロンズ胸像がある。

山鹿素行は会津若松の生まれ。江戸時代の官学だった朱子学の形而上性を批判したため幕府の怒りを買い赤穂に配流となった。赤穂では素行を師として敬った。

素行は「葉隠れ」に代表される「死ぬべきこと」の武士道とは別の儒教的な「士道」を唱えた。

平安時代からの武士、戦う武士から戦国の世が終わり平和な江戸時代に統治者として生きる教養ある武士を目指し「士道」の理想を唱えた。

「士は農工商の業を差し置いてこの道(武の道)を専らつとめ、三民の内苟も…以って天下の人倫の正しきを待つ。是れ士に文武の徳治不備ばあるべからず」

要は、農工商はそれぞれの家業に忙しく教養を積む時間などないが、専門だった戦がなくなった世の中で武士の役割としては天下の人倫を正しく保つことが職分だ。そのために普段から武芸のみならず文(教養を積み)知徳に励まねばならぬ、とした。

剣道の袴には前に五本のひだがあり、これは五輪五常の道を表すという。五輪とは「孟子」の仁義礼智信。君臣の義、父子の親、夫婦の別(分け合うこと)、長幼の序、朋友の信をさす。

安兵衛さんは、生粋の赤穂藩士じゃなく、スカウトされて堀部家に婿養子として入り、(中山姓はいつのまにか捨てて堀部を名乗るようになった)主君内匠頭にもお目見えした。他所から途中で来ただけに余計に君臣の義にこだわったともいえる。内匠頭の最後、言葉は交わせなかったが今生の別れをした片岡源五衛門から、憔悴し切った主君の最後の姿を聴いた安兵衛は仁義の思いに胸を焼かれた筈である。


弥塀と片岡
    大石神社の入り口にある四十七士の石像。堀部弥兵衛と片岡源五衛門↑


ともあれ、病弱で過敏で被害妄想的かも知れないが藩の財政立て直しの為、恥を忍んで、お公家さんの接待にはこれだけしか出せませんと最後まで頑張りぬいた若き君主が、足利の名門の血筋か知らないが、儀典のどうでもいいような仕来りを後生大事に秘匿することで地位と収入を得ている吉良上野介とかいう糞爺に辱めを受けた。主君長矩は即日切腹、爺はお構いなしの片手落ち裁判。これを黙って受け容れているようでは赤穂に人はいないのか? と笑われる。そう安兵衛は訴え続けた。

討ち入りの夜雪が降っていたとするのはドラマの劇的効果をあげるための創作。子供の頃、かっこいい~と思っていた山鹿流陣太鼓も、そんなもん打ったりしたら近所の屋敷が眼を覚ます。だいいち切り合いの邪魔になる。

揃いの装束ではないが、やはり火消の親玉、内蔵助と主税は火消の装束で、それぞれが戦闘しやすい格好をし、闇夜でも見分けが着くように袖口と胸に白い晒しを縫い付け名前を書いた。暮れ過ぎに日本橋の堀部弥兵衛の借宅へ集まり、未明の午前4時頃、前年に屋敷替えなったばかりの本所の吉良邸へ向かった。

浅野大学が芸州浅野本家お預けと決まり、赤穂浅野家のお家再興が絶望的と判った時点で大石は討ち入りを決めたわけだが、四十七士討ち入りの後、大学は旗本に取り上げられ、播州赤穂浅野家は再興された。

反対に、吉良の養子は諏訪にお預けとなったまま、没し、吉良家は断絶した。

 (赤穂事件について終わります)




AD
いいね!(39)  |  コメント(1)  |  リブログ(0)
同じテーマ 「歴史」 の記事
2016-05-24 22:20:24

赤穂事件について その③

テーマ:歴史
トラジニがキジバトを捕まえにまた木にのぼった。どこにいるんだあ~?


トラジニ1

ここだよ~ん! うえ向いてます。

トラジニ2


さて、赤穂事件。 

歌舞伎では、浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけた原因として吉良の「いじめ」を設定し、とりわけ「増上寺の畳替え」と「墨絵の屏風」により内匠頭は堪忍袋の緒が切れるだけの虐待を受けたとする。

なるほど浅野内匠頭は高家肝煎(指南役筆頭)の吉良上野介に「御馬代」として払うべき指導料を巻絹一台と鰹節一連(2本)で済ませるなどひどいケチぶりを発揮した。

同じ接待役の伊予吉田藩の伊達村豊は大判100枚(約2億円)を贈ってるのに、これじゃあ虐められても仕方がないやね、とたいていの者は考える。

内匠頭の勅使饗応役はこれで2度目で、一回目(1683年)には400両を贈っている。2回目で儀典の細目なども知ってるし、指導料は勅使が帰りお役目が終わってから贈るつもりだった。

しかし、この年はそれまでと違い特別な年だった。将軍綱吉の母、桂昌院が「従一位」の官位を得るため、特別重要な接待が望まれた。

吉良上野介は饗応費に1200両は出せと浅野に迫った。しかし浅野は700両が精一杯です、と最後まで応じなかった。

物価は前回(1683年)に比べ2倍にはね上がっていた。1200両でも少ないと吉良は考えたのに700両では、口うるさい公家たちにどんな悪口を言われるか知れたもんじゃない。

そこで自然意地悪が出てしまう。芝増上寺は家康の時代に徳川家の菩提寺となり、以来、塔頭寺院の観智院を江戸へ上がった勅使が休憩所に使い、そこの畳約200畳を毎年換える習わしが出来ていた。

芝居では、内匠頭は勅使饗応役を前日まで知らされず、観智院の畳200畳を、江戸中の畳職人を集め一晩で入れ替えた、となっている。

吉良上野介は新しい畳表の清々しい臭いを嗅いで、よくやったものだと感心しながら、これも「金」のおかげじゃのう。ぎょうさんお金を持ってはるのう、と嫌味を言ったとなっている。

また、勅使のお居間に墨絵の屏風とは不吉千万、無礼であろう、と浅野をなじる場面がある。

ほかにも、式服がなにかわからなくて裃を着て行ったところ直垂だったとわかり、気の利いた家臣が、万一を慮って用意してくれていたので間一髪で間に合い助かったとか、吉良の「いじめ」がこれでもか、と繰り返される。

吉良は高家筆頭で指南役なのだから、そんな意地の悪い事をして、担当役が万一粗相をしたら自分が責任を負わされるのだから、そんな意地悪をするはずがない、というのがネットに載ってる大半の意見。

第一、そんな明らかな虐めならば内匠頭が遺書に書くだろうし、討ち入りの口上書に書かれていいはずなのに、ただ「讎」とあるだけで具体的にひとつも触れていない。浅野が虐められたと思い込んだ被害妄想ではないか?

吉良上野介はお国(領国)では名君として評判もいいし、そんな悪人じゃなかったのじゃないか? という意見が多い。

これらは芝居や小説の勧善懲悪に対して反対の見方もあるとして貴重なのだが、赤穂事件を考える時に、いくつか忘れてはならない要件があると思う。

その① 
勅使接待役を命じられた時、浅野は一旦、辞退している。理由は、当時播州赤穂藩が財政難にあり財政改革の最中だった。こんな時期、1億数千万円も出費をしては、藩財政が破綻する、とそれで頑なに予算を渋った。やりたくない役を押し付けられたうえ多額の出費に苦しまねばならない。藩の財政立て直しに腐心している家臣の事を思えば、こんな虚飾の典型みたいな儀式に数千万の出費をするのは我慢がならない。(10両が100万円相当だから、700両は7000万円。吉良が要求した1200両は1億2千万円)

その② 
浅野内匠頭長矩には持病があった。痞(つかえ)というストレスなどが原因で喉や胸が圧迫され、微熱が出て鬱状態になる病気。 とくに気候にも影響され、松の廊下事件の日は湿度が高く、痞(つかえ)が発病した。

その③ 
増上寺畳替えと屏風の墨絵事件がフィクションだったとしても、関係者一同の前で吉良に叱責されたのは事実。これはみんな知ってることなので、ことさら書かなくても「個人的な恨み」だけで解かる筈。

その④ 
松の廊下の刃傷は、計画的犯行ではなく偶発的なものだった。前もって吉良を殺してやろうと思ったなら、いかにお坊ちゃん殿さまでも、刃物の使い方くらい知ってただろうから、切りつけずに、体当たりをくわせ、脇差に体重をかけ肝臓の辺りを一突き、ぐさりとやれば、仕損じることなく仕留められた筈。眉の上と背中に切り傷しか与えられなかったのは、廊下で吉良を見て、突然むらむらと怨念がこみあげ、刀を抜いてしまったということなのだろう。


「忠臣蔵」伝説は明治時代から、忠君愛国とナショナリズム高揚のために利用されてきたと思うが、庶民の間にこれほど人気が長続きするのはそれなりに理由があるにちがいない。

浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」を皮切りに歌舞伎、小説、大河ドラマと繰り返し赤穂浪士の討ち入りの話が続けられてきたのも日本人の心情と深いところで繋がるものがあるからだろう。

「忠義」ということでいうと、浅野家の祖、浅野長政は秀吉の甥にあたり、五奉行の筆頭でもあったが、石田三成と折り合いが悪く、関ケ原では東軍についた。いわば、成り行きで徳川についた。譜代ではなく中堅の外様大名で、徳川家に忠義が篤いわけではなかった。安芸の浅野家が本家、赤穂は分家となる。

赤穂事件の発端となった浅野内匠頭長矩がいやいやながら押し付けられた勅使接待役をどうみていたか?

朝廷から征夷大将軍の名を賜り、江戸に幕府を開いた徳川家康が朝廷との関係を円滑にするために毎年京に使いを送り挨拶をする。その返礼に京から天皇の勅使と上皇の院使とが江戸に上り挨拶をするので、その御もてなしの儀式典礼と饗応役が大名に振り当てられる。

そもそもは、徳川将軍家が朝廷から任された日本国の統治の大役を年々確認するための儀式なのだから、徳川家が自腹を切って行うべき筋の行事ではないか。それをたかだか5万石(赤穂は塩の収入を加えても6万石)の小規模大名に代行させるのは、今風に言えば、大手ゼネコンがマンションの杭打ちを下請けに丸投げしたり、大手自動車メーカーが燃費や排ガス計測ソフトを系列の下請けに丸投げしたり……と似たような責任と出費回避のためじゃないのか。ちなみに、赤穂の塩は良質で独占的なシェアを占めていた。これに競合する関係で吉良も塩を製造販売していた。

松の廊下事件を起こした浅野長矩は即日切腹、吉良義央は御咎めなしと裁決された。「上野介はまったく抵抗せず逃げただけであり喧嘩ではない」というのが幕府の見解。事件の原因究明なども行われず、ただ個人的怨念で大事な式典を汚したと厳しく罰せられた。

家康以来の伝統だった武士の喧嘩は両成敗は行われず、主君の怨念を家臣が受け継いだ。長矩は田村右京太夫に預けられ、その切腹は、大名に相応しくない狭い庭で行われ、普通なら切っ先だけ出して小刀は晒しで巻かれるのに、刃先が2・3寸も出たいわば重罪人の処刑だった。介錯には長矩の愛刀は使われず、介錯人の刀が使われた。おまけに仕損じて耳の脇に傷を残した。


長矩の遺骸を引き取りに行った片岡源五衛門、礒貝十郎左衛門、田中の三人は泉岳寺に埋葬した後、墓前でもとどりを切って仇討ちを誓った。片岡などから主君の遺恨を聴き、お家断絶、城明け渡しとの綱吉の厳しい断罪を知った江戸詰めの家臣たちは幕府の片手落ち裁決に義憤を覚えたことだろう。

討ち入りの後の、たとえば老中柳沢吉保のアドバイザー役(侍講)、荻生徂徠は義士達の行動を「浅野を殺したわけでもない吉良を仇として討つのは筋違い」と批判している。しかし、暴力はなにも肉体に加えるものだけではなく、心理的暴力は肉体に加えられると同じくらい傷を残す。

お家断絶と城明け渡しを命じられた浅野家家臣たちは、一時期、城明け渡しに幕府から遣わされる竜野藩脇坂淡路守などの軍勢に抗し籠城して抵抗したうえでお城の大手で切腹と決めた。

幕府への抗議、異議申し立ての行動は「公儀に対して畏れ多い」と、家老の大石は当時の武士の倫理から判断しながらも、亡君が果たせず遺恨を抱いたまま逝った「
」(仇)吉良上野介の首級を挙げる(討つ)こと一点に目標を絞った。

しかし堀部安兵衛に代表される急進派が個人的テロに走る危険を抑え、よりインパクトの強い集団的テロによって幕府への異議申し立てを、古からの武士の流儀に従いながら完璧にやってのけたのだった。

内匠頭長矩には子供がいなかったため、切腹によりお家断絶となる。長矩は弟の浅野大学を後継者と決めていたが、大学は芸州浅野家お預けとなり内蔵助の願いだったお家再興が叶うのは討ち入りからずっと後の事。

赤穂浪士の討ち入りに怖気づいて刀を捨て逃げ去った上野介の養子義周に対し幕府は「仕方不届き」と咎め諏訪安芸守に預けられ3年間幽閉のまま21歳で没した。






AD
いいね!(39)  |  コメント(3)  |  リブログ(0)
2016-05-23 18:40:00

赤穂事件について その②

テーマ:歴史
5月ももうじき末だというに、五月晴れの日を今年は見ることがなく、雨と寒さばかり続く初夏となってます。

ボイラーが故障し、いつもメンテを頼んでる職人さんが来てくれず、薪ストーヴを焚いて寒さをしのぐ毎日です。


薪リヤカー


Wood Center という20km離れた薪屋さんへ、車でリヤカーを牽いて買いに行きました。一杯がちょうど1ステール(約0.7m3)。スーパーでは6本入りの薪を一袋7€で売ってて、一時しのぎに買ってました。こんどは、リヤカー一杯で40€、100本はあるから3倍はお得。

リヤカーのタイヤ空気圧がなくなって重い荷物の牽引は危険なので、控えてましたが、タイヤにエアを入れられるスタンドをやっとみつけリヤカーが使えました。最近、ガソリンスタンドにエアのホースがなくなってますが、なぜなんだろ?



私が少年の頃、西暦で言えば1956年、昭和で31年頃までとなりますが、テレビも無い時代。子供の楽しみと言えば、少年向け雑誌かラジオ番組。学校から帰ると雨の日なんかは夕ご飯まで、掘立小屋の畳に寝そべってラジオを聴いた。「少年探偵団」、「怪人二十面相」、「赤堂鈴之助」、「笛吹童子」、「イガグリ君」なんかは主題歌と一緒によく覚えてます。「さん、さん、三太はや~まの子だ~」て歌は覚えてるがドラマの名は忘れてしまった。

ラジオドラマの合間に浪曲というのがあって、年寄り臭いところが、子供の私は好きで良く聞いた。「頃は六月中のころ~。夏とはいえど……」大阪夏の陣の語り。浪曲は別名「浪速節」と呼ばれていた。

スペインに初めて行った時、臨時停車を繰り返す鈍行電車の中で、4~5人の若者が一人の年寄りを囲んでフラメンコを唄ってくれとせがんだ。若者たちはビールの小瓶をカスタネット代わりに打ち鳴らして、拍子をとり、やがて老人が渋い声で唸りはじめた。ははん、浪花節と似てるな、と思ったものだ。

浪速節は曲に合わせて物語を唄うわけだけど、曲のない語りだけの「講談」があった。一龍齋なにがしとかの師匠が閉じた扇子で床几を叩きながら物語りを語る、「語り物」の伝統芸能だね。子供にぜんぶ解かるわけじゃないけども、その語り口が面白く、心躍らせ聴き入らせる迫力を持っていた。


安米


そんな講談のひとつに「堀部安兵衛、高田の馬場十二人切」があった。
元禄7年2月21日、義理の伯父と甥の盃を交わした安兵衛は、伯父さんが果し合いで多勢に囲まれ命が危ない、と知らせを受け、着物の裾を帯に挟んでからげ、「韋駄天」走りに八丁堀から高田の馬場の決闘場へ駆けつける。

この高田の馬場は現在のJR山手線の駅のあたりじゃなく、ずっと東へ行った早大文学部の辺りで、正門前の水稲荷神社に安兵衛の碑が立っている。

「へえ~。八丁堀から高田の馬場かあ~。5~6キロはあるんだろうな? そんな距離を全速力で駆け抜けた後、息切れもせず、伯父さんを囲む12人の敵をつぎつぎ、ばったばったと切り倒し、というんだから、すごいな~。こういうのを剣豪てんだろうな」と感心して聴き入った。子供心にも、そんなの可能かな? と疑いつつも、でしたがね。

「韋駄天」走りに駆けたのは後から作った話で、実際は、最初から伯父さんと一緒に果し合いの場に居て、物陰から不意打ちを掛けてきた相手の助太刀を二人切り倒したのが真相だそうな。堀部弥兵衛の娘がしごき帯を襷代わりに使ってと差し出した、とそれが縁結びとなって、目出度く娘婿にというのもフィクションなんだって。

でも、弥兵衛さんは安兵衛に惚れ込んで、一人娘の婿になって堀部の家を継いでほしいと懇願したのはほんとの話。安兵衛、初めは承服しなかったが、根負けして中山の姓を名乗ることを条件に婿入りすることが決まった。

もともと安兵衛は子供の頃両親を亡くして早くから天蓋孤独の身だったんだね。それでも修行をして剣の才能があるとわかり、方々の道場から指南を頼まれ、それで身を立てていた。武だけじゃなく文にも優れ、赤穂浪士の討ち入りにつき日記を残している。

伯父さんの果し合いの原因は囲碁の上の諍いと他愛のないものだったらしいが、相手は腕の立つ侍を二人も連れて来るというのに伯父さんは腕が立つどころか刀を持ったこともない者しかいないと窮状を訴えられ安兵衛はそれならお力になりましょうと助太刀を承知してしまう。

安兵衛は情にもろいというか、弱い者、窮状にある人をみると捨てておけぬ、義侠心を沸かせる人だったんだね。孤児だった生立ちから人の不幸を自身の不幸と受け止める心を持った人だったんだなと思う。

 (つづく)



AD
いいね!(43)  |  コメント(4)  |  リブログ(0)
2016-05-16 19:45:08

赤穂事件について その①

テーマ:歴史
フランスは、改正労働法案をヴァルス内閣が憲法第49条の3項(49.3)を用いて、上院へ送った。この49.3条項はフランス第五共和制独特のもので、フランスの伝統だった度重なる倒閣による政局の不安定を避けるために、国会に対抗する内閣の強力な武器として定められている。内閣不信任案が否決された場合に採決無しに法案が可決されたとみなされる。

下院は社会党が多数を占め、社会党からもフロンドと呼ばれる、反主流派議員が不信任案を提出したが、保守革新双方から出された内閣不信任案はいずれも可決に必要な380票を得られず否決された。

49.3項の適用により労働法案は下院を通過し、上院へ送られる。

これが先週木曜(12日)のこと。

上院は保守の共和党が多数を占めるので、多くの修正案が可決されるだろうが、その後また下院に送られるので、もう一度49.3項が適用され、政局の不安定は当分続く見通し。

一連の内閣の対応の仕方に対し、民主主義を踏みにじるものだ、との批判が当然出る。社会党反主流派も、既成の労働組合も、学生連合も街頭運動により政府に圧力を掛けるほかないと、国鉄労組ははやばやと毎週水曜と木曜にストを行うと発表した。パリだけでなく、ナント、レンヌなどでも機動隊とデモ隊の激しい衝突が起こっている。


49.3


さて、都市部でのデモに対し大規模な機動隊の出動により暴徒化を事前に防いでいるのだが、田舎では普段と変わらない平穏な催しが行われています。


陶芸市


陶芸市2



上の2枚の写真は5月7日の隣村の陶芸市、下の写真は昨日(5月15日)おらが村サンファルジョーで開かれた見本市の写真です。


見本市


4月のルーツ探索の旅で、父親の養父(やぶじゃなくてここではようふ)の本籍が播州赤穂ということが明確になったので、赤穂にも行ってみたし、品川宿のゲストハウスに泊まった折に高輪泉岳寺にも参ってみた。今日から2~3回、赤穂事件について書いてみようと思います。


「右喧嘩の節御同席御抑留の御方これ有り上野殿打留め申さず内匠末期残念の心底家来共忍び難き仕合に御座候。高家歴々へ対し家来共鬱憤を挟み候段、憚り存じ奉り候へども君父の讎(あだ)は共に天を戴ざるの儀黙視難く今日上野介殿御宅へ推参仕り候。偏に亡主の意趣を継ぎ候志迄に御座候。」

これは、播州赤穂の浪人が元禄15年12月14日から15日の末明(午前4時頃)吉良邸に討ち入った際に玄関脇に打ち立てた竹の先に掲げた「口上書」の一部である。

亡君浅野内匠頭(たくみのかみ)は江戸城松の廊下で吉良上野介と出会い、骨髄に達した恨みを晴らすため、脇差を抜いて切りかかった。殿中で刃傷(にんじょう)に及べば、お家断絶、赤穂城明け渡し、家臣を総て路頭に迷わせると知りながら、脇差を抜いたのだからよっぽどのことがあったのだろう。だが、内匠頭は、吉良上野介の傍にいた(ご同席の御抑留の御方)=梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)に羽交い締めにされたため、眉の上にかすり傷と背中に切り傷を与えただけで、その日のうちに切腹して果てた。末期に怨念を残して逝った。われわれ内匠頭の家臣は主君が心底にどれほどの無念を残して逝ったかを思うと忍び難い。ひとえに亡き主君の意趣(恨み)を継いで今日上野介殿御宅へ推参仕った。

「君父の讎(あだ)は共に天を戴ざるの儀黙視難く…」のくだりは四書五経のひとつ礼記(らいき)から採ったもので、堀部安兵衛の提案といわれる。

御抑留の御方梶川与惣兵衛は、松の廊下の事件を食い止めた功労により五日後に500石加増となった。

よい事に みぬふりはせど 与三兵衛  たくみ切ったで 加増一倍  

与三(惣)兵衛は、良い事には見ぬふりするくせに 内匠頭の恨み骨髄に達し、やむにやまれぬぶっちぎれを、武士の情けを持ってるなら見逃してやればよいのに、すでに脇差を抜いてしまってる内匠頭長矩を羽交い絞めにして、殿中でござると、まさに機動隊の役を買って出て、高家筆頭の地位にある「意地悪爺」上野介義央(よしなか)を救ってしまった。

内匠頭が眉毛の上と背中をちょっと切ったおかげで加増してもらっってよかったね、と皮肉られた。

浅野の家臣のうち、家老の大石内蔵助は浅野家とも婚姻関係がある繋がりだが、赤穂浪士の中でも江戸詰めで急進派のリーダーとなった堀部安兵衛は、赤穂事件の7年前に江戸を沸かせた高田の馬場の仇討ちの働きに惚れ込んだ赤穂藩士堀部弥兵衛に請われて婿養子となった。生粋の赤穂藩士ではなくて、いわばスカウトされて藩士となった人である。君主とのつながりも他の浪士とくらべ薄かったはずである。にもかかわらず、急進派のリーダー格となり、煮え切らない大石に諫言するなど、吉良邸討ち入りを当初から主張し続けた。そういった堀部安兵衛に代表される赤穂浪士たちが心底に抱いていた思いと、討ち入りを実行するに及んだ
信念には、「忠義」の一言では括り切れない、なにかもっと深い、人間的要素があるように思う。

赤穂事件が起こったのは元禄15年、将軍綱吉の時代。お犬様とか、良貨の改鋳とか、すごいインフレとか、徳川の世が戦国の荒々しい武をもって支配した時代から、文をもって治める、泰平の世の中に代わった時代。それとともに武士よりも商人、義によるモラルよりも金がなにごとをも決定支配する社会に変わって行った時代だった。

 (つづく)


いいね!(59)  |  コメント(4)  |  リブログ(0)
2016-05-14 01:35:07

養父と私の奇縁 ルーツ探索の旅 その⑩

テーマ:回想記
フランスの家を売りだす前に、腐った木戸、椿や夾竹桃を冬の間入れて置く温室の屋根を修理しよう。


木戸


温室の屋根は去年の夏、大粒の雹が降って破られてしまった。残ったスレートで丈夫な屋根を葺いてやろうと思う。


温室



毎年たくさんの花をつけていた「花りんご」の木が突然枯れてしまった。この日はチェーンソーで2本の幹を切り、枝をストーブの焚き付け用に短く切った。


花りんご

養父と私には他にも奇縁がある、と前に書いた。ひとつは山田風太郎でもう一つは三島由紀夫だ。

養父には、こんど行って知ったのだが、山田風太郎記念館がある。山田の生地なのだ。山田と私との縁は、私の父親の旧姓が山田だったということの他に、私が中学の時の同級生で仲良しになった山田君が風太郎の息子だったという風説があることだ。

この山田君は黒く艶のあるまっすぐな長髪をきれいに七三に分け、愛嬌のある笑顔を向けてくれる気持ちの良い美少年だった。中学2年の時に同級になったが、「シートンの動物記」がいいから読めと私に勧めてくれ、本を貸してくれた。

ある日、彼の家まで遊びに行くと、父親に買ってもらったという原付自転車(軽量バイク)の後ろに私を載せて走ってくれたりした。父親が物を書くのに忙しくて構ってくれない、物書きなんだと、その時に教えてくれた。

しかし、この山田君は、高校に入ったばかりで自殺してしまった。かなり後になって、つい3~4年前に、
私はこの山田君が山田風太郎の息子だったという話を聞いたのであるが、年齢的に風太郎が結婚するより前に出来た子で18か19で作らないと私の知ってた山田君は産まれていない計算になるので、ほんとうに風太郎の息子なのか? 疑問が残るのではあるが。

とまれ養父は風太郎の故郷なので生家が記念館になって一般公開されている。今回は雨だったし2泊だけの滞在で訪ねる余裕がなかったが、次の機会に訪れる積りだ。


もうひとつが三島由紀夫。

「金閣寺」は三島の最高傑作と今も思うし、近代日本文学中の代表作、世界に誇れる作品だと思っている。

三島のこの小説は「美」の象徴としての金閣寺が主人公の心に幼い頃から強迫観念として宿り、日本の敗戦という歴史的事件と、日本の伝統文化と美の象徴としての建築を滅ぼすに至る主人公の心の葛藤を描いている。

主人公の故郷は舞鶴に近い志楽という土地だ。若い頃読んだ時にはこの小説の観念が目につきすぎたが、今読み返してみると三島は綿密に実際あった社会的事件と、登場人物が生きた土地を具体的に描いていて、心理劇にしっかりしたリアリテイを与えている。

日本海側の気候がそこに住む人々の心に与える影響というものを三島はこう書いている。


「それは正しく裏日本の海だった! 私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力との源泉だった。海は荒れていた。波はつぎつぎとひまなく押し寄せ、今来る波と次の波との間に、なめらかな灰色の深淵をのぞかせた。暗い沖の空に累々と重なる雲は、重たさと繊細さと併せていた。というのは、境界のない重たい雲の累積が、この上もなく軽やかな冷たい羽毛のような笹縁(ささべり)につづき、その中央にあるかなきかの仄青い空を囲んでいたりした。鉛色の海は又、黒紫色の岬の山々を控えていた。すべてのものに動揺と不動と、たえず動いている暗い力と、鉱物のように凝結した感じとがあった。」(金閣寺、第七章)

三島は、小説を書くにあたって現地へ行って取材をした。ノートに鉛筆で風景から得た印象を忘れぬうちにその場で書き留めたという。若い頃の私が「金閣寺」を読んで、その美の象徴である金閣の華やかな姿にばかり気を取られ、その裏というか底にあって主人公の心理を支えている暗い情念の描写を読み飛ばしていたのだが、この小説は、表面の華やかな日本の伝統美を破壊に向かう黒々とした情念の劇なのだ。上の描写は、すぐ後に主人公が決定的な想念にとりつかれる前置きとなっている。その想念こそ「金閣を焼かねばならぬ」というものだった。

「この荒涼とした自然は、春の午さがりの芝生よりも、もっと私の心に媚び、私の存在に親密なものであった。ここで私は自足していた。私は何ものにも脅かされていなかった。」(金閣寺、第七章)


私は高校の1年生の時、幼時に可愛がってくれた祖母を失くし、その喪失感から人生が虚しく感じられ、学業を怠け、夜起きて昼間寝るという自堕落な生活を送る落第生になっていった。そんな私を鍛え直してくれたのが三島由紀夫だったのだ。三島を読むことによって私は自己に規律を課し、困難なことをやり抜く意志強い人生を自分で作り切り開いて行く生き方を学び、自堕落な生活から抜け出すことが出来た。

その三島の本籍がやはり養父なのである。

しかし三島が晩年に「盾の会」を作ったり、自衛隊に体験入隊したり、最後に市ヶ谷の自衛隊総監室に入り込んでバルコニーから自衛隊員に蹶起を呼びかけた後、壮絶な自決を遂げた、という事件を私が三島から受けた若い頃の明晰さへの志向と生への輝くような明るい肯定とをどう結び付けたらよいのか? 

三島が徴兵検査に不本意にも丙種合格し、さらに父親の平岡梓とともに本籍地である養父に入隊検査を受けに行き、こんどはめでたく不合格になり即刻帰宅と検査官に言われ、その判断が上官から覆されるのが怖くて父親と養父の田舎道を手を繋いで「転がるように」逃げた、といういきさつは、猪瀬直樹の三島由紀夫伝「ペルソナ」に詳しく描かれている。

この事実から私が思うに三島は戦争で死にたくはなかった。その点においては、現代の「戦争反対」を叫ぶ若者たちと軌を一にしている。しかし「天皇陛下のために」いつか死なねばならぬ、という思いは、入隊検査に救われ、あられもなく転がるように掛けて逃げたその姿は恥ずかしく、いつか男らしく自分で死に場所を選び、想いを遂げねばならない、と年齢を重ねるにつれ思いを強めていったのであろう。

三島由紀夫(本名平岡公威きみたけ)は東大法学部卒、父の平岡梓も同じ、祖父の定太郎も法科大学(現東大法学部)卒業と3代そろって日本の官僚エリートの家系で、父の梓は岸信介と同期の革新官僚だが仕事は岸信介のようにしなかったようだ。母方の祖母の祖父は幕府若年寄をつとめた永井玄蕃頭尚志(げんばのかみなおむね)というから、れっきとした日本の行政、統治の機構に深く根を降ろした家系なのだ。

その辺、おなじ養父郡でも九鹿村屋敷に生れ、同じ武士でも最下級の足軽か、せいぜい組頭ていどの私の祖父の祖父とは比べようもない。

兵庫県北部は昔、但馬と呼ばれた。柳生十兵衛の祖父、柳生但馬守は大和柳生藩の初代藩主、宗矩(むねのり)で、徳川将軍家の兵法指南役を務め、新陰流の創始者。

但馬は山陰地方に入り冬は雪が降る。私の記憶でも、真っ白に積もった雪を背景に真っ赤な南天の実の鮮やかさ、家の前の道で融けかかった雪を丸めて玉にしてぶつけ合って近所の子供と遊んだ光景。真冬の川に雪が積もった階段を降り竹竿の紐の先に煮干しを結んで魚釣りに行った想い出がある。寒さが苦手な私には住むには適さない土地だと思う。西日本の養蚕の中心だったので、私が住んだ小さな家の天井裏にも蚕棚と篭が埃を被って残っていた。

今回の養父滞在は雨にたたられ、九鹿の場所を見に行けなかったが、次回はゆっくり時間をとって、市役所で郷土史を閲覧させてもらい、祖父の祖父がどんな暮らしをしていたか? 調べてみたい。

 (ルーツ探索の旅 養父の項を終わります)
いいね!(58)  |  コメント(2)  |  リブログ(0)
1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

AD

Amebaおすすめキーワード

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

ランキング

  • 総合
  • 新登場
  • 急上昇
  • トレンド

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。