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2012-02-25 20:10:29 posted by tsuguminokazoku

多民族国家フランス

テーマ:社会
漱石がどこかで鏡を見ながら肌の色が以外と白いのに満足を感じてる様子を書いていたと思います。その漱石がロンドン留学時代、部屋に閉じ籠ったきり外へ出ようとしなかったことはあまりにも有名です。

漱石の鏡による自己観察がロンドン留学の前のことか後だったかは分からないけれど、ロンドンへ出て見たら周りが白人ばかりで、そこに溶け込めない東洋人の自分を強烈に自覚せざるを得なかったでありましょう。
 
めのおがパリへ着いたばかりの頃は、居候をした半年を除いて、屋根裏の狭い物置き同然の部屋だったこともあり、ヒマさえあれば外を出歩いていました。英国人と比べてフランス人は肌も黄色味を帯びているし、人懐っこいので容易に同化できそうな幻想を抱くのでした。

正直、めのおにはパリに住めることが嬉しく、自分もパリジャンの一人だ、フランス人に同化して、「プチ」フランス人に成りおおせたような誇りと幻想に捉われている嫌いがありました。

2年ほどして、お腹に力が入らないことに気づき、突然、「ご飯」が食べたくなりました。日本食レストランは、ありましたが、今みたいに隆盛ではなく、日本食品店の数は限られていました。お米のご飯を2年も食べてないから腹に力が入らないのだと感じました。

同時に、日本語が、お腹の底から湧いて出て来たのです。万葉集や百人一首の歌などが、堰を切ったようにどど~っと。

鏡を見れば自分がまごうかたない東洋人だと思い知らされます。黄色い肌をして鼻が低く頬が横に広がってる。どう思おうと逃れようのない現実と直面しなければなりません。オレはオレで、生まれながらの条件から脱け出すことはできないのだ。マイケル・ジャクソンみたいに漂白剤で肌の色を白くしようなどやりたくはない。それよりもオレはオレの持って生まれた条件を活かして独自な道を歩むしかないと悟ったことを覚えています。

それからは、
パリに居ながらむしろ東洋の日本人であることを誇りにして生きようと心に決めました。

雑駁を怖れずに言うと、もともとフランスの土地には南のラテン系民族と北のゲルマン系民族が混血して民族と文化を形作っています。先住民のゴロワ人がどこからきたのか分かりませんし、紀元1世紀にシーザーがゴロワ
の長ヴェルサンジェトリックスを打ち負かしローマへ捕虜として連れ去ってからはガリアの地はローマ人に支配されてました。

ブルターニュ半島には現在もケルト文化が色濃く残っています。色の白い人たちは、北欧から攻めて来てノルマンデイーを領地に貰い、12世紀の終わりに英仏海峡を渡りロンドンを攻め落とした
ヴァイキングの末裔とか、ドイツに近い東部のゲルマン系の人に多いようです。

もっと昔には、西ゴート族が侵入してポルトガルに辿りついたり、フン族の侵入があったり、他民族国家の地盤はあったわけです。近代になって北アフリカと西アフリカを植民地とし、特に第二次大戦で破壊された街の復興に、アルジェリアから移民労働者を大量に誘致しましたので、現在もその2代目3代目がフランス国籍を持つアラブ系の住民として宗教や生活習慣を別にしながらフランスの学校教育を受けるなどして生活しているわけです。マグレブ(北アフリカ)からの移民の子孫も入れて人口は400万人を超えています。イスラム教はフランスでは第二の宗教です。

たとえば、パリのメトロに乗ると、黒人やアラブ人が多いことに気づかれる筈です。ある時、フランス人の若いカップルと隣り合わせて座ると、めのおの周りはカップルを除きみんな有色人種でした。若いフランスの青年は自分の恋人を庇うような目つきで敵愾心すら浮かべて隣の黒人やアラブ人を睨み返しました。

1980年代の半ば、めのおはパリを去ってフォンテンヌブローのアパートに住み、カミサンともども通勤電車でパリへ通うようになりました。夜遅い電車は乗客のほとんどが黒人とアラブ人でした。カミサンは、周りを黒人やアラブ人に囲まれ、彼らが辺り憚らず大声で訛りの強いフランス語やアラブ語やアフリカの言葉で話すのが耐えられないとこぼしました。

フランスは現在でも年間20万人の移民を受け入れています。交代に10万人が祖国へ帰るので移民として増える数は10万人となります。ドイツと比べて少ないそうです。
EUの住民のうちEU以外の国で生まれ現在EUに住んでいる人を移民と呼ぶとしますと、移民の数は世界的に見てフランスは6番目です。

一番は、もちろんUSAで4千2百80万人。2番ロシア1千2百30万人。3番がドイツで980万人。4番がなんとサウジアラビアで730万人、5番カナダ720万人。次がフランスでカナダとほぼ同じ720万人(全人口の11.1%)、以下UK700万人、スペイン640万人、イタリー480万人という順です。

移民の人口は何世代まで遡るかによって変わって来ます。ある統計ではフランスの祖父まで遡った移民の人口は1400万人で人口の23%。曾祖父まで遡ると人口の半分に達するとしています。

ブラック・アフリカ出身の黒人でフランス国籍を持ちフランス本土に住んでいる黒人の人口は100万人に達しています。

ここ20年ほどの間に、フランス社会は変わりました。前は労働者とブルジョワ、プチ・ブルジョワなどという言葉で社会的階層別の格差が問題視されていました。近年ますます、黒人、アラブ人、インド・パキスタン人、東洋人、と民族的格差、宗教と慣習の違いから生じる住民間の摩擦が浮上してきています。

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2012-02-24 19:00:25 posted by tsuguminokazoku

ゴビノーの『人種不平等論』

テーマ:社会・政治・国際
19世紀のフランスの伯爵ゴビノー(Joseph Arthur Comte de Gobineau 1816 - 1882)は『人種不平等論』を出版し、ヨーロッパ人、広くアーリア人種の優越性を説いた。白、黒、黄色の三人種の差違は自然が設けた障壁で、混血によってその障壁が破られると文明は退化すると……。

フランスの田舎暮らし-ゴビノ

人種イデオロギーの父とも呼ばれるゴビノーは1850年代、当時の外務大臣トックヴィルに引き抜かれて彼の秘書をしていた。専門の民族学や人類学者ではなく、旅行で得た観察からアマチュア学者としてこの本を上梓した。

例えば東洋人についてゴビノーはこういう評価を載せている。
「黄色人種は凡庸で、実用性を好み、秩序を尊び、ある程度の自由の価値を知ってるが、夢想したり、理論化することを好まない。それほど深淵、崇高でないものは理解でき、みずから発明はしないが、自分に役立つものなら、価値を認めて取り入れる……」

めのおがパリへ出て来た当時、1974年のことだが、東洋人に対しては、これと大差ない評価がまだ一般的だった。
ドゴール将軍が日本の池田首相の訪仏に際して「ああ、あのトランジスタのセールスマンがくるのか」と言ったり……。アメリカの言いなりになる日本の政治家への軽蔑を隠さなかった。

「フジヤマ、ゲイシャ」の時代は終わっていたが、「ホンダ、ソニー、ヤマハ」の時代が来ようとしていた。
ルノーなどの労組は日本の車メーカーは産業スパイでわれわれ(フランス人)の発案をコピーして、安い労働力で市場を奪っていると主張し、政府も日本車の輸入を制限していた。

経済的にはフランスの方が日本よりまだ少し豊かな時代だった。石油危機を日本は生産性と燃費の向上、セラミックスの触媒をマフラーに装備するなど、大変な努力で乗り越えたが、フランスは慢心と労組など
親方三色旗」の甘えから脱け出られず、ついに日本に追い越されてしまった。

ナチスがホロコースト、ユダヤ人やジプシーや同性愛者や精神障害者の抹殺に走ったイデオロギーの根源には、アーリア人種は優秀で、混血により不純な血が混じると劣化するというレイシスムがあった。

不幸なことにゴビノーはナチスのイデオロギーの創作に利用された。
ゴビノー自身は特に反ユダヤではなかった。上に挙げた本には反ユダヤ的なことは書かれていない。だが、熱烈な民族主義者だったワーグナーはゴビノーが好きだったし、その娘婿のチェンバレンはドイツに帰化し、ゴビノーを曲解して反ユダヤ思想を宣伝した。ヒトラーの『我が闘争』の十一章『民族と人種』にはゴビノーをチェンバレンが歪曲した説がそっくり取り込まれている。

ナチスの台頭の半世紀も前に「ドレフュス事件」がフランスで起こったように、もともとフランスの貴族と軍人にはユダヤ人蔑視があった。

1882年には世界反ユダヤ連盟が結成された。ユダヤ人が世界を支配してるから、反ユダヤ主義者たちは、ユダヤ人からその支配権を奪い返せと主張した。以下は前にも書いたことと重なるが、詳細を補足したいので再投稿します。
 
『シオンの賢者の議定書』という本が20世紀初めに出回る。ユダヤの秘密権力が世界征服を計画している証明になる本とされた。ロシヤの秘密警察が民衆の不満を皇帝からユダヤ人に向ける為に捏造したという説が有力。ボルシェヴィキ革命を成功させたレーニンもユダヤ系だったしトロツキーはユダヤ人だから。

ヒトラーは『シオンの賢者の議定書』の熱狂的な信奉者だった。偽物の本だと指摘されるとニセモノかもしれないが内容は本当だと擁護したのは有名な話。ヒトラーと並んでアメリカのヘンリー・フォードもこの本の信奉者だった。

フォードは自分が経営してる『ディアボーン・インデペンデント』という新聞にこの文書を連載させ、後で『国際ユダヤ人』という題で出版し五十万部も売った。『シオンの賢者の議定書』のタネ本はフランス人が書いた『マキャベリとモンテスキューの地獄での対話』という本だった。
  
ドイツではユダヤ人の迫害が始まるが、ドイツと枢軸関係を結んだ日本は、満州国経営の困難をユダヤ資本を導入することで解決しようと試みた。
河豚計画とおかしな名前で呼ばれている。フグ料理はひとつ誤れば命取りになるという、マジで? と訊き返したくなるような命名だ。

『日ユ同祖論』つまり日本人とユダヤ人は同じ先祖から出たという論も広まった。
河豚計画とともに、主に石原莞爾を中心とする大陸派の間で支持されたらしいが。そのうち、統制派が主導権を握り、ナチス・ドイツとの枢軸関係が強化されてゆくにつれ、この計画は不可能になり立ち消えてしまった。


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2012-02-23 18:00:34 posted by tsuguminokazoku

ゴンドラの唄

テーマ:音楽


前に取り上げたヴァレリーの「海辺の墓地」も「若きパルク」も定型詩です。

「海辺の墓地」は10音節(シラブル)、「若きパルク」はラシーヌの古典劇で用いられるアレクサンドラン、12音節です。

詩人は、子音と母音を組み合わせた1音節を10とか12連ねて、一行作り、さらに5行とか6行とかで1連を作る。

海辺の墓地は6行24連で出来ています。合計144行ですね。

行の末尾の音を揃える。いわゆる脚韻を踏んでいます。……colombe、……tombe という風に。
こうした規則にそって古典的な作品は作られていたのですね。

ヴァレリーは規則と闘うことによって詩人の精神が鍛えられより良い詩が出来ると
古典を擁護する発言を残しています。抵抗や障害物はむしろ在った方がいいと。

日本の短歌、俳句は典型的な定型詩ですね。近代詩の中に定型詩がどれほどあるか? 明治初期の詩、藤村や三好達治を除いて少ないのではと思います。

ところが、昨夜、日本の童謡をYou Tube で聴いていて偶然ある歌を見つけました。








ゴンドラの歌というのをご存知ですか? 
カンツーネではなく日本の歌です。 吉井勇作詩です。

「命短し 恋せよ 乙女……」  有名なリフレインの歌です。

黒澤明監督の「生きる」という映画があります。官僚制がはびこり問題が何一つ解決しなかった市役所の行政を、志村喬が演じる課長が、癌で死がまぢかなことを知り、命がけで問題と取り組み、市民の切実な要求を実現する。

死を目前にして、実現した公園のブランコに身体を揺すりながらこの唄を歌う。
セシウムで汚染され子供が体内被曝をする危険がありながら動こうとしないどこかの区の行政担当者に見て欲しい映画です。







この歌を韻という視点で聴いて(観て)いて、みなさんなにか
お気づきになりませんか?

めのおは頭韻の妙ということに気付いてはっとしたのです。

第一節では「あ」の音で2行から4行目までが始まります。

  いのち短し 恋せよ 少女
  あかき唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の 月日の(は)ないものを

第2節で、それは「い」なんです。

  いのち 短し 恋せよ 少女
  いざ手を取りて 彼の舟に 
  いざ 燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには 誰れも 来ぬものを

なんと巧妙に仕組まれた韻でしょう。日本の唄に頭韻を見つけるのは
稀なことですが、吉井勇はこの「愛」の唄に「あ・い」の頭韻を踏んでいるのです。

「ゴンドラの唄」が定型詩であり、リフレインの「いのち短し 恋せよ少女」の 7+7音節の後、すべて「7+5」「7+5」「7+5」と日本の唄の定番というべき都々逸、甚句形式が取られ、方々に押韻が踏まれていることに気づかれるでしょう。

「ゴンドラの唄」が初めて歌われたのは、1915(大正4)年に、小山内薫の芸術座が帝国劇場で上演したツルゲーネフの「その前夜」の第4幕で、新劇を当時代表していた女優、松井須磨子によってでした。「いざ手を取りて 彼の舟に」とあるようにヴェニスのゴンドラが出てきます。ツルゲーネフの原作には無い歌を舞台では歌ったのでした。

作詩をした吉井勇が須磨子に宛てた手紙で「ゴンドラの唄」は森鷗外の「即興詩人」の中の「妄想」に負っていると打ち明けています。また、塩野七生は、アンデルセンがイタリーを旅行した折り、メデイチ家の当主、ロレンツオ・イル・マニフィコが謝肉祭のために書いた詩「バッカスの歌」がフィレンツエやヴェニスで大流行し、それを聴いたアンデルセンが「即興詩人」にこの「裡謡」を入れたのであろうと書いています。




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2012-02-22 18:00:43 posted by tsuguminokazoku

抽象と具象 - その③

テーマ:文学


フランスの田舎暮らし-courbet

                クールベによるボードレールの肖像↑

めのおがフランス語を始めたばかりの頃、ボードレールのルクイマン
(Recueillement )をマリア・カザレスの朗読で聴いて、ほんとに魔法にかけられたように、魅惑されたものでした。彼女の声にはどっか魔術師のような響きがありました。

  Sois sage, O ma douleur, et tiens-toi plus tranquile…

フランス語を読める方は、これを声にだして読んでみてください。

「スワサージュ、オオ マ ドルール、エ チヤントワ プリュ トランキーユ …」

スワサージュは日常良く使われる言葉で、子供が暴れたりやんちゃな時に、親が
「お利口にしなさい」と宥める言葉です。この行の意味は

「おお、私の苦悩よ、もっと静かに、おとなしくしておくれ…」 となりますが、

ヴァレリーが言うように「音」が意味と同等の価値を持つ詩では、翻訳すると重要な半分を失うことになります。

ルクイマンの最初のこの一行に初めに S が二回、母音OとAに伴われで始まり、
OとAが繰り返され、後半はT が3回繰り返されます。

ルクイマン(Recueillement )の詩がもつ雰囲気は、やはり教会での祈りにもっとも近いでしょうか。もとは死者の冥福を祈るとか黙禱することの意味です。ボードレールは「悪の華」の初版に「レスボス」以下数編の当時では反社会的な詩を載せたために発禁処分を受けました。この詩全体を通して詩人は自分の苦悩に語りかけています。

街に夕闇が降りて来て、ある者には平和を、ある者には苦悩を齎す。

そうですね。日本の歌にも雰囲気が似てるのがあります。
強いて挙げれば……「君恋し」

「夕闇せまれば、悩みは果てなし 乱るる心に映るは 誰が影……」

夕闇は誰にも昼の間眠っていた苦悩とか悔恨とかを呼び覚ますのでしょうか?

ボードレールの詩はこの後、転調が感じられるトーンに変わり、日本の歌と俄然違ってきます。快楽の鞭だとか、首切り人とかが出てきて、SM的ですね。フランスの詩、パリの詩らしいです。過ぎ去った年月に対する悔恨。ここでもオリエントという言葉が出てきます。

   (つづく)

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2012-02-21 18:00:35 posted by tsuguminokazoku

抽象と具象 - その②

テーマ:文学
数十年間、読まずに積んであった、ヴァレリー全集を取り出して読み始めると面白くて止められません。むろん難しすぎて、理解できない部分の方が多いのですが。

思春期には小説家のジッドを読みたいと思っていました。しかし今、ジッド全集も取り出して見ると、特に初期の作品は、なんとギスギスした文体だろう。読めません。対照的に、昔難しいと感じて読めなかったヴァレリーの文が快く読めるのに驚いています。

ボードレールの文も読めます。スタンダールの文はもっと読めるでしょう。本棚から取り出して読むのが楽しみになりました。

昨夜、読んだのはヴァレリーの「詩と抽象的思考」というエッセーです。
このエッセーは小中学から高校まで同級生で、めのおと違い思春期の精神的危機を克服して東大の仏文へ行ったS君が読めと勧め、半ば強制的に読まされたものです。その時は、まだジッドを読みたいと思っていました。

S君はその後、文学から言語学へ移りました。このエッセーはだから彼にとっては言語学への橋渡しをしてくれたものだったようです。

フェルデイナン・ド・ソシュール(1857 ~ 1913)は「一般言語学講義」の最初に、言葉の「音と意味」の間にはなんの関係もないと述べています。「木」は arbre ですが、アルブルという音と木という意味の間には、必然的関係はまったくない。


フランスの田舎暮らし-desaussure
               フェルデイナン・ド・ソシュールの肖像↑

同じことをヴァレリーは
「詩と抽象的思考」で述べています。
「ある単語の音と意味の間には何の関係もない」

ヴァレリーは、詩は散文が使うのと同じ言葉で作るが、詩は、意味とかイメージとかの「内容」と、音とか文字とかの「形」が同じ価値を持つ表現形式であることを
振り子の比喩を使って説明しています。

振り子の一方の端に意味とかイメージ、つまり「内容」があり、もう一方の端に「音、文字」など「形」がある。詩はこの両端が同等の価値を持つものとして往復する運動だと。

散文の目的は意味を伝えることで、目的が達せられれば手段としての言葉は忘れられてしまう。けれども、詩は言葉自体が目的なので、単語の音が散文よりも遙かに重要であり、単語の音と意味とを不可分の関係としたユニオンを作らねばならない。ところが単語の意味と音には必然的な関係が無い。そこに、不可能が要求される
詩作の過酷な条件があるのだと言っています。

「馬は英語で HORSE, ギリシャ語でIPPOS, ラテン語で EQVVS, フランス語で CHEVAL ですが、これらのどの言葉に対するどんな操作も馬という動物のイデー(概念)を私に与えてはくれない。逆に、馬の概念についてのどんな操作からもこれらの単語は導き出されない。」 (詩と抽象的思考」
ヴァレリーのヴァリエテから )

ソシュールの言い方に倣えば、言葉のシニフィアン(記号表現、または能記と訳される)とシニフィエ(記号内容、所記と訳される)の結びつきはデタラメ、つまり恣意的なものだと。ヴァレリーも同じことを言うわけです。

「それなのに、こうした言葉を使って精神との親密なユニオン(合一)の感覚を作りださねばならないのが
詩人の仕事なのだ」と。

ソシュールは生前一冊も本を出版しませんでした。1906~ 1911年にかけてジュネーヴ大学で行った講義を元に
「一般言語学講義」が出版されたのが1954年のことです。

一方、ヴァレリーの上述のエッセーは1939年にオックスフォード大学で行われた講演をもとに出版されました。ヴァレリーは
ソシュールの講義を聴いた誰かから話を聴いたか、フランスでもある程度ソシュールの理論が知られ始めていたのかもしれません。とまれヴェレリーは言語学者ではないので、ここからは、本来の詩とはなにかを説きにかかっています。

ヴァレリーはボードレールの「レクイマン」の一行を取り上げ、「詩は思考ではない」のだ、祈りとか魔術に近いものだ。古代人が呪文を唱え、思いが成就するよう祈ったのと同じ源に発していると説いています。

    (つづく)

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