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2016-11-30 21:31:28

The ash grove トネリコの木

テーマ:自然

とても寒いです。ドイツやポーランドなど北の寒い国から冷たい空気が吹き込んで、昨日から朝は氷点下になりました。

北よりも東のアルザスやロレーヌ地方が寒くて、昨日はムルーズで氷点下7℃とか。今朝は、ここ北ブルゴーニュでもマイナス5℃でした。

↑車の窓も、垣根も凍り付いて白くなってます。

 

物置の屋根に上ったミヌーも寒そう。

3日前(27日)に撮ったトネリコの木にはまだ葉が沢山ついてました。

それが今朝はまる裸。

3日前は葉が「ハラハラと優しくささやくように舞い落ちて」いたのですが、2日間吹き続けた北風でぜんぶ落ちてしまいました。 落ち葉をせっかく掻きよせたばかりなのに、こんどはそこら中に散らばって庭の全面を覆ってしまいました。 トネリコの葉は雨に打たれるとすぐに黒く変色して地面に貼りつき掻き集めるのがやっかいになるので、乾いてるうちにまた掻き集めねば なりません。

トネリコの木はお隣の敷地との境界線に生えてます。引っ越してきたばかりの今から10年前、まだこの木は小さかったのですが、隣の家主が「樹木はいいからこのまま残そう」と。そう言ったまま、家の工事を放ったらかしてオーヴェルニュ(中央高地帯)の実家に雲隠れしてしまいました。今や10メートルを超える大木となって葉を沢山つけます。

木は好きだからいいのですが、枯葉の季節に落ち葉を集めるのがひと仕事です。

隣の家主に、「この木はお宅と境界線上に生えてますね。だから共有になるんでしょう」と言ったところ、「いいや、みんなウチの敷地内に生えちょる」とのたもうた。1センチでも余計に所有したいって農民根性まるだし。

それならそれで、生えたい放題でオレンチの庭を犯してる枝の処理や、枯葉の処理をちゃんとやってくれよ、と言いたいところだが、住所を知らないので、めんどうだ、落葉ぐらい自分でやったるわ、となってしまう。

 

トネリコの木はまたたくまに大きくなる。アメリカインデイアンがトネリコの枝を削って弓矢にしたのも尤もで、真っ直ぐな枝がひと夏で3~5メートルは伸びる。

 

この木の名前を知ったのは、ルノー社長暗殺事件を調べた時だった。1986年11月17日夜、ブローヌ・ビヤンクールのルノー本社から社長のジョルジュ・ベスは運転手付きの車に送られて、パリ14区モンパルナス駅と墓地の横にあるエドガー・キネ通りの自宅に帰った。ずっと昔、このブログにも投稿しましたが、重複をお許し乞う。


「ありがとう。ここで降りるから。じゃあ、おやすみ」

自宅の門まで10歩とはないが少し歩く距離を残した所でジョルジュ・ベスは車を降りた。 ほんの少しだが歩きたかった。その僅かの遮蔽物なしの隙を並木の木陰で待ち構えていた二人がいた。

「よし。やろう」木陰から飛び出した二人は拳銃を発射し、門の数歩手前のところでジョルジュ・ベスを打ち倒した。翌1987年に最後の活動家が逮捕されるまで、ベルギー、ドイツ、イタリアの活動家と連携してテロ活動を続けた過激左翼「アクション・デイレクト」の犯行だった。

 

犯人が隠れていた並木がトネリコの並木だった。エドガー・キネ通りは幅の広い中央分離帯がありここで毎週朝市が立つ。
ジャンポール・サルトルの葬儀の日、棺を担いだ行列がこの通りを通って墓地へ向かった。夏はトネリコの街路樹の葉が適度な陽射しと日陰で気持ちのよい木陰で歩道を覆う。

 

フランス語で Fresne ということを特徴ある葉の形から調べて知り、仏和辞典で「トネリコ」という日本名を知った。


フランス語じゃ    Fresne(フレンヌ sは読まない)パリの北西の郊外にはフレンヌって街があり、そこには刑務所があるんだよね。 アクション・デイレクトと因縁があるのかね?

 

Fraxinus japonica  サトトネリコともいう。もくせい科の高木でラテン名にある通り、日本が原産なんだそうだ。

湿気を好むので田の畔などに植えられた。収穫した稲束を干すのに利用される。富山ではこれを稲架(はさ)と呼ぶそうだ。

 

樹皮は薬用: 腎臓に効くほか、消炎効果があり、結膜炎などのの消毒に用いられるんだって。去年の夏、片目が真っ赤に腫れたけど皮を煎じて試せばよかった。セイヨウトネリコは、薬用ハーブとして腎臓や膀胱の疾患、リューマチに効果があるといわれている。

 

「とねりこ」って変な名前だね。なんでこんな名前なんだ?

 

すぐに浮かぶのは舎人(とねり)、平安時代に貴族が乗った牛車の牛飼いとか馬の口取り。 大化の改新前では天皇・皇族の近習だったのが、律令制では下級官吏となり、ついには馬の口取りまで落ちぶれた。「舎人子」って辞書にはあって「舎人」と同じ意味で使われたと。でも、この野生のどこにでも生える木とどんな関係があるってんだろう? もっと土臭い感じがするが。

調べると……。ありました(笑)。

樹皮に付く虫、「イボタロウムシ」これも面白い名前だね、この虫は蝋を出すんだそうな。その蝋を、滑りが悪くなった襖や障子、雨戸の敷居に塗って滑りを良くするのに使ったんだそうだ。子供の頃、障子の敷居に蝋を塗ったのを覚えてる。

 

「戸に塗る木」が訛って「とねりこ」になったんだって(笑)。へえ~! 「とにぬる木」かあ~。

 

トネリコの樹木は弾性が強くて、野球のバットやステッキ、鋤や鍬の柄に使われると。

 

トネリコの原産地が日本だったなんて、こんな近くに日本があったんだね。

 

英語では The ash grove

西洋トネリコは民謡にもなってるんだ。


『とねりこの木立 The Ash Grove』は、伝統的なウェールズ民謡(イギリス)。

ウェールズ民謡/ハラハラと舞い落ちる木の葉の優しいささやき


ウエブサイトから歌詞の一部と日本語訳(意訳)を拝借します。

The ash grove, how graceful, how plainly 'tis speaking,
The harp through it playing has language for me;
Whenever the light through its branches is breaking,
A host of kind faces is gazing on me.

トネリコの木立 何と奥ゆかしく 飾りのない物言いよ
汝が奏でるハープが私に語りかける
枝からこぼれる光が 優しく私を見つめる

The friends of my childhood again are before me,
Each step wakes a mem'ry, as freely I roam;
With soft whispers laden, its leaves rustle o'er me;
The ash grove, the ashgrove alone is my home.

子供の頃からの友達 気ままに歩けば 気分も明るく
ハラハラと舞い落ちる木の葉の優しいささやき
トネリコの木立 トネリコの木立 私の故郷よ

The ash grove, the ashgrove alone is my home. がリフレインなんだね。


以下にリンクを貼っておきます。

 

 

 

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2016-11-28 20:20:02

フィヨンの勝利

テーマ:社会・政治・国際

保守・中道陣営の大統領候補を選ぶ身内の選挙なのだが、アラン・ジュッペは最初から大統領選であるかのような国民全体に向けた一般的政策演説をした。ジュッペはここで大きな過ちを犯したのだった。

 

これに対しフランソワ・フィヨンはずっと戦略的で、一回目の投票では、他の候補者、特に本命と見られていた元大統領のニコラ・サルコジを追い落とす戦術を採った。

 

フィヨンは3年前からフランスの各地を回り、市民一人一人と直接対話を続けて国民が心底から望んでいることを理解し戦略を練った。そして選挙運動を無償で展開してくれる多くの若い支持者を獲得し、彼らが熱心な支持運動を展開したことによって今回の圧倒的勝利をものにした。そのことは昨夜の勝利が確定した段階でフィヨンが行った支持者への感謝のスピーチとジェスチュアによっても明らかにされた。

 

サルコジは、2007年の大統領選に際してピグマリオン社を介しての規制を大幅に上回る選挙資金の使用、フランス第一の富豪、化粧品会社ロレアルの社長ベタンクール女史からの不正資金収賄疑惑、今回の予備選の直前にマスコミに公表された故カダフィ前リビア大統領からの数回にわたる数百万€の現金収賄の疑惑。それらの疑惑により予審判事から喚問されたが自ら弁護士でもあり巧みな弁明によってか、すべて無罪放免された。しかし、国民は彼の言動の裏に誤魔化しや不正を言いくるめるシャルラタン(詐欺師)の影を敏感に読み取っていたのだ。

 

シラクあたりからフランスの保守政治家に権謀術数、資金工作、マグイユ(闇取引)が日常茶飯事となりマフィア的色彩が濃度を増した。サルコジの時代に頂点に達したのだが、国民はそうした政治家の姿に嫌悪を抱いていた。今回のフランソワ・フィヨン勝利でそれは明らかになった。

 

ジャック・シラクの政治資金作りは様々で、相撲が好きだと公言して毎年日本へ行くなど、本来の目的は資金工作だったことは今や公然の事実として明らかにされているし、筆者が知る範囲でも日本人からフランス人となった画家藤田嗣治(夫人)がパリ市に寄贈した3枚の大作をいずこかへ売却して政治資金としたと推測される。

 

パリ市役所に架空の職員を設け給与を政治資金化したのだが、シラクの財務担当として責任を負ったのがアラン・ジュッペだった。いわばジュッペはシラクの身代わりとして1年間服役したのだった。


その点を人格的に評価し敬意を抱く人もいるが、お人好しだった、利用されただけじゃないか、と逆に大統領には向かないと否定的に 受け止められたことも事実だろう。

 

とまれ、昨日の2017年5月の大統領選に向けての保守・中道陣営の候補者を決める決選投票の結果は、フランスワ・フィヨン66.6%、 アラン・ジュッペ33.4%と大差でフィヨンが勝利した。この数字は27日夜10時時点のもので9713の投票所の開票結果を集計したもの。 最終的な数字は28日中に発表される。(なお、前回の記事に投票所の数を千幾つと書きましたが、正しくは一桁多い10228か所でした。)

 

面白いのは投票者の色分けで、昨日の投票者数450万人のうち、保守65%は当然として、15%が左翼、さらに9%のFN(極右)支持の人たちが居たことだった。

 

5年間の社会党出身のオランド大統領の治世はたび重なる航空機事故やISテロで一刻も休まる時間が無かったが、様々なセレモニーに 出るばかりで抜本的な失業対策も景気振興策も打ち出せず、何もしない大統領として支持率は一桁まで下落し、最後は弾劾決議案提出が 取り沙汰される事態にまで落ち込んでしまった。

 

フランソワ・フィヨンの政策は、フランスの伝統的保守、1960年代に逆行する反動的政策だと左翼は批判するが、現状を打破したいと思うのは左翼とて同じなので、先立つ資金的基盤がないままに、綺麗ごとをならべ、ユートピアを夢見させるのはもはや子供だましとすぐに見破られるし、いちどゼロに戻って出直すというのも、勇気の要る変革であることに間違いないように思う。

 

 

↑フランソワ・フィヨンは24時間レースでお馴染のル・マンの出身で、大の車好き。自らもレーシングカーを運転する。

 

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2016-11-26 21:35:21

フィヨンの変革

テーマ:社会・政治・国際

謙虚だ。本気でフランス社会を変えようとしている。その情熱が伝わってくる。正直だ。本当のことを言っている。概ねフランス人はフランソワ・フィヨンをそのように評価した。予備選の予想ではせいぜい4位くらいに位置付けられていたのだが、大方の予想に反し、20日(日曜)の第一回投票で、サルコジ元大統領を斥け、2位のアラン・ジュッペに大差をつけフランソワ・フィヨンがほぼ200万票を獲得して圧勝した。

フィヨンが打ち出した政策は3年間地方を回り、市民の本音を聞いて 調査した結果であり、老若男女、社会の各階層の思いを取り入れたものと言ってよい。 それは、社会の停滞にうんざりし怒りを抱いてる人々の本音を反映した現実主義なのだ。

 

カトリック信仰を隠すことなく、政治に対しても謙虚だがここという所で信念を吐露し、本気でフランス社会を閉塞させているものを 変えようとしている。真の変革者、シャルル・ペギーなどに見られるカトリック信者の深い所からの変革が彼を先導として始まる、と いう気がしてくる。

 

保守と中道の大統領選の候補者を決める予備選挙、第一回投票は先週の日曜に行われ、元首相で4年間、目立った行動をせず忘れられていた かに見えたフランソワ・フィヨンが45%の票を獲得し、一大番狂わせが生じた。この予選には7人の候補者が出て、サルコジ元大統領は 3位となり敗退、政界からの引退を表明した。

 

第一回の投票者数は450万人と非常に高い投票率を示した。面白いのはこの投票は登録さえすればだれでもでき、左翼の人も出来たこと。 実際10%に近い左翼の投票があったということだ。多くはサルコジを落すのが目的だったが。選挙費用の分担として各人2€払うことが 義務付けられた。投票所は千を超える場所に設けられたが第一回投票だけで900万€が集まった。これだけでは少し足りず第二回投票で 選挙経費を賄ったあとの残りを当選者に贈るという。


フィヨンとジュッペの差は16%と大きく開いた。がフィヨンは僅かに過半数に届かず27日の決選投票へともつれこんだ。

 

24日(木)はフィヨンとジュッペの二人の候補が最後のテレビ討論を行った。

 

共に保守の共和党員でありその政策は大きな違いはない。ただ、その進め方、速度、目標値が大きく異なり、そこが論点となった。

 

主な論点は、労働時間、公務員の削減数、女性の権利(堕胎の権利)、対ロシア・シリア関係、初等教育、多民族・複合文化か?フランスの 伝統を重視しアイデンテーを護るべきか? 移民問題、イスラム問題、失業の解消、未成年の非行をどう解決するか? など

 

二人とも首相経験者。ジュッペはシラク大統領の下で2年間、フィヨンはサルコジ大統領の下で4年間。

 

最初、司会者から、政治家の倫理という抽象的な形で質問が発せられた。

アラン・ジュッペはシラク大統領がパリ市長だった時代、ジャック・シラクの選挙資金工作のため、市庁に二桁大の架空の職員を設け、 給与を政治資金にしていた。シラクは大統領に選出され、ジュッペは首相を2年間務めたが、シラクの任期満了後、控訴され有罪となり 架空の職員の給与を政治資金に使った廉でジュッペも有罪となり1年間服役した。その後ジュッペはカナダに数年間暮らした。

 

そのことが、司会者の質問の裏にあるのは明瞭で、ジュッペはすぐさま、私はちゃんと責任を取り、服役して罪を償ったと弁明した。

 

年齢の差がある。ジュッペの71歳に対し、フィヨンは62歳と若い。

この年齢の差が、政策の差に表れていると思う。似たような政策でも、その方法、速度、変革の深さ、ラデイカルさが違う。

 

2015年1月のシャルリー・ヘブド誌襲撃とヴァンセンヌのユダヤ食品店の襲撃、11月のバタクラン劇場と近くの4か所のカフェ襲撃、さらに今年に入って7月14日のニースでの惨劇、 パリ北西郊外の警察官夫婦殺害、ルーアン近くの教会のミサを執り行っていた副司祭の殺害とフランスは立て続けにイスラム過激派(ISをフランスではアラブ人の呼び方を とってダエッシュと呼んでいる)による残虐なテロ攻撃を受けた。

 

ドイツやオーストリアで極右が台頭したのと同様、フランスでもル・ペン党首率いるFN(国民戦線)が地方選挙で圧勝した。 2017年5月に行われる大統領選にFNのマリンヌ・ルペン党首が第2回決選投票に残るのではないか? ことによったら極右の大統領の 誕生を見るかもしれない、という恐れが大統領選が近づくにつれ高まっている。

 

イスラモ・フォブ(イスラム嫌悪)、イスラム排斥などの極右政策ではなくても普通のフランス市民は過激派に恐怖を感じている。

当然、大統領選でこの問題にどう対処するかが主要な政策論点として注目を集める筈だ。

 

フィヨンは地方を回り人々の正直な意見を集め、フランス人のアイデンテ、歴史と文化の尊重を主張した。外国からフランスへ 来る人は、この国の伝統と文化を尊重し、習慣と法律を習得し身につけるべきだ、と。

 

一方のジュッペは、相変わらずの国のかたち、すなわち多様な文化と多様な人種によって成る多民族国家というフランスの姿をそのまま 持続する主張をした。

 

ジュッペはここで間違いを犯したのだ。フランスの大多数の市民は、そういったヒューマニズム、過去の平和な時代の理想が現実によって 踏みにじられ、なんの咎もない、これから人生を花咲かせようとしていた沢山の若い人々が無惨な殺され方をした、このままで良いわけがない、と 心の底で思っている。

 

フィヨンは、その深層心理を敏感に汲み取り、極右の支持を受けていると批判されるリスクを冒しても、フランスの伝統と固有の文化を 守り、外国からこの国に住みたくて入国する人々は、それを学び習得し身につけなければならない、それが礼儀というものだろうと主張した。

 

これは常々サルコジが主張していたことで、フィヨンはサルコジ支持の票を丸ごと受け継ぐ戦略として同じ表現を用いたとみられる。 サルコジ元大統領は予備選で3位となり敗退した後、決戦投票ではフィヨンに投票すると表明した。

 

フィヨンの話しぶりには確信が感じられジュッペのそれは薄っぺらな、これまで言いつのられてきた人道主義を時代の流れを反映させることなく お題目のように口先だけで繰り返すように聞こえた。

 

フィヨンの考えは血肉化されたうえで口から出たものであるのに対して、ジュッペのそれは、やはりエリート学校を出た秀才が頭の中の 考えをそのまま口先で発音してる、明らかな違いが感じられた。

 

労働時間、週35時間制と雇用に関する法律が、雇用をしたくてもできない企業を多く作り出し、フランスの経済の足枷となっている。

 

フランス経済は破綻寸前の状態であり、立て直すにはみんながもっと働かねばならない。労働時間に関しては企業と被雇用者がネゴをして 企業ごとに決められるというフレキシブルな形態にすべきだ、というのがフィヨンの主張であり、これは社会党政府で経済大臣を1年間だけ 務めて辞めた末、来年の大統領選に出馬を表明した左派の若手でスター的人気を博しているエマニュエル・マクロンとも共通するリベラルな考えだ。

 

現実に、フランスのロレーヌ地方の自動車工場では、従業員が会社とネゴし、週37時間労働するが、給料は35時間分で良いと決めた。企業が倒産し工場閉鎖となるよりは労働時間を延長した方が良いと労働者が考えて決めたのだ。

 

24日(木曜)のテレビ討論で司会役のピュジャダがフランスの「社会モデル」を壊すのか? とフィヨンに質問を向けると、すかさず 「社会モデル」があるのか? と切り返した。失業者が350万人を越え、社会保障費は赤字を抱え、企業は競争力を失い、経済力は 低下し続けるばかり、そうした現状を生み出してるのは、イデオロギーや理念にこだわり現実的政策を打ち出せない、政治と社会モデルに 捉われた政治家の責任ではないのか?

 

そういったフランスを深い所から変えねばならない、とフィヨンは訴える。

 

社会保障、特に医療制度と健康保険を強制から任意保険へと軽い病気の治療に関しては移行すべきだというフィヨンの主張はかなり リスクを伴い、明日27日(日曜)の投票にどう影響するか見ものだし、フィヨンが保守・中道の大統領選候補に選ばれたとしても、 2017年5月の左翼との対決で、社会進歩に反する、労働者の利益を損なうものだと批判されるだろう。

 

フィヨンはまた裕福層の所得税、企業への課税を軽減すべきとしている。それは外国からの投資がフランスの課税と社会報償費の企業負担が 高い事、解雇など雇用に関する規制が複雑で経費が嵩むことを理由に年々減ってきており、カタールなど中東産油国の金持ちとか中国などに 限られてきていて、経済の活性化を図る上で大きな足枷となっているので、変えねばならないとの理由からだ。

 

ここもまた重要な争点となるだろう。

 

公務員の削減をフィヨンは50万人としているのに対し、ジュッペは25万とし、50万人削減は不可能であり非現実的だと批判した。500万人居るフランスの 公務員はこの一点だけでもフィヨンには票を投じないだろう。

 

社会保障や労働に関する法律が大統領選で左翼との大きな争点となるだろうが、閉塞状態のフランス社会を変えねばならないことは誰もが 感じていると思う。

 

明日の投票結果と、来年5月の大統領選を注意深く見守りたい。

 

世論調査による予想では、明日は450~500万人が投票し、フィヨンは61%、ジュッペは39%の票を獲得するだろうという。

 

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2016-11-24 21:14:18

マグダラのマリアとヴェズレイの聖堂

テーマ:宗教

ヴェズレイの聖マリー・マドレーヌ聖堂とマグダラのマリアについて少し調べてみた。

 

ヴェズレイの丘の上の聖堂と街並みの遠望↑

 

マグダラのマリアの遺骨とされるものが何故ここにあるのか?

マグダラのマリアはどういう女性だったか?

 

諸説があり、キリスト教と古代パレスチナの専門家でもない素人が真異を見分けることは困難だ。諸説を知り、ただ、想像を巡らすに留まる他ない。

 

一般に聖書の記述などで知られている通り、キリストがゴルゴダの丘で磔刑に処せられた時に最後まで十字架の足元に残り、 遺体が葬られた墓を訪れた際に、復活したキリストを最初に見た女性がマグダラのマリアとされている。

 

他の弟子たちが怖くて逃げだした時も怖がらずに居た勇気と信念を持った女性とされている。

 

マグダラのマリアとベサニアのマリアは同一人物とする説が初期のローマ教会により唱えられたが、ヴァチカンのカトリック教会は マグダラのマリアの祭日は7月22日で、ベサニアのマリアはその妹のマルタと7月29日に祀るよう指示し別人であるとしている。

 

マグダラの語源はアラメア語でMagdal、ヘブライ語で Migdal で共に「塔」の建設を意味するという。

 

伝説によればマリーはマグダラの地のシャトーの塔をラザロとマルタと共有していたという。

 

グノーシス文書にはマリアの福音書( l'Evangile de Marie )があり、キリストとマグダラのマリアの会話が記されているという。

 

世界的ベストセラーとなったダン・ブラウンの「ダヴィンチコード」はマリアはキリストと結婚し子供をもうけ、その子孫がメロヴィンガ朝を興したが、ヴァチカンの画策により隠蔽され続けたとしている。

 

マグダラのマリアは娼婦だという説や、らい病(ハンセン病)患者の専業だった縄ない職人の守護神だったという説がある。

 

La Madelaine = La Maladrerie から派生した語でハンセン病を隔離する収容所を意味するという。

 

南仏プロヴァンスのカマルグ(沼沢地方)はヨーロッパ中のジプシー(最近は旅する人々と呼ばねばいけない)が毎年一回祭りに集まる地として有名で、そこにはサント・マリー・ド・ラ・メール( Sainte- Marie-de-la Mer )の教会がある。

 

マグダラのマリアは小舟に乗って地中海を渡り、サント・マリー・ド・ラ・メールに上陸、この地で伝道をした。

 

近くのサント・ボーム( Sainte-Baume 今日聖地となっている)の洞窟に籠り死ぬまで祈りを続けた。

 

墓がサン・マキシマン・ラ・サント・ボーム( Saint-Maximin-la-Sainte-Baume )ドミニコ派修道会の墓地にあり、キリスト教で3番目に重要な墓地である。

 

しかし、マグダラのマリアはパレスチナを出たことはなかったという説や、墓は小アジアのエフェスEphese にあるという説がある。


それはさておき、何故、ヴェズレイの聖堂のクリプト(地下礼拝堂)に一部分だが、祀られているのか?

 

ヴェズレイの歴史をみよう。

聖堂(バジリック)はカテドラルと違い十字形をしておらず平面図は長方形。

 

ヴェズレイの丘の上に聖堂が建てられたのは1120~1150年で12世紀の事。

 

873年、ヴァイキングはル・アーヴルの入り江に上陸し、セーヌ川を遡り、パリを脅かし、さらにヨンヌ川、キュール川を遡ってヴェズレイの近くまで侵攻した。

 

878年、教皇ヨハネ8世はベネデイクト派をヴェズレイに避難させ最初のカロリンガ教会を建てさせた。それが今日、クリプト(地下
礼拝堂)として残っている。

 

882年、サラセンがプロヴァンスに侵攻し、その混乱から救うため、バデイロン Badilon という修道僧がサント・マキシマンへ派遣され、マグダラのマリアの遺骨をフランスの北、ヨンヌ地方(ヴェズレイだったのか?)に持ち帰った。

(ふむ、ふむ。それで、遺骨がここにあるってことが納得できました)

 

1281年からは遺骨はサンスのカテドラルの宝物として保存されていた。

 

その後、変遷を重ね、ヴェズレイの教会は忘れられ廃墟同然となっていたが、1834年、カルメン、コロンバなど短編小説でお馴染のプロスペル・メリメ(実は文化大臣という偉い地位にあったのです)が廃墟になっていたヴェズレイの教会を発見。

 

1840年、中世建築の大家、ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デユック Eugene Viollet-le-Duc 監督の下、修復が開始された。


ヴィオレ・ル・デユックはパリのノートルダム寺院、ピエールフォン城などの修復を手掛けた建築家です。彼が執筆編纂した大部な中世建築事典は20世紀フランスの抒情詩を代表するポール・ヴァレリーの愛読書でもありました。

 

1876年7月23日、サンス(Sens ヨンヌ県の大きな町)の司教ベルナドウが、、マリー・マドレーヌの遺骨を教皇マルタン4世の手でヴェズレイへ安置しなおした。

 

遺骨は一時行方不明となり、1898年12月25日(クリスマス)に子供がブリヤール Briare の墓地の墓の上に放置してあるのを見つけた。

 

ヴェズレイの聖堂は代表的なロマネスク様式の教会であり、入口付近は暗く、奥の祭壇へ近づくほど明るい設計になっている。

 

1979年 ユネスコの世界遺産に登録された。

 

最後に、マグダラのマリアはキリストの奥さんだったという説に戻ると、キリストとマグダラのマリアが接吻をしていたという記述を根拠に夫婦だったとするダン・ブラウンのような作家がいるが、グノーシス的視点からは、精神的な魂である「息」を吹き込み伝達するために主は弟子に口づけをしていた、と理解できるという。

 

グノーシス思潮は女性を再評価し、マリー・マドレーヌにソフィアやノレア同様、女性の神聖さを強調しようとしたのだ、という。

 

マリー・マドレーヌはキリストの精神的同伴者と見るのが正しいと思う。

 

(この回はこれでおしまい)

 

 

 

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2016-11-22 21:49:48

ヴェズレイへ

テーマ:フランスの田舎道

雨続きの先週、束の間の青空に誘われてヴェズレイへ小ドライヴを試みました。

 

北ブルゴーニュの低い丘陵と畑を舞台に光と陰が織りなす光景をしばらくの間楽しみました。

 

ヴェズレイの丘に近づいてきます。


 

6日に来た時は雨で寂しかった頂上のパノラマもこの日はモルヴァンの遥か奥まで見渡せました。

 

↑頂上のバジリック(聖堂)前の広場の光景。

 

実はこの日、ヴェズレイでロマン・ロラン生誕150年を記念してシンポジウムがあったのです。

↑シンポジウムが開かれた聖堂のすぐ脇のシテ・ド・ラ・ヴォワ(Cité de la Voix)

 

シンポジウムは、先週の17日(木曜)から昨日21日(月曜)までの5日間、パリの国立図書館(BnF)、ソルボンヌ大学、 ヴェズレイのシテ・ド・ラ・ヴォワ(Cité de la Voix)、クラムシイのロマンロランの生家(記念館)、アヴァロンではロランの劇作「狼」とドレフュス事件についての講演に続いて 映画館ル・ヴォーバンでアンジェイ・ワイダの映画「ダントン」の上映、さらに研究報告・討論のあと教会でコンサートと多彩な 形態で行われました。

 

 

ロマン・ロラン協会が主催するこのシンポジウムが4年毎に開かれるということを今回初めて知りました。

 

19日にヴェズレイでシンポジウムが開かれると知ったのは偶然でした。6日に、北海道の友人の教え子と一緒に聖堂のマリー・マドレーヌの 遺骨にお参りした時、昼食に入ったクレープ屋さんでレシートと一緒にマダムがくれたフライヤー(ちらし)に載っていたのでした。

 

今年のテーマはロマン・ロランの「ミュジコロジー」(音楽学)に関してでした。専門家の研究発表をロランのベートーヴェン研究も 読んでいない私が傍聴するのはおこがましいことでしたが、この日の研究発表の最後に、「ヴェズレイ日記 1938-1944 」を編纂されたジャン・ラコスト さんが「信念と理性のあいだ」という題で話をされるとあったので、それが聴きたくてはるばる山道を走って来たのでした。

 

↑開会の挨拶をされるロマン・ロラン協会会長マルテインヌ・リエジョワ女史(Mme Martine Liégeois )。

 

リエジョワさんは、18日にソルボンヌ大学で研究発表をされた札幌日仏協会の理事高橋純(あつし)氏を私に引き合わせて下さいました。

 

高橋さんはロマン・ロランにガンジーを引き合わせた日本人彫刻家高田博厚(ひろあつ)さんとロランの間に交わされた書簡23通(1931~1944年)を国立図書館のロマン・ロラン文書の中から最近(4年前)発見され、彫刻家とロラン、さらに小林多喜二との交友関係について研究発表をされたと伺いました。

 

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