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2009-12-16 00:00:51

【続】フランス国籍をめぐる騒動

テーマ:フランス社会
前回の フランス国籍をめぐる騒動 に関連して、二つの記事を引用します。

一つ目は、前回の記事に登場した ウヌス・ギセ Ounoussou Guissé 氏の経験に関するもので、二つ目は、記事の著者自身が経験したことに関するものです。

前回と同じ週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年11月19-25日(通巻2350)に掲載された、 Ounoussou Guissé - «J'ai toujours servi mon pays»  (ウヌス・ギセ - 「私は常に私の国に奉仕してきた」)という記事と、 Neuf mois pour prouver ma nationalité  (私の国籍を証明するための9ヶ月)という記事です。



OUNOUSSOU GUISSÉ 

« J’ai toujours servi mon pays »



司法省では、ギセ Guissé 家を巡る法的混乱を正当化するのに苦労している。政府がフランス人としてのアイデンティティーに意義を唱えるのは、ウヌス・ギセOunoussou Guissé 上等兵だけではない。その兄弟全員が同じ目に遭っている。当初、問題にされたのは、1962年にフランスに帰化した、今は亡き父親である。最近の破毀院の判決によれば、独立の瞬間に帰化した人は、フランスに住居を持たなければならなかった。それが、ウヌスの父に当てはまる、家族がセネガルに残っているという点を除いて。そして裁判所の異議申し立てはそこに由来する。50年経って、なぜ彼なのか?「彼の血統を主張する、およそ20人の子や孫がいるかもしれない。フランスの複数の裁判所での、一斉の呼び出しは、それによって説明できる」と、上等兵の事例に「しか」関わっていない、ルーアンの裁判所で我々は聞いた。熱心さは?落下傘兵は2008年に勝ったが、検察は控訴した。ただ、判例にしないためだけに、と考えられる。彼の兄弟の一人は既に国籍を失った。


Doan Bui


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2350/articles/a413146-%C2%ABjai_toujours_servi_mon_pays%C2%BB.html


Neuf mois pour prouver ma nationalité



2006年、私はIDカードを作り直そうとした。警察署は私に、フランス国籍証明書 (CNF) を作るように求めた。私がフランス生まれで、私のパスポートは今も有効だというのに。理由は?私の両親が不幸にも外国で生まれたということだ。戦闘員の道程は両親の出生証書の獲得から始まる。ナントの公文書館に手紙を書かなければならない。3ヵ月後、答えが来る。私の父の名前に該当する人物はいない。彼は存在していない。「綴りを見てくれ、彼らはしばしば、ベトナム的な名前に不満を漏らしている」と、私に小声で言う。この場合はそうだった。私は申請をやり直す。3ヵ月後、書類が到着する。残念ながら、母の書類は期限切れだった。というのは、これらの書類は3ヶ月しか有効ではなかったから・・・ 小審裁判所へ向かう。何度も電話をかけた後、聴聞が開かれる。「あなたはフランス語が話せますか?」と、受付の淑女は言葉を区切って私に尋ねる。確かに、それは優しさからだった。この心優しき女性はある日、私に尋ねた。「船は辛かったでしょう?」 私に国籍関係の書類が差し出される。私は即座に記入し、署名し、ポシェットから両親の出生証明と、帰化決定書の一式を取り出す。ああ!「あなたの両親は結婚しています、婚姻証明書が必要です。」 各裁判所は、思いのままに追加のピースを要求できる。学歴証明、雇用主の証明書・・・ 2ヵ月後、新たな面会だ。新たな侮辱。私は一人に迎えられる、「あなたは滞在証明書をお持ちですか?」 東洋人の切れ長の目を持ち、中国人不法滞在者の「略奪」が定期的に起こるベルヴィル Belleviell 地区に住む私は、容疑者だ。さらに、私は両親の婚姻証明を探し出すことに成功していなかった。彼らは、今はもう存在しない、南ベトナムの大使館で結婚していたのだ。窓口の不信に満ちた目。職員は私の両親の帰化決定書をじっくりと観察する。「これではだめです。ホチキスの痕があります。紙が一枚足りない。」 私の最後の希望は、全ての帰化が記載された「官報」を探し出すことだ。数多くの波乱の後、私はようやく、1976年4月4日の「官報」のページに手を置く。Budini Luisa という名前と、bui-Duy Toan (Dubui に改名)の間に、私は両親とその赤ちゃんの名前を発見する。私だ。1ヵ月後、答えを知るための裁判所への召喚。フランス人であることを常に非常に誇りにしていた私、どこの出身かと尋ねられれば常にサルト Sarthe 出身と答えていた私は、この日、意味もなく、裁判所の書記課室にいる。少し怖かった。評決は、私はフランス人である。それを証明するために9ヶ月かかった。


Doan Bui


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2350/articles/a413147-neuf_mois_pour_prouver_ma_nationalit%C3%A9.html

Le Nouvel Observateur 2350 19-25 NOVEMBRE 2009


Le Nouvle Observateur の記者に向かって、「あなたはフランス語が話せますか?」と尋ねるとは、何といい度胸でしょう。

フランスでは、「国民のアイデンティティー」をめぐる論争が激しくなっているとのことです。この事態にはエリック・ベソン Eric Besson 国民・統合・国家アイデンティティー・連帯開発大臣が深く関与しています。この、社会党から右翼政権の閣僚に転向した、日本では余り知られていない人物について、 Le Nouvel Observateur の今週号(2009年12月10-16日、通巻2253)が巻頭特集(Jusqu'où ira Besson  ベソンはどこまで行くのか)を組んでいるほどです。が、今の私の状況では、この特集記事を訳出することは無理だと思います。





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2009-12-15 19:25:16

フランス国籍をめぐる騒動

テーマ:フランス社会
しばらく更新をお休みしてしまいました。当ブログの更新を楽しみにしていてくださる、ごく少数の皆様にはご迷惑をおかけいたしました。体調が回復したわけではありませんので、またしばらく更新は滞ることになると思います。



週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年11月19-25日(通巻2350)に掲載された Le scandale des certificats de nationalité. - Etes-vous sûrs d'être français ? (国籍証明の醜聞 - あなたは確実にフランス人ですか?)という記事です。



Le scandale des certificats de nationalité. 

Etes-vous sûrs d’être
français ?



国民のアイデンティティーに関する論争が燃え上がっているときに、数万のフランス人が、事実上、自らの国籍を証明することを強いられている。フランスの行政の硬化に関する調査。

ウヌス・ギセ Ounoussou Guissé が初めてエルヴェ・モラン Hervé Morin に会ったのは、2008年12月31日、アフガニスタンにおいてだった。国防相は自分の軍隊とともに大晦日を祝いに来ていた。数ヶ月前、10人のフランス兵の生命を犠牲にした待ち伏せ攻撃が起こった場所で。「その10人の中の一人を知っていた。一緒にチャドにいたことがある」と、この落下傘部隊員は回想する。しかし躊躇せずに自ら進んで「アフガ(アフガニスタン)」に赴いた。彼は愛国者である、本当の。「フランス国旗に奉仕する」誇りについて語る。「怖くはない」と繰り返す、なぜなら「それが仕事だ」から。凍えるように寒い夜、ウヌスを目覚めさせたままにしたのは、極度の危険でも寒さでもない。それは彼が控えめに「書類の問題」と呼ぶものである。2007年、この落下傘兵は、彼のフランス国籍に異議を唱えるルーアンの裁判所に召喚された。常にパスポートとフランスのIDカードを持つ彼が! 1962年に帰化した父親を持つ彼が!裁判所は、破毀院の最近の判決を引き合いに出して、フランス国籍が当時、過誤によって今は亡き父親に与えられたと判断した。したがって、死後という形式で、裁判所は彼から国籍を剥奪することを望んでいる(そして、できる)。彼からだけでなく、その息子からも。そうとも!かくも儚いのは、国籍だ。それは与えられ、失われる。たとえ50年後でも。ウヌスは何も理解できなかった。「私は常に働き、税金を払い、国に尽くしてきた。」 彼は毎晩、ベッドで怒りに震えて泣いた。司法の地獄が始まった。ウヌスは、この「カフカ的状況」に憤慨するエルヴェ・モランに認められたところだ。しかし、数日後に決定を下さなければならない判事たちは、同じように考えるだろうか?


De longs délais d’attente

(長い待機期間)

 あなたは本当に間違いなくフランス人だろうか?ばか正直に、国民IDカードとパスポートが「フランス人であること」の十分な保証だったと考えていたら。間違いである。「あのような物語を、私は次第に多く扱っている」と、ウヌス・ギセの弁護士、セシル・マドリーヌ Cécile Madeline は言う。「移民に関する法律が厳しくなり、その結果、行政府はより疑い深くなっている。そして多くのフランス人が今後、自分が確かにフランス人であることを証明しなければならなくなる。」 フランス国籍証明書 certificat de nationalité française (CNF) を作って。国民のアイデンティティーに関する論争、県知事に対するエリック・ベソン Eric Besson (訳注:国民・統合・国家アイデンティティー・連帯開発大臣)の一式、国旗、料理、あるいは『ラ・マルセイエーズ』に関する200の質問は忘れよう。有名なCNFを交付する役割を持つ、小審裁判所 tribunaux d’instance では、国民のアイデンティティーは明白な方法で定義される。当然、「そうである」者がいる。貴重な書類を必要としない、「フランスで生まれた親から、フランスで生まれた」、先祖代々のフランス人である。そして他の全ての者がいる。フランスで生まれた二世の移民のフランス人、外国で生まれたフランス人・・・

 潜在的な不正を働く者と見なされ、一般化した疑惑の奇妙な雰囲気の中で。彼らにとって、CNFは今や義務的である。自分がフランス人であることを証明しなければならないのは彼ら自身であり、そのことが、書類を再び作りたいときに数万の同胞が実感しているように、非常に複雑であることが明らかになるかもしれない。それが確実に不可能ではないときでも。2008年、(14万9000件中)1万9000人分の申請が却下された。2006年には13000件だったのだが。それでも、IDカードかパスポートが必要なときにCNFの必要がなかったのは、さほど昔のことではない。しかし法律と実務は次第に強硬になっていった。まず、1993年のパスクァの通達によって。情報化された新しいIDカードによって、CNFは、更新の場合でも義務付けられた。ニコラ・サルコジが内務省にいた時代、2005年に遡る、電子化されたパスポートに関する政令に基づき、パスポートについても今では同じことが言える。外国のフランス人にとっては悪夢ともいえる、行政の変化であり、例えば、待機期間は1年に及ぶこともある! かつては区の裁判所で扱われていたCNFの申請が全て、唯一の「Pôle nationalité (国籍局)」に集約されたパリでは、同じような渋滞が起こっている。申請は取り扱われるまで長い間待たされる。「国籍は、心情的なものであり、ひとびとのアイデンティティーそのものに関わる。我々は、条文に従うことを強いられている」と、ルーアンの裁判所の書記長は説明する。「まるで数学の証明のようだ。イエスかノーか。ピースが欠けていたら、何もできあに。国籍に関する法律は非常に複雑だ。一生をフランスで過ごしてきた60歳の人が、いいえ、あなたはフランス人ではありません、と言われたのを見たことがある。それは暴力的だ。」


« Ce jour-là, un truc s’est cassé »

(「その日、カラクリが壊れた」)

 それは、マルセイユで生まれた56歳の研究者、マルク・ムーズ・アマディ Marc Mouze Amady に起こったことである。「父の国籍証明書を見つけることができなかった。要するに、彼らにとって、私はもはやフランス人ではない、何でもない、無国籍者だ、ということだ。2年の間、私は外国への移動を取り消さなければならなかった。そして私が出国したとき、入国審査されることが腹の底から怖かった。私は期限切れのIDカードと軍の動員心得手帳の入った袋を持っていた。」 父親の証明書は最終的に見つかり、書類は付与された。しかしこの物語はマルクの古い悪魔、同化への激しい欲望、混血の皮膚を呼び覚ました。「私はあらゆることを押し殺していた。父は常に、マダガスカルの出自を消すためにあらゆることをし、イスラム教の信仰を別にして、フランス人よりもフランス人らしかった。私は同じようなことをし、同化というカードに全てを賭け、学校では一番になった。それは何の役にも立たなかった。結局、国家の目には、私は二流のフランス国民だったのだ。」 フランス緑の党党首、セシル・デュフロ Cécile Duflot の右腕、ステファヌ・シトボン=ゴメス Stéphane Sitbon-Gomez もまた、「自分が移民の息子だと感じたことはなかった」。フランスで生まれたこの若いシアンスポ出身者は、5年前からCNFを得ようと試みている。「それは2004年に始まった。バカロレアを受けたとき、私のIDカードは期限が切れていたので、CNFの申請をした。私の父はチュニスで生まれたフランス人だ。しかし裁判所にとって、父の国籍は疑わしいものだった。そこで我々は、フランス人の血統を証明するために、ジェール県で生まれた、祖母の祖父まで父方の家系を遡ることを要求された。父の血の純粋さを証明しなければならなかったかのように!その日、からくりは壊れた。」 ステファヌ・シトボンはもう少しで、「外国人受験生」としてバカロレアを受けるところだった。「幸いにも、市役所で感じのいい職員に当たった。彼女は私に、こっそりとCNFなしでIDカードを再発行してくれた。」 不条理極まりない波乱万丈のたびは続く・・・ 「先週、我々はチュニジア国籍を取る方がずっと簡単だと言われた!」


Tous des Français provisoires

(暫定的なフランス人に関することの全て)

 行政の冷たさの背後にはいつも、永遠の傷跡がある。アイデンティティーの模索、遺伝、相続、再び表面に現れる家族の物語。そして、ある偉大なHとともにあるフランスの歴史も。そして特に、最も暗いページにおいて。六十代の女性、ブリジット・アビトボル Brigitte Abitbolは、彼女の姓の「イスラエル的な響き」を指摘され、シナゴーグでの宗教的結婚証明を要求されたとき、危うく窒息するところだった。「役人の一人は、私がアルジェリア系ユダヤ人として調査されていると行った。家族の多くがアウシュビッツで死んだ私に・・・」と、彼女は心を振るわせる。「私は何よりもまず、フランス人だ。アルジェリアの学校で、私は毎日『ラ・マルセイエーズ』を歌っていた。7歳でフランス本土に戻ったとき、私は他の誰よりも言葉をよく知っていた。」 なぜ国籍法は宗教に興味を持つのか?答えはずっと昔に遡る。アルジェリアのユダヤ人はクレミユーCrémieuxの政令(1870年調印、ヴィシー政権下で廃止された後、復活)の恩恵を受けていた。そして全員がフランスに帰化した。イスラム教徒は、できなかった。このことが、アルジェリアの独立後に、解決困難で苦痛に満ちた状況を創り出した。

 ウヌス・ギセの物語は、別の亡霊を蘇らせる。フランスのために死んだセネガル人狙撃兵の亡霊である。この若者はセネガルに残る、妻と子供の写真を見つめる。1年以上も再会していない。「私の顧客を容疑者にしたのは、確かに家族呼び寄せの請求だ」と、セシル・マドリーヌは分析する。「彼のCNFを取り消す意思はそこから来ている。」 この有名な証明書を得るために苦闘する我々の同胞は、次のことを知ったら喜ぶだろう。民法典によると、それは「反対のことを証明する??」。要するに、我々は全て、暫定的なフランス国民なのだ! 2008年、438人がこうして、CNFに異議を唱えられたために司法に呼び出された。ギセ上等兵にはささやかな慰めだが、彼には今、国外追放されないことが保証されている。エリック・ベソンは、フランスに対してなされた類稀なる奉仕によって、ウヌスが帰化できるだろうと説明する声明を思い切って発表した。「その帰化を、私は望んではいない」とウヌスは苛立つ。「私はフランス人だ、これ以上言うことはない。」


DOAN BUI

Le Nouvel Observateur 2350 19-25 NOVEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2350/articles/a413145-.html


これだけを読むと、たまたま日本で生まれた親から日本で生まれた自分が、国籍という問題に悩まずに生きてこられたことを幸せなことだと思わざるを得ません。

次回はこの関連記事を二つほど挙げる予定です。特に、今回引用した記事を書いた Doan Bui 記者自身が直面した不条理に関する記事は興味深いものがあります。


関係ありませんが、クナイチョーとかいう役所の「長官」とやらが、「1ヶ月ルール」とかほざいていますが、こんなもん、単なる慣例、習慣ではないのでしょうか。「ルール」というのは、主に文章によって既定されたものをいうはずです。そういえば、自転車の明らかな「道路交通法違反」(夜間の無灯火、携帯電話操作などによる手放し運転、歩道での歩行者優先原則の無視・・・)を「マナー」の問題にしているなど、どこかの国では「ルール」と「マナー」の区別が付いていない面が多い。本来「ルール」でないようなものを金科玉条の如く奉る態度もまた、その別な現れなのでしょうか。

それと、ジミントーの政治家が「憲法を読んで欲しい」などと、民主党に言うのはおかしい。憲法の理念に反するようなお坊ちゃまを排出してきたのどこの党か?味噌汁で顔洗って出直しなさい。自分らこそまず、九十九条を読み直していただきたい。

本文と関係ありませんが、たまたま滅多に見ないテレビのニュースを見ていて思いました。




2009-12-04 22:01:37

「環境保護的民主主義か緑のファシズムか?」

テーマ:政治・経済
脈絡もなく、環境保護に関する話題です。


週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年11月12-18日(通巻2349)に掲載された Les débats de l'Obs - Démocratie écologique ou fascisme vert ? (環境保護的民主主義か緑のファシズムか?)という記事です。


LES DÉBATS DE L’OBS

Démocratie écologique
ou fascisme vert ?

par Dominique Bourg



世界的な環境危機に対して、我々の民主主義は脆いように見える。持続可能な開発の専門家が政治のビッグバンのために弁明する。


Le Nouvel Observateur. - 18世紀に天然資源は無限だという根拠の上に築かれた、我々の代表制民主主義には、環境危機を生き残る可能性が僅かでもあるのでしょうか?
Dominique Bourg. - それは、「2020-2050年、節度ある望ましい社会へ?」という討論会の中心的問題です。世界の有限性は、我々の同時代人にとって新しい考えです。余りにも新しいために、それは我々の民主主義の無力さを確固たるものにするほどです。アメリカ合衆国大統領がCO2排出の削減策を推進するための極度の困難を見るしかありません。炭素を「毒」と見なすオバマ政権が、その野心を減らすためには、炭素排出国がにらみを効かせるだけで十分です。これは、19世紀に形成された我々の代表制民主主義の大きな欠陥の一つです。選良たちは自らの選挙区の前でしか考えません、一方で環境に関する規制緩和は生態系全体に影響を及ぼします。私の確信は後者です。我々の考慮の範囲と基盤を拡げるために新しい民主的な手続きを考え出すにしても、非常に暗い未来を覚悟するにしても。我々が選挙で送れずに受け入れることができない重い規制を武力で押し付けると主張するであろう緑のファシズムまたは「エコグラーグ」からの可能性を完全に免れることはできません。

N. O. - 独断的な論拠として黙示録の切迫を呪術家が振りかざすのは、2000年前以来、これが初めてではありません…
D. Bourg. - 警鐘を鳴らすのがもはや呪術者ではないという点を除いては。今は、システムの中心にいる、非常にあるべき人々が警鐘を鳴らしています。どちらかといえばエネルギー問題に関する情報をよく得ている、シェルの副社長を見てください。彼は会社の名において実に真実らしい暗いシナリオに署名しています。2015年あたりに、石油採掘能力が低下したとき、準備の出来ていない国家には、乱暴な配給制を実施してOPECとばらばらに交渉するしか選択の余地はないかもしれない、と読むことができます。国家間の競合の高まるリスクによって、一方で専制的逸脱、他方で扇動的なエスカレートが起こります。哲学者ハンス・ヨナスHans Jonasは、1979年に、環境の凄まじい制約に対処するためには「親切な圧政」以外に解決策はほとんどないと判断していました。避けなければならないのは、その見通しです。

N. O. - 同じシェルの副社長が、「規範」と題する別のシナリオを書いていました。そこでは、社会が衝撃に予め備え、炭化水素への依存を大規模に減らすとされています…
D. Bourg. - そうです。しかし必要なのは、低下しつつある自然による供給に対する我々の需要の、一時的なダイエットでも、単なる情勢に対する調整でもありません。70億人、後には90億人の消費者によって、地球の資源は少なくなるしかありません。節制の方向に根底から修正することがふさわしいのが、我々の依存的な行動全体です。炭化水素に関して真実であることは、水、水産資源、金属の大部分、森林、生物多様性…についてもまた、真実です。捕食的な消費という中毒から我々が回復するためには、新しい民主主義のパラダイムが必要です。

N. O. - 現在の民主主義が無力だからですか?
D. Bourg. - そう言うだけでは十分ではありません。我々の国民代表制は、世界化にも、長期的な問題にも、真剣に対処することができません。特定の大気汚染、温暖化あるいは放射性廃棄物の活動性といった問題は、5年間ではなく、数世紀、さらには数十万年にわたって把握されます。最近のG20で参加国が、署名された取り決めから逃れることを認める特例を認めるためだけに、温暖化問題に取り掛かったことを確認するのは、全くもって恐ろしいことです!

N. O. - かつてないほどに環境という大問題に取り組んでいる政治家に対して、あなたは余りにも手厳しくないですか?
D. Bourg. - 大きな試練に耐えるかを疑問視せずに生き永らえる民主主義の単調な繰り返しに対して、私は辛らつです。反対に、その作業が莫大であることを認めるのに吝かではありません。数年以内に3世紀前から有効な哲学的プログラムと決別しなければならないのです。常により多く商売し消費する自由が我々の民主主義の協定になったのは17世紀の終わりです。一般的な仕方では、一方の自由は他者の自由以外の限界を知らないと見なされていました。あたかも社会が、あらゆる自然条件から独立して、地表の外で自己実現するかのように。今日、我々の自由の制限は種の存続によって指示されています。容赦ない法です。この避けて通れない優越性は、政治家にとっても有権者にとってと同じように、容赦なく受け入れなければならないものです。

N. O. - 民主主義を解放するために、あなたは、長期の全体的な利益を保証するために「生まれていない者の選挙区」という考えにさえ言及しています…
D. Bourg. - これは一つの警句であり、そもそも彼らは圧倒的大多数を構成することになります。しかし環境的民主主義は、発言権を持たない世代の利益を必然的に引き受けなければならないというのが正確です。まだこの世界にいない、しかしそれを相続する世代です。選択肢の一つは、元老院の代わりに、代表者が直接普通選挙で選ばれる上院を設立することです。国民議会議員のように。この上院の候補者の公約が専ら長期にわたる争点(気候と他の自然界の均衡、人間工学あるいは人類の改善…)に関わるということを除いて。したがって世論は、我々の極めて強力な技術が我々に唆すが、地球の容量と資源が我々に禁止する、際限のない成長について知識を得て、熟慮し、自由意志で断念することができます。

N. O. - この拡大した民主主義の他の柱はどのようなものですか?
D. Bourg. - 一部はしかるべき所にありますが、さらに強化されるに値するでしょう。選良の自閉性を修正する、参加型民主主義があります。環境グルネルGrenelle de l’environnementをご覧ください。参加者は、議会の敵対関係にある陣営から離れて討論したために、前進しました。それだけでなく、立法府の作業の下準備もしました。一般利益の立場を擁護することを可能にする非政府組織の役割もあります。さらに、国連のような超国家的機関があります。その気候に対する役割は大きく、基準を定めることを可能にします。有効であるために、環境的民主主義は拡大する世界であるべきです。

N. O. - 資源の希薄化に関する意識は広がっていますが、技術の万能性に対する信仰は元のままです。多くの人にとって、遅かれ早かれ我々を危機から救うのは、なおも民主主義よりも、技術です…
D. Bourg. - 恐らく、技術には多くのことができます。太陽光発電所のエネルギー、炭素の封じ込めと潜在的な評価、電気自動車などを見てください。しかし、「リバウンド効果」と「時限効果」には注意すべきです。自動車が燃料を消費しなくなればなるほど、長い距離を走り回ろうという気になります。全体として、住居の1平方メートル毎の暖房消費は恐らく少なくなるでしょう、しかし住宅の面積は拡大する傾向にあります、等々。産業革命以来獲得されてきた生産性の向上は、我々の消費の絶対的な減少には全くつながりませんでした。現在の緑の技術革新が明らかにするであろう、悪いサプライズもまた、無視しないようにしましょう。前世紀、放射能やDDTはまず、巨大な進歩として称賛されました。付随する危険は、後から続いて現れました。最後に、そして特に、技術科学に対する大きな希望は、我々を自然から独立させるというものでした。ナノテクノロジーについて、同じ歌が歌われています。そして今我々は、温暖化が一世紀の間に2℃を越えるのではないかと恐れています。最悪なことは、資源の度が過ぎた消費を続行することと、技術・魔術的な処方の救済を待つことです。解決策は、我々がより質素な生活様式を我々自身に課すことの出来る能力にかかっています。それは、いかなる学者もできません。拡大した民主主義には、少しの可能性があると私は信じています。


Propos recueillis par GUILLAUME MALAURIE


Spécialiste du développement durable, Dominique Bourg est professeur à l'Université de Lausanne. Il est membre du comité stratégique de la Fondation Nicolas Hulot. Il dirige avec Alain Papaux la collection « Développement durable et innovation institutionnelle » aux PUF. Il participera au colloque (dont « le Nouvel Observateur » est partenaire) organisé avec la Fondation Hulot le 26 novembre.




Le Nouvel Observateur 2349 12-18 NOVEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2349/articles/a412651-.html


体調不良というか、はっきり病気(「新型」インフルエンザではありません)のため、これからしばらく休載させていただきます。 更新頻度がさらに堕ちます。 

普通に休暇の取れる職業だったら入院するか、少なくとも1週間程度は休暇を取っている状態ですが、日給月給の身としては、欠勤即死を意味しますので、無理にでも仕事は続けなければいけません。無理がたたって死期を早めるか、何とか乗り切れるかは神のみぞ知るところです。死期が早まっても生命保険のおかげで遺族の生活は確保できる見通しですが、現状では生きたまま仕事ができない状態に陥ることの方が余程悲惨です。

これまでの経験から、この程度で死ぬくらいないら、とっくの昔に死んでいたわけですが。ある程度の期間、仕事を休めれば早く治ることがわかっているのに、なまじ休めないためにムダに長引かせざるを得ないというのは実に腹立たしい。どこかの国の、大企業や役所を除く、零細企業、事業所で働く多くの人が似たような状況にあることを考えると、(以下略)

【追記】
上の文を書いた時点では、かなり悲観的な気分になっていました。実際には今のところ、生命に関わる状態ではありません。過去の経験から、あと何日かすれば、たとえ仕事をしながらであっても体調を回復することは可能だと考えられます。発病前に訳していた記事をこれから掲載して、それがなくなった時点でしばらく休載ということにしたいと思います。




2009-12-01 22:26:35

「オバマと将軍」

テーマ:政治・経済
またしても何の脈絡もなく、今度はアメリカ合衆国の話題です。
とはいえ、11月28日の アフガニスタン「巨大な混乱」 とは多少の関係があるかと思います。

週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年11月12-18日(通巻2349)に掲載された Obama et les généraux (オバマと将軍たち)という記事です。「将軍」といっても、どこかの「北の将軍さま」ではもちろんなく、当の米軍の将官のことです。


Obama et les généraux



アメリカ大統領は、将軍たちがアフガニスタンのために要求する増援を認めるだろうか?彼は軍の高官の圧力、世論のためらいとベトナムのような悪循環の亡霊の間に、決着をつけなければならない。


De notre correspondant aux Etats-Unis


この年、彼らは全員、迷っている。大統領、国務長官、国家保安担当顧問。さらなる部隊を?正確には何をするため?彼らは迷うが、将軍たちを推し進める。彼らはいかなる代償を払ってでも増援部隊を望んでいる。論争は長引き、文民指導者と軍人上層部の間の不信はひどくなる。「軍人が文民に監督されるのを嫌がっている間だけではない」と、後に国防長官は打ち明けることになる。「彼らは単に、我々が彼らの選択に疑問を差し挟む能力がないと判断していたのだ。」 「我々は派遣すべき兵士の数を議論していたのであって、その使用法ではない」と、国家保安担当顧問は付け加える。

 我々は1965年にいるとして、リンドン・ジョンソンが、その後合衆国が未だに代償を払い終わらない過ちを犯そうとしている。ベトナムへの追加の兵士の派遣を要求する将軍たちへの白紙の小切手に署名するという過ちである。44年後、もう一つの戦争に直面した、もう一人の民主党大統領が、同じジレンマに直面している。軍が要求するものを与えるべきか、否か?今回、現地の部隊の司令官はウィリアム・ウェストモーランド William Westmorelandではなく、スタンリー・マクリスタル Stanley McChrystal という名である。アフガニスタン駐留同盟軍の司令官もまた、大規模な増員を要求している。4万人の兵士であり、60%近い増加に相当する。バラク・オバマは間もなく決断を下すだろう。噂によると、オバマはおよそ3万人の追加の兵士の派遣を認可するようだ。

 

6,6 milliards de dollars par mois

(月に66億ドル)

 「将軍たちは常により多くの部隊を要求する」と、オバマの国家保安担当顧問で元海兵隊将官のジム・ジョーンズJim Jones は面白がる。それが常に当てはまるわけではない。2006年、「ジョージ・ブッシュは“surge”(前もっての飛躍)を押し付けるために軍のトップに立ち向かわなければならなかった」と、当初はイラクの増強部隊派遣の専門家の一人だった、ゲリー・シュミットは語る。「我々がホワイトハウスの我々の計画を示したとき、ホワイトハウスはペンタゴンに助けを求めて尋ねた、“なぜそうすることができないのか?”と」。

 2009年、状況はさらに異なる。イラクでの7年間の局地戦とアフガニスタンの8年間の後、アメリカは戦争の人的、財政的費用に疲れ果てている。兵士は前線に出発することを次第にためらうようになっている。13人の同僚を殺害し、30人を負傷させたフォートフードの軍精神科医の殺人的狂気が悲劇的に例証したように。民間人は、失業率が10%の大台を越えた国が同時に二つの紛争の費用をどのようにしたら賄えるのか、疑問に思っている。追加の各兵士は、年間100万ドルの費用に相当する。30000人では300億ドルになる。二つの戦争は公式には毎月66億ドルかかるとされているが、現実には確実に100億ドルかかっている。国の経済の健康状態とは全面的に両立しない数字である。

 しかしながら、1965年のように、軍はその手段を増やすように要求している。公式な根拠は、有効な対反乱軍作戦を展開できるのに十分な人数を確保することである。別の、より散文的な根拠は、軍が紛争から手を引くのに乗り気であることは滅多にないということである。「ペンタゴンは常に帝国主義的な心性を持っている。彼らは至る所に基地を造るか強化し、自らの強大さを投影するのが大好きだ」と、国際政策センター Center for International Policy のセリグ・ハリソンSelig Harrison は分析する。そして、階層の頂点では、それぞれの将軍が自らの固有の利害に基づいて行動する。「例えば、ペトレアスPetraeus (中東・中央アジア司令官)は自分の政治的将来に興味を持ち、別の人物、マクリスタル McChrystalは、自分の将軍としての未来に関心を持つ。彼は、普通の兵士が殆ど好まない共同体、特殊部隊の出身だ」と、国務省でコリン・パウエルのかつての右腕だった、ローレンス・ウィルカーソンLawrence Wilkersonは強調する。かなりの増援を獲得して、彼は自らの正当性を築く。

 マクリスタルに80000人までの追加の兵士を要求するように仕向けた純粋な軍事的分析にとどめるとしても、ホワイトハウスが躊躇したことが理解される。軍のバイブルとなった、ペトレアス将軍が書いた反乱軍に対する闘いの有名なマニュアルを信じるとすれば、住民千人に対して20から25人の兵士が必要になる。有効な作戦を展開するためには、アフガニスタンで64万の兵士が必要になる!さらに、派手なアフガン政権の政治的分裂は、バラク・オバマが17000人の増派を認可した2月以降、現地の情勢を変えた。例えば、ジョー・バイデンの強いためらいには、全く非常識なことはないということになる。9月16日、バラク・オバマの前でベトナムとアフガニスタンの対照性を詳細に説明したコリン・パウエルの躊躇にいたっては尚更である。

 反対に、さらに驚くべきことは、マクリスタルがデビッド・ペトレアスの援助によって、大統領に公然と決断を迫る前に、必要な増強に関するマクリスタルの評価を軍が「漏らし」た方法である。American Enterprise Instituteの新保守主義者、ゲイリー・シュミットGary Schmitt は、トルーマン大統領との対立を公然と表明した後に1951年に更迭されたマッカーサー将軍との比較が、「行き過ぎだが全面的に不当ではない」と認める。『New Yorker』の著名な記者Seymour Hershを信じるとすれば、スタンリー・マクリスタルは「ネオコン」に近い、粗暴な人物である。

 「全ての民主党員、特にリンドン・ジョンソン以降は、軍人を恐れている」と、ウィルカーソン大佐は分析する。「君たちがそれを正面から取り上げるのを避ければ、高い代償を払うことになる。軍に年間1兆ドルを払い、国務省には300億ドルしか支出しないとき、他にどのようにしたいのか?」 共和党員、アイゼンハワーは、来るべき危険を見据えていた、「私ほど軍のことを知らない大統領を国家が持つとき、神のご加護がありますように。」 そして右翼でも、「軍産複合体」の脅威を信じない者が、今日の将軍は兵士以上のものであると認めている。「統合地域司令部のトップは、単なる軍の専門家ではない。彼らには外交的責任があり、政治家に自由に近づける。彼らはすぐに、公的人物としての衣装をまとうことになった」と、ゲイリー・シュミットは強調する。

 1986年の一つの法律の可決以来、大統領はまた、かなりの権力を行使する軍参謀本部トップを当てにしなければならない。「私のボス、コリン・パウエルは、法律上の権力を全面的に利用する、第一の司令部トップだった」と、ウィルカーソンは証言する。「彼には立法問題の専用の事務室、広報室、オフィスと法曹関係の顧問を持ち、彼自身が議会と世論に関わっていた。この法は、ペンシルベニア・アベニュー(訳注・ホワイトハウスの所在地)に再び上らせて、ホワイトハウスに居座らせるために司令部のトップを馬に乗せたのではなかったが、それほど遠くない!」 現在の統合参謀本部議長、マイク・マレンMike Mullenは、マクリスタルの要求を支持した。ブッシュに任命され、上院の全会一致の支持とともに、オバマに確認されたとき、そのことはかなりの重みを持つ・・・


Les experts sceptiques

(懐疑的な専門家)

 戦争に勝つこと、反乱を抑えること、アルカイーダと闘うこと・・・、アフガニスタンにおける一連の矛盾した目標を発表しながら、バラク・オバマ自身が逃げてきた。「政権は、大統領が強硬派であることを示すために、軍事的選択を受け入れ始めた大統領によって、最大の知的混沌を示した」と、セリグ・ハリソンSelig Harrisonは非難する。その後状況は変わり、疑念は増大した。しかしながら、「アフガニスタンが泥沼だとしても、オバマは将軍たちに“イエス”と言うだろう」と、ローレンス・ウィルカーソンは予測する。しかし、数字を文字通りに受け取るべきだろうか?魔法であるかのように見なされた兵士の人数に集中したアナウンス効果は、一人だけではない専門家を懐疑的にする。「我々の戦闘力を危険にさらすことを除けば、イラクからの撤退が早まったとしても、我々が2011年までに40000人の兵力を手にすることはない」と、軍事戦略の専門家、サム・ガーディナー Sam Gardiner大佐は分析する。そして、彼は付け加える。いずれにしても、「アメリカの子供の2人に1人が食糧引換券を受け取っているか受け取っていた一方で、数万人の兵士を派遣するなどと、どうして信じられるのか?純粋な幻想だ。」

 新たなベトナムという危険は、決して排除できない。そしてまさしく、ワシントン全体が1965年の亡霊を引き合いに出しているという事実は、将軍であってもそうでなくても、新たなマクナマラ Robert McNamara (1961-1968年の国防長官)がアメリカをもう一つの死の循環に引きずり込むのに苦労するであろうことを示している。


PHILIPPE BOULET-GERCOURT

Le Nouvel Observateur 2349 12-18 NOVEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2349/articles/a412618-obama_et_les_g%C3%A9n%C3%A9raux.html


フランスの週刊誌の記事なのに、フランスの話題が極めて少ないのではないかという意見を頂いているわけでは別にありませんが、何となく自分でそう思いました。11月は、3回しかありませんでした。

というわけで、次回になるかどうかは別にして、フランス国籍に関する記事を引用する機会があるかもしれません。




2009-11-30 21:51:57

アルゼンチン:軍事独裁政権の傷痕

テーマ:政治・経済
また何の脈絡もなく、アルゼンチンの話題です。

週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年11月12-18日(通巻2349)に掲載された Dix-huit français ont disparu sous la dictature - Argentine : justice pour les suppliciés (18人のフランス人が独裁政権下で行方不明になった - アルゼンチン:拷問された人々のための司法)という記事です。


Dix-huit français ont disparu sous la dictature

Argentine : justice pour les suppliciés



犠牲者を拷問し除去するために軍事政権によって造られた最大の収容所の一つ、エル・ベスビオ El Vesubio のトップに対する裁判がブエノスアイレスで始まろうとしている。


サン・マンデ Saint-Mandé の部屋で、ドゥニーズ・ドティエ Denise Dauthier は、32年前から返事がないままの葉書を常に傍らに置いている。「このように、かなりの数の葉書を送った。それが届いているかどうかはわからない。」 それは裏にメッセージの書かれた、彼女の娘の白黒写真だ。「フランソワーズ・ドティエ Francoise Dauthier、35歳、1977年10月21日の夜、キルメスQuilmes 地方の住居で拉致される。その家族はこの日以来、音信不通である。我々は、拉致の責任者であるアルゼンチン政府に、その身の上に関する知らせを問い合わせる。」 宛先は、「アルゼンチン共和国大統領閣下。」

 このフランス人女性は、軍事独裁政権下で行方不明になった3万人の中の一人である。「その後、何もない。多くの人に会ってきた。当時の大統領、ヴァレリー・ジスカールデスタンにも二度、手紙を書いた。一度も返事がなかった。」 現在、ドゥニーズは最終的に「何かを知ること」を期待している。12月15日、ブエノスアイレスで、フランソワーズの死刑執行人である、軍事政権が犠牲者を収容し拷問し除去するために造った最大の非合法収容所の一つであるエル・ベスビオ El Vesubio の8人の司令官と下士官の裁判が始まる。

 

La quête des Dauthier

(ドティエ家の探索)

 当時、ドゥニーズ・ドティエと今は亡き夫は、パリの注文服仕立て人だった。アルゼンチンのことは余り知らず、その悲痛な運命についてはなおさらだった。「私たちの娘は冬のスポーツで一人のアルゼンチン男性と知り合い、彼について行った。余り多くの知らせはなかった。」 1977年10月末、週末の休みから戻ると、ドティエ夫妻はスペイン語で書かれた手紙を見つける。「それをフランス語に訳してもらった。私たちが知ったのはこのようなことだった。」 武装した部隊がフランソワーズと、二人の娘、3歳半のクラリサ Clarisa と、6ヶ月のナタリア Natalia を誘拐した。その父親、ノルベルト・マルチネス Norberto Martinez を殺した後で。

 行方不明者の子供たちの多くはその後、軍人、あるいはそれに近い家族、ときには拷問実行者にさえ、委ねられることになる。クラリサとナタリアに関しては、一月後にアルゼンチンの祖父母のもとに帰された。恐らく、エティエンヌ・ムジョット Étienne Mougeotte の介入による措置である。このジャーナリストは当時、ヨーロッパ1の情報部長だった。その姉がドティエの息子の一人と結婚していた。「私は、パリ駐在アルゼンチン大使と会見することができた」と、今、彼は言う。「私は彼に、フランソワーズのこと、そして子供たちのことについて話した。それが効いたのだろうか?私は知らない。」

 ドティエ夫妻は探索を続ける。二人は、Association des Parents et Amis des Franais disparus en Argentine (アルゼンチンで行方不明になったフランス人の親と友人の会)の創設に参加する。毎週木曜日の正午、彼らはクレベール通り avenue Kléberに近い、大使館の前でデモ行進をする。1983年、パリに亡命したアルゼンチン女性、エレナ・アルファロ Elena Alfaro が夫妻を訪れる。彼女は行方不明者の両親のもとを巡っていた。拘留中に、彼女は「一人のフランス人女性」に出会っていた。夫妻の家で、彼女はすぐに、その孫。クラリサとナタリアの写真を認める。

 マルクス主義組織、ポデル・オブレロ Poder Obrero の活動家だったエレナ・アルファロは1977年4月19日に逮捕された。エル・ベスビオに移送された彼女は、1週間、「医務室」と呼ばれていた拷問部屋で過ごした後、7ヶ月の間、cuchasと呼ばれる「隙間」に押し込められる。「覆面をされて小さな小屋で、地面につながれていた。とても耐えられなかった」と彼女は言う。5月23日、軍部は「移送」と呼ぶものを組織する。「彼らは、私と連れ合いを含む17人を選び出した。それから叫んだ、“08はcuhasに戻せ”と。08、それは私だった。私が他の収容者と再会することはなかった。」 彼女は当時、妊娠3ヶ月だった。一人の将軍、スアレス・マソン Suarez Mason は、彼女にも、子供を軍に預けるように薦める。解放される数日前、彼女は拷問部屋に連れて行かれる瞬間のフランソワーズ・ドティエを目にする。当時、幼い娘たちの面倒を見ていたのは彼女である。エレナは1977年11月3日に出所する。


Le dossier piétine

(問題は足踏みする)

 以来、彼女は責任者を司法の場に立たせるためだけに活動してきた。1998年、フランスで、ドティエ夫妻とともに告訴する。予審判事ジェラール・カデオ Gérard Cadéo に委ねられた訴訟記録は足踏みしている。「判事は2年半前に逮捕状を発行すべきだった」と、彼らの弁護士、ウィリアム・ブルドン William Bourdon 氏は評価する。18人のフランス人が独裁政権時代に行方不明になった。その間、アルゼンチンは軍人を保護していた不処罰の法を解除した。エレナ・アルファロは今日、エル・ベスビオのトップにとって不利な唯一の証人である。ニコラ・サルコジへの公開書簡で、外国在留者、エリザベート・ケーゼマン Elisabeth Kaesemann が収容所の犠牲者に名を連ねるドイツの例に倣って、彼女は「フランスが訴訟における民事当事者になること」を求めている。その結果はまだ出ていない。

 クラリサは妹とともに今もブエノスアイレスに住んでいる。9月、父親の死体が確認され、埋葬することができた。「全てのことについてもう少し知ることができたらと、期待している」と、彼女は断言する。「たとえ軍部が裁判で何も言わなくても。」 自分が誘拐されたとき、「静かにしている」ように言う父親と、自分を安心させるために、「これはゲームよ」と説明する、覆面をされた母親のことしか覚えていない。


CHRISTOPHE BOLTANSKI

Le Nouvel Observateur 2349 12-18 NOVEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2349/articles/a412620-argentine__justice_pour_les_supplici%C3%A9s.html


この記事を引用するに当たっては、色々と御託を考えていたのですが・・・

後の世界に多大な禍根を残した、世界の9-11(1973年9月11日)の軍事クーデターで余りにも有名なチリと比べると、比較的影が薄いかもしれませんが、アルゼンチンの軍事独裁政権による犠牲者の数は、明らかになっているだけで3万人以上と、その残忍さはチリに匹敵するか、それ以上です。・・・

そういったことを冒頭に書こうと思っているうちに、寝てしまっていましたので、ここまでにしておきます。




2009-11-28 23:19:18

アフガニスタン「巨大な混乱」

テーマ:政治・経済
何の脈絡もありませんが、アフガニスタンに関する話題。

週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年11月5-11日(通巻2348)に掲載された Afghanistan - Le grand gâchis (アフガニスタン - 巨大な混乱、あるいは巨大な浪費、瓦礫、難局・・・)という記事です。


AFGHANISTAN

Le grand gâchis



カルザイが勝者となる選挙の茶番劇と、国全体が沈んだままの政治の混沌にがっかりしたアフガニスタン国民は、今や最も新しい敵にしか興味がない。H1N1ウイルスである。

De notre envoyée spéciale


パニックの風がカブールの街に吹き荒れた。風になびくターバンを口に当てた農民、パーカーの袖で顔を守りきれない商人、あるいは人々がマスクを配る、カラシニコフで武装した警官の目に、伝染する恐怖が読み取れる。しかし、首都の最も安全な家の中にまで道を切り開くことに成功したのは、イスラム過激派の自爆攻撃ではなく、その揺れが遠く離れた爆撃を思い起こさせる小さな地震でもなく、国民を不安にさせる終わりなき政治危機ではなおさらない。いや、アフガニスタン人の血を凍らせるもの、それはインフルエンザH1N1への脅威である。政府が学校と事務所を8日間閉鎖してから、カブールの住民はもう、この新しい病のことしか心にない。そして、政府がなによりもまず、この政治的不安定の時期に危険な集会を全て避けようとしたのではないかと住民が疑ったとしても、彼らはもはや、そのことしか話さない。彼らを襲う全ての災い、インフルエンザは、彼らが最もよく備えることができる唯一のものではないだろうか?

 カブールで、それは明らかだ。制度的危機、ドクター・アブドゥラの(決選投票への)立候補取りやめ、あるいはカルザイ大統領の隙間による勝利は、外国人と候補者チームの興味しか引かない。しかし、一種の贖罪として彼らに押し付けられた選挙の真似事に対してアフガニスタン人によって示された無関心に、本当に驚くことができるのだろうか?長い病と同じくらい苦痛に満ちた手続きの果てに、投票開始から2ヶ月以上経って、ようやく選挙が終わった。手続きに絶えず介入し続け、今では勝者に分かりにくい祝辞を振りまく国際社会が容認した不正で汚れた投票。そこに、夢から覚めたアフガニスタン人が記憶に留めることがある。弱体化し、反対派が多かった大統領に新たな正当性を与えるはずだったこの投票が、逆にアフガニスタンにおける民主主義の夢を決定的に葬り去ってしまったかのように。

 「この選挙は、カルザイの投票所の紙詰まりに目を閉ざしたオバマ、サルコジとメルケルの祝福によって、アフガニスタンにおける民主主義の原則の終わりを決定付けている。」 大統領選の第一回投票で第3位に着けた、44歳のラマザン・バシャルドストRamazan Bashardostはハザラ族である。その率直な物言いと誠実さで知られる彼は、20年間フランスで生活していた。元社会計画相の彼は、慢性的な腐敗とONGの浪費に抗議するためにカルザイ政権の門を叩いていた。今日、彼は国際社会に対する怒りを和らげはしない。たとえ、選挙運動中に、駐アフガニスタン国連代表や米国大使が、彼に連立政権への参加を受け入れることを求めに、彼が道沿いに設置したテントを何度となく訪れようとも。「ペテン師の連立?」、大統領とその元外相、ドクター・アブドゥラの双方を拒絶するこの議員はからかう。「アフガニスタンは、異なる政党の人々が連立計画に関して理解しあうことのできる、ドイツにあるわけではない。ここでは、人は食卓に着いて、山分けする!」 彼は申し出を断った。なぜなら、彼によると、廃止されなければならないのはカルザイによって確立された統治体制全体だからである。「人は私が人民の候補だと言う。私は、国際社会からの援助を全て横流しする体制の維持のために支払う西洋の納税者の候補だと答える。」 アメリカと国際社会がこの国に注いだ300億ドルはどこに行ってしまったのか?政治家や、今日アフガン議会に名を連ねる戦争領主(軍閥)のポケットの中だと、バシャルドスト議員は答える。そして、穴が開いてゴミが撒き散らされたままの道路のある、首都の悲しい光景は、彼の言うことが決して間違っていないことを示している。ごく一部の人々だけが電力、飲料水を手にでき、病院には医薬品が不足し、給与の低い教員が授業をする代わりに市場で野菜を売ることを強いられている、カブールである。アフガニスタンの唯一の富は、武器とケシだけなのだろうか?

 カルザイ大統領は、国をより良く統制するために軍閥を政権内に取り込んで、部族の長として統治するに留まった。就任から7年後、その批判者が単なる「カブール市長」と形容する男は、ほとんど、地方の一部の都市の中心部を管理するに過ぎない。軍閥が自分の個人的なへそくりであるかのように国庫をたっぷりと利用する一方で、彼らが自分自身では、首都の中心部も含めて、密売も誘拐も組織していないとき、「欧米は、軍閥の暮らしぶり、その4人の妻、運転手と料理人に資金を与えていることを知らないですむのか?」、ハザラ族の議員は怒る。

 アフガニスタンのためになおも新しい計画を入念に作るバラク・オバマは、これだけ信頼できない大統領を支援するための増強部隊の派遣を受け入れるように議会を説得するにはどのようにしたらいいのだろうか?NATOの全ての戦略家は、なおも疑っている人々に対して、次のように繰り返してきた。アフガニスタンに軍事的解決はない、と。現地では、反乱軍の連合が今や国の半分以上を混沌に沈めているということをこれらの将軍たちに認めさせる方法でもあうr。「これは3拍子のワルツだ」、ある司令官が説明する。「NATO軍がある地域を統制し、次いで、アフガン軍に譲り、軍がタリバンに追いやられる。そして同じプロセスがまた始まる。その間に、深く傷ついた村人は、我々を信用できないという結論に至る。」

 最近数ヶ月間は、2001年にタリバン体制が転覆して以来、国際的な連合の兵士にとって最も死者が多かった。なぜなら、アフガニスタン東部と南部で開始された最近の大攻撃は何の役にも立たなかったからである。反乱軍は毎回、本当に闘うことなく、国境の反対側、パキスタンの隠れ家に撤退するに至る。NATO軍兵士は、ゲリラの地雷やその他の爆発物により多く曝されている。徴集兵を増やすことは、さらに多くの兵士が棺に入って帰国することにならないだろうか?アフガニスタンでは誰もが知っている、オバマの計画はラストチャンスの計画だということを。それが失敗すれば、欧米の世論は部隊の撤退を要求するだろう。

 「今日、最優先課題は、アフガニスタン国民の心、精神だけでなく、胃袋を掴むことだ。南部の地方では、若者の50%以上が失業している。政府とは反対にタリバンは、彼らを金銭的に助け、結局は加入させている」と、アフガニスタン駐在欧州連合大使、エットーレ・セクィEttore Sequiは説明する。この国は絶えず若返っている。15年間で、人口の70%が25歳未満になり、国際社会はこの世代に将来の見通しを提供するための一国を争う作業に取り組んでいる。どのようにして?「カルザイと国際社会の間に、信頼が回復されなければならない」と、ある欧米の外交官は説明する。「大統領は、我々が彼を厄介払いしたがっていると信じていた。現在、彼は安心している。今我々に保証を与えるべきなのは彼だ。彼が換わらなければならない。」

 本当に望んでいると認めるとして、カルザイは厄介なかつての同盟を厄介払いしたり、全能の軍閥を更迭したり、でしゃばりな兄弟を遠ざけたりすることができるのだろうか?特に、国内最大の薬物密売者と疑われている(ハミド・カルザイは反論するが)、そして『ニューヨークタイムズ』によると、自らが君臨する地方での特殊情報部の作戦を有利にしたことでCIAからも金を受け取っていた、カンダハル地方議会議長で兄のアフメド・ワリAhmed Waliを遠ざけることに成功するだろうか?「最初の100日間、組閣の時期が、最も重要になるだろう」と、ある大使館員は断言する。この新しい時代の目標を要約するために、略語好きなアメリカ人は、一つのルール、「3C」のルールを作り上げた。新閣僚は「明白clairs、信頼できclairs、有能compétents」でなければならない。

 残念ながら、アメリカ国務省が良好な統治の憲章を作成している間、カブールでは、現地の有力者の玄関先で、巨大な闇取引が行われていた。どの地域共同体の利益をも損ねないように注意しながら、ポスト、費用を分配していた。ところが、アフガン政界の部族の多極化は、欧米の外交官の頭を悩ませる問題である。なぜなら、アフガニスタン南部でのカルザイ一派やパシュトゥーン族の不正は、地域共同体の要求というパンドラの箱を開いたからである。


Une stature nationale

(国民的規模)


 決して腐敗しないバシャルドストのテントの下にさえも、ハザラス族の代表団がこの議員に、部族共同体のために大臣の職を要求するように、彼が獲得した50万票を前面に出すように促しに来たほどだった。彼は代表団に優しく言い聞かせるだけで満足する、「我々が商業省を得たとしても、我々よりも数の多いカルザイの官僚がそこにいて、契約を勝取るのは常に彼の兄弟だ!」

 少数民族タジクの候補に、この効果はあるだろうか?豪華な家の板張りの間で、故マスード司令官の肖像を前にして、ドクター・アブドゥラは祈りの真珠を並べる。彼の威信が染み込んだ空気の中で、彼は野党に留まるつもりだと断言する。第二回投票直前の候補取りやめは彼に、国民的政治家としての威光を与えた。次の選挙に備えて控えるつもりのようだ。しかし部族の利益誘導主義が数少ない生計の手段の一つである国で、自らの共同体の圧力に抵抗することができるだろうか?「彼はその危険を意識している」と、側近の一人は説明する。「しかし彼は、人々が理想主義者になること、体制の変化を望むこと、そして同時に、自分のお気に入りに保証を与えて譲歩することができると、信じている。」 国際社会はこの言説を高く評価する。「我々は互いに、余りにも長い間待っていた。理性を備えていることを自ら示さなければならない。我々は、腐敗の根絶または直前にいるだろうか?」「いや」と、ある欧米の外交官は断言する。「新しい政府に期待すること、それは、良い方向での努力をすること、その有害な力を限定することだ。」 妥協とある種の形の皮肉の時が告げられた。そして、この失敗した選挙が、撤退の第一段階を記していたとしたら?


SARA DANIEL

Le Nouvel Observateur 2348 5-11 NOVEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2348/articles/a412302-le_grand_g%C3%A2chis.html




前回のアフガニスタン関連のエントリー:

「アフガニスタンの毒」 2009-09-10

その約1年前に掲載した、アフガニスタン関連のエントリーもまとめておきます。

アフガニスタンでのフランス兵殺害に関するObsの記事【1】 2008-9-11

アフガニスタンでのフランス兵殺害に関するObsの記事【2】 2008-9-12

アフガニスタンでのフランス兵殺害に関するObsの記事【3】  2008-9-13





2009-11-24 23:34:52

ヴァイツゼッカー元ドイツ連邦共和国大統領「私の1989年11月9日」

テーマ:歴史
前回の 「決断を迫られるミッテラン」【2】 の末尾で言及したように、今回はベルリンの壁崩壊・東西ドイツ再統一当時のドイツ連邦共和国大統領、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏のインタビュー(ドイツ語)をフランス語訳したものを日本語に訳したもの(ややこしい)を掲載します。ドイツ語の原文はドイツの有名な週刊誌 Die Zeit に掲載されたと思われます。既にどなたかが訳しているかもしれませんが、私には知る由もありません。

週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年11月5-11日(通巻2348)に掲載された Les débats de l'Obs - Mon 9 novembre 1989 (私の1989年11月9日)という記事です。



LES DÉBATS DE L’OBS

Mon 9 novembre 1989

par Richard von Weizsäcker



ベルリンの壁崩壊の時代のドイツ連邦共和国大統領が、一連の出来事、ゴルバチョフの役割と東ドイツのプロテスタントの役割について再検討する。

10月13日、有力週刊誌『Die Zeit』は、ドイツ連邦共和国元大統領、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー Richard von Weizsäcker に、ベルリンの壁崩壊について発言するよう求めていた。壁の崩壊の瞬間に職務に会った、戦後のドイツの代表的良心、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは、終戦40周年記念の際の、1985年5月8日に行った演説で世界中に強い印象を残した。そのとき彼は、ドイツにとって「降伏」ではなく、まさに「解放」だったのだと宣言していた。ヒトラーに対するレジスタントの息子であり、社会民主党の首相ヴィリー・ブラントWilly Brandt の「Ostpolitik」(緊張緩和政策)を支持してきた、野党CDU (キリスト教民主党)に属する議員として、彼はドイツとポーランドの和解に幅広く貢献した。『Der Weg zur Einheit (統一への道)』というタイトルで出版されたばかりの回顧録の中で繰り返し述べているように、彼は西ドイツのプロテスタント教会の代表として、東ドイツの牧師の粘り強い支援者であり、いつの日か東西ドイツが最終的に再開すると信じてきた。2009年10月13日、世界文化会館のホールは満員だった。リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは、『Die Zeit』編集長、マッティアス・ナスMatthias Naßの質問を受け、元外相、ハンス=ディートリヒ・ゲンシャーと討論した。我々は彼の談話の主要部分を再現した。そこではフランスのことはほとんど問題にならない。なぜなら、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーを心配させること、それはむしろ、ドイツの、東の隣国、特にポーランドとの関係だからである。


ODILE BENYAHIA-KOUIDER



Die Zeit. – 個人的に、1989年11月9日に関して、あなたはどのような思い出を持ち続けてきましたか?
Richard von Weizsäcker. – 11月9日の夜、私はベルリンにいませんでした。知らせを聞いたとき、南ドイツを移動中でした。最も私の心を打った話の一つは、東西間の最も重要な国境検問所に務める旧東ドイツの中尉の物語です。東ドイツ政府の広報官、ギュンター・シャボフスキGünter Schabovski が、自分自身その影響力を理解していない情報を公表したところでした。彼はドイツ民主共和国の市民がすぐに国内から出ることができると発表したのです。そこで、何百人もの東ベルリン市民が国境検問所に殺到しました。そして不幸な中尉はどうすべきか知りませんでした。命令を受けていなかったからです。発砲すべきか否か?結局、彼は理性を持って行動しました。群衆を通過させたのです。両側の人々が同じ共同体への帰属感を決して捨てなかったのに、なぜ壁を築いたのか、常に疑問に思ってきました。

Die Zeit. – あなたにとって、壁の崩壊前の最も決定的な瞬間はどのようなものでしたか?
R. von Weizsacker. – 1987年、モスクワでのミハイル・ゴルバチョフとの会話を思い出します。彼は、アメリカ合衆国とソビエト連邦の間の武装解除に至るために見出すべき手段を非常に心配していました。国家元首になすべきことを課すのは歴史であるという考えに、まるでそれがじんぜい全てをかけた事件であるかのように、取り付かれていました。私は彼に、ブランデンブルク門が閉ざされている限り、ドイツの問題は解決しないということを指摘しました。彼は私に、歴史が展開するままにし、指導者は全てが可能な限り合理的で平和的に起こるようにしなければならないと答えました。1989年10月7日、東ドイツ訪問の際(体制の40周年記念のため)、ミハイル・ゴルバチョフは、次の今でも有名な言葉を発して、東ドイツの運命を確固たるものにします。「人生は遅れてきた者を罰する。」

Die Zeit. – 東ドイツ、ライプチヒで、70000人が平和的に街頭を行進した1989年10月9日のデモもまた、決定的な瞬間でした。当時多くの人が、北京の天安門広場での反応に似たものが起こることを恐れていました・・・
R. von Weizsacker. – 東ドイツの牧師が、この平和的な革命の展開に大きな役割を果たしました。彼らは、キリスト教徒であろうとなかろうと、東ドイツ市民を教会に招き、騒々しくではなく、理性的に街でデモ行進するように促しました。この内部の静かさは、教会から来た人々に由来する力でした。その当時、あのような集会に参加するためにどれほどの勇気が必要だったか、今では全く想像もできません。ライプチヒでの10月9日のデモはまだ危険でした。反対に、ベルリンでの11月4日のデモはもはや危険ではありませんでした。ロシア兵は兵舎に留まり、100万人規模の大きなデモを弾圧することはないだろうと期待していました。ゴルバチョフはワルシャワ条約加盟国全てに、暴力を行使しないように求めていました。11月9日が平和なままだったという事実は、彼のおかげです。翌日、私が一人でポツダム広場に散歩しに行くと、驚いたことに、東ドイツの国境警備隊員が私を迎えに来て、我々が二人ともポツダムの軍事学校に通っていたかのように私に挨拶し、こう言ったのです。「共和国大統領閣下、特に報告すべきことはありません!」


Die Zeit. – あなたの政党、CDUはなぜ、ヴィリー・ブラントの社会民主党が実行した緊張緩和政策(Ostpolitik) を支持するのに、あれほど苦労したのですか?
R. von Weizsacker. – ヴィリー・ブラントの緊張緩和政策はベルリンの壁建設に密接に関連しています。当時、ブラントはベルリン市長でした。ところが、壁が建てられてから、東の家族も西の家族も、クリスマスに会うためにはどうすればよいか疑問に思っていました。ブラントは、東ドイツ当局と交渉しなければならないと判断しました。完全に新奇な物言いでした。我々は冷戦の真っ只中にあり、ワルシャワ条約機構国の一つと交渉することなど問題外でした。しかし、西ベルリンでは、他に解決策はありませんでした。話し合わなければならなかったのです。結局、一つの合意が見出され、それが緊張緩和の最初の行動になりました。

私の側では、この政策に賛成でした。なぜなら、我々が戦争状態にあった東側諸国と理解し合うことは我々の世代の義務だったからです。我々、西ドイツのドイツ人にとって、まず西側と理解されることはずっと容易でした。それがフランス主導下の欧州建設の最初の一歩であり、我々が国際舞台に復帰することを可能にしました。反対に、ポーランドとの緊張緩和は、はるかに困難でした。この国は1918年に最終的に独立を回復していました。そして第二次世界大戦後、確かに戦勝国の側に分類されましたが、モスクワの属国に位置づけられました。そのときポーランドは東側に押しやられ、ドイツは西側に押しやられました。我々ドイツ人は、このポーランドの新しい西側の国境、オーデル・ナイセ Oder-Neisse 国境線が、ポーランドとドイツの絶え間ない摩擦につながるであろうことを知っていました。この国境を常に守らなければならなかった理由がそこにあります。この国境を承認することは容易ではありませんでした。なぜなら、Heimat (故郷)を失った多くのドイツ人が、いつか平和条約が締結され、そこに戻ることができると考えていたからです。しかし歴史の過去の過ちを乗り越えるためには、1975年のヘルシンキ会議(訳注:全欧安全保障協力会議)まで、緊張緩和政策のために努力する以外の解決策はありませんでした。


Die Zeit. – ヘルシンキ会議は、ヨーロッパ分裂の終わりを示すものですか?
R. von Weizsacker. – この会議は、絶対的に独自な歴史的な出来事でした。それを理解するためには、ドイツ国家が「遅れて構成された国民国家」だったことを思い出す必要があります。我々には9つの隣国があります。これよりも多いのはロシアだけです。このことが紛争の種になります。地政学的な面では、海に囲まれた島である方がずっと簡単です。ヘルシンキ会議が実際に終わらせた、冷戦の終わりに、我々の隣国はスイスを除いて全て、欧州連合加盟国になりました。我国の歴史上初めて、我々はようやく、全ての隣国と平和に生きることができるのです。これは重要な歴史的変化です。なぜならドイツ国家は素晴らしい豊穣の地に基づいていたのではなく、武力によって涙の中に基礎を築いてきたからです。


Traduit par ODILE BENYAHIA-KOUIDER (à Berlin)


Richard von Weizsacker

Né en 1920 à Stuttgart, ancien maire-gouverneur de Berlin de 1981 à 1984, Richard von Weizsacker a été président de la République fédérale allemande de 1984 à 1994.

1920年シュツットガルトに生まれ、1981年から1984年までの元ベルリン市長、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは1984年から1994年までドイツ連邦共和国大統領だった。


Le Nouvel Observateur 2348 5-11 NOVEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2348/articles/a412271-mon_9_novembre_1989_.html


とりあえず、ベルリンの壁崩壊 関連の記事は今回で終わります。

ドイツ連邦共和国の大統領は、例えばG8などに出席しない、象徴的地位とされます。
ヴァイツゼッカー氏は、2期目にあたる1989年5月には、戦後のドイツ史上初めて、対立候補なしで再選されたことからも、ドイツ国民に敬愛されていたことが伺われます。そのような人柄は、今回引用したインタビューにもにじみ出ているように思われました。



2009-11-22 00:53:05

「決断を迫られるミッテラン」【2】

テーマ:歴史
前回の 「決断を迫られるミッテラン」【1】 の続きです。

今回は 原文 Mitterrand estomaqué, déstabilisé (唖然とし、不安定になったミッテラン)で始まる段落からです。




Mitterrand au pied du Mur



(つづき)

Mitterrand estomaqué, déstabilisé

(唖然とし、不安定になったミッテラン)

 この共感の欠如を、当時のフランソワ・ミッテランの外交顧問、ロイク・エヌキーヌLoïc Hennekinneは今、戦略的配慮によって説明する。「もし彼が、再統一への強すぎる支持を表明していたら、再統一の方法をボンと協議するのが困難になっていただろう」と言う。この正当化は恐らく、やや言い足りないが、その時期のフランス大統領の強迫観念をよく現している。再統一に反対しないが、それを制御することである。

 この戦略を、フランソワ・ミッテランはベルリンの壁崩壊の前に決めてさえいる。1989年10月18日、ドイツの統一がまだ漠然とした遠い見通しに過ぎなかったとき、彼は閣議で明言している。「フランスは、ドイツ再統一が実現したとしても、それに反対することはできないだろう。(それを)阻止するためにドイツと戦争することなどやはりできない!」 したがって、「フランスが出来る唯一のこと」、彼は説明する、「それはいくつかの原則を尊重することだ」。いずれにしても、とミッテランは断言する、「我々には代替策があるだろうか?」

 同じ日、当時エリゼ宮の広報官だったユベール・ヴェドリーヌは、内部文書で大統領の考えを明確にしている。「(再統一に対する)この切望に異議を唱えることは一貫性がなく、(そして)接近の動きに反対することが不可能なのだから」と彼は記す、「統一への動きに追随するべきだ。」 余り情熱的ではないが、現実的ではある。

 実用主義者ミッテランの第一の配慮は、再統一に向かうドイツを欧州共同体に固定することだった。その機会は壁崩壊の1ヵ月後に現れる。12月8日と9日、フランスが議長国として開催したストラスブールの欧州評議会は、経済と通貨統合、次いでユーロへと至るプロセスを開始しなければならない。コールは最終的な青信号を出すこと、非常に困難な国政選挙の数ヶ月前にドイツマルクを放棄することを躊躇する。ミッテランは固執し要求を通す。

 どのようにして?3日後、欧州の責任者たちは「ドイツ国民の自己決定」の権利を認める。そこにはカラクリがあるのか?ユーロ対統一への無害証明という。「形式的には、“闇取引”はなかった」と、この時代に関する記念碑的な作品の著者、歴史家のフレデリック・ボゾFrédéric Bozoは言う。「しかし、実際にはコールとミッテランの間の、暗黙とはいえ、ギブアンドテイクは明らかだった。」

 もう一つある。2月の終わり、事態は加速する。東ドイツ国家が崩壊する。数万人の亡命者が国を去る。コールは寸念にないのドイツ統合ではなく、非常に早い、西ドイツによる東ドイツの純然たる吸収と言うようになる。ドイツ首相は新しいドイツが欧州共同体のようなものに統合されることを求める。その代わりに、欧州建設の再開を提案する。ミッテランは唖然とし、不安になる。躊躇する。

 ミッテランの欧州問題担当顧問、エリザベト・ギグー Elisabeth Guigou は、受け入れるように彼を説得しようとする。「欧州共同体がドイツに、再統一に敵対的であるかのように受け取られたら」、1990年2月に、彼女は記す、「我々はあらゆる路線で敗者となるだろう。なぜなら我々は再統一を阻止できないし、共同体の未来をさらに荒廃させてしまうだろうから。」 その論拠は当を得ている。欧州人ミッテランはコールとの大きな取引を受け入れる。大ドイツはCEE (欧州経済共同体)に残ることになり、2年後、マーストリヒト首脳会議が、誰もが知っている条約案を採択する。それは、フレデリック・ボゾによれば、まさに「再統一に対する仏独の答え」である。

 ベルリンの壁崩壊後、フランソワ・ミッテランには二つ目の強迫観念があった。東欧の解放者、ミハイル・ゴルバチョフの政治的生き残りである。ミッテランは、二つのドイツの早すぎる再統一が、ソビエトのナンバー1の転覆につながり、このことから東側と西側の重大な緊張、さらには軍事衝突にさえ至ることになると確信する。この確信から、1989年12月6日、キエフでのっクレムリンのトップとの会談を引き出す。キャビアからサクランボ添えラビオリ(?)に至る昼食の際に、ゴルバチョフはミッテランに懇願する。「ドイツの再統一を避けるように私を助けて欲しい」という。「そうしなければ私は、軍人に取って代わられる。あなたがそうしなければ、あなたに戦争の責任が及ぶことになる。」

 フランス大統領は直接答えず、何人かが後に主張したこととは反対に、再統一に反対することに全く取り組んでいない。そしてゴルバチョフに再び言う、「恐れる」ことはない、と。しかしフランソワ・ミッテランは「この要請に非常に驚き、今度はパリへ複数の訪問者にそれを伝えている」と、ユベール・ヴェドリーヌは記している。

 1月4日、Latcheで、フランス国家元首はヘルムート・コールに明言する。「ゴルバチョフの経験は(まだ)しばらく必要だ」、なぜなら、彼が政権を去ったら、「極右、国粋主義者、帝国主義者がその後を継ぐことになる」からだ。ミッテランは付け加える。したがって、「ドイツ統一は、ソビエトの軍靴の音が聞こえないようにして(…)なされ」なければならない。


« Le bon équilibre, c’est l’URSS »

(「優れた均衡、それはソ連だ」)

 ミッテランは一時、クレムリンが「汚い仕事」をする、すなわち、単独でドイツ再統一にブレーキをかけることを期待していたのか?社会党リーダーの側近はそれに異議を唱える。しかしサッチャーと彼の間の取引は彼らの誤りを証明する。1990年1月20日、エリゼ宮で、鉄の女はフランス大統領に言う、「私が探しているもの、それは(再統一を)遅らせる方法だ。」 ミッテランはこの目的に反対だとは考えないが、パリとロンドンがそこに至るために手にする「手段」について疑問に思う。彼は言明する、「異論を唱えること、効果がないのに、条約に立ち戻ることほど、最悪なことはない。」 実際、彼は確認する、「皮肉な言い方をすれば、優れた調和、それはソ連邦だ」。

 ミッテランがクレムリンのniet(ノー)を期待していたか否かは別にして、国家元首はミハイル・ゴルバチョフが、キエフではソビエトのナンバー1が激しく反対すると言った再統一の原則を受け入れる速さに驚く。このロシアのドイツ統一に対するda(イエス)は、全員の驚きをもって、1990年2月12日、モスクワでのヘルムート・コールとの会談に続いて生じる。翌日、ミッテランはアンドレオッティに言う、「キエフで、ゴルバチョフは非常に深刻に話していた。(彼は)コールを“田舎者”(扱いしていた)。しかしドイツ人と会うときは、ずっと柔軟に見えた。」 そのことをミッテランは悔やんでいるのか?いずれにしても、数日後、彼はドイツ社会民主党のリーダー、オスカル・ラフォンテーヌOskar Lafontaineに明言する、「スターリンの時代だったら、このようには進まなかっただろう。ソビエトの弱体化はドイツ側の力になる。」

 欧州問題におけるロシアの影響力の、この目を見張る衰退は、ミッテランを不安にする。なぜなら彼は、戦後の国境の尊重のための闘いにモスクワの支持を期待しているからである。壁の崩壊以来、彼は、ポーランドと東ドイツ、したがって間もなく統一ドイツを隔てるオーデル・ナイセ線ligne Oder-Neisseの主要な擁護者を自任しているからである。この国境線の向こうには50万人のドイツ人が生活し、ボンの政府によって完全に認められたことはなかった。統一の前にこの承認を得ようとするミッテランの執拗さは、ヘルムート・コールを苛立たせる。仏独関係において、この非常に苦痛に満ちた出来事を、コールは決して忘れない。

 2月15日、二人はエリゼ宮の肖像画の間 salon des Portraitsで昼食を摂る。コールは言う、「私は(この国境の承認が)再統一後に明らかになることを望んでいる。あなたは私に今、それを要求することはできない。」 なぜ?始まりつつある選挙運動のせいだ。「我々が西ドイツでオーデル・ナイセの国境について語っていたら」、コールは説明する、「我々は極右を強化することになるだろう。」 フランス側の報告書によると「非常に真っ赤になって」、付け加える、「誰もがこの問題を泡立てる。… これは大きな傷だ。普通、傷はバルサムで処置するのであって、煮えたぎる油ではない。」

 しかしミッテランはこの感情的な恐喝に譲歩しない。彼はやり直す。「関係国の国際的な決定が必要だ。」 「そう、私も賛成だ」、コールは譲歩する。しかしドイツ首相は事態を引き延ばし、フランスの友を苛立たせる。3月9日、フランソワ・ミッテランは、ただオーデル・ナイセ国境の承認に関して、その支援を求めに来たポーランド大統領、ヤルゼルスキー将軍を迎える。フランス大統領は将軍に言う、「ドイツがヒトラーよりも礼儀正しい仕方で事を進めるとしても、我々はそれが起こることを望まない。」 それ?国境が不安定でドイツの欲望が貪欲だった、1913年か1919年のヨーロッパへの回帰である。それが、「フランスが、オーデル・ナイセの明確で鮮明な承認を得るために取り得る全ての手段を使うと決意した理由だ」と、ミッテランは言う。どのようにして?「この問題は、曖昧さなしに、遠まわしの言い方なしに、巧妙さなしに、課されなければならない。」 彼は固執する、「厳しくなろう。ドイツ人はその全てについて何も望んでいない。彼らを駆り立てなければならない。」 最後に、数週間の対決の後、ミッテランは、そのためにあれだけ闘ってきた、国際的な決定を獲得する。彼の言う、「仏独の神経性の危機」は終わる。

 その結果、1990年10月3日の再統一の日、フランス国家元首はヘルムート・コールに手紙を書くことになる「あなたの親友、全てのドイツ国民に、フランスの連帯を伝えてください。」


VINCENT JAUVERT



Le couple Mitterrand-Kohl

1989年11月9日のベルリンの壁崩壊から、1990年10月3日のドイツ再統一まで、ミッテラン・コールのカップルは何度となく断絶寸前になった。しかし、結局、非常に強い緊張に反して、二人はその友情を保った。


Berlin-Est

東ベルリンで、1989年12月20日、ミッテランは苛立って東ドイツ大統領に言う。「RFA(西ドイツ)に足を踏み入れれば、誰もが再統一の話をする。個人的に、私はそれが正当だと思う、しかし二つの国家は歴史とともに残る。」


Porte de Brandebourg

ミッテランが12月22日のブランデンブルク門の開放式典に不在だったことを誰もが非難した。実際には、ユベール・ヴェドリーヌによると、「彼はそこに招待されていなかった、噂とメディアを除いて」。


Margaret Thatcher

1990年1月20日、マーガレット・サッチャーはエリゼ宮にいる。ミッテランは言う、「再統一にノーとは言わない」が、それは「ドイツ人に心理的な衝撃を起こし、忘れられていたいくつかの性質を呼び戻す。ある種の暴力性を。」

Général Jaruzelski

1990年3月9日、フランソワ・ミッテランはヤルゼルスキー将軍を迎える。再統一に関して、彼は明言する、「ソビエトの影響力がもっと大きかったら、我々はここまで進んでいなかった。アメリカは事態を少しはなれて見ている。英国は心配しているが、この心配を駆け引きにできることに満足している。私は、自分の望むことではなく、自分のできることを言う。」


Mikhaïl Gorbatchev

ミハイル・ゴルバチョフに対して、1989年12月6日、キエフで、フランソワ・ミッテランは言明する。「再統一を私は恐れていない。・・・ しかしコールの発言、その多くの視点は、私を混乱させた。彼はあらゆる要因を混同した。急ぎすぎている。」 6ヵ月後、ミッテランはゴルバチョフに言う、「あなたは、再統一されたドイツがNATOに加盟するのを止められラないだろう。」


François Mauriac

その人生の終わりまで、フランソワ・ミッテランはドイツ再統一の間の自らの行動を擁護しようとした。死後に刊行された『De l’Allemagne, de la France (ドイツについて、フランスについて)』で、彼はフランソワ・モーリアックの言葉を繰り返す。「私はドイツを非常に愛しているので、2つあることに満足している」、「それは私の感情ではない」と言うために。


Le Nouvel Observateur 2348 5-11 NOVEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2348/articles/a412272-.html


次回、ネタがないので、ベルリンの壁崩壊・東西ドイツ再統一当時のドイツ連邦共和国大統領、ヴァイツゼッカー氏のインタビュー(ドイツ語)をフランス語訳したものを日本語に訳したもの(ややこしい)を掲載します、多分。


これまでの、「ベルリンの壁崩壊20周年」に関するエントリーを一応まとめておきます。

20年の無分別:ベルリンの壁崩壊20周年 2009-11-08

「シュタージの最後の秘密」【1】 2009-11-09

「シュタージの最後の秘密」【2】 2009-11-10

「決断を迫られるミッテラン」【1】 2009-11-21

「決断を迫られるミッテラン」【2】 2009-11-22 (今回)




2009-11-21 23:56:38

「決断を迫られるミッテラン」【1】

テーマ:歴史
11月9日の 「シュタージの最後の秘密」【1】 、11月10日の 「シュタージの最後の秘密」【2】 で言及した、『毎日新聞』の特集「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年」に関連して、Le Nouvel Observateur の2009年11月5-11日、通巻2348に掲載された Mitterrand au pied du Mur (壁の足元のミッテラン)という記事をいずれ掲載するというようなことを書いていました。あれから10日以上経って、少々「今日性」が薄れてしまいました。


以下、週刊誌 Le Nouvel Observateur の2009年11月5-11日(通巻2348)に掲載された Mitterrand au pied du Mur (壁Murが大文字で始まっていることから、 「壁の足元のミッテラン」、または「決断を迫られるミッテラン」という両方の意味がかかっていると思われます)という記事です。長過ぎるので2回に分けます。


Mitterrand au pied du Mur



20年前、ベルリンの壁の崩壊は、フランソワ・ミッテランを慌てさせたのか?予測していなかったためにフランス大統領がドイツ再統一の約束に乗り遅れるほどに。アーカイブと証言を基に、ヴァンサン・ジョベールVincent Jauvertが、20年後も論争の的となり続けている、この歴史に関して調査した。


フランソワ・ミッテランの公開文書から取り出された舞台は、ベルリンの壁崩壊から3ヶ月後、エリゼ宮殿で展開する。その日、1990年2月13日、フランス大統領は古くからの共謀者、自らと同じく、終戦直後から政治家としてのキャリアを積み始めた男を迎える。イタリア閣僚評議会議長(首相)、ジュリオ・アンドレオッティ Giulio Andreotti である。二人の七十代の男は、第三帝国の解体から40年たってもヨーロッパにつきまとう問題について話し合うことを望んでいる。ドイツ国民の再統一である。

 ミッテランは激怒している。彼によると、RDA(ドイツ民主共和国)とRFA(ドイツ連邦共和国)を合併させたいという彼の欲求に反して、西ドイツ首相が余りにも早く事を進め、ほとんど相談しないからだ。ヘルムート・コールの態度について、ミッテランはイタリアの友に言明する、「あれは既成事実だ」、「ドイツ人は耳が聞こえない」と言う。さらに、悔しそうに付け加える、「ブッシュ(父、当時の米国大統領)は、事態を抑えるために何もしない。(ドイツの再統一を)阻止できる唯一のこと、それはソビエトによる武力行使だ。しかし彼らは武力を行使しないだろう。」

 3ヶ月後の1990年5月4日、フランソワ・ミッテランは、仮借ないマーガレット・サッチャーの元、英国のワデスドン・マナー Waddesdon Manorにいる。二人の会談の予定内容には、なおも、常にドイツがあり、そしてドイツの再統一がポーランドとその他の東ヨーロッパで引き起こす不安、フランソワ・ミッテランが、どれだけ共有するかわからない、不安がある。ミッテランはRDAを吸収した後、RFAがその影響力をさらに遠くまで拡げる誘惑に駆られるのではないかと恐れている。彼は説明する、「東に向かいたがるのはドイツ人の性質だ。」 フランス大統領は付け加える、そもそも、『我が闘争』におけるアドルフ・ヒトラーの予知的な言葉を思い出そう。「我々ドイツ人にとって、西に空きはなく、東に空きがある」、ミッテランが暗記して引用する言葉である。

 明らかなことがある。20年前、フランソワ・ミッテランはベルリンの壁崩壊、そしてそれに続いたドイツの再統一を、複雑な感情で受け止めていた。確かに、1989年11月9日の二つのベルリンの間の国境の開放の翌日、彼は「ヨーロッパにおける自由の進歩を画す幸福な出来事」と言っている。確かに、RFAとRDAが統一される1990年10月3日に至るまでの一年間を通じて、「ドイツの再統一は正当で」あり、「それを恐れてはいない」と繰り返している。確かに、1989年の末に、ベルリンで非常に異議の多い訪問をすることになる、旧東ドイツの短期間の国家元首、マンフレート・ゲルラッハManfred Gerlachに言った、「フランスに関して、私は破局を予想していない。ドイツという隣国を持ってから、1000年にもなる。」 しかし、実は、フランスの老いた大統領は心配している。彼は「大き過ぎるドイツ、まだ不可逆的ではない欧州の建設に対するフランス人の不安を強く感じ、回顧し、… 体現している」と、その親しい協力者、ユベール・ヴェドリーヌHubert Védrineが後に記している。


Rebuffades

(手荒い拒絶)


 これほどまでに不安だった年老いた大統領は、当時盛んに言われ、現在も言われ続けているように、ドイツ再統一に直面して下手に振舞ったのだろうか?20年前から、欧州の歴史に決定的に重大なこの出来事の間のフランソワ・ミッテランの態度に関する論争が、周期的に現れている。現ヨーロッパ問題担当大臣ピエール・ルルーシュPierre Lelloucheのように、戦争のことが頭から離れない国家元首が、「過去の人」として振る舞い、「この自由の祭典に乗り遅れ」、そうすることで、「仏独の友情に非常に悪い影響をもたらした」と主張する者がいる。

 死の直前に書かれた自己正当化の本における当事者自身も含めて、彼の疑念や時に非常に荒っぽい言葉に反して、フランソワ・ミッテランはフランスの愛国者として、ドイツの友人として、そして特に大欧州人として行動したと断言する者もいる。どういうことか?我々が参照することが出来た元国家元首の文書は何を明らかにするのか?20年後、この問題について活動してきた彼の主要な協力者や歴史家はどう言っているのか?

 その大多数は一つの点に合意する。そのとき、フランソワ・ミッテランは、ドイツ国民を十分に満足させる言葉を見つけることも、友好的な行動をすることもできなかったし、往々にして、しようともしなかった、ということである。1989年11月9日の夜、ミッテランがコペンハーゲンにいたとき、広報活動担当顧問のジャック・ピランJacques Pilhanは国家元首に、ベルリンに急行してヘルムート・コールと共に象徴的に壁を飛び越えるように奨める。しかしフランソワ・ミッテランは肩をすくめて拒否する。これはドイツの祭典であり、フランスのものではないと、彼は言う。

 数週間後にも同じような手荒い拒絶がある。パリの立場を批判し始めた人々を黙らせるために、ユベール・ヴェドリーヌとジャン・ダニエルJean Danielを含む複数の人物が、ミッテランに大演説をすることを促す。目的は、フランスの偉大な隣国の再統一に対するフランスの支持を強調することである。拒否される。さらに、1990年1月4日、ミッテランのランド県の別荘、Latcheで、ヘルムート・コールは個人的に友人フランソワに、ドイツのテレビで一大インタビューを受けることを提案する。しかしフランス大統領はこの提案を拒絶する。

 コールの前で、ミッテランはこのように自分を正当化する。「私がドイツ人だったら、再統一に賛成するだろう、それが愛国心だ。フランス人として、私はそこに同じ情熱を置かない」、素晴らしい婉曲語法だ。2月15日、ミッテランはドイツ首相に再び言う、「私がドイツの愛国者のように話すことではなく、フランスの愛国者として話すことが私には期待されている。私が興味あること、それは、統一の結果にどのように近づくかだ。」 こうして、彼は「再統一の象徴的な面を管理しなかった」と、ユベール・ヴェドリーヌは要約する(そして悔やむ)。


(つづく)


VINCENT JAUVERT

Le Nouvel Observateur 2348 5-11 NOVEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2348/articles/a412272-.html


次回 「決断を迫られるミッテラン」【2】 に続きます。

次回は原文 Mitterrand estomaqué, déstabilisé (唖然とし、不安定になったミッテラン)で始まる段落からです。

上の方で言及した、『毎日新聞』の連載は以下のリンクです。今回引用した記事に関連するのは3行目までかもしれません。


2009年11月 8日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 1-1 独統一、前向きだった仏 」

2009年11月 8日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 1-2 対立していた英仏」

2009年11月10日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 2 東独消滅、なし崩し」

2009年11月11日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 3 ロシア、失われた20年」

2009年11月12日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 4 チェコとEU、残る「小国」の危機感」

2009年11月13日 「統合への原点:ベルリンの壁崩壊20年 5 米「結束」を呼び掛け」

日仏の記事を読み比べるのも、興味深いかもしれませんが、大したこと無いかもしれません。



2009-11-18 00:00:09

サッチャーの「奇妙な報復」【補足】

テーマ:政治・経済
前回の サッチャーの「奇妙な報復」 の補足です。

原文 の下のほうにある、Les enjeux vus par (・・・によって見られた争点)という部分の訳も、一応掲載しておきます。


GRANDE-BRETAGNE.
L’étrange revanche de Maggie




Les enjeux vus par


GEORGE OSBORNE

ministre des Finances du cabinet fantôme conservateur

ジョージ・オズボーン
保守党の影の内閣の財務相
「保守党を現代のグレート・ブリテンに再びつなぐ」べきだ。これまで働いたことがなく、財政緊縮計画で有権者を再び獲得すると主張するデビッド・キャメロンのオックスフォードの元学友にとって、容易ではない。


NICK GRIFFIN

président du British National Party

ニック・グリフィン
英国国民党党首
「人種差別主義者、同性愛者嫌い、私はこれらのどれでもない」と、この英国のル・ペンは強く言う。「遺伝子的に99%まで白人であるグレートブリテンを愛する」ことを認めながら。


SUNDER KATWALA

secrétaire général de la Fabian Society

サンダー・カトワラ
ファビアン協会事務局長
改革派シンクタンクの指導者にとって、労働党員は、「左翼と右翼の協会を忘れた」ときにその魂を失った。「その違いを強調することができずに、彼らは保守党を結果的に利する危険がある」。


DENIS MACSHANE

député travailliste de Rotherham

デニス・マックシェーン
ロザラムの労働党下院議員
「金融に依存しすぎた労働党は、北欧の社会民主主義国のように社会的公正を推進することができなかった。」


JEAN-GABRIEL FREDET

Le Nouvel Observateur 2347 29 OCTOBRE-4 NOVEMBRE 2009


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2347/articles/a411888-.html





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