前回の
「決断を迫られるミッテラン」【1】
の続きです。
今回は
原文
の
Mitterrand estomaqué, déstabilisé (唖然とし、不安定になったミッテラン)で始まる段落からです。
Mitterrand au pied du Mur
(つづき)
Mitterrand estomaqué, déstabilisé
(唖然とし、不安定になったミッテラン)
この共感の欠如を、当時のフランソワ・ミッテランの外交顧問、ロイク・エヌキーヌLoïc Hennekinneは今、戦略的配慮によって説明する。「もし彼が、再統一への強すぎる支持を表明していたら、再統一の方法をボンと協議するのが困難になっていただろう」と言う。この正当化は恐らく、やや言い足りないが、その時期のフランス大統領の強迫観念をよく現している。再統一に反対しないが、それを制御することである。
この戦略を、フランソワ・ミッテランはベルリンの壁崩壊の前に決めてさえいる。1989年10月18日、ドイツの統一がまだ漠然とした遠い見通しに過ぎなかったとき、彼は閣議で明言している。「フランスは、ドイツ再統一が実現したとしても、それに反対することはできないだろう。(それを)阻止するためにドイツと戦争することなどやはりできない!」 したがって、「フランスが出来る唯一のこと」、彼は説明する、「それはいくつかの原則を尊重することだ」。いずれにしても、とミッテランは断言する、「我々には代替策があるだろうか?」
同じ日、当時エリゼ宮の広報官だったユベール・ヴェドリーヌは、内部文書で大統領の考えを明確にしている。「(再統一に対する)この切望に異議を唱えることは一貫性がなく、(そして)接近の動きに反対することが不可能なのだから」と彼は記す、「統一への動きに追随するべきだ。」 余り情熱的ではないが、現実的ではある。
実用主義者ミッテランの第一の配慮は、再統一に向かうドイツを欧州共同体に固定することだった。その機会は壁崩壊の1ヵ月後に現れる。12月8日と9日、フランスが議長国として開催したストラスブールの欧州評議会は、経済と通貨統合、次いでユーロへと至るプロセスを開始しなければならない。コールは最終的な青信号を出すこと、非常に困難な国政選挙の数ヶ月前にドイツマルクを放棄することを躊躇する。ミッテランは固執し要求を通す。
どのようにして?3日後、欧州の責任者たちは「ドイツ国民の自己決定」の権利を認める。そこにはカラクリがあるのか?ユーロ対統一への無害証明という。「形式的には、“闇取引”はなかった」と、この時代に関する記念碑的な作品の著者、歴史家のフレデリック・ボゾFrédéric Bozoは言う。「しかし、実際にはコールとミッテランの間の、暗黙とはいえ、ギブアンドテイクは明らかだった。」
もう一つある。2月の終わり、事態は加速する。東ドイツ国家が崩壊する。数万人の亡命者が国を去る。コールは寸念にないのドイツ統合ではなく、非常に早い、西ドイツによる東ドイツの純然たる吸収と言うようになる。ドイツ首相は新しいドイツが欧州共同体のようなものに統合されることを求める。その代わりに、欧州建設の再開を提案する。ミッテランは唖然とし、不安になる。躊躇する。
ミッテランの欧州問題担当顧問、エリザベト・ギグー Elisabeth Guigou は、受け入れるように彼を説得しようとする。「欧州共同体がドイツに、再統一に敵対的であるかのように受け取られたら」、1990年2月に、彼女は記す、「我々はあらゆる路線で敗者となるだろう。なぜなら我々は再統一を阻止できないし、共同体の未来をさらに荒廃させてしまうだろうから。」 その論拠は当を得ている。欧州人ミッテランはコールとの大きな取引を受け入れる。大ドイツはCEE (欧州経済共同体)に残ることになり、2年後、マーストリヒト首脳会議が、誰もが知っている条約案を採択する。それは、フレデリック・ボゾによれば、まさに「再統一に対する仏独の答え」である。
ベルリンの壁崩壊後、フランソワ・ミッテランには二つ目の強迫観念があった。東欧の解放者、ミハイル・ゴルバチョフの政治的生き残りである。ミッテランは、二つのドイツの早すぎる再統一が、ソビエトのナンバー1の転覆につながり、このことから東側と西側の重大な緊張、さらには軍事衝突にさえ至ることになると確信する。この確信から、1989年12月6日、キエフでのっクレムリンのトップとの会談を引き出す。キャビアからサクランボ添えラビオリ(?)に至る昼食の際に、ゴルバチョフはミッテランに懇願する。「ドイツの再統一を避けるように私を助けて欲しい」という。「そうしなければ私は、軍人に取って代わられる。あなたがそうしなければ、あなたに戦争の責任が及ぶことになる。」
フランス大統領は直接答えず、何人かが後に主張したこととは反対に、再統一に反対することに全く取り組んでいない。そしてゴルバチョフに再び言う、「恐れる」ことはない、と。しかしフランソワ・ミッテランは「この要請に非常に驚き、今度はパリへ複数の訪問者にそれを伝えている」と、ユベール・ヴェドリーヌは記している。
1月4日、Latcheで、フランス国家元首はヘルムート・コールに明言する。「ゴルバチョフの経験は(まだ)しばらく必要だ」、なぜなら、彼が政権を去ったら、「極右、国粋主義者、帝国主義者がその後を継ぐことになる」からだ。ミッテランは付け加える。したがって、「ドイツ統一は、ソビエトの軍靴の音が聞こえないようにして(…)なされ」なければならない。
« Le bon équilibre, c’est l’URSS »
(「優れた均衡、それはソ連だ」)
ミッテランは一時、クレムリンが「汚い仕事」をする、すなわち、単独でドイツ再統一にブレーキをかけることを期待していたのか?社会党リーダーの側近はそれに異議を唱える。しかしサッチャーと彼の間の取引は彼らの誤りを証明する。1990年1月20日、エリゼ宮で、鉄の女はフランス大統領に言う、「私が探しているもの、それは(再統一を)遅らせる方法だ。」 ミッテランはこの目的に反対だとは考えないが、パリとロンドンがそこに至るために手にする「手段」について疑問に思う。彼は言明する、「異論を唱えること、効果がないのに、条約に立ち戻ることほど、最悪なことはない。」 実際、彼は確認する、「皮肉な言い方をすれば、優れた調和、それはソ連邦だ」。
ミッテランがクレムリンのniet(ノー)を期待していたか否かは別にして、国家元首はミハイル・ゴルバチョフが、キエフではソビエトのナンバー1が激しく反対すると言った再統一の原則を受け入れる速さに驚く。このロシアのドイツ統一に対するda(イエス)は、全員の驚きをもって、1990年2月12日、モスクワでのヘルムート・コールとの会談に続いて生じる。翌日、ミッテランはアンドレオッティに言う、「キエフで、ゴルバチョフは非常に深刻に話していた。(彼は)コールを“田舎者”(扱いしていた)。しかしドイツ人と会うときは、ずっと柔軟に見えた。」 そのことをミッテランは悔やんでいるのか?いずれにしても、数日後、彼はドイツ社会民主党のリーダー、オスカル・ラフォンテーヌOskar Lafontaineに明言する、「スターリンの時代だったら、このようには進まなかっただろう。ソビエトの弱体化はドイツ側の力になる。」
欧州問題におけるロシアの影響力の、この目を見張る衰退は、ミッテランを不安にする。なぜなら彼は、戦後の国境の尊重のための闘いにモスクワの支持を期待しているからである。壁の崩壊以来、彼は、ポーランドと東ドイツ、したがって間もなく統一ドイツを隔てるオーデル・ナイセ線ligne Oder-Neisseの主要な擁護者を自任しているからである。この国境線の向こうには50万人のドイツ人が生活し、ボンの政府によって完全に認められたことはなかった。統一の前にこの承認を得ようとするミッテランの執拗さは、ヘルムート・コールを苛立たせる。仏独関係において、この非常に苦痛に満ちた出来事を、コールは決して忘れない。
2月15日、二人はエリゼ宮の肖像画の間 salon des Portraitsで昼食を摂る。コールは言う、「私は(この国境の承認が)再統一後に明らかになることを望んでいる。あなたは私に今、それを要求することはできない。」 なぜ?始まりつつある選挙運動のせいだ。「我々が西ドイツでオーデル・ナイセの国境について語っていたら」、コールは説明する、「我々は極右を強化することになるだろう。」 フランス側の報告書によると「非常に真っ赤になって」、付け加える、「誰もがこの問題を泡立てる。… これは大きな傷だ。普通、傷はバルサムで処置するのであって、煮えたぎる油ではない。」
しかしミッテランはこの感情的な恐喝に譲歩しない。彼はやり直す。「関係国の国際的な決定が必要だ。」 「そう、私も賛成だ」、コールは譲歩する。しかしドイツ首相は事態を引き延ばし、フランスの友を苛立たせる。3月9日、フランソワ・ミッテランは、ただオーデル・ナイセ国境の承認に関して、その支援を求めに来たポーランド大統領、ヤルゼルスキー将軍を迎える。フランス大統領は将軍に言う、「ドイツがヒトラーよりも礼儀正しい仕方で事を進めるとしても、我々はそれが起こることを望まない。」 それ?国境が不安定でドイツの欲望が貪欲だった、1913年か1919年のヨーロッパへの回帰である。それが、「フランスが、オーデル・ナイセの明確で鮮明な承認を得るために取り得る全ての手段を使うと決意した理由だ」と、ミッテランは言う。どのようにして?「この問題は、曖昧さなしに、遠まわしの言い方なしに、巧妙さなしに、課されなければならない。」 彼は固執する、「厳しくなろう。ドイツ人はその全てについて何も望んでいない。彼らを駆り立てなければならない。」 最後に、数週間の対決の後、ミッテランは、そのためにあれだけ闘ってきた、国際的な決定を獲得する。彼の言う、「仏独の神経性の危機」は終わる。
その結果、1990年10月3日の再統一の日、フランス国家元首はヘルムート・コールに手紙を書くことになる「あなたの親友、全てのドイツ国民に、フランスの連帯を伝えてください。」
VINCENT JAUVERT
Le couple Mitterrand-Kohl
1989年11月9日のベルリンの壁崩壊から、1990年10月3日のドイツ再統一まで、
ミッテラン・コールのカップルは何度となく断絶寸前になった。しかし、結局、非常に強い緊張に反して、二人はその友情を保った。
Berlin-Est
東ベルリンで、1989年12月20日、ミッテランは苛立って東ドイツ大統領に言う。「RFA(西ドイツ)に足を踏み入れれば、誰もが再統一の話をする。個人的に、私はそれが正当だと思う、しかし二つの国家は歴史とともに残る。」
Porte de Brandebourg
ミッテランが12月22日の
ブランデンブルク門の開放式典に不在だったことを誰もが非難した。実際には、ユベール・ヴェドリーヌによると、「彼はそこに招待されていなかった、噂とメディアを除いて」。
Margaret Thatcher
1990年1月20日、
マーガレット・サッチャーはエリゼ宮にいる。ミッテランは言う、「再統一にノーとは言わない」が、それは「ドイツ人に心理的な衝撃を起こし、忘れられていたいくつかの性質を呼び戻す。ある種の暴力性を。」
Général Jaruzelski
1990年3月9日、フランソワ・ミッテランは
ヤルゼルスキー将軍を迎える。再統一に関して、彼は明言する、「ソビエトの影響力がもっと大きかったら、我々はここまで進んでいなかった。アメリカは事態を少しはなれて見ている。英国は心配しているが、この心配を駆け引きにできることに満足している。私は、自分の望むことではなく、自分のできることを言う。」
Mikhaïl Gorbatchev
ミハイル・ゴルバチョフに対して、1989年12月6日、キエフで、フランソワ・ミッテランは言明する。「再統一を私は恐れていない。・・・ しかしコールの発言、その多くの視点は、私を混乱させた。彼はあらゆる要因を混同した。急ぎすぎている。」 6ヵ月後、ミッテランはゴルバチョフに言う、「あなたは、再統一されたドイツがNATOに加盟するのを止められラないだろう。」
François Mauriac
その人生の終わりまで、フランソワ・ミッテランはドイツ再統一の間の自らの行動を擁護しようとした。死後に刊行された『De l’Allemagne, de la France (ドイツについて、フランスについて)』で、彼は
フランソワ・モーリアックの言葉を繰り返す。「私はドイツを非常に愛しているので、2つあることに満足している」、「それは私の感情ではない」と言うために。
Le Nouvel Observateur 2348 5-11 NOVEMBRE 2009
http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2348/articles/a412272-.html
次回、ネタがないので、ベルリンの壁崩壊・東西ドイツ再統一当時のドイツ連邦共和国大統領、ヴァイツゼッカー氏のインタビュー(ドイツ語)をフランス語訳したものを日本語に訳したもの(ややこしい)を掲載します、多分。
これまでの、「ベルリンの壁崩壊20周年」に関するエントリーを一応まとめておきます。
20年の無分別:ベルリンの壁崩壊20周年
2009-11-08
「シュタージの最後の秘密」【1】
2009-11-09
「シュタージの最後の秘密」【2】
2009-11-10
「決断を迫られるミッテラン」【1】
2009-11-21
「決断を迫られるミッテラン」【2】
2009-11-22 (今回)