フランス語教育の「失敗」の原因【1】―続・中学新入生の40%は読み書きができない?【2】 | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

前回の 大学でも綴りの間違いが多発(フランスの話)―続・中学新入生の40%は読み書きができない?【1】 の続きですが、直接的には、中学新入生の40%は読み書きができない?(フランスの話ですが)【2】 で予告したように、「失敗」の原因を分析した記事です。


途中、わかりにくい用語が出てきますが、私にもよくわからないものがあります。申し訳ありません。

どのようにしてそこまでに至ったのか?

大失敗の理由』

Comment en est-on arrivé là ?

Les raisons du désastre


Bien sûr, il y a la télévision, les jeux vidéo et les nombreuses sollicitations de l’image, mais l’écrit a aussi perdu du terrain dans les programmes et les méthodes

確かに、テレビ、ビデオゲームと多くの映像の誘惑がある。しかし書くことはプログラムと方法においても地歩を失った

1. Des méthodes bizarres
(奇妙な方法)
 教育省は善意に満ちている。その信条は、collège unique(唯一の中学校)の導入以来だろうか?学習に「意味を与えること」。読むことに関しては、一時期「全体的」に誘惑されていた。子供は教科書から離れ、言葉を全体として学び、すぐに読めるようになったという錯覚を与えた。巨大な失敗、混乱した議論が起こった。前述の方法は最終的に、まず小声で、それから2006年にジル・ド・ロビアンによって廃止され、古い音綴の方法、文字を組み合わせる前に学ぶ方法が再び導入された。

 しかしながら、全体的なアプローチはある部分で残っている。「幼稚園では、特定の単語、名前、曜日の形を覚えることを子供に要求している・・・ところが、医学的画像診断では、単語の全体的な輪郭は、熟練した読書に実質的に何の役割も果たしていないことが明らかになっている。子供をそのようなものに注意を向けさせようとすると、悪い習慣を身に付けさせることになる」と、コレージュ・ド・フランスの認知心理学教授、スタニスラス・ドゥエーヌは、自著の出版の際に説明する。

 なおも意味を与えるために、有名な「横断性」の法則に基づいて、教育省は教師に、全ての教科でフランス語を勉強するように要求する。「地理の授業を止めて、フランス語のノートを開かせ、授業の文を移させ、それを勉強させると見なされる・・・ それは活発さを妨害し、生徒、特に最も学力の低い生徒は成果を上げられない」と、CM1のある教師は説明する。こうした授業は喜びも台無しにすることがある。「文学作品を読んで、綴りの規則を取り出すと信じることはまやかしだ。」同僚の1人は続ける。「文章を細切れにし、解剖することから始めれば、意味から離れて文学との関係を干からびさせる。」

 こうした実践は全て、「構成主義的」教育学の産物だ。生徒はそこで、「自らの学習を構成する」と見なされる。「ORL(言語の熟慮された観察)では、規則は発見され、理解されなければならないし、練習問題で再投入されなければならない」と、エソニーのCE2の教師、ヴァンサンは説明する。「その意図は立派だ。しかし、全教科に適用されなければならないと、途方もない時間を失わせる」別のCE2の教師が漏らす。「続いて応用の練習問題をやって知識を確実にする時間が、我々には足りない。」 課程はだまされていない。2006年10月、TNS-Sofresの世論調査で、父兄の73%にとって、文法と綴りが以前よりも十分に教えられていないことが明らかになった。

C. B.




2. Moins de grammaire
(より少ない文法)
 「私の生徒の何人かは読むことに躓いている。彼らは、難しい発音に十分な時間をかけてこなかった。母音に応じて変わる”g”の音、あるいは“ss”と“s”のように」。CM1-CM2のある女性教師は認める。なぜなら、学校は子供たちにより速く学ぶことを求めるからだ。

 1956年から1969年まで、フランス語の授業は週15時間あった。1969年でも、10時間を超えていた。1990年、教師たちには全体的な枠組みが割り当てられる。同時にフランス語、歴史、地理と公民教育を扱うために、9時間半から13時間半の間で。今日、上下の範囲は9時間と10時間の間に下がってしまった。この漸進的な平均化はなぜか?まず、プログラムの作成者によれば、生徒は全ての教科でフランス語を「している」と想定されるからだ(有名な「横断性」)。次に、ジャック・ラングにとって貴重な、有名な「文化に浴すこと」を創設するために学校に導入された、英語、芸術教育あるいは公民教育を押し込まなければならなかったからだ。「書き言葉、文法規則、単語の集団を体系的に学ぶ時間を減らして・・・ 生徒はフランス語を、不十分に、遅く習得するようになっている」、INRP国立教育学研究所の教授、アンヌ=マリー・シャルティエは判断する。「言語能力が無意識かされなくなれば、学習の記憶により多くの時間と場所が必要となる」と、CNRSの言語学者、ジャン=ピエール・ジャフレは付け加える。それで、生徒が書き取りのような単純な練習をすれば、綴り方も持ちこたえる。しかし、自分の信念についての文章を欠かせるような、より複雑な練習を要求すると、全てをこなすことができない。そこから、間違いだらけの答案用紙が出てくる。

 非常に優秀な生徒は何とか切り抜ける。しかし、平均的な生徒、ましてや最も学力の低い生徒にとっては、授業時間の削減は二重苦の体制に等しい。彼らはハンディキャップを背負って社会に出る。そして、十分な浸透時間を彼らから奪った教育省の政策は、彼らの雇用をさらに不安定にする。

C. B.




3. Une langue littéraire
(文学的言語)
 宮廷では「bagnole(自動車)」、「tire(自動車)」、「caisse(車)」と言うことができる。授業では。「automobile(自動車)」「auto(自動車)」「voiture(自動車)」としか言わないと見なされている。外では、「??、マチューは最低だ、奴は」と、風船を盗んだ友達について、叫ぶことができる。中では、「マチューが私の手から風船をとった」と説明しなければならない。外では、通常の言語。中では、古典的なフランス語、学校教育で成功するには不可欠の道具だ。「両親が家で単純なフランス語しか話さない子供でも話し言葉は何とか切り抜ける、しかし書き言葉では非常に不利になる。彼らには不足している統語的な、語彙の表現がある」、サン・ジェルヴェのCE2の教師、ベネディクトは説明する。彼らは自分の遅れを取り戻せない。「恵まれていない社会階層であh、学校の言語が家庭で繰り返されることはない。家庭ではそれほど言語表現がなされない。もし家で誰も本を読んでくれなくて、その日にあったことを語らせなくて、表現を訂正してくれなかったら、あなたは困難な状況にある26%の生徒の一部になる」、初等教育の一般視学官はそうまとめる。

 学校は問題を知らない。「学校は、学校的なフランス語が既に生徒が身に付けている言語であるかのように、教師は既に獲得されている言語能力を秩序立てるためにそこにいるかのように進める。現実には、学校のフランス語は外国語のように教えなければならない」、ENSの文学教授、元左翼の女性で、右翼に近い政治改革のための財団の中心人物となった、マリ=クリスティーヌ・ベロスタは判断する。もっと悪いことに、一部の教師は、聞かれることを確かなものにするために、「郊外」の言葉で話そうと努めるのが良いことだと信じている・・・ というのは、一部の地区では、生徒は古典的な言語、学校の言語よりもよく理解するから。それが社会的徴候でもある。彼らは学校の言語を拒否する。この現象は中学校で最高潮に達するが、小学校で生まれている。「格調の高い言語は、その全ての規則とともに、嘲りの対象になっている。なぜならそれは、支配的な白人、フランスのWASPの言語だからだ」、中学校の文学教師、マティアス・ガヴァリーは説明する。それは「ブルジョワ」の、「老人」の言語であり、それと折り合いを付けようとしない。

C. B.


(つづく)


出典:

CAROLINE BRIZARD

JACQUELINE DE LINARES

NATHALIE FUNÈS

LE NOUVEL OBSERVATEUR 2235 6-12 SEPTEMBRE 2007


http://hebdo.nouvelobs.com/hebdo/parution/p2235/dossier/a353660-les_raisons_du_désastre.html




次回、フランス語教育の「失敗」の原因【2】―続・中学新入生の40%は読み書きができない?【3】 に続きます。

4. Une orthographe ardue (難しい綴り)
5. Une formation à revoir (見直すべき教員養成)
6. L'écran contre le livre (本に対するディスプレー)

という、3つの項目が続きます。

今回の、3. 文学的言語という問題はさておき、1.で見るように、フランスの教育省は、非情に「善意に満ちて」いて、ありとあらゆる先進的な教育方法を試みた節があります。単語を全体的global に見る、というのは、例えばlundi(月曜日)、mardi(火曜日)、・・・といった単語を、音の構成要素ごとに見るのではなく、その言葉全体の形を覚える、ということらしいですが。これは、表意文字を持つ、日本語のような言語では意味があっても、フランス語(や英語やイタリア語やスペイン語・・・)などの言語では、意味がないということです。

2. とも関連しますが、幼児期ならともかく、学童期以降、言葉の規則は体系的に教育されなければいけません。多量の文章に触れるうちに、規則性を見出すという方法は、効果的ではありますが、莫大な時間がかかる上に、個人差が大きく出ます。

最近の公立中学校では、英文法を詳しく教えないらしいのですが、きちんと読み書きできるためには、文法も必須なはずで、文法無しで文法的なことを体得しようと思ったら、膨大な量の英語に莫大な時間、接していなければならないはずです。ところが、授業時間は確か週3時間程度という、大学の第二外国語以下の時間しか与えられていないとか。これで、3年間で少しでも英語ができるようになるなら、天才でしょう。

3. は、フランス国外のフランス語学習者をも悩ませる問題ではあります。書き言葉がかなり「保守的」なのに対して、話し言葉は時代とともに変わり、その差は大きくなる一方です。そして移民社会、格差社会という問題も。
日本でも、親が読書するかどうかで、子供の学習習慣が変わるという話はありますが、それ以上に、親が単純な言葉しか話さないか、「文学的な」言語で話すかで、子供の言語能力が大きく左右されるという実態があります。

ちなみに、訳文では、意味不明のため、「???・・・」としておいた話し言葉、« Zyva, là, Mathieu l’est trop nul, il est »は、私には意味不明でした。外国語してのフランス語を学習する立場からは、言語は「保守的」であった方が良い場合もあるように思われます。




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