拾遺愚想 - 越境する妄想団 delirants sans frontiere
 
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『エリュアール』大島博光 書評 服部伸六

不幸を拒否した詩人・エリュアール
――大島博光による評伝にふれて         服部伸六

 大島博光は一九一〇年の生れだから、一九九〇年には八十歳になる筈だ。まだまだ元気で、昨年の暮れには「エリュアール」(新日本新書)を出した。詩人エリュアールについては、すでに多くの書物が出ているので、今更らという向きもあるかも知れぬが、大島の本は、ほかの誰にも書けない視点があるので、のちのちのために一筆書いておかねば、と私は考える。

 《自由》というレジスタンス期のエリュアールの詩くらい、敗戦後の日本で愛された外国の時はないだろう。敗戦後の十年あまりを故郷の市(まち)で過していた当時、この日本訳の詩が同人詩人のサークルで朗誦されるのをしばしば聞いたものである。だが、その訳は誰の手になるものだったのか、私はしかと記憶していないが、たぶん大島のそれもあったに違いない。

   小学生の ノートのうえに
   机のうえに 樹の幹に
   砂のうえ 雪のうえに
   わたしは書く きみの名を

で始まる有名なこの詩は、若い詩人たちの震える声で歌われていた。ところが、私は、フランス文学を専攻したはずのこの私は、それが「自由」という抽象に向けて歌われていたものだと思っていたのだ。無知も甚しい。大島によると、ドイツ軍の占領下で「絶望、屈服、卑屈さが生まれ、自由は奪われ、失なわれていた。その自由という言葉が、エリュアールのこの詩によってふたたび生きいとした内実(傍点)をもって、人びとに呼びかけた」エリュアールの叫びだったという。私は「内実」という語に傍点をつけたが、それはその内実とは、詩人の内心にあったニューシュへの愛だったことを知らされて驚いたからである。この「内実」を大島はエリュアール自身の書き残したものから、この詩がニューシュにささげられることを証し出している。そうすると「樹の幹」や「机」という語が生きいきとして来るのだ。樹の幹にハートにささるキューピッドの矢の絵を刻み、その傍に恋人の名と自分の名を刻みつけているペイネの優しいデッサンを誰でも覚えているはずである。
 そんな誰でも覚えている少年時の記憶にエリュアールは「自由」を重ねたのだ。するとレジスタンス期のフランスの若ものの想像力に力強く「自由」が刻みこまれることになる。だが、ここで忘れてならぬことがある。自由とはフランス語では「リベルテ」である。すなわち、日本語の自由気ままという言い廻しにあるノンシャランスではなく、それは東縛から解き放たれたいという「解放」という力づよい言葉だ。日本人はリベルテを翻訳するとき、このニュアンスをすっかり捨ててしまった。だから、過去の旧習から脱する代りに、過去をよみがえらせようという自由が存在することを許すことになったのである。

 《女性》
 エリュアールの生涯には、三人の女性が登場する。最初の妻でロシアの金持ちの娘のガラ、それに若死をするニューシュと、彼の最後をみとるドミニック。
 「自由」の詩人がスイスの療養所で結ばれた女性ガラは「ぼくの顔は 愛されるためにある ぼくの顔は 幸福になるためにある」と歌われたガラだったが、シュールレアリスムの女神となって、ちやほやされるころになると、持ち前の性格が出て来て、大島が「むしろ彼女は抜け目のない打算家だったらしい」と書く女に変身していて、男遍歴の末スペインの変な画家ダリへと入れ挙げることになる。ニューヨークへ行ってから、ダリを押し出してカネもうけに専心させるのは彼女である。
 二番目のニューシュはピカソのデッサンに見られる線の細い女性だが、エリュアールにとってはシュールレアリスムと当時のヨーロッパの現実との間に挟まれた苦悩から脱け出すための脱出口の役目を果たしたらしい。「ぼくは驚嘆する 未知の女となったきみに きみに似た ぼくの愛する者に似た未知の女に 彼女はつねに新鮮だ」つまり、「未知の女」とは、エリュアールにとって情熱を捧げるに足るもので、それがニューシュを通して民衆への道を用意するものであったことを大島はさり気なく暗示する。最後のドミニックは戦後十年にも足らない時人の生存期間の中のただ三年間の道づれだった。彼女の南仏の故郷の近くのペリゴールに「貧乏人の城」という小作地があった。そこで詩人夫妻は夏をすごしたが、そこで生れたのが詩集「貧乏人の城」だった。これが詩人の最後の詩集となった。「十字架が太陽を隠していた」という句がある。宗教によって目隠しされた民衆の姿を明らかに暴いているのである。そして、このような擬制はエリュアールの国だけではなく、世界のどこでも通用していることを端しなくも言い当てている。
 ドミニックによって詩人は孤独から解放される。「人間は生れついている 互いに共鳴するように 互いに理解し合うように 愛し合うように」と歌われている詩集「フェニックス」は、前世紀のボードレエルの男からする身勝手な愛ではなく、「互いに」という連帯から生れる愛であることで前世紀の世界観との際だった差異を示している。エリュアールによって進歩への一歩が踏み出されたとすれば、このことの他にはないだろう。

 《善意》
 エリュアールの詩が生気を得ているのは善意への信仰、別の言葉でいえば、正義への信念の故である。
 だが、このような信念は、シュールレアリスムの洗礼を受けたこの詩人のうちで、どのようにして培われたのだろうか。一九二四年に出版された「死なないために死なう」というシュールレアリスムの時代の詩集には、青春の血の滾る若者の苦悩が渦巻いている。

   「絶望には 翼がない
   愛にもまた 翼がなく
   顔もなく
   語りかけない……」

 出口のない小路に追いつめられた姿が浮んでくる。その故だったのだろう。この詩集が刷り上る前日、エリュアールは父親あてに速達便を出したのち、汽車に飛び乗ってマルセイユへ行き、そこから世界周遊の旅に出てしまう。だが、それは周遊というような暢気なものではなく、「すべてを単純化するためぼくの最後の(傍点)本をアンドレ・ブルトンに捧げる」というこの詩集の献辞にも分るように、まるで自殺予告のようなものがある。
 この失踪の旅についてエリュアールは後年「奇妙な旅」とだけ言って一切沈黙したという。「彼の作品にも、旅のイメージはほとん反映されていないのである」と、大島は書いている。
 これは私の推測であるが、晩年の「善意」への信仰は、この絶望の裏返しではなかったのかということだ。絶望と孤独とを克服する自分との闘いのあとで、光あふるる善意の大道を発見したのだと私は思う。「しかもぼく はきみたちをよろこばせようと語りかける自分に驚く」(「詩は実践的な真理を目的としなければならない」)彼がフランス・コンミュニスト党を選んだのは、そのためだったのであろう。
 この稿を書きながら私は今、ガールスヴィンの音楽を聞いている。この音楽家はサティと共に古典音楽とモダン音楽の国境を取り払ったといわれる人だ。エリュアールもボードレエルの戦慄を新しい戦慄に取り代えた詩人だったのである、と私は納得する。そしこのことを教えてくれたのが大島博光だった。

(「詩学」1989年9月号掲載)
註 稿末のガールスヴィンはガーシュウィン (Gershwin)のことであろう。

 

タナトゥスへの道  ハチャメチャバラード論


 暗闇から始めるべきか? 闇。自然的不可能性の極。それは精神的物理的諸力の顚末、すなわち人工楽園としてしかありえず、そこからまさに始めるということは不平を排することに他ならない。しからば、白昼の形相とは何か? と問うこともまた水虫の王国を天上から騒擾とさせる無益な試みだ。そう、まさしく「無限都市」は始めること、旅への発動を同じ時刻にたたきこみつづけることで〈始めること〉を意味の呪縛から解放した、『結晶世界』も同じだなどというのはヤボというもの。ぼぐだぢはすでにして生をうけてしまっている。ぼぐだぢば始まりを始めでじまっだ。生まれたからには死ぬだろう。これは確実だ。作家の試みはこの流れのなかでエアポケットを存在させる試みなのであろうか? そうだ、まさしく原点は存在する。と斜にかまえてぼぐだぢは出発を出発しよう。ほら、もう闇だ、死だ、終円だ。
 出発が出発することでしかなく、もはや〈始めること〉の原初的想像力を喪失した時、ぼぐだぢの旅立ちはニヒリスムスと陽気な期待+安心感に分断される。その初動において、たとえば藤圭子と三田明は二つの分断された様式を代表する。三田が数年の唄修業後に歌唱力を身につけることができたということは、誰れであれ彼と同じ程度には上達できるということを意味している。ところが圭子のばあいは、最初からテクニックの点ではるかに三田明を凌駕しているが、それ以上に彼女の初動、唄いだしはすでにして流れきたっている潮流のうえに放流されていた。旅立ちのニヒリスムスは圭子を北海道から東北をへて新宿へと、ヤーさんの支配する闇の通貨の改鋳として奔浪した。圭子はそこで新宿を見た。そしてそこに自らを賭けたのだと遠見して思いこもう。人が表現者、根底的な意味で自己表現者となる時、ある種の複合的体験、持続的に練りあげられた体験があるにちがいない。それはそのなかに入ってくるものすべてを偏光させるレンズだ。第二次欧州大戦の予感に被われたスイス、革命後数年間のロシアといった地理的歴史的条件も加味されるに違いない。そのレンズ体を通過することにより人は自らをレンズと化すだろう。その時自己表現は単純直截ウェットな感情露出ではなく、自己表現の断念としての自己表現となるだろう。自己の体中を、発声器官を通過さすことによりすべての唄を偏光させるものとして、藤圭子はまさしくエン歌の星である。
 夢中より脱出してきた女と調音種から抜けだしたアラクニッドとの激しい恋はバタイユ圏へと飛翔し、あて馬スチーヴは悲しく去らねばならぬ。こうしてバラードは追求が死と近接する地帯から豊かな実りを収穫した。日常の社会的常識的生活からドロップアウトした男たちは、社会構造総体を偽りのエロスであると看破し、カンパニア斗争をするのではなく、ひとり生き生きとしたエロスを求めゆくことになる。しかしこの看破視力も初期には盲目の恋であり、道を誤まることもあったが、「識閾下の男」などをへて〈濃縮小説〉へ至ると国家独占と新植民地主義資本主義修悪版への独得のクリチークとなり、千年王国もまた明確に見きわめられていくのである。
 映画をつくりながら資本にすがりつく妾形態興業方式へNONを突きつけたとき、既成の流通経路からの脱落はゴダールにとって積極的な意味あいを帯びはじめていた。映画が資本によって企画され映画館のなかにおさまっていたとき、フィルムはその事実によってのみ価値をもっていたにすぎなかった。額縁に入れられた一枚のルドンはそれ自体として何らかの価値を持ったり美しかったりするのではない。淀川さんぽの作品が宿主を持っているから安心して賞味できないのでもない。『残虐行為展覧会』としてまとめられてこそ〈濃縮小説〉が作品になるというのでもない。〈作品〉は、既成の流通経路すなわち資本線の志向と自らを同一化することで、美術館、映画館、文壇、SFマガジン、ファンダムジンのなかでのみ生存する範チュー概念にすぎない。ゴダールは言う。「映画は作品として存在するものと私たちは考えた。今の私は作品など存在しないと信じている。これは芸術についてやや深く考察した結果たどりついた私の結論である。たとえ紙の上に印刷されようとも、額縁に入れられようとも、作品は存在しない」
 安く作ること、テキストとして活学活用すること、それらは方法論から本質論へと進駐した。アメリカ映画の私生児に何ができるかとゴダールが自問しつづけたとき、バラードはアメリカSFの不肖児に何ができるのかと問いはじめた。六十年代初期に頒布された爆弾群は〈サイエンス・フィクション〉のゴツゴツした地表をうがって、より深い地平へ伸びゆく錘であり、その方向性においてすでにして〈新しい波〉であった。あるいは逆のヴェクトルを持つのかも知れぬが、地獄の現実をのがれ天国へ昇天しようとしたコルトレインは翼を持っていなかったため、肉体的鍛錬自虐の果てに得られたかに思はれた桃源境も瞬間浮游にすぎなかった。チェス狂いデュシャン氏の繰りだす手のようにフレイズが編みだされ、王手の飛翔で極点に達するや、次の瞬間には苦行の前の静寂が疵つきもせず現存しているのだった。


 「実人生に復帰すべきである。澄みきった新たな眼をもって現代社会のなかに突入していくべき時である」(ゴダール)


 六三年からのバラードの試行はだから翼を入手するための修業となった。六二年の「内宇宙への道はどっちだ!」(NW-SF創刊号所載)によって、彼は内宇宙をこそ翼に変ずることを志向したとみえる。それでもってどこへ向ったかというと、実はまだ二階にいるのではなく、ハニャユタカの如く、未来から現在時を射抜いたのだ。『残虐行為展覧会』のダストカヴァー解説が指摘した如く、それはぼぐだぢの無意識のユニックなニューズリールとなったのだ。
 こうしたバラードの痕跡は革命論の見地から後づけることもできるし、ビートルズやボブ・ディランと関連づけて考えることもできよう、占星術や骨相学も流用しなければならぬ、だがヘルメス学的考察が最も重要となるだろう。はい、おいちに、おいちに。
 われらの魂と現実との間をとりもつ映画女優の体とぼぐだぢとの魔術的な照応を可能にする装置が〈力レン・ノヴォトニー体験〉である。現代社会で明瞭に反映する無意識の欲望がそれによって表現されており〈濃縮小説〉群を彩ると共に、以前のすべての作品を反応させることになった。
 無意識=空隙であり、構造的法則以外の何物でもない(ラカン)。無意識は言語である(忘却とは忘れ去ることなり)。空芯磁場の謂である(樺良太郎)。藤圭子の唄ごころは母ごころ(筆者)。
 脳髄革命の唱導者たちが圧倒的にフラワーな極楽トンボ眼鏡であるのは、アシッド体験がエゴの死であり、自由で友愛にみちた世界への再認知に他ならぬからである。合理化主義の吹きすさぶこの世界にあって、そのなかにもうひとつの国を見てしまうのだ。それはボールドウィンの見た国ではなく、むしろボードビリアンの見た国だ。精神衰弱氏がクロノグラムのフィルター越しにみたものまさにその世界に他ならぬ。テクニカルに現出されものとはいえ、彼の狂気は、狂気がより激しく現実を見てしまう感性の表現であることの証明でもあろう。そこに原点をおくことにより、フンダカウパニシャド繰りかえし、作家の飛影は彼の足跡ではなく標的だ。〈現代〉暗箱に印されたいくつかの涙滴についの考察はだから涙滴の宇宙論的な拡大世界のイマージュとなるのだ。
 西欧近代にあっては、死は滅亡の価値であり、そのなかで生れ育ったピエロが死の彼岸に青い海の永遠を見すかすといった手管で逆説を逆転することによって、書物的人生から離別したのは、幻想[アフリカ]の一歩前進と英仏両帝国主義の世界支配からの二歩後退による世界観の転倒に対応していた。


 「いずれの時代にも芸術家は、存在する秩序の危機を真先に感じとり、世界の崩壊をより深い次元において受けとめ、そして時代を越えた象徴を駆使する事によって日常感覚を越えた次元で世界を再創造する事は知られている。近代世界においても日常生活の総体をなしている部分が、真の相互連関を失い、そのような世界を反映する人間の意識が統一を失いつつあることを真先に直感的に感じとったのが芸術家であった。このようなときに言葉の真の意味でラディカルな芸術家のとる手段は先ず、音を失いつつある世界の崩壊を――たとえ人工的にもせよ――促進させ、真に回復されるべき世界への途を拓くか示すかする。近代芸術とは、そのような要請に基づくものであろう」(山口昌男)


 ロマンチシズムとは追求の不徹底さの謂である。という断言命題とは全く無関係にいく。プリマ・ベラドンナの死に至る病は昂じるにつれ、死んでも死に至れないという不条理を生みだした。バラード初期の習作は、タナトゥスへの欲望を隠して主人公を受容する世界への主人公の告発であった。しかし、「至福千年」においては、権力のなしくずし的な攻撃に不満を抱きながらも、芽ばえたのは彼の生活の閉回路に対応したみみっちい欲望にすぎず、それさえも習慣の強烈な魔力のもとに後退してしまうのだった。「無限都市」では、警察医の疑問に対して返答できず、はぐらかすしかなかったフランツは、自己の内的世界を原理として世界へと投影できなかったため、法と秩序の許へねじ伏せられてしまう。こうして、生の不在が不在の生へとレヴェルアップされた時、告発はさらに漫画チックなものとなり、ニューマンが命を賭す時計都市再建の夢は、このわたりに住まいいたすものにて候氏たちにとっては気狂いみたものとなり、彼が手にした的はずれの幻影はしかし、滅亡世界を繰りかえすという異相アナクロ行為の照射をうけて、別な意味を燐光しはじめる。擬制とはいえ、エロスはそこでは支配的な王権保持者で、その子宮胎内的微温世界を打破するものとしての父権像であるおじいさんも時計都市の奇蹟的な先住人も決して父性ではありえず、母なる沈降拡散世界へと回帰線を跨ぎ越さねばならなかった。
 言辞的革命論の見地からすれば「時計都市」に現われた二つの世界は、資本主義の極地としての社会とそのアンチ・テーゼとみることができる。ここでも時の問題が現われ、その最も皮相な形態としての時計による疑似的な支配がかつて貫徹していた社会の抜け殻がある。支配という、エロスから遠く隔たった機能に従属させられるとき、すべて本質は剥ぎとられ、皮相面だけが現われざるを得ないのだ。ラングドン・ジョーンズの寝室のようなコンクリート塊群は人々の精神を錯乱させ、至上の秩序志向社会を形成していたに違いない。一方がすぐれて稠密な構成を持つとき、もう一方の、それに対立するものとして立ち現われた社会はカイロスエントロピー極大の混々沌々としてあるだろう。しかし往々にしてユートピアは全体主義的であり、ニューマンの育まれた社会もまた、ロシア社会帝国のパロディであるとみることができよう。ニューマンの社会主義から資本主義社会への転出は、バラードのロシア批判である。テへッ! 小川徹も顔まけの裏目読みだあな。でも単純に例の転向、ころびなんかと同一視ないでくれよ。別にバラードは資本主義を認めてるわけじゃないのさ。
 タナトゥスがはじめて作品核として導入され、顕示されたその台座に向かってすべてのコトバが整序されたのは、おそらく「時の声」からである。〈宇宙死〉へと向う地球では、人間に休暇を与え、植物に時を観じさせ、蛙に鉛甲冑をまとわせる。キャンプな世界が現実の真只中で生長する。そして時を退行しながら原生の宇宙の有様が種々の象徴の彼方に望見されていく。一時代の終末としての総合であり、新しい時代の始まりともみるべき作品が、宇宙死によって始まりを始めた、始めざるを得なかった(手前は死だ)ところに、高度資本主義国内部における想像力の置かれた立場がまざまざと読みとれよう。寒々とした展望だ。バラードの作品は彼がひりだしたものとして当然相互連関性をもっているが、「時の声」以前の作品においても、表面的ストーリーがそれ自体の完結性を性急に志向している時でさえ、深層のゆったりとした流れがそれを嘲笑うかのように天下泰平をきめこんでおり、表層と深層とのギャップが救い難い魅力を放散していた。そこからこの今までの距離は大さなものではなかったが、バラードがひとつの飛躍を決意したとき、それは巨大な歩み[ジャイアント・ステップス]となったのである。
 「結論を急いで唐突にあがれ」(岡田隆彦+筆者)
 バラードの作品のすべては、ありうべき、かってあったであろう重層的な意味体系の支配する世界への復帰、世界の再聖化、宇宙の統合をテエマとしているといえよう。すなわちバラードは錬金術師であり、すべての作品は公許的世界観からは除外されたもうひとつの世界観を確立しようとする革命的試行である。初期の作品が〈滅びの美学〉の耽美的表現であると感ちがいされるとしても、彼の主目標は意味の喪なわれた世界でいかに生きるべきかという問いかけであったし、メリル流に言えば、人間のオリエンテイションの問題を考察していたのだ。
 「詩人は生きるために何度となく死なねばならぬ」(ジャン・コクトー)
 こうしてバラードは何度も死をかいくぐることになるだろう。

 

 (これは1970年前後に書いたバラード論のようなもののようである。どこにも発表したことはない、ように思う。査読を通過しないだろう。グーグル・ドライブで手書き文字を読み取ってもらった。何が書いてあるのか、判りがたいが、バラードの初期作品を精神分析すれば、当時の彼の創作の秘密が明らかになるのではないかという提言かもしれない)



 

「魔術の戦略家ブルトン シュルレアリスムの法王」 服部伸六


魔術の戦略家・ブルトン
シュルレアリスムの法王
服部伸六


四次元の声が呼んでいた


 私がブルトンとエリュアール共著『処女懐胎』を訳したのは、いまからほぼ四十年もまえのことだった。それが今度、久しぶりに新装版になって、訳者としては、いくらかの面はゆさをおぼえる。と言うのは、自動記述という、二十世紀初期のパリの青年たちが編み出した文学のジャンルは、日本では全くはじめてのことであって、私は面食らいながら、無我夢中で、この難解な文書と取り組んだ記憶があるからである。
 フランス語の記号を頼りに日本語にはしてみたもの、ブルトンとエリュアールの二人が伝えようとした陶酔を正しく翻訳できたかどうか、じつは、心もとない次第だった。ある箇所では、酔っぱらいの巻くクダとしか思えないくだりがあって、困ったのであるが、それも一つの文学作品、シュルレアリスムの実験と考えればやむを得ないことだった。
 それは自動記述の典型であったのだが、そのあとしばらくして、戦争が末期にさしかかったころ、日本の自動書記を発見させられた。大本教の始祖の出口なおという老女が書いていた「お筆先」と呼ばれていた文書に接したのである。例の有名な「三千世界いちどに開く梅の花、立て替え立て直しの世がきたぞよ」で始まる怪文書である。
 自動記述を利用しての、政治の被害者となって極貧の生涯を送ってきた老女が胸の内に籠もった恨みの数々を吐き出した自動記述の文書がこのお筆先だった。アンドレ・ブルトンのような西欧文化のチャンピオンを日本の貧しい老女と同一視するという暴挙をあえてするつもりはないが、現象としては同じであることに間違いはない。つまりブルトンの言うところの四次元からの声、無意識の混沌から浮かびあがる「意識」という点では同一であることに変わりはない。

異を唱える権利


 ランボオが言い出した「生を変えろ」という合言葉は、いったいどう解釈されればいいのか。日本語ではどう訳すればいいのか。
 変えろと言われているのは個人の段階ではなくて、集団の段階だと私は思う。集団ということは社会全体の、と言うことで、国家にも関係する、極めて政治的な概念である。少年ランボオはそこで社会と国家との変革を夢想しているのだ。それでも、ランボオの革命の夢を受け継いだ二十世紀初頭の若者たちは、自分たちの無力を悟り、せめて精神文化のなかでも変革をなしとげようとしたのが他ならぬシュルレアリスム運動だったと言える。最近新装版の出た『ブルトン詩集』(思潮社)のなかで編者のベドーアンが次のように書いているので、そのことを確認しておくこととしよう。「我々は、いかなる形態の文明も滅びの運命にあることを知っている。歴史は、我々に、そのあとから常に新たな文明が生まれることを教えている。だが、我々は一人として、これらの現象を自らの力で統御しうる手段を知ってはいないのだ。で、我々は結局、これらの現象を茫然と見つめる傍観者、ないしは、これらに思うまま翻弄される被害者に還元されてしまう。今や、ひとつの文明が瀕死の状態にあり、その巨大な断末魔の痙攣にまきこまれ、多くの政治綱領、イデオロギー(革命的なイデオロギも含めて)、経済組織が、我々にとって、もはや、いかなる救いにもならなくなっている。」
 二十世紀初頭の若者たちがその人生を生きはじめたのは、まさにそのような雰囲気の下であり、ランボオの鍵のコトバが衝撃として伝えられたことは確実だろう。
 第一次大戦に狩り出された青年たちが戦争の無意味さを痛感して、次の世代に寄せた期待、希望が政治的様相をとるまえに、まず文化の領域で花開いたのはまったく自然だったと言えるだろう。戦場で傷ついたアポリネールをデッサンしたピカソの絵が思い出される。

拡散と分裂


 そのころ日本の前衛詩人たちの動きはどうだったのだろうか。そのことに就いては私の役割ではないので省略するが、中野嘉一さんの「前衛詩運動史」を参考とされたい。日本では、これまで「異議を申し立てる権利」、つまり革命精神が育っていなかった。これが日本文化の特徴であるとあきらめたとすればそれまでの話だが、そのため日本のシュルレアリスムは外形の模倣で終始した。この芸術運動の根底にある精神が見失われていた。この認識の欠如は今後も尾をひくと思われるが、欧州で今なおシュルレアリスムが生きつづけている理由をこのところに認めたいものだ。最近では、日本でも異議もうしたてが市民権を得ているかにみえるが、西欧化が進んだ最近のことに属する。もともと日本には馴染めない心の風土である。ブルトンが辿った道をいまになって振り返ってみると異説の申し立てが、とくに目立っている。二十世紀になってからの特別の現象ではないかも知れぬが、ブルトンなどが関わったシュルレアリスムの二十世紀における運命かもしれない。
 西欧とくにフランスでは、この風潮は目立っている。つきつめて行くと、それは革命という語にぶつかる。シュルレアリスム革命とは、そのことを指している。しかし、革命という以上、そこには政治・社会の変革を意味するものが無ければならぬはずだが、文学ないし文化の枠内にとどまるだけでは理想も夢想も現実にはならないことは誰にも分かっていたはずだ。運動を離れていく者が出てきても不思議ではない。アラゴンが出ていったのは、その帰結だったし、エリュアールもアラゴンに習って共産党へと船の進路をかえるものの、その栄光はナチスに対するレジスタンスの中で花咲くことで目的を達するかに見え、それ以上の発展へは進まない。
 しかし、エリュアールの含みの豊富な表現を追っていくと見えてくるものがある。たとえば、「ひとりの人間の地平線から、すべてのひとびとの地平線へ」という詩集の題名の場合、背後にある詩人の女性関係の物語を抜きにしては理解することはできないとしても、この長編詩が「政治詩集」と銘打たれて、ガリマール書店から出版されたのは一九四八年のことだが、そのときすでに、初期の文学運動の時代から四分の一世紀をこえている。きわめて個人的な詩句を用いながら、じっさいは広い意味の現実社会に切りこむという作業を完全にマスターした詩人の技法は、ほかのどのような句も入り込めない境地に達していた。次のような詩を見て頂きたい。

 モラルの説教師どもは、一体なんにくちを出していたのか? ひとりの人間が、かれら仲間たちのところに、送りとどけられていたのである。正統な兄弟のひとりとして。
  (高村智訳 エリュアール『愛』の「ひとりの人間の地平線」)


 「正統な兄弟」とは何を指すのか。それはフランスの階級社会の仲間のことだろう。「すべてのひとびとの地平線」とはこの仲間たちのことにほかならない。そこは、「人間から人間へと若がえりながら、わらっている子供」の世界である。ここで自殺まで思いつめていた詩人の未来への希望が現れてきたと言えよう。エリュアールの詩句の奥深さについては解釈する人により多くのヴァリヤントが出来上がるだろうが、要は、完全な自由をもとめる詩人の態度を見うしなってはならないと言うことである。
 他方、もうひとりの初期指導者のアラゴンは自動記述の実験に参加するが、ロシア人のマヤコフスキーの血縁を引くエルザを妻にしてからはすっかりロシアびいきとなり、ソ連で開かれた国際作家大会の席上での熱烈なソ連賛美の演説をしてから後は、その呪縛から逃れることができず生涯を主義のために捧げることになった。しかしレジスタンスの対独闘争での輝かしい功績に加えて、その間の詩作は失意におちこんでいたフランス国民の大きな励ましとなり名声を博した。
 戦争が終わると彼は週刊誌「レットル・フランセーズ」の主宰者となり文化運動の王者としての地位を極めた。その間、「国民詩」運動を奨励して定型詩の復活を志し、フランス文化の根深さを改めて世界に示した。
 彼がどこまで共産主義に忠実であったかは謎であるが、晩年の死の直前ごろ、美貌の青年を引き連れて、コーボーイのかぶる縁の広い帽子をかぶり街を徘徊していたという伝説は、ひょっとすると、その答だったかもしれない。ソ連が崩壊し、イデオロギーが死んだ今、世の移り変わりに、思い至るとき感慨にたえない。
 しかし、アラゴンの作った、こよなく美しい歌はレオ・フェレの歌声とともに忘れられることはないだろう。

シュルレアリスムの国際化


 一九三四年、初めてジャクリーヌ・ランバと結婚したブルトンは、アメリカ旅行を企てる。そのときトロッキーと会った話は有名である。一九四一年から四五年まで、ふたたびアメリカに赴いているが、そのついでにメキシコ、ハイチに足を伸ばしている。その間、彼はエリザと結ばれている。
 これらの旅行は、ドイツの占領下のヴィシー政府を避ける意味合いがあったと思われるが、一方ではシュルレアリスムの国際化にあったことは、仏領マルチニックでエーメ・セゼールを掘り出したことで、その意図が明らかになった。
 ブルトンが書いているところによると、ある日、マルチニックのフォール・ド・フランスで、たしか保護のための収容所から出されて街を歩いていたとき、ある書店でパンフレット状の詩の雑誌「トロピック」が目にとまり、その発行者のエーメ・セゼールを訪ねることになったというわけであった。
 エーメ・セゼールとは『帰国手帳』という詩集で有名となる黒人詩人で、セネガルの政治家詩人レオポール・サンゴールなどと「ネグリチュード(黒人らしさと言う意味)」運動を開始した。彼らの運動のキッカケにブルトンの推挙があったことは、疑うことはできない。この挿話でもわかるように、ブルトンはアラゴンともエリュアールとも異なった道を歩かねばならない。すなわち国際化という道である。
 二十年まえの道連れたちとは違った道を歩かねばならなくなるが、しかしそれは止むを得ないこと。「時はあふれる」(エリュアール)では、死を前にした詩人が、残された余生を歌ったものと解釈できる。悲痛でありながら、しかし、希望を失っていないのは、この詩人の特徴である。ブルトンは以上の二人とは違った道へと進み、かつ、異を称えねばならぬ。彼の変身はシュルレアリスムの秘教主義(エゾテリスム)への変貌であるが、ブルトンはこの傾向の法王となるのであるが、奇妙なことにそれにはユートピア思想が伴っているのである。それとともに、彼の理論活動は詩や絵画の分野からはみ出して日常生活の分野まで広がっていく。つまり日常生活にまであふれ出る。しかし、その底辺には変わることのない筋金が一本とおっている。すなわち、いかなる者にも屈しないという自由への希求である。ブルトンは『第二宣言』の中で、シュルレアリスムの精神の特色を説明して、それは「旅芸人の堀立小屋の精神と医師の診療室の精神に、同時に戦いを挑む精神である」と書いている。難しい表現だが、私なりに解釈して、世俗の精神に戦いを挑むという単純な言い回しに言い直すとすれば分かりやすい。しかし、そんな風に俗っぽく言ったのでは重みがないので、そのままにしておいてもよいだろう。要するに、俗世間とはひと味ちがうところを見せればいいのだ。つまり新しい詩の運動は、場所を選ばず、自由を伝統からの開放を望んでいることが大切なのである。ブルトンはこの立場を守り続け、一歩も退くことはないだろう。そういう次第で、ブルトンは世界市民という概念を持ち出してくる。一度開放された精神は世界市民のあいだでしか通用しない。詩の文化の国際化だけが、その苗床なのだ。ブルトンは世界中をとび歩くことになった。新しい運動のあるところなら、どこへなりと駆けつけたのである。「この運動の特殊な表現方法だけに興味を抱くだけでなく、人間の相互の原則である思想の競合の自由な沸騰を、その源から捕らえるに至るまでの言語の深淵まで、つきあうことになるからである。この水源地を再発見すること、しかもそれを再開発するだけでなく、砂で埋まるのを急いで防ぐために何等かの手当てをすること、そういうのがシュルレアリスムの決定的行為であり、今日にあっても昨日と同じくその特別の務めだった。そのことはとりもなおさず、心理の自動主義こそがカナメであって、その反証を引き出す手続きこそが、重要な役割をなしているという意味になる。ブルトン自身一九五三年の日付の文書のなかで、この成り行きの意味するところをはっきりと示しているが、出来れば、その際、自動記述の経験を広げようとする。というのは彼は次のように言っているからだ。《シュルレアリスムにとっては、すべてを言語という素材のうえに置くのだということで納得することだ》」と、今度、思潮社の『ブルトン詩集』の著者ベドゥーアンがセゲール書店から出した『シュルレアリスト詩集』の序文で書いている。
 ここまで来て、与えられた枚数が尽きつつある。「戦略」についてはまだ言い足りないが、最後にランボオの「詩はもはや行動を韻律化せぬであろう。詩は先駆するものとなるであろう」という句で締めくくることとしよう。前進こそが詩の役割なのだ。永久革命こそが詩の使命なのであり、アンドレ・ブルトンが追求したのも、まさにこれであった。
 だがしかし、ユートピア思想が潰え去った今、われわれの前で次の世紀はカオスで病んでいることも事実だ。


    「現代詩手帖 1994年10月号 特集:いま、アンドレ・ブルトン」
 

『女神たちの午後』 荒巻義雄短篇集


     解 説   大和田 始
 疾風怒濤 一九七〇年から七三年にかけて、ほぼ二か月ごとに「SFマガジン」誌上に作品を発表しつづけたこの時期に、荒巻義雄の作家としての可能性の中心が発光している。そのスペクトルを定着させているのは『白壁の文字は夕陽に映える』や『柔らかい時計』などの初期作品集である。さらにそのうえ、「SFマガジン」掲載第二作「種子よ」は『神聖代』へと発展しているし、第四作「ある晴れた日のウィーンは森の中にたたずむ」は第一長篇『白き日旅立てば不死』へと展開しているのである。まさしく、この当時の荒巻義雄は飛ぶ鳥を落とす勢いにあったといえるだろう。
 荒巻SFの可能性 荒巻義雄のSFの可能性については、小説に先だって「SFマガジン」に発表された評論「術の小説論」の中にそのいくつかの側面を見出すことができるだろう。ここで荒巻義雄はF派(ファンタジー・文学派)とS派(科学派)の間で交されてきた論争に終止符を打つべく奮闘している。荒巻義雄にとってF派とS派の論争は、いわば主題・内容・倫理などを基礎とする同一の地平での出来事に見えたのだろう。そうではなく、もっと別の地平、形式や方法について論ずべきではないのか。視点を転換すべきではないのか――カッコつけていえば(パラダイム・チェンジ)がここで求められているように思える。そこで荒巻義雄はSFの方法として”術”という考え方を提起する。それはカントの言う判断力のことでもある。おそらくは『判断力批判』からの敷衍[ふえん]なのだろう――。
 医療の相対性 「医者は医学(科学)が供給する法則的な知識をもっている。しかし知識を持っただけでは、医者本来の使命ははたせない。医者は患者のなかに病的な現象をみとめ、診断し治癒させる仕方を案出しなければならない。このとき医者の前にあるものは、病気という事実と医学の知識である。知識の方は純粋で厳密だが、事実の方は混沌としていて複雑である。医者はこの二つの間にあって、〝当てはめ"の創造的能力を発揮せねばならない。だから、この世界は真か非真かの領々[誤植か]ではない。治る方が好い、治らぬ方が好くない、ということが支配している世界である......」
 SFの相対性 医者をSF作家に置きかえて読んでみてほしい。患者は現実世界であり、病気は何らかの現象であるだろう。SF作家はこの二者の間に立って、科学を応用して解決をはかる のだ。解決できれば好し、できなければ悪し。SF作品とはその過程を定着させる印画紙である。言うまでもなく、結末がどうなるか判ってはいない。判断し、当てはめるという"術"の行為の作用によってどうにでも転びうるのだ。そして確かに荒巻義雄の作品はそのようなものとして立ち現われている。
 現実認識・小説認識 ここで更に重要なのは、荒巻義雄の言うSFの中には絶対的なものが存在しえないことである。これは「術の小説論」のもう一つの眼目の現実認識と深くかかわっている。現代社会の物の考え方や見方について、この論文はこう述べている。「もはや、絶対的な神、神秘、霊的なものは存在しえない。(中略)本来は、形而上学的主題といえそうなものが、形而下的なレベルにひきずりおとされる。幸福は金儲けの技術に代置され、愛はセックスの技術に転換される」現代社会はこのように"術"化されていると荒巻義雄は見ているのである。テクノロジーは物的世界を席捲しただけでなく、心的世界にも深甚な影響をおよぼしてきている。ところが一般の小説はこのような現実を捉えておらず、「十九世紀的世界観や倫理観」に縛られているのだ。そのような地平からは〝離陸〟しなければならない。それを可能にするのが"術"を武器 とするSFである。
 荒巻義雄とバラード 小説に対するこのような見方は、たとえばイギリスのニューウェーヴS F作家、J. ・G・バラードの見解とも一致するものである。しかし両者の書く作品は極端にかけはなれている。バラードのSF改善策が、特に一九七〇年代に作品の主題、内容に傾いたのに較べて、荒巻義雄はあくまでも小説の方法にこだわったからだろう。
 深層から表層へ 絶対的なものが存在しない世界。相対的な世界。それは深層を欠いた表層の世界といってもよいだろう。SF作品は未来や異惑星や異次元の世界をえがくことも多いが、そのような作品では現代現次元の地球を舞台とする作品が読者に寄りかかって持ちうるようなリアリティ(深層)を確保することはむずかしい。多くの作家は過去から現在までに得られた知識の諸要素を仮構の世界に投影してお茶を濁すわけである。それはそれなりに一つの世界を実感させるものでもありうるし、有効性もあるだろう。しかしそこに倫理的・思想的問題の残滓[ざんし]がもちこまれると事態は一変し、作品のリアリティは失われてしまう。もともと薄っぺらなものであった作品世界が、ぺらぺらになってしまう。世界が理知的に割りきれるという幻想に屈服したためだ。 
荒巻義雄とレム 充分に納得しうるほどのリアリティを未来社会に与えた数少ない作品の一つに、スタニスワフ・レムの『星からの帰還』がある。ここでレムは十の存在である未来社会を描出するために、一ないし二しかえがいていない。そのことによって読者には十の世界への想像が残される。少なくともそのように感じさせられる。 では、未来社会を描きうるかどうかは表現力の問題なのだろうか。過少に書けばよいのだろうか。もちろんそうではない。レムの成功は、彼が未来社会を未知のものとして扱ったことに由来しているだろう。 荒巻義雄の作品世界は、SFの常として、充分に薄っぺらなものであるが、彼はその世界を創造しつつ、自分には知りえないものとして突きはなし、専制権を主張せず、時には作品世界を裏切ることによって奇妙な存在感を与えることに成功している。これはレムとは全く異なる手法である。ここにはもはや深層はない。ただ表層だけが幾重にもかさなってあるのだ。
 背後から表面へ 美術評論家の宮川淳の用いる背後ないし記憶という語は、深層にあたる語であるだろう。「ジャスパー・ジョーンズは記号を題材にえらぶことによって、作品を背後〉への無限の遡行から決定的に〈表面〉へもち来らす。タブローを星条旗そのものと同一化することによって、作品は〈背後〉のない純粋な表面になるのである。(中略) たえず〈記憶〉を打ち消してゆく時間論的な<現在>の永遠の自己運動の苦渋に満ちた軌跡は、ここではついに、完全に <記憶〉を拭い去った〈表面〉の現前にまで到達するのである」(『引用の織物』より)
 荒巻・曼荼羅・鏡 深層ではなく表層があるということ。それは作品それ自体、ないしはその背後に、内容や意義がかくされているという考えを否定する。もはや荒巻義雄には従来の意味での内容や意義という概念はないのかもしれない。彼の作品は曼荼羅や十牛図や聖書として、一幅の絵画として、鏡として、記憶や背後を欠いた表面として読者の前に投げだされているにすぎな いのである。これは荒巻作品がテクストとして存在しているということでもあるだろう。
 テクスト 作者にとっても、読者にとっても不透明なものとしてある作品。どんなに多くの読者の読みでも覆いつくせず、どんなに巧妙な作者の意図をもかいくぐる自己運動のテクスト。荒巻作品とはまさにそのようなテクストであり、しかも、作品はおのれがテクストであることを強烈に主張する。このような言い方が妥当かどうか判らないが、荒巻義雄は作品を書きつつ、書くことよりも読むことの方に精力をそそいでいるように思える。SF作家荒巻義雄は、作品世界と自らの理知とを対決させ、世界を裁断しようともくろみながらも、そのことの不可能性に気づいており、とりわけ『時の葦舟』などにおいて、結果的には作品の不可知性を表明しているといえるだろう。
 文学装置 ここで作品は、もはやその主題・思想を内包したものとしてではなく、読むことを解読することを発動させる引き金、仕掛けとなっている。いわば、 一個の文学装置なのである。読者はテーマや思想を読みとることによる文学的感動というものを諦めなければならない。読者に残された楽しみは、そのような文学装置が我々の内部に芽生えている新しい感受性を共振させ ることであるだろう。仮りに名づけるとすれば、文学装置的振動というべきだろうか。
 『女神たちの午後』 本書『女神たちの午後』は『時の葦舟』と似た構成をもっている。『葦舟』を天上篇・神話篇とするならば、本書は地上篇・世俗篇ということになるだろう。『時の葦舟』は徹頭徹尾、虚構で成り立っている。さらにその虚構は最後の中篇に至って壁の絵として否定・ 空洞化され、その中篇の世界も何者かの夢の中にあるのではないかと示唆される。世界を支える柱が次々に取りはずされていくような感覚、自由落下の浮遊感、これこそ荒巻作品を読む醍醐味[だいごみ]の一つだろう。ここで強烈に主張されているのは、世界を支える基盤は実体的なものではないということだろう。そしてそれは、我々の生きるこの世界の基底部に潜む虚無性でもあるのだ。『女神たちの午後』の諸作の舞台は、パリ、東京、 ローマなど現実の都市にとられている。我々は作品の世界を日常生活の外延として捉えているが、次第に異物が侵入してくる。異国という設定で安普請[やすぶしん]にすませていた作品世界の中に狼田丈太郎の絵、あるいは神話のパターンが入りこんでくる。 するといささか風俗小説的であった筋立てがにわかに活人画的活気をおび、逆に現実世界のほうが虚構化され、ついにはブラフマーの妻が登場して夢幻の方へと傾いてしまう。
 しかし荒巻義雄は最終篇で、ありえたかもしれぬもう一つの選択を示すことによってそれ以前の作品を微妙なかたちで否定するのである。読者は少なからず当惑させられるだろう。いったいこれまで読んできたのは何だったのだろうかと。
 このような浮遊感は荒巻義雄のSF体験を表現したものでもあるようだ。「術の小説論」に次のような記述がある。「僕たちはSFを読みながら、絶対的なるものの牢固とした基礎を失い、また、僕たちの実存の基盤を失い、ただよいはじめるのである」
 そして我々も、荒巻作品に仕掛けられた鏡のトリックによって現実の表層をただよいはじめる......

(文中、敬称は略しました)

親父の日記

親父 服部伸六の日記から 1937年(昭和12年)

Journal de M. Kambé.
1937---
L'expérience et la passion.
L'extraits des autreurs aimés

二月十五日火曜日
★西脇(順三郎)教授は最後の言語学講座を行なった。
《僕は若い頃は古いこと(彼は歴史の好尚とも言った)が余り好きじゃなかった。けれども、やらなきやならない立場になったからやってゐるですが……やっぱかう、ヴィヴィドなものが面白いですね。併し、古いことの好きな人が居るから、古代文字学、古文書学など、やれば面白いでせうね。》西脇教授が自分の地位を、或ひは職業を如何に考へてゐるか、之から察しられると思ふ。それについては色んな細い感想と観察があるが、止しにしておかう。

wikipedia によれば「1926年(大正15年)、慶應義塾大学文学部教授に就任して英文学史などを担当。『三田文学』を中心に「PARADIS PERDU」を仏文で発表するなど批評活動を開始し、講義の後には佐藤朔、上田敏雄、上田保、三浦孝之助などの学生がしばしば自宅に押しかけて深夜まで芸術論を交わすようになる。」
これを見ると佐藤朔や上田保は親父より年上であったと思われる。後年、上田保の葬儀に行って落胆して帰ってきた時のことを思いだした。

コロナ?

木曜の夜から発熱して、すわコロナか! と半隔離生活に突入した。

無聊をまぎらすため、コンピュータで中村融さんの昔のブログを読み、自分のブログも思い出して読んでいた。まったく記憶にないことが書かれていて新鮮だった。

中村さんの架空アンソロジーには、ワインボウムの Parasite Planet が採用されていた。惑星シリーズのこの短篇の拙訳を早く完成させなければならないのだが……

発熱はおそらく自家発電の風邪のようである。一安心だ。

帰国手帳 エメ・セゼール

 平凡社から西インド諸島仏領マルチニックの詩人、エーメ・セゼールの『帰郷ノート』が翻訳出版された。ここに載せるのは英語版に付せられた南アフリカの詩人マジシ・クネーネによる序文である。(翻訳原稿を紛失したので未定稿)


帰国手帳     英語版序文

 

 

  マジシ・クネーネ

 

 二〇世紀は、植民地の住民――つまりは人類の大多数――が独立したいという要求を申したてた時代であると記憶されることだろう。その意味するところを十二分に感得するには、植民の現実を深く――その文化的、政治的、経済的関連までも――理解しなければならない。実際には、そのような区分けを超越して、こう質問しなければならないだろう。自分が何者かという定義すらできないのに、いったい人間がいつ人間でありうるのか、あるいは、人間とはどのようなものなのか? フランツ・ファノンはこのような問題に直面した。彼の著作は、植民世界における人間存在のあらゆる局面を定義しようとしている。ファノンは植民された黒人の心理だけではなく、植民する白人の心理にも関心を注いでいる。ここで肌の色が重要になるのは、支配する者とされる者との判定基準が、常にしっかりと色の区分と結びついているからである。植民する白人は経済的に黒人を搾取するのではなく、黒人の現実を造り変え、彼らを自発的な奴隷、自発的な従僕にさせることをねらった。白人の利益に奉仕することは、たとえば南アフリカのアパルトヘイト・システムが要求するように、黒人にとって現実を造りあげる基盤となるだけではなく、黒人にとっての満足を構成しなければならないわけである。このようにして黒人は、白人の植民地主義哲学によって鋳型にはめられた役割をはたすことになる。もし黒人が道を外れると、共産主義者やアジテーターによって元のところに追いかえされる。ファノンはこう述べている。「ニグロがマルクスについて語るとき、最初の反応は決まって同じだ。『われわれはお前達をわれわれのレヴェルにまで引き上げてやったのに、お前達はその恩人に刃向かうのか。恩知らずめ! 当たりまえだろう、お前達に期待していることなどあるものか』」(『黒い皮膚・白い仮面』邦訳36頁)簡略に言えば、植民地の黒人の臣民は、必然的に白人による類型を肯定しなければならないのである。ただたんに白人が自分たちの主張に疑義をさしはさまないですます(疑義をいだくと、侵すべからざる自らの正統性を問題にしなければならなくなるだろう)だけではなく、黒人一人ひとりもそうした主張を容認するような様式で生きなければならないのだ。それゆえ、白人の目からすると黒人は人間ではなく、一つの類型なのである。類型として黒人になることができるのは、「良い黒んぼ」つまり白人の権威によって割り振られた役割を満足させることか、邪悪の化身となることしかない。後者の場合、白人世界は、法と秩序の名のもとに正当化されたと感じ、実際、道徳的な絶対必要性を感じるのである。そのような黒人はリンチにかけなければならず、★白人世界の処分自由権で公的情報の軍需倉庫を呼び出して、黒人を隔離し虐殺しなければならないのだ。エルドリッジ・クリーヴァーは、著書『氷の上の魂』でこう疑問を投げかけている。「何が暗殺者たちを殺人に駆り立てたのか? マルコムがわれわれの闘争を国際的な闘技場に格上げしたことが、彼らを困らせたのだろうか?」(邦訳89頁) マルコムは白人世界が、白人世界の「殺し屋」にならざるをえない黒人の「英雄」をどうやって生み出すかを例示しつづけている。

 

 アメリカの支配者が何百万のニグロを  に幻惑させてしまう戦術は、意識的なシステム的な ニグロの指導性。搾取報償罰則処刑という手の込んだ体系は、黒人大衆に指導性を求め、白人権力構造の道具になることを拒むどんなニグロも、監獄に入れられ、殺され、国の外に されたり、

クリーヴァ引用

 

 クリーヴァーは南アフリカ、アンゴラ、モザンビークの黒人たちや、実際的に白人世界が権力を行使している植民地の人々すべてのことを語ることができるだろう。

 こうしたことから明らかになるのは、二〇世紀の虐げられた黒人の反乱は人間性なるものを新たに定義しなおすことを要求しているということだ。これは白人の問題というだけでなく、黒人の問題でもある。なぜならシステムを打ち砕き、三百年を越えるあいだ白人の人間性を歪めてきた人種的神話を粉砕しなければならないのは、黒人であるからだ。それを達成するために、黒人は自らの現実を自分自身の言葉で再定義しなければならない。それゆえ、黒人に対する白人の邪悪な行為について抗議するだけでは充分でない。より要点を突いているのは、もっと洗練された人間的なイデオロギーを基礎として人間の役割を定義し、白人が長いあいだ文明の質として定義していたものが、白人のルールを維持するための彼らの主観的な関心以上のものではないということを理解することだろう。そのとき、その新しい人間の定義の要素はどのようなものになるだろう? その要素は、白人の植民者によって助長された古ぼけた欺瞞性に対抗して、世界文明に対する黒人の貢献という現実を主張することにあるだろう。

 

俺たちはこの世の中でなすべきことがない

俺たちはこの世の寄生虫

仕事は世の中と歩調をあわせること

(セゼール)邦訳 頁

 

 しかしこれも人種主義ではないのか? このような黒人の現実の主張に怖れをなして、白人は叫ぶ。セゼールは答えを与える「『世界の中のわれわれの場所』という特異性は……他の誰によっても混乱はさせられない」セゼールがこのように言明するとき、彼は黒人の役割の定義の基礎となっている人種的な背景を正確に言いあてている、黒人はただ単に人間としてではなく、劣等人種として植民化されてきたのだ。人間の征服が記録にないほどの昔から、征服する人々による彼等の現実の歪みを惹き起こしていたと主張する単純な文言は、ここでは部分的にしか適用できない。過去三百年の植民地主義は、特にアフリカの黒人に対し、もっと巧妙な武器を使いこなしてきた――経済的搾取、疑似心理学、疑似人類学、新たに白人が入植した土地の人間の徹底的な根絶、文化的教化などなどだ。

 黒人の植民地化は、それゆえ、弱い人間の領土を肉体的物理的に強いものが一時的に占領したというような単純なものとしては分類できない。ジャングルの掟はさらに深まり――こう表明されている。私が自らの意思で保持しているものは、私の意思を表現しなければならない。そして、私の欲望と意思を満足させる物体とならなければならない。それゆえ、★抑圧された者の人間性の本能的な能力がこう叫んだとて、驚くにはあたるまい。

 

 その日  無慈悲にもわたしを投獄した白人が、私は自分の存在から遠く離れて……

 

 その日、情容赦なく私を私のうちに閉じこめる他者、すなわち白人と共に外にあることができず、方向を失った私は、私の現存在から遠くに、きわめて遠くに飛び出し、自己を一個の物体となした。それは私にとって、何であったというのか、肉体切断でなくして……(フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』邦訳79頁)邦訳 頁

 

 あるいはまた、

 

 私の身体は引き延ばされ、分断され、再びめっきされて、喪色にうち沈んで戻ってきた……ニグロはけもの、ニグロは醜い。おや黒んぼだ、寒いな、黒んぼは……寒い、子供は黒んぼが恐いので震える……[同前邦訳79頁]邦訳 頁

 

 確かに、黒人が以前の主人、拷問者にして非人間者のことを嫌悪しなかったとすれば、それは人間の行動態度のすべての法則を踏みにじることになるだろうし、黒人は人間以下の存在であるという白人の主張を証明することにもなるだろう。ユダヤ人がゲッベルズやヒットラーのような者を愛すると期待されているだろうか? エーメ・セゼールはこう言っている。「ラジオのスイッチをひねって、アメリカでニグロがリンチを受けたというのを耳にする時、私は言おう、私たちはみんな嘘に言いくるめられてきたのだと。ヒットラーは死んではいないのだと」(引用『黒い皮膚・白い仮面』邦訳67頁)

 解決はできないまでも、セゼールや、ファノンや、クリーヴァは植民の歴史と、黒人と白人の関係にルーツをもつ黒人の現実を表現している。セゼールとフランツ・ファノンは共にマルチニク出身で、第三世界の偉大なイデオロギストとして頭角をあらわした。両人とも、蒙をひらいたすベての人間の第一の仕事として、人種主義とその構成要素のすべてを打ち砕く必要性を見てとった。人種主義は、その対象となる相手がアメリカの黒人であろうと、ヒットラーのドイツのユダヤ人であろうと、南アメリカの黒人であろうと、同じである。植民地の構造の輝かしい分析――『地に呪われたる者』――の中で、ファノンはエーメ・セゼールと同じ結論に達している。「一度たりとも人類のことを語ったことがなく、それでいて、ヨーロッパのあらゆる街角で、世界のいたるところで、出会うたびごとに人間を殺戮してきた、そんなヨーロッパとは訣別しよう」(邦訳181頁)彼ら両人が関心を持っているヨーロッパとは、傲慢にも、肌の色で人間を咎めてきたヨーロッパである。かくして、その本質においてエーメ・セゼールとフランツ・ファノンが達成するのは同じ仕事、植民地における精神構造の切開、白人の超越コンプレックスの剥奪であり、それらの居座っていた所に、人間的で文明化した存在としての完全性における人間のイデオロギーの創造物を置くことだった。

 この文脈において、われわれはセゼールの詩、特に彼の主要な詩作品である『手帳』を研究しなければならない。

 

 

 セゼールは一九一三年に、大ウインドワード諸島の一つであるマルチニク島の北部で生まれ育った。この島はいまでもフランスの植民地であり、フランスの海外領である。故郷の町を描いて、セゼールはこう語る。

 

 私の遠く離れた幸せが、現在の悲惨を自覚させる。でこぼこの道が窪地の中に跳びこんでいく、そこに散らばっているのはいくばくかの小屋。疲れることなき道が全速力で丘に向かう、その頂には悪臭紛々たる水たまりに荒々しく溺れている矮少な家々、道は狂ったように登り、無鉄砲に下り、木の枠組みが小さなセメントの足の上にコミカルに持ちあげられており、それを私は「われらの家」と呼ぶ、亜鉛鍍金の鉄の頭蓋は太陽のもとで乾いていく革のように歪む、台所、ぴかぴか光る釘の頭の荒い床、松の垂木、天井に走る影、幽霊のような藁の椅子、ランプの灰色の光、ニスを塗ったようなゴキブリが這いまわる、ランプは傷つくまでぶつぶつ音をたてる……(原著三二頁 英訳四二頁 邦訳 頁)

 

 この島は興味深い歴史を持つ。フランスに支配されていたが、一七九二年、フランス下院が討議もなく奴隷制を廃止したとき、短期間の自由を経験したことがある。マルチニクは他のカリブ海のフランスの領地とともに、フランス革命の昂揚に反応した。その同じ時期に、ヴイクトル・ユーグスはマルチニクやグアデループから元奴隷を雇って軍隊をつくり、奴隷を解放することをもくろんで近隣のイギリス諸島を攻撃した。このことはアメリカの領域全体に、無数の叛乱を計画してきた奴隷達がまたしても主人に反抗しはしないかという警戒心を呼び起こした。ナポレオンは権力をとると、ハイチの抵抗組織(率いるはトゥッサン[註])に対し、再度奴隷制を押しつけようとする実り少ない試みを開始した。しかし、マルチニクとグアデループにはふたたび奴隷制が押しつけられてしまい、最終的に廃止されたのは一八四八年のことだった。マルチニクや他のフランスの領地は、ヴィシー政権が一九四〇年、知事として代表を指名し、西半球の防衛に深刻な問題をひきおこすまで、ふたたび世間の注目をあびることはなかった。確かに近隣のセント・ルチアのイギリス諸島の波止場で船が魚雷攻撃されることはあった。ようやく最終的にヴィシーの残党が排除されたのは、ド・ゴールがフランスの首相になったときだった。エーメ・セゼールの詩と生活に対してこうした事実が関連を持っているかどうかは、作品の中でそうした事実が言及され、その意味が比喩的に用いられている頻度によって判断されるだろう。

 マルチニクの地勢は、セゼールのイメージの重要な源泉の一つだ。セゼールはシュールレアリストから大きな影響を受けており、彼の詩を分析し理解するための中心的要素は、イメージである。マルチニクの地理を特徴づけるのは、その対称性であろう。風上側は、激しい貿易風が海をむちうち、出入りの多い海岸線に打ちつける。風下の海岸は穏やかで保護されており、波のない長い砂浜がある。ハリケーンに襲われたときだけは、怒りまくったように波だつことになる。

 一九〇六年、この島の北部にあることが起こった。セゼールが生まれる七年前のことだが、そのことがセゼールの詩のあちこちに生き生きとした表現を見出している。ぺレ山が不意に、激情ほとばしる噴火をおこしたのである。セント・ピエールの六千の住民がことごとく死亡し、ただ一人生き残った者も、悶え苦しんで息をひきとったのである。省察するところ、選挙の時期でなかったら、この災害は回避できただろう。政治家は警告をだすことによって選挙民がおびえ、住民がその地域を捨て去る結果にいたることを恐れたのである。その山はセゼールの生まれたところにとても近く、現在でも危険がせまっているように見え、荒涼としている。セント・ピエールはいまだに復興されていない。代わりに、首都は南のフォール・ド・フランスに移された。セゼールのしめす強烈な火山のイメージが、部分的にはこの事件に起源をもつことは疑いない。さらに明らかなことは、破壊的な力が新しい物体や新しい植物の隆興をもたらすというセゼールの概念は、大地を再創造する火山の溶岩の効果とパラレルであることだろう。『アフリカへ』という詩の中で彼は述べる。「Paysan frappe le sol ta daba(農民は鍬で土を叩く)」彼にとって農民が大地を切り開くことは、新しい生命形態がそこから発生する全プロセスを象徴する(ta daba は西アフリカの言語ウォロフ語で鍬を意味し、マルチニクの方言の一部として残っている)。こうした考え方は彼の作品の中に繰り返し繰り返し現れる。

 

 

 セゼールは貧しい百姓の一家の生まれだ、と述べる。

 

小さな時間の終わるころ(夜明け前)、わが父、わが母、そして両親の頭の上の家は、葉枯れ病で痛めつけられた桃の木のように痘痕が口を開けている小屋で、屋根は古びて薄くなり、石油罐の切れ端で修理してある、この屋根からの滴りは、灰色のきたならしい鼻をつく臭いの散乱する藁の上に錆の沼地をつくり、風が吹くと、この酷い取りあわせの財産は奇妙な音を立てる、まるでフライ鍋のはねるような音、それから燃える木切れが水中に突っこまれ、ちぎれ落ちる小枝から煙が立ち昇るような音……そして灯油罐を足とする板のベッド、象皮病をわずらったベッド、山羊の革と乾いたバナナの葉とぼろ布が載っている祖母のベッド、マットレスとしてノスタルジアが載っているベッド、その上には油がいっぱいの皿、燈心の先には炎が踊り、皿の上には金文字で「MERCI」という言葉。

恥辱、パイユ通り……

(英訳四六頁~四七頁 邦訳 頁)

夜の明け方、父の、母の、向う側、やぶれた肉刺の小屋、火ぶくれに苦しむ罪人のように、そして、ブリキの石油罐で継ぎはぎされた、擦り切れた屋根、それは、腐った藁の臭気を放つ灰色の汚いねばねばとしたものの中に銹の沼地を作り出す、そして風が鳴ると、この継ぎ接ぎ物はその音を奇妙に変える、初めは、揚げ物の油のはねる音、次に、水の中に漬けられ、紫煙をたなびかせる燃えさしの薪の音……その寝台の、象皮病に病んだような、燈油の槽の足、子山羊の皮、乾いたバナナの葉、祖母の寝台であったマットレスの名残のぼろきれ(寝台の頭部、油のいっぱいに注がれている壺の中に一本の蝋燭の燃え残り、その炎が金文字でMERCIとほられた壺の上で……大蕪のように踊る(『黒い皮膚・白い仮面』邦訳70頁)

 

 貧困だけが若き日のエーメ・セゼールの苦悩の源ではなかった。祖国では砂糖黍の労働者や農民のほとんどが黒人であり、フォール・ド・フランスのプロレタリアートも黒人であり、混血の人々はより高い地位を与えられているが、フランス人の支配者のすぐ下の地位であり、肌の色という癩病を感じさせられている。

 

(黒んぼはみんな同じ、教えてやろう

黒んぼはあらゆる悪徳考えられる限りすべての悪徳をもっている、このことを教えてやるんだよ

黒んぼの臭いで砂糖黍は伸びる

まるで昔からの言い伝えだ

黒んぼを鞭打てば黒んぼが飼える)(註 英訳64頁 邦訳 頁)

 

 フランスの植民政策は、植民地のエリートを同化することにあった。エリートたちは文化的に懐柔され、他には目もくれず、フランスに忠誠を捧げることになるのである。それを達成するために、フランスは、肌の色が何であれ、フランスを政治的文化的に故郷として受け入れるものには、名目上は完全なフランスの地位を認容することにした。この政策についてフランツ・ファノンはこう述べている。「植民地の原住民は、本国の文化的諸価値を自分の価値とすればするだけジャングルの奥から脱け出したことになる」(『黒い皮膚・白い仮面』邦訳二六頁)。このような政策は、明らかに、フランスの政治的文化的伝統がどの植民地の人間たちのもつものよりも優っているという傲慢な仮定に基づいていた。その伝統は人間の最高の達成とみなされ、植民地の人々はすべからくそれを憧れなければならず、少なくともフランスの支配下に入ることが幸運であると思わなければならなかった。それゆえ、フランスの支配というのは、優越するフランスのアイデンティティを尊重してその他のアイデンティティを捨て去ることを、植民地の人々に要求した。フランスで学業をおさめて個人的に学歴をつむことは、社会的な地位に直結した。しかし後にセゼールがフランス共産党を離党する際の書簡で述べているように、フランスでの学業は受け入れがたいものだった。

 

 「世界の中でのわれわれの場所」という特異性、これは他の誰のものとも取りちがえられはしない。われわれの問題の特異性、これは他のどんな問題の下位の形態へも減じられることはない。われわれの歴史の特異性、恐ろしい不運とないまぜになって、これは他のどんな歴史にも属しはしない。われわれの文化の特異性、これをわれわれは今まで以上にリアルなやり方で生きようとし、生かされようとする。

 

 同化政策に対して闘いをいどんだマルチニク人たちは、特に先鋭な矛盾に直面した。彼らが成長してきた環境には、アフリカの文化的表現が残留していた。親密な家族構造、アフリカ的な調理法、アフリカ的な事象の解釈方法、そして話すのはフランス語と西アフリカの言語の混った訛りのある言葉。受け入れられるために、彼らはこうした文化的経験を脱ぎ捨てなければならなかった。ファノンはこうした現象によって発生する問題に言及している。「アンティーユの中流階級は、召使を相手にする場合をのぞいて、決してクレオル語を使わない。学校では子供たちは方言を軽蔑するように教えられる。ひとはクレオリズムを拒否する。家によってはクレオルを使うことを完璧に禁じている……」(『黒い皮膚・白い仮面』邦訳26頁)フランス式の教育は、普通の黒人のマルチニク人を幼いころの文化的経験から遠ざけるので、不可避的に彼は自分の家族を、その後には自分自身をも嫌悪するようになっていく。学生はフランスで資格をとり、完璧なフランス語をあやつり、半ば神の如きものとなる。彼が獲得した地位を失わずに生きるためには、訛りに落ちることを避けねばならず、そうした努力をすることはフランスの植民地政策の成功を確認することになってしまう。彼はフランスの植民政策の走狗とならざるをえず、フランスの法典の究極の用語においてしか、自分の現実を見ることはないのである。

 このような雰囲気の中で、若者セゼールは教育を積むためにフォール・ド・フランスにやってくる。同化族であるフランスの文官と、大多数の同化されていない貧しい黒人プロレタリアートとの間の厳密な階級区分という因子が、セゼールに多大な影響を与えた。さほど産業が発達しておらず、それゆえに国内でもさほどフランス化されていない地方の出身であるために、彼は都会の黒人学生よりも植民のイデオロギーの正当性を問う資格をそなえている。彼は一九三一年、フランスへ行く奨学金を取得した。そしてもう一人のマルチニク人、後年に卓越する詩人にして批評家となる、エチエンヌ・レロとともに出発する。セゼールも「母なる国」への道を掴みとったごく少人数の植民地の学生と同じ期待に胸をふくらませたと見ることもできよう。この植民プログラムの一環として、高等教育のためにフランスへ行かなければならないマルチニクの知識人を完全に同化しおおせることをもくろんで、フランスはマルチニクには大学を設立しなかった。しかしフランスの役人の期待にそむいて、フランスにやってきた学生たちはしだいに幻滅を覚え、別のアイデンティティへの欲求を表明する団体を組織しはじめたのである。そのためにセゼールは到着して三年後には、レオポルド・サンゴールなど他の少数の黒人の学生たちと共同で、 『L'Etudiant noir(黒人学生)』という名の雑誌を発刊した。この雑誌自体は長続きせず、実際には一号しか刊行されなかった。しかし重要なのは、ネグリチュードというイデオロギーを確立しようとしたところにある。ネグリチュードは奴隷制や植民地征服に対して反抗してきたすべての運動にルーツを持っている。二〇年代前半には、西インド諸島に生まれ、アメリカに移って自由アフリカの偉大な唱導者の一人となったマーカス・ガーヴィが隆盛をみた。彼が設立したのは、「アフリカ回帰運動」として知られているもので、アメリカの黒人はアフリカに戻り、アフリカの他の人々とともに、大陸に自由国家を造ろうと主張した。このことと、一九一九年にパリで第一回「汎アフリカ会議」が開催された事実が★助けとなって、アフリカの文化的慣習に基づいたもう一つのイデオロギーの基礎が作られたのである。

 ★それゆえフランスの同化政策が、長いあいだ彼らを否定していたアイデンティティへの、黒人知識人の最も強力な拍手喝采を誘発したことは驚くにはあたらない。「ネグリチュード」という言葉はセゼールのつくった造語だが、そのイデオロギーの系統化展開は高等師範(エコール・ノルマル・スペリウール)の黒人の学生たちの共同の仕事である。この教条は、そのグループから頭角をあらわした卓越せる二人の詩人、セゼールとレオポルド・サンゴールの作品の多くを支配している。

 本質的に、ネグリチュードは、黒人を自分の文化、自分の文明、自分の独自の貢献を持つ人間として主張する理論である。さまざまな時にアフリカ人やアフリカ起源の黒人は、彼らの文化的知性的達成を否定されるシステムに従属させられてきた。ネグリチュードはその次元の中で、それぞれの部分が感じる欲求に従って変貌し、理論の現実性を主張する必要がある。同化というフランスの植民地政策のもとに集うものは、明らかに、自身の文化的独自性の現実をより強烈に主張する必要性を感じるだろう。この主張が人種的ラヴェルの形態をとらなければならないことは、植民政策が確立された非常に人種的な範疇から論理的に導かれる。フランス人は自分達のシステムは人種という判断基準を用いていないと主張するが、真実は「フランスは人種主義者の国」(ファノン)で、根気強く自身の文化的判断基準に従って黒人を定義する。ネグリチュードはそうした神話を粉砕する――「極めて単純に……教育を受けたニグロは、それにもかかわらず、突然、同化されていた文明から自分が排斥されていることを発見する。」この真実を発見すると、次の段階ではヨーロッパ的価値の全システムに疑問を提示し、同化されたものの無念さを、システムは不完全なだけでなく無慈悲でもあるものとして認識される。それは人種主義にもとづいて全構造物を築きあげており、★更に遠くに進んで、人間の成しとげたものではなく、搾取のための手段として神格化されている。人間は実際にはものの数には入らない、人間は搾取され、拷問され、差別扱いされ、虐待され、極少数の利己的な人間のために利潤を産みつづけている。論理的に、エーメ・セゼールやフランツ・ファノンやその他の人々は、本質的に人間的な価値の新しいシステムを創造することに救済を見いだしている。あたりを見渡すと、彼らはニグロの文化の中で奇矯にされてきたものは、マルクス主義者の理論と結びつけられている要素であることを見いだし、新しい人間の合成を達成するだろう。このことからサンゴールもセゼールも(彼はそれ以来、政治において顕著に分岐する)黒人性は受け入れられるというだけではなく、美しいのだと宣言する。この昂揚の基本的な理由は、『手帳』の中で情熱的に表現されている。★

 

ヘイア、高貴なるカイルセルデートの樹よ

ヘイア、何一つ発明しなかったものたちよ

何一つ探検しなかったものたちよ

何一つ飼いならさなかったものたちよ

すべてのものの本質に酔いしれるものたちよ

表面(うわべ)のことには煩わされずにすべてのものの動きに心打たれ

飼いならす欲望から自由だが世界の遊戯に親しんでいるものたちよ

 

あらゆる事物の本質に、心を奪われ、身を委ねている

表面(うわべ)のことは何も知らぬが、ただあらゆる事物の動きに捕われている

征服しようとは思いもしない、だが世界と運命を共にしている

邦訳 頁     サルトル『黒いオルフェ』P185

 

 誤解している人もいるようだが、発明しなかったのは良いことだとセゼールが主張しているのではないことは明らかだ。彼はヨーロッパ人のテクノロジーの讃美に対し、植民地化による人間の血腥い征服と破壊に対し、皮肉たっぷり含みのある話をする。そうして彼はこう語りつづける。この人々は、

 

まことに世界の年長の息子たちであり

諸手を広げている 世界のすべての息吹に

すべての息吹の兄弟の領地に

世界の海水の排水されきっていない海底に

世界の動きそのままに水を汲みだす世界の肉の肉に(訳註)

 

まことに彼らは世界の嫡子

世界のいっさいの息吹に毛穴は開かれている……

世界の動きそのままに鼓動する世界の肉の肉!

邦訳 頁  サルトル『黒いオルフェ』P185

 

 ヒューマニズムの教義としてのネグリチュードはセゼールによってこう総括される。

 

ヘイア 喜びのために

ヘイア 愛のために

ヘイア 涙の化身とぶりかえした最悪の苦痛のために     邦訳 頁

 

 こうした表明は、セゼールがヨーロッパで体験し、もう一つのイデオロギーを持たねばならないと思い至った渇望の文脈で理解しなければならない。セゼールの見るネグリチュードの教義は、人種にはかかわりなく、彼と同じように人間を信頼するすべての人々のためのイデオロギーである。セゼールは、自身の言葉では、征服され服従させられたけれども、すべての人々にとって、もっと深い社会的倫理をもつ人々のためにある。

 

見捨てること。

そこにはハイエナ男や豹男がいるのだから、

おれはユダヤ男になろう

カフィール男に

カルカッタ出身のヒンドゥ男に

ハーレム出身の選挙権の無い男になろう。(P48)邦訳 頁

 

「すべてのものの本質に酔いしれることのない」能力のゆえに、「北の」白人に対して、愛する仕方、本質的人間を再発見する仕方、テクノロジーの道具を人間の欲求にならす仕方を教えることのできる人々がいる。その時、ネグリチュードはすべての人類に必要と考えられる価値体系となるだろう。セゼールはネグリチュードや、フランス語や、シュールレアリスムや、共産主義などを、「奇蹟の武器」、仮借なき敏腕の奴隷にするもの★に対抗して血気にはやる人間を武装する道具だと見ている。

 セゼールのシュールレアリスムの影響が明らかになったのは、彼のパリでの滞在期間中のことである。シュールレアリスムは彼にとって、神聖視され合理化されたブルジョワの価値そのものである言語の、制限された形態を打ち砕く論理的な道具だった。言語のパターンを打ち破ることは、植民地主義やすべての抑圧的形態を打ち砕きたいという自らの欲望と軌を一にしていた。それゆえにセゼールは、シュールレアリスムはそれ自体の中に目的があるのではなく、目的のための手段だと見ていた。かくして、「正常」なパターンを粉砕することは、言語の論理的進展であり、人々にショックを与えて、新しい認識に至らせることを目指していた。セゼールの書いた詩にあっては、言葉は正常な論理的秩序を持っておらず、句読点がなく、イメージの連なりは互いに連関を持っておらず、様々に反射する意味を主題に投げかけている。セゼールはパターンを破り、その論理的秩序が支えている人種主義を破ることによって、シュールレアリズムに目的を与えたと感じたのだ。

 

 

 一九三九年にセゼールは故郷に帰らなければならないという見通しに直面した。その判断自体が危険をはらんでいた。植民地から来た他の学生たちは、ヨーロッパにしがみついて肘掛椅子の理論家になるか、あるいは帰国して、それまでの教育のすべてが彼らのために用意していた文官任務に吸収★されてしまうかだった。帰国したものたちは、エレガントでない方言を話す文盲か半文盲の両親を軽蔑し、恥じることになった。そのような理由から、一九三九年の始めにセゼールは友人 のペーター・ゲベリナ(1969年現在ユーゴスラビアの大学教授)ともども、アドリア海の海岸に★滞在した。目的は『帰国手帳』を書くことにあり、二~三週間で彼はそれを書き上げた。この詩の中で彼は、帰国が自分に及ぼす影響を想像し、想像した経験に基づいて付随する価値体系を展開させた。雑誌「レスプリ」は全誌面を『手帳』に提供したけれども、詩自体はほとんど批評家の関心を呼ばなかった。

 帰国に際し、セゼールはフォール・ド・フランスのショールシェ高校の教師となった。このころまでにセゼールがフランス共産党の党員になっていたことと、この国がヴィシーの残党の手中にあったことを考慮にいれれば、彼にとっては危険な時代だった。信念を貫きとおしたその勇気は、彼がいかに真剣に行動の人となることを決断したかを物語っている。

 一九四二年、フランスのシュールレアリスム運動の指導者アンドレ・ブルトンは、ナチをのがれての飛行の途中、マルチニクに立ち寄り、そこでエーメ・セゼールに会った。この二人の詩人は強い友情を築きあげた。それはセゼールの人生における重大な出来事であった。アンドレ・ブルトンはフランスの主要な文学サークルにセゼールのことを認識させた。一九四四年になると、エーメ・セゼールはパリに戻り、大いなるファンファーレとともに受け入れられた。一九五六年には、アリオーヌ・ディオプが一九四七年に発刊した文芸雑誌、「プレザンス・アフリケーヌ」が『手帳』を再刊した。「プレザンス・アフリケーヌ」はアフリカや西インド諸島の最も傑出した作家や知識人の幾人かにとって、フォーラムとして機能している。それらの人々とはアリオーヌ・ディオプ、レオポルド・サンゴール、セゼール、レオン・ダマスなど大勢で、彼らは後にアフリカの独立運動で重要な役割を演じることになった。

 一九四六年、セゼールはフランス下院のマルチニク代表を決める選挙にでて、当選した。彼はまたフォール・ド・フランスの市長になり、その地位を今日まで保っている。マルチニクはフランス下院の選挙区で、代議士は三人である。代議士の多くは、基本的な政治信条として、常にフランスとの連携を唱導していた。セゼールが選ばれたことは、初めて、政治的経済的にマルチニクの現実と同定される男が、フランス下院で発言権を得たことを意味していた。セゼールにとっては、フランスの支配と同化に対する激しい敵意を表現できる範囲が広がったことになる。彼は抑圧されたもののイデオロギストというだけでなく、その代表でもあった。実際、自分自身その一員なのだから、まさに抑圧されたものの欲求と要求を理解していると主張できた。★教育的な達成にもかかわらず、彼は同化されることを拒否していた。代議士としての彼の位置は、セゼールが活動参加の中で抱いてきた信念に対して、そのありったけを表明した。彼は権力の施行によってのみ、彼がより良い政治的文化的価値と考えるものが成し遂げられるのだということを理解した。自分が★占める代議士という立場は、望ましい変化への影響を及ぼせる権力基盤だと彼は見ていた。行動の人というのはセゼールにとって、パリやヨーロッパを離れて海外へ冒険を求めたランボーによって象徴される。さらにランボーがアフリカに魅せられたという事実が、セゼールにとっては親しいものに思われるのではないだろうか? というのも彼はランボーのように、アフリカの体験によって感覚を鋭敏に深めてはいないのだから。★この点はあまり深くは極められないだろう。セゼールは自分の発議権イニシアティヴをシステムや英雄に服従させるような男ではなかったし、今もそうである。そういう理由から、彼は一九五六年、このような文章を残して、フランス共産党を離党した。

 

……われわれはわれわれのことを考える者を、われわれの調査を行い、われわれの発見をなす者を代表として派遣できない。それゆえわれわれは、われわれの最良の友となりわれわれに答えてくれようとも、誰をも受け入れるわけにはいかない。すべての進歩的政治学の目的が、いつの日か、植民地の人々に自由を回復させることにあるとするならば、進歩的政党の一日一日の活動は、少なくとも想定される目標と矛盾してはならず、基本中の基本、心理的であると同程度に組織的な基本、この未来の自由を日ごと覆してはならないだろう。そうした基本は煮詰まって一つの条件となる。主導権イニシアティヴをとる権利である。

 

 これと同じ理由で、セゼールはシュールレアリストに対する恩義は保ちながらも、彼らと決別する。セゼールにとって、すべては変化の欲求に膝を屈しなければならないのだ。

 

俺は嵐と言いたい。俺は河と言いたい。俺は竜巻と言いたい。俺は樹の葉と、俺は樹と言いたい。俺はすべての雨粒に吸いこまれ、すべての露に湿らせられたい。狂熱の血潮が眼球のゆるやかな流れにうねるように、俺は言葉を泥にはまった馬のようにうねらせたい……邦訳 頁

 

 セゼールは言葉だけでなく、文学の他の形式でも実験を続けた。彼は理論的エッセー、散文作品『植民地主義について』(1950)、戯曲『そして犬どもはは黙っている』、『クリストフ王』、『コンゴの一季節』(ルムンバを素材にした戯曲、1969)、その他の作品『奇蹟の武器』、『首を切られた太陽★』Soleil cou-coup氏iどちらも一九四〇年)、『地籍図』Cadastre, 『鉄具★』Ferrements(一九五九年)などを著している。最後の二作はシュールレアリスムの昂揚の時期を代表するものである。

 

 

 『帰国手帳』は大雑把に三つの部分に分けられる。冒頭の一行は、大いなるドラマのシーンの幕を上げる。

 

小さな時間の終わるころ――あかしがた

 

 これは夜明けの直前、空に灰色の光が拡がる頃・時分である。詩は荒涼としたシーンから幕をあける。そこに人間は居らず、受難の傷が口を開いている。彼らは個人としてではなく、じゅっぱひとからげに放蕩のかぎりをつくす存在として受難したのである。町、群衆、「高地のマラリアの血」には、「怒りの噴火口」がはびこっている。島全体は地上の巨大な地獄のように見え、考えられる限りの悪徳と腐敗が蔓延している。植民地主義とそれが人間の生活に及ぼす影響について、これほど激しく、これほど劇的に描かれたことはなかった。セゼールは犠牲者の受難にはほとんど関心を持つことなく、貪欲と物質的エゴイズムで堕落した人間の生活を送る者に作用する腐敗を生き生きと語る。この状況には安易な解決はありえないだろうし、受難をやわらげるに充分な「そこはかとない優しさ」もない。受難したものたちは殺されてしまい、今や、火山の爆発によって古い秩序を破壊することだけが、ただ一つの治療法である。時はすばやく過ぎ去り、一年は受難の一サイクルであるが、その中には生命の種子もはいっている。対抗勢力は、クリスマスを祝おうとする争いの中に明らかに描かれている。

 この詩の第一部には、重く深く暴力が充満している。この暴力は植民地の歴史の暴力であり、詩人の怒りのすべての部分を緊張させているのと同じ暴力である。この怒りが具体的であるのは、遠く離れたところからの共感ではなく、セゼールが受けた現実的で不名誉な貧困と屈辱の経験から引き出されたものだからだ。そうしたものとして、彼は自分が描く状況の不可欠な一部なのである。セゼールは自分の若い日々の体験に対してではなく、自分自身と他の者の破滅・荒廃)に責任があるとみなしている西欧的価値に対しての、反乱と激情の声となっているのである。

 こうした植民地システムの暴力と残虐の背景を描きおえると、セゼールは革命の心理学の現実へと筆を移す。

 

俺は受け入れる、俺はすべてを受け入れる……

 

そしていま突然、力と生命力が、まるで雄牛のように俺を襲い、生命の波がモーヌ山の乳首の上を流れ、静脈や小静脈は新たな血とともに鼓動し、サイクロンの巨大な肺は呼吸し、火は火山の中に蓄えられ、巨大な地震の振動は我が灼熱の中にある生きた肉体の調子でビートを打つのだ。

 

いま立ち上がれ、我が国よ、俺は風の中の一本の髪の毛、風の限りなく大きな拳の中で、俺の手は小さく、俺たちの力は俺たちの中ではなく上方の、黙示録の雀蜂の毒針のように、夜と聞き手に穴をうがつ声の中にある。そしてその声は宣言する、何世紀ものあいだヨーロッパは俺たちを嘘でやりこめてきたと……邦訳 頁

 

 その嘘とは「完璧におぞましいニグロ……古びて擦り切れた上着で身を隠しているニグロ」を見て彼に笑いをひきおこさせるような嘘だ。女たちは彼を見て笑い、彼も笑いかえす。しかし彼は自分自身を笑ったことを知っている。ニグロは貧困の切断術のゆえに醜いのか、肉体の外見で人間を責めたててきた偏見や愚劣さが堆積しているゆえに醜いのか? 「彼の鼻は半島のように係留地を離れている」ニグロの醜さとは、セゼールの観察するところ、ニグロを獣の位置に格下げしようとするすべての態度によって押しつけられてきた醜さである。実際セゼールは獣になったことがあり、それは他人から獣にさせられたのではなく、自分自身、獣であることを受け入れたからであった。その仕種も動作も、獣のものであった。セゼールがかくして自分から自己を切り離して笑うとき、彼は自分を破壊したその力と同盟を結ぶことになる。この認識はショックを伴ってやってくる。彼がアイデンティティを再発見するとき、彼はもはや打ちのめされた男ではない。実際には、自分の敵、人類の敵を凝視し、面とむかってこう言うのだ。「悪魔の似姿に造られて、それに打ち勝てなかったものもいるのだ」と。「良き黒んぼ」だった祖父について言えば、彼は死に、そのことに対しセゼールは「万歳」と言う。なぜなら彼は卑屈でへつらう「良い黒んぼ」で、「不幸に前と後ろを叩かれ、貧弱な頭脳に、抑圧されるという宿命を欺くことはできず、自分の運命を左右する力などないのだという観念を押しこめられている……」「また彼は、気の抜けた砂糖黍以外のものを、鍬をいれて掘り切るかもしれないなどとは彼には思いもよらなかった」「そして彼らは彼に石を、スクラップの鉄のかけらを、割れた瓶の端を投げつけたが、その石も、その鉄も、その瓶も……」「良い黒んぼ」は殴りかえさず、失敗する中で人類の最高の大望を裏切った。セゼールはそうしたふうになろうとはしなかったが、闘うものたち、「自分の足で立って」打ちのめされずに留まっているものたちと自分を同一視している。彼らはどこにでもいる、なぜなら彼らはみな大地の男であり、彼らの「船は切りひらかれた海面を恐れることなく前進する」からだ。彼らは新しい激情と革命の感覚に火をつけられた狂人だ。彼らは新たな発生物、「三角貿易のインツーリスト」を破壊し尽くすハリケーンだ。

 この詩の第二部はおのづから、人類に対する非利己的な愛を大きく堂々と(ぬけぬけと)描く最後の哲学的言明へとつながっていく。今や斉唱となって、つまらぬものとして嘲られてきた資質――愛、笑い、怠惰、踊りなどをセゼールは賛美する。鎖に繋がれた囚人へのキス、その受難が「激怒した我ら」に基づく新しい倫理を作りだすであろうすべての人々への、噛みつくことのできるものへの、人間の兄弟の契りで結びつけられたものたちへのキス。

 

俺を縛れ、無慈悲に俺を縛れ

お前の大きな手で輝かしい日に俺を縛れ

俺の黒い共鳴を世界の臍に縛れ

俺を縛れ、俺を縛れ、苦い友愛を

お前の星々の輪縄で俺を絞め殺せ     邦訳 頁

 

 沸き立つイメージや劇的な言語は、人間性と変革に向けたセゼールの呼び掛けを、センチメンタルな幻想以上のものにしている。彼の語調は預言者的である、とナイジェリアの学者、アビオラ・イレレは『アフリカ文学への招待』(ウリ・ベイエ編集)で述べている。

 

 セゼールの詩の中で、破壊の光景をさらに強調するのは、さまざまに変化する火、蛇、毒草、危険な動物など自然界から抜き取られたイメージ、そしてまた弾丸、毒、ナイフなどの人間界から抜き取られたイメージである。詩人は革命を行う中で、あらゆる破壊の動因で自ら武装し、自然界のすべての暴力的な示威と同盟を結び、それによって四元素の自然力の根本的な力を獲得する。

 

 セゼールは故郷の島の光景と同じように激しい対照を用いる――ハリケーン、火山、風、それとはりあうような、破壊の後に来る静寂と繁茂。

 愛と喜びと寛大さの表明は、非常に現実的で、塗炭の苦しみの体験の具体的な結果ではなく、ナイーヴなものだと見られるだろう。そのような徳目は、それに影響を与える力がなければ、まがいものでしかない。言われているように、抑圧されたものの道徳は、彼らの恐怖と忍従から発生している。抑圧されたものは、彼らを踏みにじるものたちよりも道徳的に優れていると夢想する。セゼールの詩のつたえる意味を、ある人が行ったように、「名誉ある忍従」であると理解することは、彼の作品の基本的な含蓄を見落とすことになるだろう。セゼールは詩人、哲学者、預言者であり、革命的なメッセージこそ彼の主要な力なのである。■

 


 

 

訳註 トゥッサン・ルヴェルチュール

 フランス革命期のハイチの国民開放運動の黒人のリーダー。彼は一七九八年英国の駐留軍を追いだし、自分が生涯ハイチの支配者になるという憲法を導入した。ナポレオンは次第にトゥッサンの独立的行動にいらつきはじめ、一八〇一年にはフランスの権限をもって彼を捕らえ、ジュラ山脈の監獄に押しこめ、彼はそこで一八〇三年に死亡した。

 

肉の肉……サルトル全集の註によれば「最愛の者」の意。

 

 

 


 

帰国手帳の英語版はペンギン・ブックスに収録されている。

ペンギン・ポエト

 

 エーメ・セゼールは一九一三年マルチニクに生まれ、パリの師範学校に行った。処女作『帰国手帳』の抜粋が発表されたのは、一九三八年である。一九四〇年、アメリカへ逃れたアンドレ・ブルトンは、小間物屋のカウンターに置かれた謄写版の詩に出会った。ブルトンは直ちに「現代の最も偉大でリリカルな記念碑に他ならない」と喝破した。エーメ・セゼールは他にも多くの詩集を出版し、戯曲を二作書いていて、その最近作はパトリス・ルムンバの死を扱っている。彼はフォール・ド・フランスの市長であり、フランス下院の代議士であり、マルチニクの独立革命党の代表である(フランス共産党は一九五〇年代に離党した)。彼はカリブとアフリカの解放の大義のために活動的である。

 

裏表紙の解説

 

 『手帳』は三〇年前(訳註一九六九年現在)に書かれたものだが、今現在でもほとんど古びていないように思われる。テーマは、フランツ・ファノンやマルコムXやメキシコ大会で黒い手袋の手を突き出したオリンピックの競技者の精神をもって表現された、黒人種の未来である。にもかかわらず、本書は政治的な小冊子ではなく、リリシズムの顕著な詩作品であり、おそらくはフランスのシュールレアリスム運動に啓発された作品の中で最も支持されたものだろう。セゼールの人生と作品は、この版のために書き下ろされた南アフリカの詩人マジシ・クネーネの序文の中で、充分に論じられている。

 


 

ブルトン全集

帰国手帳の序文

 


 

サルトル全集 第10巻 人文書院

「黒いオルフェ」(海老坂・)

 


 

白石かずこ「アフリカの杜甫」日経95・2・11

 「1977年ロッテルダム国際詩祭でアフリカの詩人が太鼓と一緒にズールー語で詩の朗読をしている。そこにはスピリチュアルな迫力があり、まるで東北の山伏の祈祷のようであった。(中略)

 彼は三十歳の時、解放戦線で戦うためアパルトヘイトの南アを出た。たえず刺客にねらわれ、日本にも何回か来日した。ここ十数年はロサンゼルスに住んで大学で教えていた。(中略)

 「一昨年、南アの政策が変わり、三十四年ぶりに故国に帰ることができた。」

 マジシ・クネーネの消息を伝える文章が日経の「交遊抄」にあったので、引用する。白石かずこは「交遊抄」で再度クネーネのことを書いていたが、採録を忘れた。

 


 

『マルコムX最後の証言』角川文庫 

---「何が暗殺者をそそのかして殺人を犯させたのか? マルコムがわれわれの闘争を拡げ、国際的な闘技場に持ち上げたことが、彼らの気にさわったのだろうか?」(邦訳八九頁?)

---暗殺者たちを殺人に駆り立てたものは何か? マルコムがキャンペーンを通じて闘争を国連に持ち込み、国際的な分野に広げていったことが彼らを困らせたのか?[マルコムX最後の証言]


 アフリカの仏語圏の詩人などについてより詳しく知りたい方は、1970年前後の「詩学」や「月刊アフリカ」に載った服部伸六の論考を参考にされたい。 「アフリカ」の連載は『アフリカ陽気暮らし』としてまとめられ、 三修社の文庫で1984年に刊行されている。

翼の嵐 M・ジョン・ハリスン

翼の嵐


第一章  見下ろす月


 クラディックの後背地の山脈に端を発する名もなき川の一つが海にそそぐあたり、暗い潮が打ち寄せる岸辺、浅瀬の小さな半球状の島の上、おぞけのはしるような月の眼の下で、無窮の年月をへた崩れた石造物がかすかに輝く。かつて、入り江の崖が影をおとすあたりに、誰の記憶にも残っていないほど遠い昔、長さ七十メートルはたっぷりある黒曜石の一枚岩から、後を継いだ者たちの誰一人として理解できないような方法で造られた塔が立っていた。一万年にもわたり風と水は塔の南面を磨いてきて、弱みを見出すことはなかった。夜には、最上部の窓に黄色い明かりが識別されて、誰かがそこにいて、炎の前を行き来しているかのように点滅することもあった。冬には強い風が白い水飛沫をミンクにまで運び、レンダルフート出身の漁師たちも海岸近くの土地を避けるというこの雨の国に、誰かがその塔を運んできたのか、その目的は何なのか、詳らかにはしない。今、塔は五つに割れている。岩の縁は尖っておらず、すりへってもおらず、蝋のように溶けている。かつては、砂の上に火山性ガラスの塊が散らばっている西岸の浜辺からこの島に至る取りつき道であった築道も、今は川の中に沈み、水の中から現れているのは異常に繁茂した海藻だけである。延び拡がった巨大な海の芹は、なぜか入江のおだやかで有益な塩水に見切りをつけて、崩れた塔の上に青白くやわらかな茎をひろげ、枯れた白松の根方にからみ、河岸に領土を広げようとしている。
 このような時代、われらの心には他でもなく虚ろさだけしかない“蝗の時代”、待つことの他になにもすることがなく、人間の活動が何一つない“白骨の時代”。この八〇年というもの、人間に関わるものごとは何一つ起こっていない。炎がここに運びこまれてきたとしても、勢いは衰えてかすかになり、燃えあがらせることはむつかしかろう。熱情もここでは冷めて囁きとなるだろう。塔が倒れた際に漏れでた何かが、ここの空気を汚し、一帯の風景から地力を奪い去ったのだ。

《小さなユリシーズの冒険》

《小さなユリシーズの冒険》

バラード、映画『太陽の帝国』について語る

J・G・バラードの翻訳者ロベール・ルイ、SFの法王に対面

インタヴューアー ロベール・ルイ               ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール 1988.3.11-17.

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 小説『太陽の帝国』はバラードの初めての自伝的作品である。「以前の私の全作品の父」と彼が言うテクストを、スピルバークはユニヴァーサル・スタジオを総動員して取り組んだ。

ルイ この映画の中には、あなたの作品の主人公がいましたか?

バラード 私の若き日のオルターエゴを演じた子役は、『大人は判ってくれない』のジャン=ピエール・レオ以来、匹敵するのを見たことがないほどの演技力を発揮している。スクリーン上の子役には、いずれは英国に向けて出発し、SF作家となり、発表されるや映画化される小説を書くことになる大人がひそんでいたよ。

ルイ 最初にワーナーのプロデューサー、ロバート・シャピロが接触してきたのでしたね? その後の経緯はどうでしたか?

バラード ハリウッドの監督や大きなスタジオとは初めてつきあったが、作家たちが映画産業と悶着を起こしてきた長い伝統から考えていたのとは正反対の経験だった。スティーヴン・スピルバークに会ったのは撮影が始まって一ヶ月後だったが、流布されているイメージとは極めて異なることがわかった。彼は明晰で、厳密で、大いに想像的な頭脳を持っていた。実際の撮影よりかなり前に、私の小説の中でも最も映像に移し替えるのが難しいシーンについて、言葉で語って聞かせることができた。少しも感傷に流されることがない。それに『太陽の帝国』はとても硬派の映画なので、感傷など見いだせないと思う。スピルバークは現在40才だから、彼の作品と認められている映画を監督したのは、とても若い頃だったことになる。『未知との遭遇』という特筆すべき映画が撮影されたのも、彼が30才の頃だ。

ルイ 『未知との遭遇』のどんなところに興味を持ったのですか?

バラード 映画の中の妄想の役割だ。若い技術者が、ある山にとりつかれ、そのあげく、自宅の食堂に模型を造りあげるという筋立て。これは私が小説の登場人物に取り入れてきた行動によく似ている。また、スピルバークが人間と宇宙からの訪問者との間に音楽的遭遇を取り入れるというかなり複雑な筋立て。コードの集合(この場合、音楽的な)としてある現実の解釈は、とても奇妙なことだが、『残虐行為展覧会』といった作品の中での出来事の起こり方を想起させる。実のところ、SFの中での長いキャリアを積んだあと、一冊の本の映画化を通して、われわれが出会い、それによってわれわれがSFから脱皮できたとしたら、それは偶然ではないのかも知れない。

ルイ あなたはシナリオの共作を提案されなかったのですか?

バラード いや、それに私は拒絶しただろう。別のタイプの想像力をかきたてる専門家の仕事が重要だと思う。その上、新たな眼で物語を見なければならないじゃないか。トム・ストッパードは極めて忠実な、素晴らしいシナリオを書いた。しかし会話の大部分は本から直接に取り入れている。私の見るところ、ストッパードはオスカー・ワイルドの手法に少し似た哲学的パラドックスと精神の遊びの詰まった作品の作者のように見える。後に知ったが、彼の両親はチェコの出身で、第二次世界大戦の直前にシンガポールに亡命したらしい。彼の父親は日本の占領中にそこで死んだ。このようにストッパードは『太陽の帝国』の主題と無関係ではなく、非常に個人的に結びついていたのだ。

ルイ あなたはこの映画に少し顔を出していますね?

バラード まばたきしたら見つけられないほどだよ。冒頭の仮装舞踏会のシーンに、ユニオン・ジャックを裁断したチョッキとシルクハットを着て、ジョンブルの扮装をして出演した。それはスピルバークの発案でね、私はとても滑稽に思った。私の小説はイギリスに対してむしろ厳しい見方をしているのだからね。この撮影で私は奇妙な体験をした。私が住んでいるのはシェパトンのスタジオの近くで、近所の人々の多くがこの映画にエキストラで出ている。夢の中にいるような異様な感覚に私が襲われたのは、眠りの精神が昼の生活の諸要素を借り入れて、それに役を割り振ったように思えたからだ。現実と虚構が逆転してしまったのだ。

ルイ 多くの作家にとって、最初の小説は自伝的なものです。あなたは個人的な物語を語る前に、SFで三十年の長い回り道をしたのですね。

バラード 一九四六年にイギリスに到着したとき、もはや上海に戻ることはなく、ここで人生をやり直さなければならないと悟った。私がSFを書きはじめたのは、疑うまでもなく、偶然ではない。イギリスにいる私に、自然主義の小説は刺激を与えてはくれなかった。五〇年代のイギリスには関心がなかったし、ごく秘めやかに、知らず知らずのうちに、戦争中に上海の近辺で体験したものを解きほぐす鍵を与えてくれる想像的風景を造ることを探求していたようだ。戦争中の中国の風景を復元する手法でイギリスの風景を再構成するために、私はSFの手法、更にはもっと自分の感覚に近いシュルレアリスムの手法を利用できるようになっていった。SFは『沈んだ世界』のようにロンドンに洪水を起こし、『クラッシュ』におけるように真の《オートゲドン》、自動車の黙示録を創りだすことを可能にした。真に予言的なシステムは私の人生において非常に早く--日本の中国占領後、収容所での数年の間に--芽生え、それは私が書いたすべての作品の中に実現されていると思っている。  私の物語の中で重要な位置を占める激しい時間の崩壊は、私が中国で知った存在形態に密接なつながりがある。そこ中国では一九四一年十二月に真珠湾で攻撃が起きるや、時間は荒々しく停止した。百五十年にわたる西洋の支配は、日本軍の攻撃によって、芝居の終わりのように、突然に幕を降ろした。それ以来、収容所の体験は、別の種類の時間、時間の欠如の中に入りこんだのだ。戦争の終わりは全くの不意打ちだった。皆は戦争は永遠に続き、時間は無限に引き伸ばされるように感じていた。収容所の中では、人々は実験室の中の獣のようだった。疫病と栄養不足については話すまでもないが、それは一種の感覚器官の喪失の実験だった。そこに突然の原子爆弾だ。またもう一度,日を置かずに、別の世界が場所を占め、異なる様々の時計が回りはじめた。SFが真実、私の唯一の選択だった。もしリアリズムの方に、あるいは純粋なファンタジーの方に行っていたら、恐ろしい現代の破壊力を実現した本質的な道具--その第一はテクノロジーだ--を検証することはなかっただろう。  

ルイ  原子爆弾については、登場人物に、第二次世界大戦の終幕ではなく、第三次の始まりだと語らせていますね。また《信用貸しの戦争》という表現も使っていますね。-----『太陽の帝国』を読むべし-----  

バラード  当時の中国人の多くは、そのことを知っていたと思う。ヨーロッパではドイツの降伏以降、戦争は長引かなかったし、冷戦が勃発するまでには何年かがあった。上海では違っていた。戦争は一度の攻撃で終末を迎えたが、それが本当に確実なものかどうか良く分からなかった。大勢の日本軍がいつも我々の周囲にいた。アメリカ軍がいるのはとても遠い沖縄で、中国軍もまた遠く、中国軍が到着したと思うと、共産軍と国民軍との間で戦闘が再開された。それからインドシナでのフランスの長い戦争、朝鮮戦争、さらにはヴェトナム戦争。戦争は極東のいくつもの戦線で続けられた。一九四五年の原子爆弾は、実際には、何も解決していなかった。旧体制と新体制、植民地主義とナショナリズム、共産主義と資本主義の間の基本的な対立、特権階級と、貧者に対して多かれ少なかれ公平な社会主義体制(そしてこれらの体制の国の多くは多数の貧者の国だった)との間の闘争--こうした紛争のすべてはまだ続いており、その展開は文字通り第二次世界大戦の終結の数日後に始まったのだ。いうなれば、これは確実に信用貸しの戦争で、原爆が最初の払い込みというわけだ。  

ルイ  あなたの物語の中のいくつかのイメージ(空っぽのプール、さびれた飛行場)の起源は『太陽の帝国』に見いだされますね。あなたの想像力は人物に対するよりも、風景に対する方に働いている。あなたは小説家というよりも、むしろ画家のように感じているのですか?  

バラード  確かにそうかも知れない。しかしイギリスに到着したとき、周囲のものを少しも理解できなかったことが私には忘れられない。それから十六か十七になって、フロイトやユンクを読み始めたのと同じ頃、シュールレアリスムの画家を発見した。彼らの絵の中に、突然、上海で用いられている論理、精神の公式が見て取れたのだ。私は彼らのとても強烈な現実の探求に、ずっと忠実だったと思う。  

ルイ  『太陽の帝国』から新しい長編『奇跡の大河』への移行はいかがでしたか?  

バラード  私の想像力は現在に回帰した。私は今日の現実の本質、我々の風景が世界的なメディア・システムの製作する虚構によって、いったいどのくらい侵略されているかということに関心を持った。この本についてもっと正確に言えば、人はまだ個人的な創造の行為を(どんな行為でも良いが、友達のために食事を作るとか、あるいはこの長編のように、文字通り河を造りだしてしまうとか)をどのくらいまで認めうるのかだろう。 我々が現に生きている状況下で、メディアの風景は、我々の生活の個々のデテールを支配しようと待ち受けているように私には思える。これはまたしても知恵の樹の物語だ。林檎を食べながら、アダムは実はテレビを点けただけだったのではないだろうかね?  (終)  


このインタヴューはダビッド・プリングルの作ったインタヴュー・リストには載っていないようである。

 

「情緒の死」という病

「情緒の死」という病

フィクションの創造から現実の創造へ

大和田始

 

 

■旧来のSFを批判

 J・G・バラードは英国人の医師の子として1930年上海に生まれる。太平洋戦争終結の翌年、英国に戻り、ケンブ リッジで医学を学ぶ。コピーライターなどの仕事を経て、1956年からSFを発表しはじめる。

 初期の作品においてバラードは旧来のSFを徹底的に批判し、破減テーマの長篇第3部作などによってSF界最高の作家のひとりとなる。60年代後半には《濃縮小説》という実験小説を発表し、イギリスSF界の〈新しい波〉を主導していく。そして70年代に入ると、現代テクノロジイ批判の長第3部作を書いて、ジャンルSFの壁を大きく越えていく。

 この対話の中でも言及されている「時の声」は1960年に発表され、彼の進路を決定づけた作品である。終末を迎えようとする世界の中で、蛙は鉛の甲羅をまとい、花は時間を見るようになる。人間は睡眠時間がしだいに長くなり、ついには永遠の睡りにおちこんでいく――バラードの想像力が水爆実験のおこなわれた島エニウェトクの中に見た現実が反映され、異様な幻想世界として表現されているのだ。

 60年代初頭は核戦争の恐怖がもっとも高まった時代であったが、そうした状況の中でバラードは破滅する世界を描く長篇をつぎつぎと発表する。『狂風世界』『沈んだ世界』(62年)『燃える世界』(64年)『結晶世界』(66年、いずれも創元文庫刊。後の3篇がいわゆる破滅3部作)。いずれもSF的な仮構が採用されているが、66年の『結晶世界」では正・反島宇宙が衝突しつつあるという壮大な設定である。この宇宙規模での時間・空間の消滅と照応するかのように、アフリカの奥地に宝石の森が出現する。対話の中でバラードがいうように、宝石には時間の凝縮のイメージがこめられている。手づかみにしうる時間という彼の時間観念のもっとも美しい例であろう。主人公はこの森の入口にとどまり、そのことによって様ざまの形而上学的な観念や寓意をその森に結びつけ、森はそれらすべてをかかえこんで幻想的な美の極致に達していく。

■インナースペース宣言

 この対話にも出てくる「内宇宙」という概念は、60年代前半のこの時期に提唱されたものである。「内宇宙」とは外なる現実と内なる精神が出会い融合する場である、と彼はいう。広島・長崎やエニウェトクに象徴される核戦争の恐怖、テクノロジイに支えられる進歩概念はそれによって崩壊し、人びとは未来に関心を失った――というのが、バラードのみる60年代の状況の一端だが、その中にありながら我われはそれを真に受けとめてはいない。そこで彼は「精神時間」がとらえる現実の内的な質量を幻想的な世界として作品に定着させたわけである。

 SFの仮構を借用して押しすすめられたこの指向は「結晶世界』において頂点をきわめる。そしてバラードは60年代後半、自ら〈濃縮小説〉と名づけた斬新な小説型式の実験に没頭していく。

 これは、ごく短い断章からなる短篇で、バラード流アンチ・ロマンである。ここにおいて彼は想像世界を描くことをやめ、 現実世界の「テクノロジイ風景」へと進軍する。マリリン・モンローなど映画スターや、ジャクリーン・ケネディなどトピカルな人物たちが風景として登場し、神経空隙・脊髄風景といった私的な観念も風景の中に投影されて、あたかも言語によるマンダラを見るかのように思わせる。 

  70年に「残虐行為展覧会』としてまとめられたこれらの〈濃縮小説〉には、現代に生きる我われの意識の深層にあるものを、おそらく読者ひとりひとりに微妙に異なる形で覚醒させることだろう。ここに現わされているのは、我われが体験する現実が広告宣伝や、その1部門となった政治や、たちまちにして大衆的なイメージに変換される科学とテクノロジイや、テレビによって先どりされる想像性などの虚構、フィクションが世界を支配し、その中で生きる我われは「情緒の死」という病にかかり、人間関係はしだいに抽象化しつつある――というバラードの現実認識であるだろう。膨大なフィクションの中で生きる我われには、公的・私的・幻想的の3つのレヴェルでのフィクションに相互作用をおこさせるしかリアリティを回復する見込みはないというのである。

■現実を創造する作家 

 〈濃縮小説〉とは、バラードがもはや。19世紀的な「直線的」な小説の継起的な叙述ではとらえきれないと考えた60年代の混乱した世界を活写する方法だった。

 ところが70年代に入ると、60年代の緊迫感は緩和され、まるで何事もなかったかのようにおさまりかえってしまう。摑みどころのない時代になってしまう。バラードは〈濃縮小説〉の錯綜としたスタイルを捨て、直線的な作風に戻る。とはいえ、19世紀的な小説のように作家が神のごとく作品を支配するのではない。バラードはまったくの無の地点から、ただただ想像の世界を書いていく。そこには何のてらいもない。

 こうして「テクノロジイの精神病理学」をめざす長篇3部作が書かれる。セックスとテクノロジイの結婚、生物学的存在である人間を駆りたてる力さえもテクノロジイに侵されていることを警告する『クラッシュ』(73年)、文明社会の真只中で孤立した人間を描く『コンクリートの島』 (74年、NW-SF連載中)、超高層アパートの住人たちが攻撃性をつのらせ、原始へ、石器時代へと退化していく『ハイ・ライズ』(75年)。 

 世界はもうフィクションにおおわれている。作家の責務は現実を創造することだ、というバラードの激烈なエクリチュールは、彼が誠実であろうとして1人称の小説となった『クラッシュ』に明らかで、叙述はポーリーヌ・レアージュをしのぐ厳格さをもつ。「私は『クラッシュ』をテクノロジイにもとづく初めてのポルノ小説と考えたい。ある意味でポルノはもっとも政治的な小説だ。我われが互いをどう利用し搾取するかを扱うからだ」 と彼は述べて、「売春」という概念で現代社会をとらえたジャン=リュック・ゴダールに接近しているようにも思える。

 この3部作の後、バラードは短端集『死亡した宇宙飛行士』 (77年 NW-SF社刊行予定)に収める中篇を書き、いままた新たな活動をはじめようとしている。再び中国を訪れたいという意向も持っているようだ。文革後の中国に彼は何を見るのだろうか。

 

初出 The Meditation 1978年 冬季号

本稿は松岡正剛とバラードの対談の解説として書かれた。

『死亡した宇宙飛行士』 は後に野口幸夫訳でNW-SF社より刊行され、先年『バラード短篇全集』(東京創元社)に収録された。

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