「魔術の戦略家ブルトン シュルレアリスムの法王」 服部伸六 | 拾遺愚想 - 越境する妄想団 delirants sans frontiere

「魔術の戦略家ブルトン シュルレアリスムの法王」 服部伸六


魔術の戦略家・ブルトン
シュルレアリスムの法王
服部伸六


四次元の声が呼んでいた


 私がブルトンとエリュアール共著『処女懐胎』を訳したのは、いまからほぼ四十年もまえのことだった。それが今度、久しぶりに新装版になって、訳者としては、いくらかの面はゆさをおぼえる。と言うのは、自動記述という、二十世紀初期のパリの青年たちが編み出した文学のジャンルは、日本では全くはじめてのことであって、私は面食らいながら、無我夢中で、この難解な文書と取り組んだ記憶があるからである。
 フランス語の記号を頼りに日本語にはしてみたもの、ブルトンとエリュアールの二人が伝えようとした陶酔を正しく翻訳できたかどうか、じつは、心もとない次第だった。ある箇所では、酔っぱらいの巻くクダとしか思えないくだりがあって、困ったのであるが、それも一つの文学作品、シュルレアリスムの実験と考えればやむを得ないことだった。
 それは自動記述の典型であったのだが、そのあとしばらくして、戦争が末期にさしかかったころ、日本の自動書記を発見させられた。大本教の始祖の出口なおという老女が書いていた「お筆先」と呼ばれていた文書に接したのである。例の有名な「三千世界いちどに開く梅の花、立て替え立て直しの世がきたぞよ」で始まる怪文書である。
 自動記述を利用しての、政治の被害者となって極貧の生涯を送ってきた老女が胸の内に籠もった恨みの数々を吐き出した自動記述の文書がこのお筆先だった。アンドレ・ブルトンのような西欧文化のチャンピオンを日本の貧しい老女と同一視するという暴挙をあえてするつもりはないが、現象としては同じであることに間違いはない。つまりブルトンの言うところの四次元からの声、無意識の混沌から浮かびあがる「意識」という点では同一であることに変わりはない。

異を唱える権利


 ランボオが言い出した「生を変えろ」という合言葉は、いったいどう解釈されればいいのか。日本語ではどう訳すればいいのか。
 変えろと言われているのは個人の段階ではなくて、集団の段階だと私は思う。集団ということは社会全体の、と言うことで、国家にも関係する、極めて政治的な概念である。少年ランボオはそこで社会と国家との変革を夢想しているのだ。それでも、ランボオの革命の夢を受け継いだ二十世紀初頭の若者たちは、自分たちの無力を悟り、せめて精神文化のなかでも変革をなしとげようとしたのが他ならぬシュルレアリスム運動だったと言える。最近新装版の出た『ブルトン詩集』(思潮社)のなかで編者のベドーアンが次のように書いているので、そのことを確認しておくこととしよう。「我々は、いかなる形態の文明も滅びの運命にあることを知っている。歴史は、我々に、そのあとから常に新たな文明が生まれることを教えている。だが、我々は一人として、これらの現象を自らの力で統御しうる手段を知ってはいないのだ。で、我々は結局、これらの現象を茫然と見つめる傍観者、ないしは、これらに思うまま翻弄される被害者に還元されてしまう。今や、ひとつの文明が瀕死の状態にあり、その巨大な断末魔の痙攣にまきこまれ、多くの政治綱領、イデオロギー(革命的なイデオロギも含めて)、経済組織が、我々にとって、もはや、いかなる救いにもならなくなっている。」
 二十世紀初頭の若者たちがその人生を生きはじめたのは、まさにそのような雰囲気の下であり、ランボオの鍵のコトバが衝撃として伝えられたことは確実だろう。
 第一次大戦に狩り出された青年たちが戦争の無意味さを痛感して、次の世代に寄せた期待、希望が政治的様相をとるまえに、まず文化の領域で花開いたのはまったく自然だったと言えるだろう。戦場で傷ついたアポリネールをデッサンしたピカソの絵が思い出される。

拡散と分裂


 そのころ日本の前衛詩人たちの動きはどうだったのだろうか。そのことに就いては私の役割ではないので省略するが、中野嘉一さんの「前衛詩運動史」を参考とされたい。日本では、これまで「異議を申し立てる権利」、つまり革命精神が育っていなかった。これが日本文化の特徴であるとあきらめたとすればそれまでの話だが、そのため日本のシュルレアリスムは外形の模倣で終始した。この芸術運動の根底にある精神が見失われていた。この認識の欠如は今後も尾をひくと思われるが、欧州で今なおシュルレアリスムが生きつづけている理由をこのところに認めたいものだ。最近では、日本でも異議もうしたてが市民権を得ているかにみえるが、西欧化が進んだ最近のことに属する。もともと日本には馴染めない心の風土である。ブルトンが辿った道をいまになって振り返ってみると異説の申し立てが、とくに目立っている。二十世紀になってからの特別の現象ではないかも知れぬが、ブルトンなどが関わったシュルレアリスムの二十世紀における運命かもしれない。
 西欧とくにフランスでは、この風潮は目立っている。つきつめて行くと、それは革命という語にぶつかる。シュルレアリスム革命とは、そのことを指している。しかし、革命という以上、そこには政治・社会の変革を意味するものが無ければならぬはずだが、文学ないし文化の枠内にとどまるだけでは理想も夢想も現実にはならないことは誰にも分かっていたはずだ。運動を離れていく者が出てきても不思議ではない。アラゴンが出ていったのは、その帰結だったし、エリュアールもアラゴンに習って共産党へと船の進路をかえるものの、その栄光はナチスに対するレジスタンスの中で花咲くことで目的を達するかに見え、それ以上の発展へは進まない。
 しかし、エリュアールの含みの豊富な表現を追っていくと見えてくるものがある。たとえば、「ひとりの人間の地平線から、すべてのひとびとの地平線へ」という詩集の題名の場合、背後にある詩人の女性関係の物語を抜きにしては理解することはできないとしても、この長編詩が「政治詩集」と銘打たれて、ガリマール書店から出版されたのは一九四八年のことだが、そのときすでに、初期の文学運動の時代から四分の一世紀をこえている。きわめて個人的な詩句を用いながら、じっさいは広い意味の現実社会に切りこむという作業を完全にマスターした詩人の技法は、ほかのどのような句も入り込めない境地に達していた。次のような詩を見て頂きたい。

 モラルの説教師どもは、一体なんにくちを出していたのか? ひとりの人間が、かれら仲間たちのところに、送りとどけられていたのである。正統な兄弟のひとりとして。
  (高村智訳 エリュアール『愛』の「ひとりの人間の地平線」)


 「正統な兄弟」とは何を指すのか。それはフランスの階級社会の仲間のことだろう。「すべてのひとびとの地平線」とはこの仲間たちのことにほかならない。そこは、「人間から人間へと若がえりながら、わらっている子供」の世界である。ここで自殺まで思いつめていた詩人の未来への希望が現れてきたと言えよう。エリュアールの詩句の奥深さについては解釈する人により多くのヴァリヤントが出来上がるだろうが、要は、完全な自由をもとめる詩人の態度を見うしなってはならないと言うことである。
 他方、もうひとりの初期指導者のアラゴンは自動記述の実験に参加するが、ロシア人のマヤコフスキーの血縁を引くエルザを妻にしてからはすっかりロシアびいきとなり、ソ連で開かれた国際作家大会の席上での熱烈なソ連賛美の演説をしてから後は、その呪縛から逃れることができず生涯を主義のために捧げることになった。しかしレジスタンスの対独闘争での輝かしい功績に加えて、その間の詩作は失意におちこんでいたフランス国民の大きな励ましとなり名声を博した。
 戦争が終わると彼は週刊誌「レットル・フランセーズ」の主宰者となり文化運動の王者としての地位を極めた。その間、「国民詩」運動を奨励して定型詩の復活を志し、フランス文化の根深さを改めて世界に示した。
 彼がどこまで共産主義に忠実であったかは謎であるが、晩年の死の直前ごろ、美貌の青年を引き連れて、コーボーイのかぶる縁の広い帽子をかぶり街を徘徊していたという伝説は、ひょっとすると、その答だったかもしれない。ソ連が崩壊し、イデオロギーが死んだ今、世の移り変わりに、思い至るとき感慨にたえない。
 しかし、アラゴンの作った、こよなく美しい歌はレオ・フェレの歌声とともに忘れられることはないだろう。

シュルレアリスムの国際化


 一九三四年、初めてジャクリーヌ・ランバと結婚したブルトンは、アメリカ旅行を企てる。そのときトロッキーと会った話は有名である。一九四一年から四五年まで、ふたたびアメリカに赴いているが、そのついでにメキシコ、ハイチに足を伸ばしている。その間、彼はエリザと結ばれている。
 これらの旅行は、ドイツの占領下のヴィシー政府を避ける意味合いがあったと思われるが、一方ではシュルレアリスムの国際化にあったことは、仏領マルチニックでエーメ・セゼールを掘り出したことで、その意図が明らかになった。
 ブルトンが書いているところによると、ある日、マルチニックのフォール・ド・フランスで、たしか保護のための収容所から出されて街を歩いていたとき、ある書店でパンフレット状の詩の雑誌「トロピック」が目にとまり、その発行者のエーメ・セゼールを訪ねることになったというわけであった。
 エーメ・セゼールとは『帰国手帳』という詩集で有名となる黒人詩人で、セネガルの政治家詩人レオポール・サンゴールなどと「ネグリチュード(黒人らしさと言う意味)」運動を開始した。彼らの運動のキッカケにブルトンの推挙があったことは、疑うことはできない。この挿話でもわかるように、ブルトンはアラゴンともエリュアールとも異なった道を歩かねばならない。すなわち国際化という道である。
 二十年まえの道連れたちとは違った道を歩かねばならなくなるが、しかしそれは止むを得ないこと。「時はあふれる」(エリュアール)では、死を前にした詩人が、残された余生を歌ったものと解釈できる。悲痛でありながら、しかし、希望を失っていないのは、この詩人の特徴である。ブルトンは以上の二人とは違った道へと進み、かつ、異を称えねばならぬ。彼の変身はシュルレアリスムの秘教主義(エゾテリスム)への変貌であるが、ブルトンはこの傾向の法王となるのであるが、奇妙なことにそれにはユートピア思想が伴っているのである。それとともに、彼の理論活動は詩や絵画の分野からはみ出して日常生活の分野まで広がっていく。つまり日常生活にまであふれ出る。しかし、その底辺には変わることのない筋金が一本とおっている。すなわち、いかなる者にも屈しないという自由への希求である。ブルトンは『第二宣言』の中で、シュルレアリスムの精神の特色を説明して、それは「旅芸人の堀立小屋の精神と医師の診療室の精神に、同時に戦いを挑む精神である」と書いている。難しい表現だが、私なりに解釈して、世俗の精神に戦いを挑むという単純な言い回しに言い直すとすれば分かりやすい。しかし、そんな風に俗っぽく言ったのでは重みがないので、そのままにしておいてもよいだろう。要するに、俗世間とはひと味ちがうところを見せればいいのだ。つまり新しい詩の運動は、場所を選ばず、自由を伝統からの開放を望んでいることが大切なのである。ブルトンはこの立場を守り続け、一歩も退くことはないだろう。そういう次第で、ブルトンは世界市民という概念を持ち出してくる。一度開放された精神は世界市民のあいだでしか通用しない。詩の文化の国際化だけが、その苗床なのだ。ブルトンは世界中をとび歩くことになった。新しい運動のあるところなら、どこへなりと駆けつけたのである。「この運動の特殊な表現方法だけに興味を抱くだけでなく、人間の相互の原則である思想の競合の自由な沸騰を、その源から捕らえるに至るまでの言語の深淵まで、つきあうことになるからである。この水源地を再発見すること、しかもそれを再開発するだけでなく、砂で埋まるのを急いで防ぐために何等かの手当てをすること、そういうのがシュルレアリスムの決定的行為であり、今日にあっても昨日と同じくその特別の務めだった。そのことはとりもなおさず、心理の自動主義こそがカナメであって、その反証を引き出す手続きこそが、重要な役割をなしているという意味になる。ブルトン自身一九五三年の日付の文書のなかで、この成り行きの意味するところをはっきりと示しているが、出来れば、その際、自動記述の経験を広げようとする。というのは彼は次のように言っているからだ。《シュルレアリスムにとっては、すべてを言語という素材のうえに置くのだということで納得することだ》」と、今度、思潮社の『ブルトン詩集』の著者ベドゥーアンがセゲール書店から出した『シュルレアリスト詩集』の序文で書いている。
 ここまで来て、与えられた枚数が尽きつつある。「戦略」についてはまだ言い足りないが、最後にランボオの「詩はもはや行動を韻律化せぬであろう。詩は先駆するものとなるであろう」という句で締めくくることとしよう。前進こそが詩の役割なのだ。永久革命こそが詩の使命なのであり、アンドレ・ブルトンが追求したのも、まさにこれであった。
 だがしかし、ユートピア思想が潰え去った今、われわれの前で次の世紀はカオスで病んでいることも事実だ。


    「現代詩手帖 1994年10月号 特集:いま、アンドレ・ブルトン」