タナトゥスへの道  ハチャメチャバラード論 | 拾遺愚想 - 越境する妄想団 delirants sans frontiere

タナトゥスへの道  ハチャメチャバラード論


 暗闇から始めるべきか? 闇。自然的不可能性の極。それは精神的物理的諸力の顚末、すなわち人工楽園としてしかありえず、そこからまさに始めるということは不平を排することに他ならない。しからば、白昼の形相とは何か? と問うこともまた水虫の王国を天上から騒擾とさせる無益な試みだ。そう、まさしく「無限都市」は始めること、旅への発動を同じ時刻にたたきこみつづけることで〈始めること〉を意味の呪縛から解放した、『結晶世界』も同じだなどというのはヤボというもの。ぼぐだぢはすでにして生をうけてしまっている。ぼぐだぢば始まりを始めでじまっだ。生まれたからには死ぬだろう。これは確実だ。作家の試みはこの流れのなかでエアポケットを存在させる試みなのであろうか? そうだ、まさしく原点は存在する。と斜にかまえてぼぐだぢは出発を出発しよう。ほら、もう闇だ、死だ、終円だ。
 出発が出発することでしかなく、もはや〈始めること〉の原初的想像力を喪失した時、ぼぐだぢの旅立ちはニヒリスムスと陽気な期待+安心感に分断される。その初動において、たとえば藤圭子と三田明は二つの分断された様式を代表する。三田が数年の唄修業後に歌唱力を身につけることができたということは、誰れであれ彼と同じ程度には上達できるということを意味している。ところが圭子のばあいは、最初からテクニックの点ではるかに三田明を凌駕しているが、それ以上に彼女の初動、唄いだしはすでにして流れきたっている潮流のうえに放流されていた。旅立ちのニヒリスムスは圭子を北海道から東北をへて新宿へと、ヤーさんの支配する闇の通貨の改鋳として奔浪した。圭子はそこで新宿を見た。そしてそこに自らを賭けたのだと遠見して思いこもう。人が表現者、根底的な意味で自己表現者となる時、ある種の複合的体験、持続的に練りあげられた体験があるにちがいない。それはそのなかに入ってくるものすべてを偏光させるレンズだ。第二次欧州大戦の予感に被われたスイス、革命後数年間のロシアといった地理的歴史的条件も加味されるに違いない。そのレンズ体を通過することにより人は自らをレンズと化すだろう。その時自己表現は単純直截ウェットな感情露出ではなく、自己表現の断念としての自己表現となるだろう。自己の体中を、発声器官を通過さすことによりすべての唄を偏光させるものとして、藤圭子はまさしくエン歌の星である。
 夢中より脱出してきた女と調音種から抜けだしたアラクニッドとの激しい恋はバタイユ圏へと飛翔し、あて馬スチーヴは悲しく去らねばならぬ。こうしてバラードは追求が死と近接する地帯から豊かな実りを収穫した。日常の社会的常識的生活からドロップアウトした男たちは、社会構造総体を偽りのエロスであると看破し、カンパニア斗争をするのではなく、ひとり生き生きとしたエロスを求めゆくことになる。しかしこの看破視力も初期には盲目の恋であり、道を誤まることもあったが、「識閾下の男」などをへて〈濃縮小説〉へ至ると国家独占と新植民地主義資本主義修悪版への独得のクリチークとなり、千年王国もまた明確に見きわめられていくのである。
 映画をつくりながら資本にすがりつく妾形態興業方式へNONを突きつけたとき、既成の流通経路からの脱落はゴダールにとって積極的な意味あいを帯びはじめていた。映画が資本によって企画され映画館のなかにおさまっていたとき、フィルムはその事実によってのみ価値をもっていたにすぎなかった。額縁に入れられた一枚のルドンはそれ自体として何らかの価値を持ったり美しかったりするのではない。淀川さんぽの作品が宿主を持っているから安心して賞味できないのでもない。『残虐行為展覧会』としてまとめられてこそ〈濃縮小説〉が作品になるというのでもない。〈作品〉は、既成の流通経路すなわち資本線の志向と自らを同一化することで、美術館、映画館、文壇、SFマガジン、ファンダムジンのなかでのみ生存する範チュー概念にすぎない。ゴダールは言う。「映画は作品として存在するものと私たちは考えた。今の私は作品など存在しないと信じている。これは芸術についてやや深く考察した結果たどりついた私の結論である。たとえ紙の上に印刷されようとも、額縁に入れられようとも、作品は存在しない」
 安く作ること、テキストとして活学活用すること、それらは方法論から本質論へと進駐した。アメリカ映画の私生児に何ができるかとゴダールが自問しつづけたとき、バラードはアメリカSFの不肖児に何ができるのかと問いはじめた。六十年代初期に頒布された爆弾群は〈サイエンス・フィクション〉のゴツゴツした地表をうがって、より深い地平へ伸びゆく錘であり、その方向性においてすでにして〈新しい波〉であった。あるいは逆のヴェクトルを持つのかも知れぬが、地獄の現実をのがれ天国へ昇天しようとしたコルトレインは翼を持っていなかったため、肉体的鍛錬自虐の果てに得られたかに思はれた桃源境も瞬間浮游にすぎなかった。チェス狂いデュシャン氏の繰りだす手のようにフレイズが編みだされ、王手の飛翔で極点に達するや、次の瞬間には苦行の前の静寂が疵つきもせず現存しているのだった。


 「実人生に復帰すべきである。澄みきった新たな眼をもって現代社会のなかに突入していくべき時である」(ゴダール)


 六三年からのバラードの試行はだから翼を入手するための修業となった。六二年の「内宇宙への道はどっちだ!」(NW-SF創刊号所載)によって、彼は内宇宙をこそ翼に変ずることを志向したとみえる。それでもってどこへ向ったかというと、実はまだ二階にいるのではなく、ハニャユタカの如く、未来から現在時を射抜いたのだ。『残虐行為展覧会』のダストカヴァー解説が指摘した如く、それはぼぐだぢの無意識のユニックなニューズリールとなったのだ。
 こうしたバラードの痕跡は革命論の見地から後づけることもできるし、ビートルズやボブ・ディランと関連づけて考えることもできよう、占星術や骨相学も流用しなければならぬ、だがヘルメス学的考察が最も重要となるだろう。はい、おいちに、おいちに。
 われらの魂と現実との間をとりもつ映画女優の体とぼぐだぢとの魔術的な照応を可能にする装置が〈力レン・ノヴォトニー体験〉である。現代社会で明瞭に反映する無意識の欲望がそれによって表現されており〈濃縮小説〉群を彩ると共に、以前のすべての作品を反応させることになった。
 無意識=空隙であり、構造的法則以外の何物でもない(ラカン)。無意識は言語である(忘却とは忘れ去ることなり)。空芯磁場の謂である(樺良太郎)。藤圭子の唄ごころは母ごころ(筆者)。
 脳髄革命の唱導者たちが圧倒的にフラワーな極楽トンボ眼鏡であるのは、アシッド体験がエゴの死であり、自由で友愛にみちた世界への再認知に他ならぬからである。合理化主義の吹きすさぶこの世界にあって、そのなかにもうひとつの国を見てしまうのだ。それはボールドウィンの見た国ではなく、むしろボードビリアンの見た国だ。精神衰弱氏がクロノグラムのフィルター越しにみたものまさにその世界に他ならぬ。テクニカルに現出されものとはいえ、彼の狂気は、狂気がより激しく現実を見てしまう感性の表現であることの証明でもあろう。そこに原点をおくことにより、フンダカウパニシャド繰りかえし、作家の飛影は彼の足跡ではなく標的だ。〈現代〉暗箱に印されたいくつかの涙滴についの考察はだから涙滴の宇宙論的な拡大世界のイマージュとなるのだ。
 西欧近代にあっては、死は滅亡の価値であり、そのなかで生れ育ったピエロが死の彼岸に青い海の永遠を見すかすといった手管で逆説を逆転することによって、書物的人生から離別したのは、幻想[アフリカ]の一歩前進と英仏両帝国主義の世界支配からの二歩後退による世界観の転倒に対応していた。


 「いずれの時代にも芸術家は、存在する秩序の危機を真先に感じとり、世界の崩壊をより深い次元において受けとめ、そして時代を越えた象徴を駆使する事によって日常感覚を越えた次元で世界を再創造する事は知られている。近代世界においても日常生活の総体をなしている部分が、真の相互連関を失い、そのような世界を反映する人間の意識が統一を失いつつあることを真先に直感的に感じとったのが芸術家であった。このようなときに言葉の真の意味でラディカルな芸術家のとる手段は先ず、音を失いつつある世界の崩壊を――たとえ人工的にもせよ――促進させ、真に回復されるべき世界への途を拓くか示すかする。近代芸術とは、そのような要請に基づくものであろう」(山口昌男)


 ロマンチシズムとは追求の不徹底さの謂である。という断言命題とは全く無関係にいく。プリマ・ベラドンナの死に至る病は昂じるにつれ、死んでも死に至れないという不条理を生みだした。バラード初期の習作は、タナトゥスへの欲望を隠して主人公を受容する世界への主人公の告発であった。しかし、「至福千年」においては、権力のなしくずし的な攻撃に不満を抱きながらも、芽ばえたのは彼の生活の閉回路に対応したみみっちい欲望にすぎず、それさえも習慣の強烈な魔力のもとに後退してしまうのだった。「無限都市」では、警察医の疑問に対して返答できず、はぐらかすしかなかったフランツは、自己の内的世界を原理として世界へと投影できなかったため、法と秩序の許へねじ伏せられてしまう。こうして、生の不在が不在の生へとレヴェルアップされた時、告発はさらに漫画チックなものとなり、ニューマンが命を賭す時計都市再建の夢は、このわたりに住まいいたすものにて候氏たちにとっては気狂いみたものとなり、彼が手にした的はずれの幻影はしかし、滅亡世界を繰りかえすという異相アナクロ行為の照射をうけて、別な意味を燐光しはじめる。擬制とはいえ、エロスはそこでは支配的な王権保持者で、その子宮胎内的微温世界を打破するものとしての父権像であるおじいさんも時計都市の奇蹟的な先住人も決して父性ではありえず、母なる沈降拡散世界へと回帰線を跨ぎ越さねばならなかった。
 言辞的革命論の見地からすれば「時計都市」に現われた二つの世界は、資本主義の極地としての社会とそのアンチ・テーゼとみることができる。ここでも時の問題が現われ、その最も皮相な形態としての時計による疑似的な支配がかつて貫徹していた社会の抜け殻がある。支配という、エロスから遠く隔たった機能に従属させられるとき、すべて本質は剥ぎとられ、皮相面だけが現われざるを得ないのだ。ラングドン・ジョーンズの寝室のようなコンクリート塊群は人々の精神を錯乱させ、至上の秩序志向社会を形成していたに違いない。一方がすぐれて稠密な構成を持つとき、もう一方の、それに対立するものとして立ち現われた社会はカイロスエントロピー極大の混々沌々としてあるだろう。しかし往々にしてユートピアは全体主義的であり、ニューマンの育まれた社会もまた、ロシア社会帝国のパロディであるとみることができよう。ニューマンの社会主義から資本主義社会への転出は、バラードのロシア批判である。テへッ! 小川徹も顔まけの裏目読みだあな。でも単純に例の転向、ころびなんかと同一視ないでくれよ。別にバラードは資本主義を認めてるわけじゃないのさ。
 タナトゥスがはじめて作品核として導入され、顕示されたその台座に向かってすべてのコトバが整序されたのは、おそらく「時の声」からである。〈宇宙死〉へと向う地球では、人間に休暇を与え、植物に時を観じさせ、蛙に鉛甲冑をまとわせる。キャンプな世界が現実の真只中で生長する。そして時を退行しながら原生の宇宙の有様が種々の象徴の彼方に望見されていく。一時代の終末としての総合であり、新しい時代の始まりともみるべき作品が、宇宙死によって始まりを始めた、始めざるを得なかった(手前は死だ)ところに、高度資本主義国内部における想像力の置かれた立場がまざまざと読みとれよう。寒々とした展望だ。バラードの作品は彼がひりだしたものとして当然相互連関性をもっているが、「時の声」以前の作品においても、表面的ストーリーがそれ自体の完結性を性急に志向している時でさえ、深層のゆったりとした流れがそれを嘲笑うかのように天下泰平をきめこんでおり、表層と深層とのギャップが救い難い魅力を放散していた。そこからこの今までの距離は大さなものではなかったが、バラードがひとつの飛躍を決意したとき、それは巨大な歩み[ジャイアント・ステップス]となったのである。
 「結論を急いで唐突にあがれ」(岡田隆彦+筆者)
 バラードの作品のすべては、ありうべき、かってあったであろう重層的な意味体系の支配する世界への復帰、世界の再聖化、宇宙の統合をテエマとしているといえよう。すなわちバラードは錬金術師であり、すべての作品は公許的世界観からは除外されたもうひとつの世界観を確立しようとする革命的試行である。初期の作品が〈滅びの美学〉の耽美的表現であると感ちがいされるとしても、彼の主目標は意味の喪なわれた世界でいかに生きるべきかという問いかけであったし、メリル流に言えば、人間のオリエンテイションの問題を考察していたのだ。
 「詩人は生きるために何度となく死なねばならぬ」(ジャン・コクトー)
 こうしてバラードは何度も死をかいくぐることになるだろう。

 

 (これは1970年前後に書いたバラード論のようなもののようである。どこにも発表したことはない、ように思う。査読を通過しないだろう。グーグル・ドライブで手書き文字を読み取ってもらった。何が書いてあるのか、判りがたいが、バラードの初期作品を精神分析すれば、当時の彼の創作の秘密が明らかになるのではないかという提言かもしれない)