帰国手帳 エメ・セゼール | 拾遺愚想 - 越境する妄想団 delirants sans frontiere

帰国手帳 エメ・セゼール

 平凡社から西インド諸島仏領マルチニックの詩人、エーメ・セゼールの『帰郷ノート』が翻訳出版された。ここに載せるのは英語版に付せられた南アフリカの詩人マジシ・クネーネによる序文である。(翻訳原稿を紛失したので未定稿)


帰国手帳     英語版序文

 

 

  マジシ・クネーネ

 

 二〇世紀は、植民地の住民――つまりは人類の大多数――が独立したいという要求を申したてた時代であると記憶されることだろう。その意味するところを十二分に感得するには、植民の現実を深く――その文化的、政治的、経済的関連までも――理解しなければならない。実際には、そのような区分けを超越して、こう質問しなければならないだろう。自分が何者かという定義すらできないのに、いったい人間がいつ人間でありうるのか、あるいは、人間とはどのようなものなのか? フランツ・ファノンはこのような問題に直面した。彼の著作は、植民世界における人間存在のあらゆる局面を定義しようとしている。ファノンは植民された黒人の心理だけではなく、植民する白人の心理にも関心を注いでいる。ここで肌の色が重要になるのは、支配する者とされる者との判定基準が、常にしっかりと色の区分と結びついているからである。植民する白人は経済的に黒人を搾取するのではなく、黒人の現実を造り変え、彼らを自発的な奴隷、自発的な従僕にさせることをねらった。白人の利益に奉仕することは、たとえば南アフリカのアパルトヘイト・システムが要求するように、黒人にとって現実を造りあげる基盤となるだけではなく、黒人にとっての満足を構成しなければならないわけである。このようにして黒人は、白人の植民地主義哲学によって鋳型にはめられた役割をはたすことになる。もし黒人が道を外れると、共産主義者やアジテーターによって元のところに追いかえされる。ファノンはこう述べている。「ニグロがマルクスについて語るとき、最初の反応は決まって同じだ。『われわれはお前達をわれわれのレヴェルにまで引き上げてやったのに、お前達はその恩人に刃向かうのか。恩知らずめ! 当たりまえだろう、お前達に期待していることなどあるものか』」(『黒い皮膚・白い仮面』邦訳36頁)簡略に言えば、植民地の黒人の臣民は、必然的に白人による類型を肯定しなければならないのである。ただたんに白人が自分たちの主張に疑義をさしはさまないですます(疑義をいだくと、侵すべからざる自らの正統性を問題にしなければならなくなるだろう)だけではなく、黒人一人ひとりもそうした主張を容認するような様式で生きなければならないのだ。それゆえ、白人の目からすると黒人は人間ではなく、一つの類型なのである。類型として黒人になることができるのは、「良い黒んぼ」つまり白人の権威によって割り振られた役割を満足させることか、邪悪の化身となることしかない。後者の場合、白人世界は、法と秩序の名のもとに正当化されたと感じ、実際、道徳的な絶対必要性を感じるのである。そのような黒人はリンチにかけなければならず、★白人世界の処分自由権で公的情報の軍需倉庫を呼び出して、黒人を隔離し虐殺しなければならないのだ。エルドリッジ・クリーヴァーは、著書『氷の上の魂』でこう疑問を投げかけている。「何が暗殺者たちを殺人に駆り立てたのか? マルコムがわれわれの闘争を国際的な闘技場に格上げしたことが、彼らを困らせたのだろうか?」(邦訳89頁) マルコムは白人世界が、白人世界の「殺し屋」にならざるをえない黒人の「英雄」をどうやって生み出すかを例示しつづけている。

 

 アメリカの支配者が何百万のニグロを  に幻惑させてしまう戦術は、意識的なシステム的な ニグロの指導性。搾取報償罰則処刑という手の込んだ体系は、黒人大衆に指導性を求め、白人権力構造の道具になることを拒むどんなニグロも、監獄に入れられ、殺され、国の外に されたり、

クリーヴァ引用

 

 クリーヴァーは南アフリカ、アンゴラ、モザンビークの黒人たちや、実際的に白人世界が権力を行使している植民地の人々すべてのことを語ることができるだろう。

 こうしたことから明らかになるのは、二〇世紀の虐げられた黒人の反乱は人間性なるものを新たに定義しなおすことを要求しているということだ。これは白人の問題というだけでなく、黒人の問題でもある。なぜならシステムを打ち砕き、三百年を越えるあいだ白人の人間性を歪めてきた人種的神話を粉砕しなければならないのは、黒人であるからだ。それを達成するために、黒人は自らの現実を自分自身の言葉で再定義しなければならない。それゆえ、黒人に対する白人の邪悪な行為について抗議するだけでは充分でない。より要点を突いているのは、もっと洗練された人間的なイデオロギーを基礎として人間の役割を定義し、白人が長いあいだ文明の質として定義していたものが、白人のルールを維持するための彼らの主観的な関心以上のものではないということを理解することだろう。そのとき、その新しい人間の定義の要素はどのようなものになるだろう? その要素は、白人の植民者によって助長された古ぼけた欺瞞性に対抗して、世界文明に対する黒人の貢献という現実を主張することにあるだろう。

 

俺たちはこの世の中でなすべきことがない

俺たちはこの世の寄生虫

仕事は世の中と歩調をあわせること

(セゼール)邦訳 頁

 

 しかしこれも人種主義ではないのか? このような黒人の現実の主張に怖れをなして、白人は叫ぶ。セゼールは答えを与える「『世界の中のわれわれの場所』という特異性は……他の誰によっても混乱はさせられない」セゼールがこのように言明するとき、彼は黒人の役割の定義の基礎となっている人種的な背景を正確に言いあてている、黒人はただ単に人間としてではなく、劣等人種として植民化されてきたのだ。人間の征服が記録にないほどの昔から、征服する人々による彼等の現実の歪みを惹き起こしていたと主張する単純な文言は、ここでは部分的にしか適用できない。過去三百年の植民地主義は、特にアフリカの黒人に対し、もっと巧妙な武器を使いこなしてきた――経済的搾取、疑似心理学、疑似人類学、新たに白人が入植した土地の人間の徹底的な根絶、文化的教化などなどだ。

 黒人の植民地化は、それゆえ、弱い人間の領土を肉体的物理的に強いものが一時的に占領したというような単純なものとしては分類できない。ジャングルの掟はさらに深まり――こう表明されている。私が自らの意思で保持しているものは、私の意思を表現しなければならない。そして、私の欲望と意思を満足させる物体とならなければならない。それゆえ、★抑圧された者の人間性の本能的な能力がこう叫んだとて、驚くにはあたるまい。

 

 その日  無慈悲にもわたしを投獄した白人が、私は自分の存在から遠く離れて……

 

 その日、情容赦なく私を私のうちに閉じこめる他者、すなわち白人と共に外にあることができず、方向を失った私は、私の現存在から遠くに、きわめて遠くに飛び出し、自己を一個の物体となした。それは私にとって、何であったというのか、肉体切断でなくして……(フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』邦訳79頁)邦訳 頁

 

 あるいはまた、

 

 私の身体は引き延ばされ、分断され、再びめっきされて、喪色にうち沈んで戻ってきた……ニグロはけもの、ニグロは醜い。おや黒んぼだ、寒いな、黒んぼは……寒い、子供は黒んぼが恐いので震える……[同前邦訳79頁]邦訳 頁

 

 確かに、黒人が以前の主人、拷問者にして非人間者のことを嫌悪しなかったとすれば、それは人間の行動態度のすべての法則を踏みにじることになるだろうし、黒人は人間以下の存在であるという白人の主張を証明することにもなるだろう。ユダヤ人がゲッベルズやヒットラーのような者を愛すると期待されているだろうか? エーメ・セゼールはこう言っている。「ラジオのスイッチをひねって、アメリカでニグロがリンチを受けたというのを耳にする時、私は言おう、私たちはみんな嘘に言いくるめられてきたのだと。ヒットラーは死んではいないのだと」(引用『黒い皮膚・白い仮面』邦訳67頁)

 解決はできないまでも、セゼールや、ファノンや、クリーヴァは植民の歴史と、黒人と白人の関係にルーツをもつ黒人の現実を表現している。セゼールとフランツ・ファノンは共にマルチニク出身で、第三世界の偉大なイデオロギストとして頭角をあらわした。両人とも、蒙をひらいたすベての人間の第一の仕事として、人種主義とその構成要素のすべてを打ち砕く必要性を見てとった。人種主義は、その対象となる相手がアメリカの黒人であろうと、ヒットラーのドイツのユダヤ人であろうと、南アメリカの黒人であろうと、同じである。植民地の構造の輝かしい分析――『地に呪われたる者』――の中で、ファノンはエーメ・セゼールと同じ結論に達している。「一度たりとも人類のことを語ったことがなく、それでいて、ヨーロッパのあらゆる街角で、世界のいたるところで、出会うたびごとに人間を殺戮してきた、そんなヨーロッパとは訣別しよう」(邦訳181頁)彼ら両人が関心を持っているヨーロッパとは、傲慢にも、肌の色で人間を咎めてきたヨーロッパである。かくして、その本質においてエーメ・セゼールとフランツ・ファノンが達成するのは同じ仕事、植民地における精神構造の切開、白人の超越コンプレックスの剥奪であり、それらの居座っていた所に、人間的で文明化した存在としての完全性における人間のイデオロギーの創造物を置くことだった。

 この文脈において、われわれはセゼールの詩、特に彼の主要な詩作品である『手帳』を研究しなければならない。

 

 

 セゼールは一九一三年に、大ウインドワード諸島の一つであるマルチニク島の北部で生まれ育った。この島はいまでもフランスの植民地であり、フランスの海外領である。故郷の町を描いて、セゼールはこう語る。

 

 私の遠く離れた幸せが、現在の悲惨を自覚させる。でこぼこの道が窪地の中に跳びこんでいく、そこに散らばっているのはいくばくかの小屋。疲れることなき道が全速力で丘に向かう、その頂には悪臭紛々たる水たまりに荒々しく溺れている矮少な家々、道は狂ったように登り、無鉄砲に下り、木の枠組みが小さなセメントの足の上にコミカルに持ちあげられており、それを私は「われらの家」と呼ぶ、亜鉛鍍金の鉄の頭蓋は太陽のもとで乾いていく革のように歪む、台所、ぴかぴか光る釘の頭の荒い床、松の垂木、天井に走る影、幽霊のような藁の椅子、ランプの灰色の光、ニスを塗ったようなゴキブリが這いまわる、ランプは傷つくまでぶつぶつ音をたてる……(原著三二頁 英訳四二頁 邦訳 頁)

 

 この島は興味深い歴史を持つ。フランスに支配されていたが、一七九二年、フランス下院が討議もなく奴隷制を廃止したとき、短期間の自由を経験したことがある。マルチニクは他のカリブ海のフランスの領地とともに、フランス革命の昂揚に反応した。その同じ時期に、ヴイクトル・ユーグスはマルチニクやグアデループから元奴隷を雇って軍隊をつくり、奴隷を解放することをもくろんで近隣のイギリス諸島を攻撃した。このことはアメリカの領域全体に、無数の叛乱を計画してきた奴隷達がまたしても主人に反抗しはしないかという警戒心を呼び起こした。ナポレオンは権力をとると、ハイチの抵抗組織(率いるはトゥッサン[註])に対し、再度奴隷制を押しつけようとする実り少ない試みを開始した。しかし、マルチニクとグアデループにはふたたび奴隷制が押しつけられてしまい、最終的に廃止されたのは一八四八年のことだった。マルチニクや他のフランスの領地は、ヴィシー政権が一九四〇年、知事として代表を指名し、西半球の防衛に深刻な問題をひきおこすまで、ふたたび世間の注目をあびることはなかった。確かに近隣のセント・ルチアのイギリス諸島の波止場で船が魚雷攻撃されることはあった。ようやく最終的にヴィシーの残党が排除されたのは、ド・ゴールがフランスの首相になったときだった。エーメ・セゼールの詩と生活に対してこうした事実が関連を持っているかどうかは、作品の中でそうした事実が言及され、その意味が比喩的に用いられている頻度によって判断されるだろう。

 マルチニクの地勢は、セゼールのイメージの重要な源泉の一つだ。セゼールはシュールレアリストから大きな影響を受けており、彼の詩を分析し理解するための中心的要素は、イメージである。マルチニクの地理を特徴づけるのは、その対称性であろう。風上側は、激しい貿易風が海をむちうち、出入りの多い海岸線に打ちつける。風下の海岸は穏やかで保護されており、波のない長い砂浜がある。ハリケーンに襲われたときだけは、怒りまくったように波だつことになる。

 一九〇六年、この島の北部にあることが起こった。セゼールが生まれる七年前のことだが、そのことがセゼールの詩のあちこちに生き生きとした表現を見出している。ぺレ山が不意に、激情ほとばしる噴火をおこしたのである。セント・ピエールの六千の住民がことごとく死亡し、ただ一人生き残った者も、悶え苦しんで息をひきとったのである。省察するところ、選挙の時期でなかったら、この災害は回避できただろう。政治家は警告をだすことによって選挙民がおびえ、住民がその地域を捨て去る結果にいたることを恐れたのである。その山はセゼールの生まれたところにとても近く、現在でも危険がせまっているように見え、荒涼としている。セント・ピエールはいまだに復興されていない。代わりに、首都は南のフォール・ド・フランスに移された。セゼールのしめす強烈な火山のイメージが、部分的にはこの事件に起源をもつことは疑いない。さらに明らかなことは、破壊的な力が新しい物体や新しい植物の隆興をもたらすというセゼールの概念は、大地を再創造する火山の溶岩の効果とパラレルであることだろう。『アフリカへ』という詩の中で彼は述べる。「Paysan frappe le sol ta daba(農民は鍬で土を叩く)」彼にとって農民が大地を切り開くことは、新しい生命形態がそこから発生する全プロセスを象徴する(ta daba は西アフリカの言語ウォロフ語で鍬を意味し、マルチニクの方言の一部として残っている)。こうした考え方は彼の作品の中に繰り返し繰り返し現れる。

 

 

 セゼールは貧しい百姓の一家の生まれだ、と述べる。

 

小さな時間の終わるころ(夜明け前)、わが父、わが母、そして両親の頭の上の家は、葉枯れ病で痛めつけられた桃の木のように痘痕が口を開けている小屋で、屋根は古びて薄くなり、石油罐の切れ端で修理してある、この屋根からの滴りは、灰色のきたならしい鼻をつく臭いの散乱する藁の上に錆の沼地をつくり、風が吹くと、この酷い取りあわせの財産は奇妙な音を立てる、まるでフライ鍋のはねるような音、それから燃える木切れが水中に突っこまれ、ちぎれ落ちる小枝から煙が立ち昇るような音……そして灯油罐を足とする板のベッド、象皮病をわずらったベッド、山羊の革と乾いたバナナの葉とぼろ布が載っている祖母のベッド、マットレスとしてノスタルジアが載っているベッド、その上には油がいっぱいの皿、燈心の先には炎が踊り、皿の上には金文字で「MERCI」という言葉。

恥辱、パイユ通り……

(英訳四六頁~四七頁 邦訳 頁)

夜の明け方、父の、母の、向う側、やぶれた肉刺の小屋、火ぶくれに苦しむ罪人のように、そして、ブリキの石油罐で継ぎはぎされた、擦り切れた屋根、それは、腐った藁の臭気を放つ灰色の汚いねばねばとしたものの中に銹の沼地を作り出す、そして風が鳴ると、この継ぎ接ぎ物はその音を奇妙に変える、初めは、揚げ物の油のはねる音、次に、水の中に漬けられ、紫煙をたなびかせる燃えさしの薪の音……その寝台の、象皮病に病んだような、燈油の槽の足、子山羊の皮、乾いたバナナの葉、祖母の寝台であったマットレスの名残のぼろきれ(寝台の頭部、油のいっぱいに注がれている壺の中に一本の蝋燭の燃え残り、その炎が金文字でMERCIとほられた壺の上で……大蕪のように踊る(『黒い皮膚・白い仮面』邦訳70頁)

 

 貧困だけが若き日のエーメ・セゼールの苦悩の源ではなかった。祖国では砂糖黍の労働者や農民のほとんどが黒人であり、フォール・ド・フランスのプロレタリアートも黒人であり、混血の人々はより高い地位を与えられているが、フランス人の支配者のすぐ下の地位であり、肌の色という癩病を感じさせられている。

 

(黒んぼはみんな同じ、教えてやろう

黒んぼはあらゆる悪徳考えられる限りすべての悪徳をもっている、このことを教えてやるんだよ

黒んぼの臭いで砂糖黍は伸びる

まるで昔からの言い伝えだ

黒んぼを鞭打てば黒んぼが飼える)(註 英訳64頁 邦訳 頁)

 

 フランスの植民政策は、植民地のエリートを同化することにあった。エリートたちは文化的に懐柔され、他には目もくれず、フランスに忠誠を捧げることになるのである。それを達成するために、フランスは、肌の色が何であれ、フランスを政治的文化的に故郷として受け入れるものには、名目上は完全なフランスの地位を認容することにした。この政策についてフランツ・ファノンはこう述べている。「植民地の原住民は、本国の文化的諸価値を自分の価値とすればするだけジャングルの奥から脱け出したことになる」(『黒い皮膚・白い仮面』邦訳二六頁)。このような政策は、明らかに、フランスの政治的文化的伝統がどの植民地の人間たちのもつものよりも優っているという傲慢な仮定に基づいていた。その伝統は人間の最高の達成とみなされ、植民地の人々はすべからくそれを憧れなければならず、少なくともフランスの支配下に入ることが幸運であると思わなければならなかった。それゆえ、フランスの支配というのは、優越するフランスのアイデンティティを尊重してその他のアイデンティティを捨て去ることを、植民地の人々に要求した。フランスで学業をおさめて個人的に学歴をつむことは、社会的な地位に直結した。しかし後にセゼールがフランス共産党を離党する際の書簡で述べているように、フランスでの学業は受け入れがたいものだった。

 

 「世界の中でのわれわれの場所」という特異性、これは他の誰のものとも取りちがえられはしない。われわれの問題の特異性、これは他のどんな問題の下位の形態へも減じられることはない。われわれの歴史の特異性、恐ろしい不運とないまぜになって、これは他のどんな歴史にも属しはしない。われわれの文化の特異性、これをわれわれは今まで以上にリアルなやり方で生きようとし、生かされようとする。

 

 同化政策に対して闘いをいどんだマルチニク人たちは、特に先鋭な矛盾に直面した。彼らが成長してきた環境には、アフリカの文化的表現が残留していた。親密な家族構造、アフリカ的な調理法、アフリカ的な事象の解釈方法、そして話すのはフランス語と西アフリカの言語の混った訛りのある言葉。受け入れられるために、彼らはこうした文化的経験を脱ぎ捨てなければならなかった。ファノンはこうした現象によって発生する問題に言及している。「アンティーユの中流階級は、召使を相手にする場合をのぞいて、決してクレオル語を使わない。学校では子供たちは方言を軽蔑するように教えられる。ひとはクレオリズムを拒否する。家によってはクレオルを使うことを完璧に禁じている……」(『黒い皮膚・白い仮面』邦訳26頁)フランス式の教育は、普通の黒人のマルチニク人を幼いころの文化的経験から遠ざけるので、不可避的に彼は自分の家族を、その後には自分自身をも嫌悪するようになっていく。学生はフランスで資格をとり、完璧なフランス語をあやつり、半ば神の如きものとなる。彼が獲得した地位を失わずに生きるためには、訛りに落ちることを避けねばならず、そうした努力をすることはフランスの植民地政策の成功を確認することになってしまう。彼はフランスの植民政策の走狗とならざるをえず、フランスの法典の究極の用語においてしか、自分の現実を見ることはないのである。

 このような雰囲気の中で、若者セゼールは教育を積むためにフォール・ド・フランスにやってくる。同化族であるフランスの文官と、大多数の同化されていない貧しい黒人プロレタリアートとの間の厳密な階級区分という因子が、セゼールに多大な影響を与えた。さほど産業が発達しておらず、それゆえに国内でもさほどフランス化されていない地方の出身であるために、彼は都会の黒人学生よりも植民のイデオロギーの正当性を問う資格をそなえている。彼は一九三一年、フランスへ行く奨学金を取得した。そしてもう一人のマルチニク人、後年に卓越する詩人にして批評家となる、エチエンヌ・レロとともに出発する。セゼールも「母なる国」への道を掴みとったごく少人数の植民地の学生と同じ期待に胸をふくらませたと見ることもできよう。この植民プログラムの一環として、高等教育のためにフランスへ行かなければならないマルチニクの知識人を完全に同化しおおせることをもくろんで、フランスはマルチニクには大学を設立しなかった。しかしフランスの役人の期待にそむいて、フランスにやってきた学生たちはしだいに幻滅を覚え、別のアイデンティティへの欲求を表明する団体を組織しはじめたのである。そのためにセゼールは到着して三年後には、レオポルド・サンゴールなど他の少数の黒人の学生たちと共同で、 『L'Etudiant noir(黒人学生)』という名の雑誌を発刊した。この雑誌自体は長続きせず、実際には一号しか刊行されなかった。しかし重要なのは、ネグリチュードというイデオロギーを確立しようとしたところにある。ネグリチュードは奴隷制や植民地征服に対して反抗してきたすべての運動にルーツを持っている。二〇年代前半には、西インド諸島に生まれ、アメリカに移って自由アフリカの偉大な唱導者の一人となったマーカス・ガーヴィが隆盛をみた。彼が設立したのは、「アフリカ回帰運動」として知られているもので、アメリカの黒人はアフリカに戻り、アフリカの他の人々とともに、大陸に自由国家を造ろうと主張した。このことと、一九一九年にパリで第一回「汎アフリカ会議」が開催された事実が★助けとなって、アフリカの文化的慣習に基づいたもう一つのイデオロギーの基礎が作られたのである。

 ★それゆえフランスの同化政策が、長いあいだ彼らを否定していたアイデンティティへの、黒人知識人の最も強力な拍手喝采を誘発したことは驚くにはあたらない。「ネグリチュード」という言葉はセゼールのつくった造語だが、そのイデオロギーの系統化展開は高等師範(エコール・ノルマル・スペリウール)の黒人の学生たちの共同の仕事である。この教条は、そのグループから頭角をあらわした卓越せる二人の詩人、セゼールとレオポルド・サンゴールの作品の多くを支配している。

 本質的に、ネグリチュードは、黒人を自分の文化、自分の文明、自分の独自の貢献を持つ人間として主張する理論である。さまざまな時にアフリカ人やアフリカ起源の黒人は、彼らの文化的知性的達成を否定されるシステムに従属させられてきた。ネグリチュードはその次元の中で、それぞれの部分が感じる欲求に従って変貌し、理論の現実性を主張する必要がある。同化というフランスの植民地政策のもとに集うものは、明らかに、自身の文化的独自性の現実をより強烈に主張する必要性を感じるだろう。この主張が人種的ラヴェルの形態をとらなければならないことは、植民政策が確立された非常に人種的な範疇から論理的に導かれる。フランス人は自分達のシステムは人種という判断基準を用いていないと主張するが、真実は「フランスは人種主義者の国」(ファノン)で、根気強く自身の文化的判断基準に従って黒人を定義する。ネグリチュードはそうした神話を粉砕する――「極めて単純に……教育を受けたニグロは、それにもかかわらず、突然、同化されていた文明から自分が排斥されていることを発見する。」この真実を発見すると、次の段階ではヨーロッパ的価値の全システムに疑問を提示し、同化されたものの無念さを、システムは不完全なだけでなく無慈悲でもあるものとして認識される。それは人種主義にもとづいて全構造物を築きあげており、★更に遠くに進んで、人間の成しとげたものではなく、搾取のための手段として神格化されている。人間は実際にはものの数には入らない、人間は搾取され、拷問され、差別扱いされ、虐待され、極少数の利己的な人間のために利潤を産みつづけている。論理的に、エーメ・セゼールやフランツ・ファノンやその他の人々は、本質的に人間的な価値の新しいシステムを創造することに救済を見いだしている。あたりを見渡すと、彼らはニグロの文化の中で奇矯にされてきたものは、マルクス主義者の理論と結びつけられている要素であることを見いだし、新しい人間の合成を達成するだろう。このことからサンゴールもセゼールも(彼はそれ以来、政治において顕著に分岐する)黒人性は受け入れられるというだけではなく、美しいのだと宣言する。この昂揚の基本的な理由は、『手帳』の中で情熱的に表現されている。★

 

ヘイア、高貴なるカイルセルデートの樹よ

ヘイア、何一つ発明しなかったものたちよ

何一つ探検しなかったものたちよ

何一つ飼いならさなかったものたちよ

すべてのものの本質に酔いしれるものたちよ

表面(うわべ)のことには煩わされずにすべてのものの動きに心打たれ

飼いならす欲望から自由だが世界の遊戯に親しんでいるものたちよ

 

あらゆる事物の本質に、心を奪われ、身を委ねている

表面(うわべ)のことは何も知らぬが、ただあらゆる事物の動きに捕われている

征服しようとは思いもしない、だが世界と運命を共にしている

邦訳 頁     サルトル『黒いオルフェ』P185

 

 誤解している人もいるようだが、発明しなかったのは良いことだとセゼールが主張しているのではないことは明らかだ。彼はヨーロッパ人のテクノロジーの讃美に対し、植民地化による人間の血腥い征服と破壊に対し、皮肉たっぷり含みのある話をする。そうして彼はこう語りつづける。この人々は、

 

まことに世界の年長の息子たちであり

諸手を広げている 世界のすべての息吹に

すべての息吹の兄弟の領地に

世界の海水の排水されきっていない海底に

世界の動きそのままに水を汲みだす世界の肉の肉に(訳註)

 

まことに彼らは世界の嫡子

世界のいっさいの息吹に毛穴は開かれている……

世界の動きそのままに鼓動する世界の肉の肉!

邦訳 頁  サルトル『黒いオルフェ』P185

 

 ヒューマニズムの教義としてのネグリチュードはセゼールによってこう総括される。

 

ヘイア 喜びのために

ヘイア 愛のために

ヘイア 涙の化身とぶりかえした最悪の苦痛のために     邦訳 頁

 

 こうした表明は、セゼールがヨーロッパで体験し、もう一つのイデオロギーを持たねばならないと思い至った渇望の文脈で理解しなければならない。セゼールの見るネグリチュードの教義は、人種にはかかわりなく、彼と同じように人間を信頼するすべての人々のためのイデオロギーである。セゼールは、自身の言葉では、征服され服従させられたけれども、すべての人々にとって、もっと深い社会的倫理をもつ人々のためにある。

 

見捨てること。

そこにはハイエナ男や豹男がいるのだから、

おれはユダヤ男になろう

カフィール男に

カルカッタ出身のヒンドゥ男に

ハーレム出身の選挙権の無い男になろう。(P48)邦訳 頁

 

「すべてのものの本質に酔いしれることのない」能力のゆえに、「北の」白人に対して、愛する仕方、本質的人間を再発見する仕方、テクノロジーの道具を人間の欲求にならす仕方を教えることのできる人々がいる。その時、ネグリチュードはすべての人類に必要と考えられる価値体系となるだろう。セゼールはネグリチュードや、フランス語や、シュールレアリスムや、共産主義などを、「奇蹟の武器」、仮借なき敏腕の奴隷にするもの★に対抗して血気にはやる人間を武装する道具だと見ている。

 セゼールのシュールレアリスムの影響が明らかになったのは、彼のパリでの滞在期間中のことである。シュールレアリスムは彼にとって、神聖視され合理化されたブルジョワの価値そのものである言語の、制限された形態を打ち砕く論理的な道具だった。言語のパターンを打ち破ることは、植民地主義やすべての抑圧的形態を打ち砕きたいという自らの欲望と軌を一にしていた。それゆえにセゼールは、シュールレアリスムはそれ自体の中に目的があるのではなく、目的のための手段だと見ていた。かくして、「正常」なパターンを粉砕することは、言語の論理的進展であり、人々にショックを与えて、新しい認識に至らせることを目指していた。セゼールの書いた詩にあっては、言葉は正常な論理的秩序を持っておらず、句読点がなく、イメージの連なりは互いに連関を持っておらず、様々に反射する意味を主題に投げかけている。セゼールはパターンを破り、その論理的秩序が支えている人種主義を破ることによって、シュールレアリズムに目的を与えたと感じたのだ。

 

 

 一九三九年にセゼールは故郷に帰らなければならないという見通しに直面した。その判断自体が危険をはらんでいた。植民地から来た他の学生たちは、ヨーロッパにしがみついて肘掛椅子の理論家になるか、あるいは帰国して、それまでの教育のすべてが彼らのために用意していた文官任務に吸収★されてしまうかだった。帰国したものたちは、エレガントでない方言を話す文盲か半文盲の両親を軽蔑し、恥じることになった。そのような理由から、一九三九年の始めにセゼールは友人 のペーター・ゲベリナ(1969年現在ユーゴスラビアの大学教授)ともども、アドリア海の海岸に★滞在した。目的は『帰国手帳』を書くことにあり、二~三週間で彼はそれを書き上げた。この詩の中で彼は、帰国が自分に及ぼす影響を想像し、想像した経験に基づいて付随する価値体系を展開させた。雑誌「レスプリ」は全誌面を『手帳』に提供したけれども、詩自体はほとんど批評家の関心を呼ばなかった。

 帰国に際し、セゼールはフォール・ド・フランスのショールシェ高校の教師となった。このころまでにセゼールがフランス共産党の党員になっていたことと、この国がヴィシーの残党の手中にあったことを考慮にいれれば、彼にとっては危険な時代だった。信念を貫きとおしたその勇気は、彼がいかに真剣に行動の人となることを決断したかを物語っている。

 一九四二年、フランスのシュールレアリスム運動の指導者アンドレ・ブルトンは、ナチをのがれての飛行の途中、マルチニクに立ち寄り、そこでエーメ・セゼールに会った。この二人の詩人は強い友情を築きあげた。それはセゼールの人生における重大な出来事であった。アンドレ・ブルトンはフランスの主要な文学サークルにセゼールのことを認識させた。一九四四年になると、エーメ・セゼールはパリに戻り、大いなるファンファーレとともに受け入れられた。一九五六年には、アリオーヌ・ディオプが一九四七年に発刊した文芸雑誌、「プレザンス・アフリケーヌ」が『手帳』を再刊した。「プレザンス・アフリケーヌ」はアフリカや西インド諸島の最も傑出した作家や知識人の幾人かにとって、フォーラムとして機能している。それらの人々とはアリオーヌ・ディオプ、レオポルド・サンゴール、セゼール、レオン・ダマスなど大勢で、彼らは後にアフリカの独立運動で重要な役割を演じることになった。

 一九四六年、セゼールはフランス下院のマルチニク代表を決める選挙にでて、当選した。彼はまたフォール・ド・フランスの市長になり、その地位を今日まで保っている。マルチニクはフランス下院の選挙区で、代議士は三人である。代議士の多くは、基本的な政治信条として、常にフランスとの連携を唱導していた。セゼールが選ばれたことは、初めて、政治的経済的にマルチニクの現実と同定される男が、フランス下院で発言権を得たことを意味していた。セゼールにとっては、フランスの支配と同化に対する激しい敵意を表現できる範囲が広がったことになる。彼は抑圧されたもののイデオロギストというだけでなく、その代表でもあった。実際、自分自身その一員なのだから、まさに抑圧されたものの欲求と要求を理解していると主張できた。★教育的な達成にもかかわらず、彼は同化されることを拒否していた。代議士としての彼の位置は、セゼールが活動参加の中で抱いてきた信念に対して、そのありったけを表明した。彼は権力の施行によってのみ、彼がより良い政治的文化的価値と考えるものが成し遂げられるのだということを理解した。自分が★占める代議士という立場は、望ましい変化への影響を及ぼせる権力基盤だと彼は見ていた。行動の人というのはセゼールにとって、パリやヨーロッパを離れて海外へ冒険を求めたランボーによって象徴される。さらにランボーがアフリカに魅せられたという事実が、セゼールにとっては親しいものに思われるのではないだろうか? というのも彼はランボーのように、アフリカの体験によって感覚を鋭敏に深めてはいないのだから。★この点はあまり深くは極められないだろう。セゼールは自分の発議権イニシアティヴをシステムや英雄に服従させるような男ではなかったし、今もそうである。そういう理由から、彼は一九五六年、このような文章を残して、フランス共産党を離党した。

 

……われわれはわれわれのことを考える者を、われわれの調査を行い、われわれの発見をなす者を代表として派遣できない。それゆえわれわれは、われわれの最良の友となりわれわれに答えてくれようとも、誰をも受け入れるわけにはいかない。すべての進歩的政治学の目的が、いつの日か、植民地の人々に自由を回復させることにあるとするならば、進歩的政党の一日一日の活動は、少なくとも想定される目標と矛盾してはならず、基本中の基本、心理的であると同程度に組織的な基本、この未来の自由を日ごと覆してはならないだろう。そうした基本は煮詰まって一つの条件となる。主導権イニシアティヴをとる権利である。

 

 これと同じ理由で、セゼールはシュールレアリストに対する恩義は保ちながらも、彼らと決別する。セゼールにとって、すべては変化の欲求に膝を屈しなければならないのだ。

 

俺は嵐と言いたい。俺は河と言いたい。俺は竜巻と言いたい。俺は樹の葉と、俺は樹と言いたい。俺はすべての雨粒に吸いこまれ、すべての露に湿らせられたい。狂熱の血潮が眼球のゆるやかな流れにうねるように、俺は言葉を泥にはまった馬のようにうねらせたい……邦訳 頁

 

 セゼールは言葉だけでなく、文学の他の形式でも実験を続けた。彼は理論的エッセー、散文作品『植民地主義について』(1950)、戯曲『そして犬どもはは黙っている』、『クリストフ王』、『コンゴの一季節』(ルムンバを素材にした戯曲、1969)、その他の作品『奇蹟の武器』、『首を切られた太陽★』Soleil cou-coup氏iどちらも一九四〇年)、『地籍図』Cadastre, 『鉄具★』Ferrements(一九五九年)などを著している。最後の二作はシュールレアリスムの昂揚の時期を代表するものである。

 

 

 『帰国手帳』は大雑把に三つの部分に分けられる。冒頭の一行は、大いなるドラマのシーンの幕を上げる。

 

小さな時間の終わるころ――あかしがた

 

 これは夜明けの直前、空に灰色の光が拡がる頃・時分である。詩は荒涼としたシーンから幕をあける。そこに人間は居らず、受難の傷が口を開いている。彼らは個人としてではなく、じゅっぱひとからげに放蕩のかぎりをつくす存在として受難したのである。町、群衆、「高地のマラリアの血」には、「怒りの噴火口」がはびこっている。島全体は地上の巨大な地獄のように見え、考えられる限りの悪徳と腐敗が蔓延している。植民地主義とそれが人間の生活に及ぼす影響について、これほど激しく、これほど劇的に描かれたことはなかった。セゼールは犠牲者の受難にはほとんど関心を持つことなく、貪欲と物質的エゴイズムで堕落した人間の生活を送る者に作用する腐敗を生き生きと語る。この状況には安易な解決はありえないだろうし、受難をやわらげるに充分な「そこはかとない優しさ」もない。受難したものたちは殺されてしまい、今や、火山の爆発によって古い秩序を破壊することだけが、ただ一つの治療法である。時はすばやく過ぎ去り、一年は受難の一サイクルであるが、その中には生命の種子もはいっている。対抗勢力は、クリスマスを祝おうとする争いの中に明らかに描かれている。

 この詩の第一部には、重く深く暴力が充満している。この暴力は植民地の歴史の暴力であり、詩人の怒りのすべての部分を緊張させているのと同じ暴力である。この怒りが具体的であるのは、遠く離れたところからの共感ではなく、セゼールが受けた現実的で不名誉な貧困と屈辱の経験から引き出されたものだからだ。そうしたものとして、彼は自分が描く状況の不可欠な一部なのである。セゼールは自分の若い日々の体験に対してではなく、自分自身と他の者の破滅・荒廃)に責任があるとみなしている西欧的価値に対しての、反乱と激情の声となっているのである。

 こうした植民地システムの暴力と残虐の背景を描きおえると、セゼールは革命の心理学の現実へと筆を移す。

 

俺は受け入れる、俺はすべてを受け入れる……

 

そしていま突然、力と生命力が、まるで雄牛のように俺を襲い、生命の波がモーヌ山の乳首の上を流れ、静脈や小静脈は新たな血とともに鼓動し、サイクロンの巨大な肺は呼吸し、火は火山の中に蓄えられ、巨大な地震の振動は我が灼熱の中にある生きた肉体の調子でビートを打つのだ。

 

いま立ち上がれ、我が国よ、俺は風の中の一本の髪の毛、風の限りなく大きな拳の中で、俺の手は小さく、俺たちの力は俺たちの中ではなく上方の、黙示録の雀蜂の毒針のように、夜と聞き手に穴をうがつ声の中にある。そしてその声は宣言する、何世紀ものあいだヨーロッパは俺たちを嘘でやりこめてきたと……邦訳 頁

 

 その嘘とは「完璧におぞましいニグロ……古びて擦り切れた上着で身を隠しているニグロ」を見て彼に笑いをひきおこさせるような嘘だ。女たちは彼を見て笑い、彼も笑いかえす。しかし彼は自分自身を笑ったことを知っている。ニグロは貧困の切断術のゆえに醜いのか、肉体の外見で人間を責めたててきた偏見や愚劣さが堆積しているゆえに醜いのか? 「彼の鼻は半島のように係留地を離れている」ニグロの醜さとは、セゼールの観察するところ、ニグロを獣の位置に格下げしようとするすべての態度によって押しつけられてきた醜さである。実際セゼールは獣になったことがあり、それは他人から獣にさせられたのではなく、自分自身、獣であることを受け入れたからであった。その仕種も動作も、獣のものであった。セゼールがかくして自分から自己を切り離して笑うとき、彼は自分を破壊したその力と同盟を結ぶことになる。この認識はショックを伴ってやってくる。彼がアイデンティティを再発見するとき、彼はもはや打ちのめされた男ではない。実際には、自分の敵、人類の敵を凝視し、面とむかってこう言うのだ。「悪魔の似姿に造られて、それに打ち勝てなかったものもいるのだ」と。「良き黒んぼ」だった祖父について言えば、彼は死に、そのことに対しセゼールは「万歳」と言う。なぜなら彼は卑屈でへつらう「良い黒んぼ」で、「不幸に前と後ろを叩かれ、貧弱な頭脳に、抑圧されるという宿命を欺くことはできず、自分の運命を左右する力などないのだという観念を押しこめられている……」「また彼は、気の抜けた砂糖黍以外のものを、鍬をいれて掘り切るかもしれないなどとは彼には思いもよらなかった」「そして彼らは彼に石を、スクラップの鉄のかけらを、割れた瓶の端を投げつけたが、その石も、その鉄も、その瓶も……」「良い黒んぼ」は殴りかえさず、失敗する中で人類の最高の大望を裏切った。セゼールはそうしたふうになろうとはしなかったが、闘うものたち、「自分の足で立って」打ちのめされずに留まっているものたちと自分を同一視している。彼らはどこにでもいる、なぜなら彼らはみな大地の男であり、彼らの「船は切りひらかれた海面を恐れることなく前進する」からだ。彼らは新しい激情と革命の感覚に火をつけられた狂人だ。彼らは新たな発生物、「三角貿易のインツーリスト」を破壊し尽くすハリケーンだ。

 この詩の第二部はおのづから、人類に対する非利己的な愛を大きく堂々と(ぬけぬけと)描く最後の哲学的言明へとつながっていく。今や斉唱となって、つまらぬものとして嘲られてきた資質――愛、笑い、怠惰、踊りなどをセゼールは賛美する。鎖に繋がれた囚人へのキス、その受難が「激怒した我ら」に基づく新しい倫理を作りだすであろうすべての人々への、噛みつくことのできるものへの、人間の兄弟の契りで結びつけられたものたちへのキス。

 

俺を縛れ、無慈悲に俺を縛れ

お前の大きな手で輝かしい日に俺を縛れ

俺の黒い共鳴を世界の臍に縛れ

俺を縛れ、俺を縛れ、苦い友愛を

お前の星々の輪縄で俺を絞め殺せ     邦訳 頁

 

 沸き立つイメージや劇的な言語は、人間性と変革に向けたセゼールの呼び掛けを、センチメンタルな幻想以上のものにしている。彼の語調は預言者的である、とナイジェリアの学者、アビオラ・イレレは『アフリカ文学への招待』(ウリ・ベイエ編集)で述べている。

 

 セゼールの詩の中で、破壊の光景をさらに強調するのは、さまざまに変化する火、蛇、毒草、危険な動物など自然界から抜き取られたイメージ、そしてまた弾丸、毒、ナイフなどの人間界から抜き取られたイメージである。詩人は革命を行う中で、あらゆる破壊の動因で自ら武装し、自然界のすべての暴力的な示威と同盟を結び、それによって四元素の自然力の根本的な力を獲得する。

 

 セゼールは故郷の島の光景と同じように激しい対照を用いる――ハリケーン、火山、風、それとはりあうような、破壊の後に来る静寂と繁茂。

 愛と喜びと寛大さの表明は、非常に現実的で、塗炭の苦しみの体験の具体的な結果ではなく、ナイーヴなものだと見られるだろう。そのような徳目は、それに影響を与える力がなければ、まがいものでしかない。言われているように、抑圧されたものの道徳は、彼らの恐怖と忍従から発生している。抑圧されたものは、彼らを踏みにじるものたちよりも道徳的に優れていると夢想する。セゼールの詩のつたえる意味を、ある人が行ったように、「名誉ある忍従」であると理解することは、彼の作品の基本的な含蓄を見落とすことになるだろう。セゼールは詩人、哲学者、預言者であり、革命的なメッセージこそ彼の主要な力なのである。■

 


 

 

訳註 トゥッサン・ルヴェルチュール

 フランス革命期のハイチの国民開放運動の黒人のリーダー。彼は一七九八年英国の駐留軍を追いだし、自分が生涯ハイチの支配者になるという憲法を導入した。ナポレオンは次第にトゥッサンの独立的行動にいらつきはじめ、一八〇一年にはフランスの権限をもって彼を捕らえ、ジュラ山脈の監獄に押しこめ、彼はそこで一八〇三年に死亡した。

 

肉の肉……サルトル全集の註によれば「最愛の者」の意。

 

 

 


 

帰国手帳の英語版はペンギン・ブックスに収録されている。

ペンギン・ポエト

 

 エーメ・セゼールは一九一三年マルチニクに生まれ、パリの師範学校に行った。処女作『帰国手帳』の抜粋が発表されたのは、一九三八年である。一九四〇年、アメリカへ逃れたアンドレ・ブルトンは、小間物屋のカウンターに置かれた謄写版の詩に出会った。ブルトンは直ちに「現代の最も偉大でリリカルな記念碑に他ならない」と喝破した。エーメ・セゼールは他にも多くの詩集を出版し、戯曲を二作書いていて、その最近作はパトリス・ルムンバの死を扱っている。彼はフォール・ド・フランスの市長であり、フランス下院の代議士であり、マルチニクの独立革命党の代表である(フランス共産党は一九五〇年代に離党した)。彼はカリブとアフリカの解放の大義のために活動的である。

 

裏表紙の解説

 

 『手帳』は三〇年前(訳註一九六九年現在)に書かれたものだが、今現在でもほとんど古びていないように思われる。テーマは、フランツ・ファノンやマルコムXやメキシコ大会で黒い手袋の手を突き出したオリンピックの競技者の精神をもって表現された、黒人種の未来である。にもかかわらず、本書は政治的な小冊子ではなく、リリシズムの顕著な詩作品であり、おそらくはフランスのシュールレアリスム運動に啓発された作品の中で最も支持されたものだろう。セゼールの人生と作品は、この版のために書き下ろされた南アフリカの詩人マジシ・クネーネの序文の中で、充分に論じられている。

 


 

ブルトン全集

帰国手帳の序文

 


 

サルトル全集 第10巻 人文書院

「黒いオルフェ」(海老坂・)

 


 

白石かずこ「アフリカの杜甫」日経95・2・11

 「1977年ロッテルダム国際詩祭でアフリカの詩人が太鼓と一緒にズールー語で詩の朗読をしている。そこにはスピリチュアルな迫力があり、まるで東北の山伏の祈祷のようであった。(中略)

 彼は三十歳の時、解放戦線で戦うためアパルトヘイトの南アを出た。たえず刺客にねらわれ、日本にも何回か来日した。ここ十数年はロサンゼルスに住んで大学で教えていた。(中略)

 「一昨年、南アの政策が変わり、三十四年ぶりに故国に帰ることができた。」

 マジシ・クネーネの消息を伝える文章が日経の「交遊抄」にあったので、引用する。白石かずこは「交遊抄」で再度クネーネのことを書いていたが、採録を忘れた。

 


 

『マルコムX最後の証言』角川文庫 

---「何が暗殺者をそそのかして殺人を犯させたのか? マルコムがわれわれの闘争を拡げ、国際的な闘技場に持ち上げたことが、彼らの気にさわったのだろうか?」(邦訳八九頁?)

---暗殺者たちを殺人に駆り立てたものは何か? マルコムがキャンペーンを通じて闘争を国連に持ち込み、国際的な分野に広げていったことが彼らを困らせたのか?[マルコムX最後の証言]


 アフリカの仏語圏の詩人などについてより詳しく知りたい方は、1970年前後の「詩学」や「月刊アフリカ」に載った服部伸六の論考を参考にされたい。 「アフリカ」の連載は『アフリカ陽気暮らし』としてまとめられ、 三修社の文庫で1984年に刊行されている。