《小さなユリシーズの冒険》 | 拾遺愚想 - 越境する妄想団 delirants sans frontiere

《小さなユリシーズの冒険》

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バラード、映画『太陽の帝国』について語る

J・G・バラードの翻訳者ロベール・ルイ、SFの法王に対面

インタヴューアー ロベール・ルイ               ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール 1988.3.11-17.

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 小説『太陽の帝国』はバラードの初めての自伝的作品である。「以前の私の全作品の父」と彼が言うテクストを、スピルバークはユニヴァーサル・スタジオを総動員して取り組んだ。

ルイ この映画の中には、あなたの作品の主人公がいましたか?

バラード 私の若き日のオルターエゴを演じた子役は、『大人は判ってくれない』のジャン=ピエール・レオ以来、匹敵するのを見たことがないほどの演技力を発揮している。スクリーン上の子役には、いずれは英国に向けて出発し、SF作家となり、発表されるや映画化される小説を書くことになる大人がひそんでいたよ。

ルイ 最初にワーナーのプロデューサー、ロバート・シャピロが接触してきたのでしたね? その後の経緯はどうでしたか?

バラード ハリウッドの監督や大きなスタジオとは初めてつきあったが、作家たちが映画産業と悶着を起こしてきた長い伝統から考えていたのとは正反対の経験だった。スティーヴン・スピルバークに会ったのは撮影が始まって一ヶ月後だったが、流布されているイメージとは極めて異なることがわかった。彼は明晰で、厳密で、大いに想像的な頭脳を持っていた。実際の撮影よりかなり前に、私の小説の中でも最も映像に移し替えるのが難しいシーンについて、言葉で語って聞かせることができた。少しも感傷に流されることがない。それに『太陽の帝国』はとても硬派の映画なので、感傷など見いだせないと思う。スピルバークは現在40才だから、彼の作品と認められている映画を監督したのは、とても若い頃だったことになる。『未知との遭遇』という特筆すべき映画が撮影されたのも、彼が30才の頃だ。

ルイ 『未知との遭遇』のどんなところに興味を持ったのですか?

バラード 映画の中の妄想の役割だ。若い技術者が、ある山にとりつかれ、そのあげく、自宅の食堂に模型を造りあげるという筋立て。これは私が小説の登場人物に取り入れてきた行動によく似ている。また、スピルバークが人間と宇宙からの訪問者との間に音楽的遭遇を取り入れるというかなり複雑な筋立て。コードの集合(この場合、音楽的な)としてある現実の解釈は、とても奇妙なことだが、『残虐行為展覧会』といった作品の中での出来事の起こり方を想起させる。実のところ、SFの中での長いキャリアを積んだあと、一冊の本の映画化を通して、われわれが出会い、それによってわれわれがSFから脱皮できたとしたら、それは偶然ではないのかも知れない。

ルイ あなたはシナリオの共作を提案されなかったのですか?

バラード いや、それに私は拒絶しただろう。別のタイプの想像力をかきたてる専門家の仕事が重要だと思う。その上、新たな眼で物語を見なければならないじゃないか。トム・ストッパードは極めて忠実な、素晴らしいシナリオを書いた。しかし会話の大部分は本から直接に取り入れている。私の見るところ、ストッパードはオスカー・ワイルドの手法に少し似た哲学的パラドックスと精神の遊びの詰まった作品の作者のように見える。後に知ったが、彼の両親はチェコの出身で、第二次世界大戦の直前にシンガポールに亡命したらしい。彼の父親は日本の占領中にそこで死んだ。このようにストッパードは『太陽の帝国』の主題と無関係ではなく、非常に個人的に結びついていたのだ。

ルイ あなたはこの映画に少し顔を出していますね?

バラード まばたきしたら見つけられないほどだよ。冒頭の仮装舞踏会のシーンに、ユニオン・ジャックを裁断したチョッキとシルクハットを着て、ジョンブルの扮装をして出演した。それはスピルバークの発案でね、私はとても滑稽に思った。私の小説はイギリスに対してむしろ厳しい見方をしているのだからね。この撮影で私は奇妙な体験をした。私が住んでいるのはシェパトンのスタジオの近くで、近所の人々の多くがこの映画にエキストラで出ている。夢の中にいるような異様な感覚に私が襲われたのは、眠りの精神が昼の生活の諸要素を借り入れて、それに役を割り振ったように思えたからだ。現実と虚構が逆転してしまったのだ。

ルイ 多くの作家にとって、最初の小説は自伝的なものです。あなたは個人的な物語を語る前に、SFで三十年の長い回り道をしたのですね。

バラード 一九四六年にイギリスに到着したとき、もはや上海に戻ることはなく、ここで人生をやり直さなければならないと悟った。私がSFを書きはじめたのは、疑うまでもなく、偶然ではない。イギリスにいる私に、自然主義の小説は刺激を与えてはくれなかった。五〇年代のイギリスには関心がなかったし、ごく秘めやかに、知らず知らずのうちに、戦争中に上海の近辺で体験したものを解きほぐす鍵を与えてくれる想像的風景を造ることを探求していたようだ。戦争中の中国の風景を復元する手法でイギリスの風景を再構成するために、私はSFの手法、更にはもっと自分の感覚に近いシュルレアリスムの手法を利用できるようになっていった。SFは『沈んだ世界』のようにロンドンに洪水を起こし、『クラッシュ』におけるように真の《オートゲドン》、自動車の黙示録を創りだすことを可能にした。真に予言的なシステムは私の人生において非常に早く--日本の中国占領後、収容所での数年の間に--芽生え、それは私が書いたすべての作品の中に実現されていると思っている。  私の物語の中で重要な位置を占める激しい時間の崩壊は、私が中国で知った存在形態に密接なつながりがある。そこ中国では一九四一年十二月に真珠湾で攻撃が起きるや、時間は荒々しく停止した。百五十年にわたる西洋の支配は、日本軍の攻撃によって、芝居の終わりのように、突然に幕を降ろした。それ以来、収容所の体験は、別の種類の時間、時間の欠如の中に入りこんだのだ。戦争の終わりは全くの不意打ちだった。皆は戦争は永遠に続き、時間は無限に引き伸ばされるように感じていた。収容所の中では、人々は実験室の中の獣のようだった。疫病と栄養不足については話すまでもないが、それは一種の感覚器官の喪失の実験だった。そこに突然の原子爆弾だ。またもう一度,日を置かずに、別の世界が場所を占め、異なる様々の時計が回りはじめた。SFが真実、私の唯一の選択だった。もしリアリズムの方に、あるいは純粋なファンタジーの方に行っていたら、恐ろしい現代の破壊力を実現した本質的な道具--その第一はテクノロジーだ--を検証することはなかっただろう。  

ルイ  原子爆弾については、登場人物に、第二次世界大戦の終幕ではなく、第三次の始まりだと語らせていますね。また《信用貸しの戦争》という表現も使っていますね。-----『太陽の帝国』を読むべし-----  

バラード  当時の中国人の多くは、そのことを知っていたと思う。ヨーロッパではドイツの降伏以降、戦争は長引かなかったし、冷戦が勃発するまでには何年かがあった。上海では違っていた。戦争は一度の攻撃で終末を迎えたが、それが本当に確実なものかどうか良く分からなかった。大勢の日本軍がいつも我々の周囲にいた。アメリカ軍がいるのはとても遠い沖縄で、中国軍もまた遠く、中国軍が到着したと思うと、共産軍と国民軍との間で戦闘が再開された。それからインドシナでのフランスの長い戦争、朝鮮戦争、さらにはヴェトナム戦争。戦争は極東のいくつもの戦線で続けられた。一九四五年の原子爆弾は、実際には、何も解決していなかった。旧体制と新体制、植民地主義とナショナリズム、共産主義と資本主義の間の基本的な対立、特権階級と、貧者に対して多かれ少なかれ公平な社会主義体制(そしてこれらの体制の国の多くは多数の貧者の国だった)との間の闘争--こうした紛争のすべてはまだ続いており、その展開は文字通り第二次世界大戦の終結の数日後に始まったのだ。いうなれば、これは確実に信用貸しの戦争で、原爆が最初の払い込みというわけだ。  

ルイ  あなたの物語の中のいくつかのイメージ(空っぽのプール、さびれた飛行場)の起源は『太陽の帝国』に見いだされますね。あなたの想像力は人物に対するよりも、風景に対する方に働いている。あなたは小説家というよりも、むしろ画家のように感じているのですか?  

バラード  確かにそうかも知れない。しかしイギリスに到着したとき、周囲のものを少しも理解できなかったことが私には忘れられない。それから十六か十七になって、フロイトやユンクを読み始めたのと同じ頃、シュールレアリスムの画家を発見した。彼らの絵の中に、突然、上海で用いられている論理、精神の公式が見て取れたのだ。私は彼らのとても強烈な現実の探求に、ずっと忠実だったと思う。  

ルイ  『太陽の帝国』から新しい長編『奇跡の大河』への移行はいかがでしたか?  

バラード  私の想像力は現在に回帰した。私は今日の現実の本質、我々の風景が世界的なメディア・システムの製作する虚構によって、いったいどのくらい侵略されているかということに関心を持った。この本についてもっと正確に言えば、人はまだ個人的な創造の行為を(どんな行為でも良いが、友達のために食事を作るとか、あるいはこの長編のように、文字通り河を造りだしてしまうとか)をどのくらいまで認めうるのかだろう。 我々が現に生きている状況下で、メディアの風景は、我々の生活の個々のデテールを支配しようと待ち受けているように私には思える。これはまたしても知恵の樹の物語だ。林檎を食べながら、アダムは実はテレビを点けただけだったのではないだろうかね?  (終)  


このインタヴューはダビッド・プリングルの作ったインタヴュー・リストには載っていないようである。