今後の題材のひとつ。 #2  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

    
    
     pk07sp.gif  http://ameblo.jp/badlife/entry-10036830294.html より。 
    
    
    
    
title: 住めば都か? 不毛の地と安住の未来を選択する狭間にいることについて。 (仮題) 
    
    
ハリウッドの監督として、これまでも数々の話題作を手がけてきたロン・ハワードさんによる、
映画『遥かなる大地へ
(原題:Far And Away 1992年 米)で、主演の二人、
二コール・キッドマンとトム・クルーズが仲がよかった頃、その映画の中では
新たなる自由の土地を夢見て、ヨーロッパから船に乗ってアメリカ大陸へ辿り着く話があった。
そこにはまだ、
南北戦争、独立戦争もなく、  
白人達がアフリカ大陸から黒人を拉致して奴隷にしたり、  
原住民であったインディアン ネイティヴ・アメリカンを迫害、 侵略したりする以前の開拓時代、
ウィ・アー・ザ・ワールドが歌われる以前 の、
旧い旧い時代のアメリカの姿が描かれていた。
その映画のワンシーンでは、自由を夢見る若者が、
「自分の土地」を手に入れるために
拳闘(ボクシング)で日銭を稼ぎ、そういう身体の張り方、自分自身の力で
何とかして「土地」を手にするために逞しく生きる男の姿があった。
    
    
 ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 
    
遥かなる大地へ
    
    
土地がなければ建物は建てられない。また、
キャンプ用のテントとか、一時的に設けたプレハブ小屋、
公園の片隅や川原へ即席に おっ建てたダンボール・ハウスなどはどうでも 
建てる材料があっても、その資材のすべてが、長い目で見て
その土地に合っている…相性がいいとは限らない。
「家を建てる」「方位・方角を決めて、長い間そこへ住む」
ということは、本来の自然界に生きる人間にとっては
即席でも間に合わせでもない。
ヒト一人の一生や、次の生涯、「孫の世代も」と考えらて建てられた物件が
何年か後、競売にかけられる空き家になろうと、
どこへどうして住もうと、誰がどこで生きようと死のうと、
そこでその場所で今を生きる者の覚悟の問題。 ところが、
黒船来航時代から今日までの日本人は
様々に自然環境を破壊して、
かつては「ウサギ小屋のエコノミック・アニマル」と謂われた人も頑張って
狭い日本劣等の国土を好き勝手に開発してきたものの、
田舎、地方であろうと都会であろうと、
自分自身の肉体と心が安定して落ち着いていられる場所も
最早、限定的に少なくなってきた。

    
    以下、過去に書いたモノを順序だてて抜粋しながら再編集。 
    
むかし昔の大工さんは
一軒の家を建てるのにも一本の柱も梁も
どうでもいいものではなくって
山から採ってきた材木も
自然界の決まりに基づいて造っていたそうです。
朝陽が昇り夕陽が沈む四季の繰り返しの中で
山に生えた樹木は東西南北において
その育ち方や丈夫さのすべての質がちがう。
それを家の西側には山の西側斜面に生えていた木を
東側の柱には山の東にあったものを
南向きに構える玄関まわりの支えには
山の南で育ち伸びた樹木を
北側は北側のものを…
というように、そうやって材質を吟味した骨組みを
一年以上は雨風にさらしておいて
梁や柱の締まりを整えさせる。
置けば置くほど頑丈な骨組みになるらしい。
その家の座敷(客間)も実に広々としていた家々の造りがあった。
今はもう、おそらく、そんな技術を持った大工さんもいないだろうし
2x4のプレハブ住宅も2週間もあれば、ほぼ完成してしまう。
「耐震強度も安心設計」「100年は大丈夫」
などというフレコミもいっぱいある。
だけど書類にハンコを押して造る家の中は狭い。
ほとんどが四畳半~6畳で
広くても10畳、12畳のリビングは少ない。
内側の空間が広ければ広いほど
支えや突っ張りは頑丈でなくてはならないので
最近のマンションや一般住宅には当然、
ある程度の限界があった。
それを風水とかの知識で建てている人もいれば
設計技師や施工業者の職人の経験とは関係なく
ブランド名や流行の建築資材に乗せられて
家を建てて購入している人も少なくない。
それは果たして、人間の住む家なのだろうか? 
    
人間の五臓と対象に創られている自然界では
かつて、城でも砦でも
5階建て以上の建築建造物は存在しなかったという。
とくに四季の移り変わりがハッキリとしていた、この日本においては…。
それでも、中に住んでいる人間同士の仲が悪かったり
他力本願な病人ばかりだったり、仮面夫婦だったり、それ以上に
お父さんという大黒柱がしっかりしてないと
そういう家屋は傷みも激しく、崩れやすくなってしまうこともあった。
また、人がまったく住んでいない場所は、どんな家でも損傷が激しい。
だから、中に住んでいる人が仲良く元気で
「おとうさん!」という人が常に頼りがいある頑丈な人なら
大丈夫でしょ。
たとえどんなに大きな揺れに襲われて建物が潰れようとも
城の主は必ず家族を守って、自分の人生の建て直しも貫く。
「どっからでも かかってこいっ!」っていう余裕が大事だ。
そういう意味で、『地震・雷・火事・オヤジ』だったんですよ。
つい最近までは。
ところが今は、『地震・雷・火事・イボ痔 』みてぇなもんで
どこのお父さんも頼りない。
そりゃぁ、崩れても文句は言えねぇべよ。
家を使って住んでいる“人間の大黒柱”そのものに
何事にも微動だにしない健全な肉体と精神が
備わってないんだから。
お母さんの方がよっぽど頼り甲斐がある。
…俺んちも似たようなもんだけどな。
結論! お父さんが元気な家は崩れない! 
たぶんな。 2006-08-10 15:16:53 
以上、
http://ameblo.jp/badlife/entry-10015657213.html#cbox より 
    
すべての人類。人間は、この地球上で生息を許可された借家人【しゃっかにん】でしかない。
住む場所も、飼われる場所も、そこで働いていても仕事がなくても
仕事があって忙しくても暇でも、カネで買えるモノと買えないモノの判断がつきにくくても、
今の自分自身が取り組んでいることが、たとえ直接的に食べてゆくことにつながらなくても 
着る物も、食べることの自由も、
煙草や酒を飲むことも、空気を吸うことも、光りを浴びることも、風に吹かれることも 
そこに、その場所にいて、すべての者が、
いま自分として存在している肉体を持った姿で
ある一定の期間だけ、その場所、その空間、その時間を
単に借りているだけに過ぎない。おそらくは、その肉体でさえすらも…。
ただ、その借りていられることが可能な期間内に
誰と交わしたという取り決めはないにしても、人は、その、ある一定の期間内において
そこで、幾つかの…ほんのわずかながらも、幾つかの義務を果たさなければならない。
それぞれに自分に与えられたはずの役割も、何かをなすべくして与えられた能力も、本来は、
そこで生息を許されていることにおいての資格、ライセンスでしかない。
以上、
http://ameblo.jp/badlife/entry-10029865953.html より 
    
人間がこの地球上を借りて住まわされている
ということは どういうことなのか? 
人間の肉体は心の容器であり、人間の容器は、すべてにおいてこの自然界。
地球という惑星の中の大地の上にだけ、その天空の下にだけ、
人類は生息を許されている。
宇宙空間で暮らしてもいいという許可もなければ
カネで買い揃えた墓地と墓石の下で魂の安らぎを図ろうとする者の願いが
神や仏の世界へ届く保証もない。
誰にもない。
常に人間は、自分自身という存在。その一人一人が
肉体を持って生きていられる間だけ、この地球上のどこかに
自分の生きる場所を決めて、
そこで自分にしかできないことのすべてを成し遂げるために
現実の世界に生かされている。
素晴らしい生命の持つ能力を与えられながらも、
今日ここに、今この瞬間にも、自分が生きている場所、その位置、その大地に
自分の足でしっかりと立って、
目も、耳も、口も、舌も、鼻も、あらゆる臓器の出先器官をフルにつかって
空気を吸い、水を飲み、喰う物を喰い、消化し、出し、
その肌では、光や熱を感じることもできる。
何かに愛を感じて、誰かを想い、
男も、女も、恋こがれることもできる。
しかも、そのように素晴らしい肉体を持って生きながら
そのように素晴らしい体験や経験を繰り返し、それを誰かに伝え、共有し、
そういうことを経験し、実感し、またその存在の能力には
どうしたものなのか? そういうことを新たに、別の存在までもが経験できるように
自分達の身体から、その分身のような存在を産み出すことができる。
そこに、人間の造って拵えた道具や知識は、なにひとつとして必要ないのに
そのように素晴らしい人間、人類には、男もいて、女もいて、
そこからまた、この地球上で生きて生かされるためには
素晴らしい能力を兼ね備えた人間が、新たに誕生させられる。
    
参照 ☞ fairlytale :
美しき宿命に在る自由 ~ 樫の木とキコリ  http://ameblo.jp/badlife/entry-10003359971.html
    
素晴らしいじゃないか! 人間てもんは。
あなたも わたしも、人間として産まれてきてよかった。
ところが、これまたどうしたものなのか? 
そんなふうに感じることができる人間が 
今この時代には、あまりにも少なくなっちまってる。
どうしたのか? 人間は? 
どこへ行ったのか? 男は? 女は? 
どうなってしまったのか? 人類は? 
戦争も侵略も、虐殺も虐待も、略奪も犯罪も、差別も貧困も、
科学や宗教、哲学や教育、あらゆる学問や思想による自然界の破壊… 
そんなことは、いつからはじめて
誰がいつの時代に終わりにしようと考えたとしても
なぜ繰り返すのか? 
どうして? 
好きな人はいないのか? 
今も独りだけなのか? 
嘆き苦しみや悩み哀しみを知っていた人が一時的にいなくなって
誰もがその惨劇や戦慄の惨事を忘れてしまえば
また同じように平気で繰り返して
自分たちの住む場所をそれまで以上に破壊してしまう。
それでいいのか? 
果たしてその場所は、いま自分たちが住んでいる場所は、
この地球上に生きて生かされている場所は、
そこで生息することを誰に許されて使わせてもらっているのか? 
あなたは誰なのか? 
この地球上で、どの命と関わる、何の所有なのか? 
以上、
http://ameblo.jp/badlife/entry-10030387731.html より 
    
人間は今…最早、今の人類は、地球環境を保全できるほど立派ではない。
環境保全だとか自然保護だとか、そんな言葉を唱えれば称えるほど
運動してカッコつければつけるほど、今まで以上に自然を破壊するし、している。
住む場所にも、そこに住んで生きる人間の肉体にも心にも目詰まりも多くなる。
食べ物にしても、水も、空気も、海も、山も、川も、湖や運河や沼地や干潟の淀みも埋め立ても
かつて陽の当たる海であった場所を陸地に見せかけ、
海でクジラやイルカの生態系を狂わせ、集団座礁を繰り返させている事実にしても
海洋生物のミクロの世界で何種類かの突然変異が今日や昨日の漁師の生活を脅かしてることも 
山は山で莫大なカネをかけ、もう誰も利用しないようなリゾート施設やゴルフ場、
そこへ行くために狭い国土に敷き詰めた道路も、
年末調整を図った工事や山肌の地固めも、その地下へ浸透しなくなった酸性雨を
別の場所の泥の中へ集中させる。
何年も何ヶ月もしないうちに、見事、正常にあった山土の中では 
それまでしっかりと大地に根を張って生きていた草も樹木も、
根は凄まじい勢いで枯れる。
かつての営林省による植林地区も今まで通りではない。 音を立てて崩れる。
茎や枝から伸びる生い茂る葉の緑が、
そこでどんなに光合成を図ろうとも間に合わない。
全国に今、何千ヵ所もあるとされる、明日にも土砂災害が危ぶまれる警戒区域。
臭いがしたときはもう遅い。メタンガスが土を支えていたわけではない。
木も草も、山菜も微生物の繁殖も、
抗菌状態にされた給食室のテーブルに、
汚い手のまま便所から帰ってきた栄養士の資格を持っているらしき者が触ったことで
雑菌とか細菌が一度に何の妨害も受けずに異常繁殖するのとは、わけがちがう。
農薬や化学肥料の問題でもない。
そんなもんを喰っても正常に身体の外へ流せなくなっちまった怠けた人間の肉体。
それを動かす心、精神の歪みにある人々の意識の問題。
人間として生きることの正しさの問題。
さぁ、裏山は危険だ。呑気に
学校裏サイト を覘いてる場合ではない。
そこに、その場所には、枯れた草の根や腐り落ちる木の枝や倒れる樹木の幹ばかりではない。
既にそこに大量の雨が再び降り注ぐ日の幾日も前に、
そこに、その場所には、その地の奥深くには、いまこの世に生きている生命よりも遥か昔から
おとなしく眠っていた者もいる。目には見えない。カタチではない。
どこからどこが山で、どこからどこが野原で、どこからどこまでが人間が住める場所で、
どこからどこへどういうふうに河が流れて、それがどこからどこをどう通って海へ注がれ、
そこまでの間の川幅が春夏秋冬、どこでどのように何を移動させ 
その脇の水路や小川を利用できる範囲も、人間が使える場所は、かつては限定されていたはずだった。
ここまでは峠。ここまでは隣の村との堺を区別する林や森…
あ~あ、やっちまったね。
人間が使っていい場所と、使うべきではなかった場所の区別。
それは、戦後の農地解放や行政の公共事業、
住宅や街並みの隣接を区分する赤線や青写真の土木計画事業には関係なく、
かつては今よりもずっとハッキリとしていた。
山を切り崩し、塚を潰して、古墳を平地にし、
誰も供養もしなくなったような大きな寺の横の墓場の上にも平気で学校校舎や公共施設を
自分達だけが便利で遣いやすく、一時的な過ごしやすさの追求のために おっ建てた。
建て方もいろいろにして、素晴らしい教育で優れた建築技術を習得した人材を日本国中に
何年も何十年もかけて取り揃え、どこの街にも腕自慢の人たちを勢揃いさせておきながら、
不揃いのアップル・レンジャーのうち、幾人かのみなさんは手抜き工事で小さな財産を築いたものの
その競り合いで建造、乱立した建物の中にいる人間の肉体も、
もうガタガタになって、キシミに耳を立てる。
御老体の皆様が暮らしやすいはずのバリアフリーな設備設計も試用期間は、この先、限定。
ある一定の時期まで商売繁盛の福祉施設も介護ハウスも
やがて利用者がいなくなる頃には葬儀屋がハイエナを演じることになる。
「うちのサービスでオトクな葬儀! 安心価格で安泰成仏!」
「もう檀家のシガラミは要らない。ピラミッドパワーであなたも浄土へ!」
寺も寺で黙ってはいない。
「我こそが、あなたの魂を無慈悲に三途の大河ドラマの主人公へ抜擢させる!いざ出陣!」
「空きビルもハサミも使いよう!」
そういうことのビジネス化や日雇い坊主の資格取得の専門学校も乱立。どこに? 
かつて、太陽の光が平穏に当たっていたはずの海であった場所に。
一部の宗教団体が買い占める人口集中地域の高額地盤の上に。
そこは、誰の許可を得て使っている場所 なのか? 
行政なのか? コネや根回しやカネの力なのか? 
    
「ねぇ教祖様先生! 愛人ドナーのワタクシを操縦席へ跨がせてドライヴ行きましょう!」
「はいはい、わかりましたよ。騒がず、急がず、慌てずに…ネ。」
やがて二人は、数時間のドライブ中の山林を抜け、とある農免道にて。
「見てごらん、あれが先週末に買い占めた丘の中腹だよ。
あそこに18番目の墓地を建設予定だよ」
「まぁステキ! 先生とワタクシの未来のオウチもいよいよ完成間近ね!チュッ!」
明けて翌年の同じ日の同じ時間帯、
その丘の反対側の山の斜面が音を立てて、人間の生息区域を押し潰し
泥を飲み込んだ人々の肉体からは魂が抜ける。
それでもそれは、誰を訴えようもない自然災害。
果たして、すべての天災は人災であったのか? 
それは神も仏も知らない。
既に、人間が言葉やその知識・学識の常識で知る範囲の
神や仏も、人々を救わない時代。
海・川・山や陸地のどこにおいても、そこでその場所で
かつてはまだ人里もヒトケもない静かな場所の、その地の奥底で眠っていた者は何だったのか? 
どれだけの範囲に眠る場所が決められた区域の限定があったのか? 
この時代に何食わぬ平和の装いを営む人間には、知る由もない。
あらゆる者が自分が生きている間だけを勝手気ままな生きることに忙しい。
それでも、この自然界には、生きている生命の数よりも死んだ物の数の方が多い。
大量の幽体が大きく移動する瞬間の凄まじいエネルギーは
肉体を持つ者の中身へ大きく、ひずみとゆがみを齎す。
居心地が悪くなった場所では、生きている人間の心も落ち着かない。
同じように、目に視えない世界の彷徨いも、もっと安定する場所へ大きく動かされる。
そういうエネルギーの移動も自然界には存在している。
何を悔い改めようとも、誰が罪深き生前の怠りを反省しようとも、
どうにもならず彷徨い、彷徨えるままに休むことで、
肉体ある者からの自由な慰めや施しもないまま、
大勢の怒りや嘆き、後悔や無念の吹き溜まりは、
鎮まることも封印されることも、ほぼ不可能。
たとえば、かつては砂の中に隠されていたエジプトの某有名観光地のすべてが
興味本位に訪れる者に命を奪うほどの影響を与えることもあった。
今や、日本の修学旅行先は、それ以上に破壊されている場所も多い。
飢饉や疫病、水害や土砂災害による無縁仏を慰める場所や墓地に限らず
冷たく暗く、生きる者の背筋を撫でる不気味さのある地域も、塚も古墳も、
ある特定の場所や区域が
空の動きと地の湿度や死滅した大量の微生物の腐敗エネルギーをも利用して
大きく、ウネリをあげて、地を揺るがす。
その自然界の取り決めを変えようとするエネルギーに、
一個人、生きている人間は手も足も出ないまま、
ある者は、自分達で築きあげた物の下敷きになり、
ある者は急激な勢いで泥を口の中へ詰め込まれる。
それは一体、何によってはじまり、何によって起こるべくして勃った結果なのか? 
その前日の空の色は、空に浮かぶ雲は、風の動きは、その肌触りは、
そこに飛ぶ鳥や虫の方向は、地に這うネズミや甲虫の退散は
何を伝えていたのか? 
そこでは、たとえ息を引き取って屍と化す直前の者であっても、
臭いも、色も、空気の温度差も、決して日常の普段のままの、その通り、今まで通りではなく、
そこに必ず異変を感じていた瞬間。それを視ていた者もいるはず…いたはずである。
どうして逃げられないのか? 
逃げることを拒ませた常識や価値観、権利、主義主張はなんだったのか? 
家もクルマも借金も土地も権利書も、その肉体も、
何が自分のモノで、何処が己のいるべき場所だったのか? 
誰と誰の肉体と心に、何の区別がハッキリとしていたのか?  
    
そしてまた、結果だけを見て知り得たことをヒトゴトのように
災害復興地域の様子や今の状態を限られた枠の限られた時間内に
中途半端に伝える報道やメディアの情報の垂れ流しとは別に、
これまで、ここ何十年かの間に渡り、「なにか大きな災害があった」という、
その場所の復興地域。その生息場所に生きて生かされている人々の暮らしぶりは
果たして元通りになっていたのか? 
見た目には、かつて在った以上に美しく整備され、
近代化や便利さを追求した設備や装飾で整えられた場所であっても、
そこで住み飼いする生命の一日は、勝手なブランドに仕立てたペットの犬や猫にしても
なにをどこまで、飼い主の思い通りになっていたのか? 
ヒトの命よりも短いペット動物。その老後や寿命、衰弱を迎える直前に
なにを想いながら天井を見つめていたのか? 
果たして、その場所は、自分という存在が心の底から落ち着いていられる場所だったのか? 
同様に、ヒトが人として生息できる区域、場所、人間なら人間の営みが可能だった、
そこにその場所に住んでいる人々の一日の疲れや安心、安堵感は
果たして災害があった前日より幾日か前と比べ、いま現在は、どうなのか? 
心の奥底にある何か大きなモノを失ったことへの復興は、果たして、
何によってどこまで癒されているのか。 
今まで以上に生き残った人々の力で自分が自分として生きてゆくためには
そこでその場所で何が必要なのか? 
食欲も、性欲も、全身の筋肉細胞に流れる血液の循環や酸素の供給も、脳の働きも
その肉体と心の健全さが保たれるべき、あらゆる基本構造は
そこに生きようとする人々の生活の中に、
どんなエネルギーが欠けているのか? 
何かが大きく移動した跡の場所は、
本当に人間が自由に過ごしやすい場所なのか。 
子供たちは元気に育ち、子供らしく遊ぶことができるのか。 
そこへ移り住んだ若者や学生、夢や希望を胸に何かの商売で生計を立てようとする者は
他の地域と、どこでどのように雰囲気の違いを感じているのか。 
今後また近いうちに、あれほどのエネルギーの移動が働いてしまう場所では (どこだ?) 
それが元の状態に近く整うまで、どれほどの歳月を要するのか。
一世帯、核家族の世代は、一世代、2世代、Ⅲ世、4世…と、
果たして、どこまでつづくのか? 
また、
どこからはじまった家族だったのか?  
それは、かつての第二次世界大戦。20世紀の戦争体験者であるなら
人間の先輩や人生の指導者としての立場で知っていたことだったかも知れない。
今の時代の高齢者こそ、戦後の復興時代に貧しくとも粗末な物で生き凌ぎ
それでも、今よりもずっと自然な物を口にして、
今よりも遥かに澄んだ空気や清らかな水を体内に取り入れ、逞しく長く生きてきた。
この時代の若い世代より遥かに、様々なモノを見て知って感じて、
その丈夫で長持ちしてきた肉体を通じて数々の体験を経た、その寿命は、
なんの役割のためにあったものなのか?
    
お爺さん、お婆さん、
世界の頂点に立つほど惚けてる暇なんてねぇぞ。
あなた方よりも若い、平均寿命が常識的にも計算上は短いとされる大勢の次の世代は
あなた方から教えてもらったり、伝えてもらいたいことが、まだたくさんあった。
言葉が通じないことを気する以前に、明日の朝は目覚めているかどうかも定かでないお年寄りも、
その経験してきた事実。…肝臓機能や腎臓機能の衰えによる白内障や難聴がどうあろうとも
実際にその目で見て、自分の耳で訊いて確かめてきた事実の幾つかに
つい昨日までは、まだ興味津々の子供も大人も大勢いたはずだ。
どうして生きていけるのか? 
何と何をつなぎあわせ、これから残される命は 
何が残された中から、何を必要として生きられるというのか? 
面倒くさがって口を閉ざすなら、生きることを放棄する格好で老いぼれるだけだったなら、
それほど簡単で怠けた人間の生涯はなかったかも知れない。
なぜ、今の日本人ばかりに、
アルツハイマー博士の称号を生前の戒名のように譲り受けたような惚け症状が多いのか。
脳味噌を診たままの結果だけで判断する現代医学の行き詰まりは
誰の人生の何をコントロールしてしまったのか? 
権利ではなく、義務の放棄。命の投げてではなく、成長することの捨て鉢。
肉体の疲れ果てや枯れ果ての改善すべき手立てを失った末の開き直り。
癌も、脳卒中も、心筋梗塞も、糖尿病も、パーキンソン病(…その他 略)も、
人間の臓器のうち、血液や酸素を循環させる臓器(肺臓・心臓・腎臓・肝臓・脾臓)と、
食べる物が通って流れ、出す器官としての臓器(大腸・小腸・膀胱・胆のう・胃)には、
ハッキリとした区別があっても、それぞれに定められた関連があり、
体表の鼻・舌・耳・眼・口や手足10本ずつの指とも密接な関連がある事実。
その取り決めを無視した現代医学による医原病に過ぎない。
そして、その現代医学の著しい発展に担った人間の教育常識は、最早、
今の人類の母体を修復不可能に近いところにまで破壊している。
だから、
惚け老人の脳味噌が、どうして白く萎縮して干涸びたのかには気づけない。  
俺の妻の母親でさえ、自分自身が今、どうなっているのかも、まったく解らない。
その、全身の筋肉が醜く変形して、中身(精神)も奇形化した状態に至る以前の、
20年前に何があったのか?  
1985年、昭和という時代の還暦を無視してから今日まで。そして明日から、
何がどうあったのか? 想い出すことも面倒なので、開き直ったのか? 
今もまだ、肉体を持って生きている間、かろうじてこの世の人間の形や格好でいるなら
ほんのわずかでも想い出せるはずだ。
あの時、宙を舞う鳥の群れが、
その日だけは、いつもと変わりなく移りゆく四季の中で、
普段より低く飛んでいた夕陽の下で、
その鳥も食べるために、食べさせるために、生きるために、
虫を追いかけていた事実もあった。
空を自由に飛びまわる鳥にも生きる義務がある。
軍書鳩に爆弾を運ばせる兵器開発のために鳩の脳味噌を覘いた旧日本軍とは違う。
白い鳩に平気で銃剣を突き刺した時代に生きた事実も忘れさせるな。
そしてその光景を見て育ったあなた方は、時にはすべての鉄を売り払っても
いつどんな日も、田んぼや畑を一生懸命に耕し、
平気な顔で、あらゆる経験を見て知り得た自信ある顔つきで
「明日は雨だ」
その頼りになるひとことを残してくれた。
そして側にいた子供も、その跡継ぎにも、近所の放蕩息子にも、
雨あがりには虹が見えることも約束してくれた。
現に、絶え間ない努力で養ってくれたじゃないか。
それをどうしたんだ? なぜ伝えるべきことを辞めた? 
嘘だったのか? 
どうしたんだ? この時代は? 
今はもう、そういうことを読める者も、読み方も、読める場所でさえ全然ちがう。
でも必要だった。あれが。
あのとき、決して指導者ヅラではなかった、本物の言葉や、あの自信に満ち溢れた声が。
このまま黙って先に逝くつもりなら、それでも構わないけど、
そんな生き方を見習って朽ち果てるのは御免だぜ。
すくなくとも俺は、あなた方の限界を超えなければならない。
この世の果てまで。
    
    
    
    
    
    
    
    
     つづく。 
    
    
    
    
    
    と、ここまでは、
    自然界が全体的に「湿」「実」「陰」の時期について。
    昨日までの話。
    物事の陰陽バランスの道理から、
    我々が生かされている自然界には、満潮もあり干潮もあり、
    その全体の65%の湿度にも、燥と湿に分かれる時期があり、
    地球上の緑も、陸海空に渡り、虚と実の時期や周期がある。
    その地球という容器。人類のイレモノ。この自然界に生息する人間にも
    たとえば、最近の人間の常識でいうところの「躁鬱」という問題にしても
    一人、一個人の人間の肉体の状態が常に、
    自然の移り変わりに従って、精神にも左右している。
    「鬱」の場合の多くは、身体に湿度が多く、水分代謝が悪いほど、実り過ぎ。
    必要以上の水分で全身が重い。こういう場合は、陰にこもってるケースが多い。
    反対に、「躁」の場合。全体的に潤いがない。その肉体も、ほとんど乾燥状態。
    そのために、心にも潤いがない。 場合によっては精神状態も殺伐としてきたり 
    自由意志が暴走しやすく、感情のコントロールが利かなくなってきたりする。
    今の時代…この時期はとくに、世の中が「躁」の状態なので 
    その中にいる多くの人間も、その激しい変化についてゆけなくなってきている。
    
    日照りや干ばつを激化させる自然界の「躁」の時期、
    これからの殺人的猛暑の中で、誰が何をどこまで持ち堪えられるのか? 
    
    この地球上を借りていた家賃がない代わりに
    戦争もテロも、科学や宗教の公害も、
    教育や思想による自然環境の破壊も、
    これまで、地球上の遣い方を間違えてきた人類は今後、
    大きな代償を払うことになる。
    そこからは、もう誰も逃れられないし、
    誰が何をどう食い止めようにも、もう間に合わない…と思う。
    その歯止めが利いた時代は過ぎてしまった。
    
    
    気づくべきは、己自身の役割。
    男であるなら、女であるなら、
    最初から備えられた能力を
    人間としての義務のまっとうすることだな。
    手遅れかどうかは、自分次第でどうにでもなる。
    
    「彼氏がいない(できない?)ワタシには関係ない」
    
    ではないっ! 
    
    世の中には、一日に何回もしないと落ち着かない人もいれば
    一回に一人や二人の相手ではオサマラナイ女性もいる。
    それは、動物とか野生という問題でもない。
    最初っから、そういう女として創られて産まれてきている。
    子宮を採ってしまった人は、ちょっと考えもんだけど
    やせすぎで困っている人も、不感症の人も、
    自分本来の正常な子宮の位置さえしかりしているなら
    「痛いからできない!」なんてこともありえないし
    それこそ、貧乳とか、「バストが左右対称でない」とか、
    わけのわからんホルモンバランスの狂いとか、
    生理不順だの子宮癌だの奇形児出産だの、
    そういうことはありえない。
    妊娠しても悪阻なんてのはない。本来ならな。
    
    たとえば、    
    俺の子供も含めて、
    3000グラム以下で産まれた子供は
    その育て方にも心身ともに今まで以上の補い方が必要になる。
    それほど、教育ってもんは、自然界の母体を破壊している。
    当り前の状態を当り前ではなくしている。
    妻は子宮内膜症に悩んだ末、手術の経験があっても
    子供はできた。
    これも奇蹟だ。
    でも、今の、この世の男と女に 
    ちゃんとしたSEX、健全な性生活がない限り、まず正常な子供はできないよ。
    無理だ。そんなの。
    俺も無理。
    男女平等教育常識の嘘、その行き詰まりの中で
    何を自然界に叛して、誰がどんなに突っ張ってみても 
    変えられないモノは変えられない。
    道理は道理。取り決めは取り決めだ。
    
    ただ「やりゃぁいい」ってもんでもないんだけど
    やる以前の問題。
    男にしても、自分のイチモツの突っ込み方次第で 
    相手の身体の線を崩してしまう事実とか、
    人間の女ではなく、人間ってもんを
    根本的にちっとも判ってない。
    肉体の変形は精神の奇形に 比例する。 訂正 反映される。
    女房をヒステリックにするのもブスにさせたのも
    その持ち物の主の責任だ。
    世界中の離婚の原因のトップは性の不一致。
    単に性格や財産の問題や考え方の食い違いではない。
    サック不能の人生に子孫繁栄はありえない。
    義務の遂行なしに権利は先立たない。
    今の人類に地球上に生かされる義務はあっても
    勝手気ままに生きる居住権はない。
    
    
    今そういうことを詳しく書いてる。
    待ってろ。
    
    って、「待てない!」とかじゃなくって
    誰も待ってなんかいないんだけど 
    とにかく、死ぬにはまだ早い。
    知っておくべきだったことを知ってからにしといたほうがいいだろ。
    
    だいじょうぶ。俺はバンソウコウ男だ。
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    
    ということで・・・・ 
    
     その Permanent Vacation も なんとかしようぜ!
       http://ameblo.jp/badlife/entry-10039764750.html