2007.04.01 飛翔した風と共に…。  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
     
   
    sub title:  黄砂も吹き飛ばされた夜明けの、あるライセンスの認識。 
   
   
「むかしむかし あーとこ おじいさん おばあさん なかく くらしてましたあ」
   
まだ2歳くらいの女の子だったか、
北へ向かう自由席の隣で
その天使は
母親と、少し歳の離れた
(小学1~2年くらいの)兄と三人の間で、
まだ覚えたての言葉を何度も繰り返していた。
「むかしむかし、あーとこ、おじいさん、おばあさん、なかく、くらしてましたあ~」
その物語か言い伝え、伝承の記録…そこには最早、
あと先もなく、ただ
「むかしむかし、あーとこ、おじいさん、おばあさん、なかく、くらしてましたあ」
   
そうして、口におやつを頬張りながら、父親と乗り合わせる新幹線の中。
その家族とは別に帰省する3人。俺と妻と息子は
同じ位置のシートには座れなかったので、そのまま少し離れた場所で
都会の雑踏を歩き疲れた足を休める。
「むかしむかし あーとこ おじいさん おばあさん なかく くらしてましたぁ…」
故郷でもなく、永住すべき場所なのかどうかも定かではなく 
ただ、この地球上に生息するヒトの一員として
借り住まいの島。
本土から遠く、海を越えた場所にある。
すべての人類。人間は、この地球上で生息を許可された借家人
【しゃっかにん】でしかない。
住む場所も、飼われる場所も、そこで働いていても仕事がなくても
仕事があって忙しくても暇でも、カネで買えるモノと買えないモノの判断がつきにくくても、
今の自分自身が取り組んでいることが、たとえ直接的に食べてゆくことにつながらなくても 
着る物も、食べることの自由も、
煙草や酒を飲むことも、空気を吸うことも、光りを浴びることも、風に吹かれることも 
そこに、その場所にいて、すべての者が、
いま自分として存在している肉体を持った姿で
ある一定の期間だけ、その場所、その空間、その時間を
単に借りているだけに過ぎない。おそらくは、その肉体でさえすらも…。
ただ、その借りていられることが可能な期間内に
誰と交わしたという取り決めはないにしても、人は、その、ある一定の期間内において
そこで、幾つかの…ほんのわずかながらも、幾つかの義務を果たさなければならない。
それぞれに自分に与えられたはずの役割も、何かをなすべくして与えられた能力も、本来は、
そこで生息を許されていることにおいての資格、ライセンスでしかない。

   
…と、4月1日の夜。アッシュさんとは、こういうことについてお話をしたかったのですが、
どこまでも、“あるライセンス”で、“ある義務の遂行”に徹する人間のファンであるバンソウコウ男は
ミーちゃんやハーちゃんに呼ばれたかのようなことばかり話してしまい。
・・・・。 
ええっと、テンションを基に戻して…っと。

   
「むかしむかし、あーとこ、おじいさん、おばあさん、なかく、くらしてましたあ」
その物語か言い伝え、伝承の記録…
そこには最早、あと先もなく、ただ
「むかしむかし、あーとこ、おじいさん、おばあさん、なかく、くらしてましたぁ」
まるで、この時代の行く末を象徴するかのように…。
   
最近、常々、今の世の中を客観的に見つめながら想うことは

…おそらく、これは俺だけが感じていることではないかも知れないけど
このままずっと高齢化社会が進むわけではなく 
このままずっと、少子化の世の中が継くわけでもなく 
団塊世代だとか年金納入者…などという、
この地球上におけるほんの一部の社会の中だけにある一定の取り決めとは関係なく
歳をとればとるほど数が多い人数も、その病や死に倒れる人数も多く 
それに恵む…「恵まれぬ」「授かる」の言葉や権利、あるいは、
勝手な主義・主張、慣わしや財産の分配などとは関係なく、
今この地球上の人類において、黄砂や春霞が人の心の青空を隠してしまうかのような時代 
そこで、子供が出来ない人たちも、つくらない人たちも数多くして生き凌ぎ、
それはいったい、今後この先これから、どうなってしまうのか? 
“家族のない”人口が、この先ずっと孤独なまま続くのか? 
それがどこまで何に許されることなのか? 
後悔も、目醒めや改めようのない事実やもがき苦しみも、飼い替えもなく、
勝手きままに生き凌ぐような人たちを増やす社会の営みも、
そこに自分を基準にして生きる…生きているつもりの人々は、もしくは、
生きている意識さえも失いつつある人々は、 
このままずっと、充実なき哀しさや虚しさを抱えて生きて逝くのか? 
今よりももっと大勢の者が開き直ってしまうのか? 
そのあとはどうなるのか? 
   
読む人によっては、この内容も、相かわらずキツイかも知れないけど
育つ場所がちがう ”。
その問題。その課題の説明や解釈について、俺は年齢や身分に拘ることなく
まず人間で在ること。この地球上に人間として存在していることが今、
どういうことなのか?  
これを前提に書いているので、たとえ自分自身に対しても容赦しない。
厳しいかも知れない。過酷かも知れない。
誰に問い質される筋合いもないことなのかも知れない。
それでも彼女は、
「むかしむかし、あーとこ、おじいさん、おばあさん、なかく(仲良く?長く?)、くらしてましたあ」
そこには、その物語には最早、あとにも先もなく、ただただ
「むかしむかし、あーとこ、おじいさん、おばあさん、なかく、くらしてましたあ」
まるで、この時代の行く末を象徴するかのような子供の言葉だったよ。
この先どうすんのさ?
そう云わんばかりの次世代からのメッセージの如くな。
   
たとえば、簡単でないようで簡単な問題 では
医者に頼れば、クスリで誤魔化せば、
このまま今まで通りの医学や科学。その発達の著しさがあれば 
誰もが自分達の収入に伴った権利の主張や主義、見栄や体裁、大義名分への拘りの、
狭い狭い範囲の中で、それなりにも 
その肉体と心の健康を維持できることなのか? どうなのか? 
このまま残りの生涯で 
世間が何かを用意してくれる通りに、そこへ乗っかり乗っけられて
そういう流行り廃りに忙しく任せた、“暇な身の振り方”を繰り返すなら 
その心が、その精神の自由が、その魂が、安泰でいられるのか? 
   
それが嘘かどうかも、おそらく必ず、死ぬ間際に気がつくか、
あるいは死んだあとになってから、
誰にも声や叫びも届かないままの彷徨いの中で悟れることなのかも知れない。

   
…ごめんね。べつに、誰の何を責めたてるわけじゃないんだ。
今こうして生きて、生かされているはずの、こういう時代に
つくづく、そういうことを感じてしまうだけだよ…なのです。
自分の周りを見渡してみた限りではね。

   
2007年4月1日の夜。
世界のすべてを見たわけではない。
でも観たよ。この世のすべてを。3人で。
一曲目は、一片の塵 だった。
一龍
【いちろう】息子 / 6歳は途中、『AS 』という曲のイントロあたりで眠くなって
そのままライブハウスの後ろの席へ横になってしまった -------
「眠いの?」の問いかけに
「眠くない!」と怒りながらもガンバッテたけど
やっぱり子供なので寝てしまった。
------- んだけど
そこから曲が終わり、次の曲が流れる展開の合間。そのたびに、
眠りながらも拍手してたよ。
そして、
今、胸に咲く戦友(とも) 』の、
2007 Spring Version は凄まじかった。
カッコよかったぁ! 
取り返しがつかないモノへの攻撃? 
日本人で、あんなふうに自分の魂の今を
ロック・スピリット溢れる姿で表現できるものなのか? 
…あの中盤での展開は、あっけにとられ、
そのときの自分が、「いま何を観ているのか?」が判らなくなってしまうほどだった。
恐るべし、Tetsuya Itami World。
そこに、情熱の赤と伝統の黒が融合した瞬間。
恐るべき、妻子あるシンガーソング・ファイター。
やはり、死ぬか生きるかの覚悟はハンパではなかった。
そして、アンコールでは、
 
「今、おれを呼んだか?!」
 
と云わんばかりの颯爽とした登場で
ファンであるなら誰もが知ってる定番の、Tetsuya Itami の“今の歌”、
光り転がる石のように
そのアレンジも今回は聴く者に逃げる余地を与えない。
どこぞのロック・コンサートで普通に繰り広げられる観客の大合唱があってもなくても 
その人は、耳を澄ませながらサビの部分を観客に任せようとする。
 
「おれの声が聴こえるか!?」
 
いや、誰にも届かない。
でも、既に雨はやんでいた
そして、アンコールのラストで、風は熱風と変わり、
我々の前から簡単には姿を消さない。

 
「歌ってくれ!」
 
ついに云ってしまった。明らかに、今まで通りではない。
ファンは歌おうとする。でもそこは、都会の片隅のライヴハウス。

 
「聴こえないっ!もっと!」
 
どうして? 
おそらくは誰もが、そのときに出せる精一杯の声で舞いあがる風を観た。
そして、共に舞いあがろうと必死になり、忘れかけていたすべてが見えた瞬間に
“すべてを許す風”は消えていった。
   
2007年4月1日の一夜。
世界のすべてを見たわけではない。
でも俺は観たよ。この世のすべてを。親子3人で。 
そして俺も歌った。
自分自身を許せるだけの声の大きさで。
「…流されはしない。もう二度と。」
そんな想いすら、もうどうでもいいくらいに、
誰の所為でもない心の歪みも、
楽しさの中にある大きな気づきも、
ショックはすべて、誰からと提供されたわけではない。
自分自身で感じ得た“いま生きていることの確かさ”でしかない。
   
そして、
いろいろと話し尽きない夜も明けて 、今日一日。
家族3人、黄砂に霞む東京の空の下を歩きながら…、そして、
 
「むかしむかし あーとこ おじいさん おばあさん なかく くらしてましたァ」
その物語には最早、あとにも先にも、ただ 
「むかしむかしあーとこおじいさんおばあさんなかくくらしてましたあ」
この時代の行く末も、あらゆる時代の変貌も 
息継ぎもなしに発せられたその言葉に込められるかの如く聴こえた瞬間に
俺は、昨夜、燃え尽きた人の姿を想い浮かべ 
またちょっとだけ、成長したような気もする。
   
俺のライセンスにあるらしき…という想いでしかなかった意識。その、 
“人間の男としての役割”も捨てたもんじゃねぇよな。
   
かつて、何か会社を起こして、それが倒産したり 
そうしたことで何か大きな借金を抱えたような苦労はない。
それでも今日まで、自分自身がやってきたこと。生きてきた、生かされて来た時間の中で、
俺は今この時代に、かろうじて、結婚もできて、信頼のおけるパートナーが女房であり、
そこに兄弟姉妹を用意してあげることは…ちょっとできそうにない感じがしてても、
息子も産まれ、自分自身という人間
人類の世継ぎもできた。
なぁんだ。
人間の男として、それなりに生きて来てるじゃねぇかよ。
あとは、残りわずかな人生を精一杯に生きて、
自分が生きたことに満足して死を迎えられるようにすりゃぁいいだけのこった。
俺にもできそうだな。
ちょっとばかし遠回りなこともあったけど。
   
今迄どうしていいのか判らなかった分、
今度こそは、自分の力で生まれ替わるしかない。
簡単だよ。
どこまでも自分を許せばいいだけだ。

それを俺は今回も、
伊丹哲也 という男のLive で、ハッキリと気づかされた。