祝・快気! Keith Richards ソロワーク特集 partⅢ オマケ音源(期間限定)付 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
   
   
んにゃぁ~、カッコイイ。
さっき、ネットラジオの Last.fm で、

Little Walter の “Lovin' You All The Time
って曲をはじめて聴いたんだけど、
 
   splash
 
のっけから最後まで
リズム&ブルースのノリがコンパクトに凝縮されてた。
旧いと云えば旧いが、最近はどうして、
こういうファンキーでタイトな“音”が世間から消えちまったのか? 
   
ということで、そんなようなことが、
1988年、キース・リチャーズの発言にもある…
   
U2 は好きだよ。とくにボノが。
一緒に演った時は全然 知らなかったけど (85年『SUN CITY 』)
面白い奴だし、すごくオープンだった。
それで聴くようになったんだ。ヒューマンな音楽だよ。
ボタンを押して作る音楽とは違う。
今のポピュラー音楽で、一番気に入らないのが そこなんだ。
とくに黒人の音楽には失望しまくってる。
ボタンを押したようなのばっかりだろ。最低だぜ、オレに云わせりゃ。
ドラム・マシーンとエンジニア任せで・・・・ドラム・キットを見て、
『そりゃなんだい? そんなものレコーディングにゃいらないだろ』
っていうような奴ら。
音楽は人間が作るもんだ。ボタンが作るんじゃない。
ジョージ・マイケル がブラック・チャートで1位なんて変な話だろ、違うか?
 (1988年当時のUSAチャート)
いったい、リトル・ミルトン はどうしちまったんだ?
ソウルは どこに行っちまったんだ?」

   
という発言につづいて、(この一部は前回のページでも取り上げたけど
インタビュアーが幾つか並べたアーティストについて、
ブルース・スプリングスティーン については、
   
「人間としては好きだよ。けど音楽は…。わからないな。
オレが人に厳しすぎるのかも知れない。
それで ひどいこと云っちまうんだろうな。
ブルースは、ひとことで云うと、嘘くさい。
奴の心意気は買うよ。あいつがやりたがってることもわかる。
ただ、その手順を途中で間違えてしまったんだな。
---- あくまでもオレの意見として聞いてくれよ。
どうせさんざん恨まれてるんだから。
ブルースねぇ。作為的すぎるな。やりすぎなんだよ」

   
つづいて、プリンス は?
   
「---- あのエネルギーは凄い。けど何か上滑りしてるみたいで、
オレなんか、プリンスとモンキーズが同じに思えてしまう。
利口な男だし、業界を撹乱する手際は大したもんだ。
ただ、そっちの方が音楽より重要になってるみたいなんだな。
奴の音楽に実体があるとは思えない。
以下略
   
とか、ガンズ・アンド・ローゼズ については?
   
「ラジオ局の抵抗をものともせずに成功したのは立派だな。
ガッツはあるね。
が、ポーズが多すぎる。
ルックスにしても、ジミーみたいな奴もいれば、
ロニーみたいな奴もいるって具合で、なんかコピー臭い。ポーズだらけさ。
アルバムを全部 聴いたわけじゃないから、音楽については何とも云えない。
…云ったろ、オレは他人に厳しいのさ。
『ケチつけてばっかりじゃないか』って言われるのはわかってるんだけど ---- 」
   
ということで、この当時、キース・リチャーズは44歳だった。
デビューから25年というストーンズの中核として、
ツアー・ステージに命を捧げ、
時には麻薬に溺れ、血の滲む思いでそこから這い上がり、
おそらく我々凡人には想像もつかない数々の試練を乗り越え、
ギター一本で自分の人生を切り開いて来た男、キース・リチャーズ。
あの、『Talk Is Cheap 』という初のソロ・アルバムを発表し、
兼ねてより念願の夢だった、“チャック・ベリーをプロデュース ”するなどという、
大仕事を成し遂げたあとの男の発言の数々…
そこには、音楽の世界で上を目指して生きる若者ばかりでなく、
世界中の多くの者に、
人間には常に、本質と誤魔化しの効かない現実があることを
“音の世界”で実証して見せてきた重さがある。
そして、当時のインタビュアーの、
「他に気に入ってる(最近の)ミュージシャンは?」という質問に対して、
   
「そんなにいない。それに うかつなこと云って、
『あいつなんか ただの老いぼれだろ。俺たちゃ現役バリバリなんだぜ』
なんて思われるのも癪だ。
オレの基準は、
『ただ有名になりたいだけなのか?
 それとも何か言いたいことがあるのか?』
ってことに尽きる。
あるんだったら、有名になるまで本心を隠すなんてことはするな」
                                         1988年RS誌より引用
という感じで、この姿勢は今も変わっていない…はず。
それは、2006年春の来日ステージを観た者なら、みんなが知っている。
   
そして、そういう1988年から4年後、48歳になったキース・リチャーズは、
二作目のソロ・アルバムを完成させるためのセッションを行い、
翌年、1993年、『Main Offender 』(邦題:主犯ないしは主犯格)という、
10曲入り(+ボーナストラック1曲)を発表している。
そこへ辿りつくまでの間には、
90年のバニー・ウォーレル『Funk of Ages』のギター参加、
チャールス・ミンガスのトリビュート『Weird Nightmare』では、
チャーリー・ワッツと共にジャズ・バラードを歌いあげ、
 
             Various Artists
  Bernie Worrell        Weird Nightmare: Meditations on Mingus   
  Funk of Ages      
 
91年は、ジョニー・ジョンソンやジョンリー・フッカー等、
ブルース界の大御所の意欲作に顔を出し、
サウスサイド・ジョニー&アズベリー・ジュークスのアルバムには、
Ride The Night Away”という曲にノン・クレジットで参加。
 
 
  ジョニー・ジョンスン
  ###画像さがしてます###
  ジョニー・B・バッド
 
  
  John Lee Hooker
  Mr. Lucky
   
同年発表のトム・ウェイツのアルバム、『Bone Machine』では、ラストナンバーに、
それ以降のストーンズにおける“キースの曲作りの展開”を物語るかのような
That Feel ”という曲を きらめかせている。
それはあたかも、“親友 トム”の一枚のラストを飾ることで、
「次は、こんな感じで行くぜ」
そう云わんばかりに、アルバム『Main Offender』の予告をしていたように感じる。(俺はな。
   
   Tom Waits Bone Machine  
    
さて、ここからの話は、ちょっと乱暴な言い回しにも近くなるけど
80年代半ば、ストーンズ分裂疑惑(?)におけるミック・ジャガーとの確執もあり、
先の85年に発表されたストーンズの『Dirty Work 』が、ファンの間では、
『キース・アルバム』と解釈されるほど、そのレコーディング・セッションも、
色々に問題を抱え (…チャーリー・ワッツの時代錯誤的なドラッグ問題など)
様々なゲスト・ミュージシャンを招いて、
パーマネントな形で一曲一曲が練り上げられた出来栄えになっている。
これらについては、前回と前々回、キースのソロワーク特集
   
 
badlife/entry-10004722163.html  Chapter 001 : You Don't Move Me ~ 動くんじゃねぇ
   
 
badlife/entry-10005107211.html  Chapter 002 : Reggae Beat with Keith Richards
   
で、詳しく解説めいたことを伝えたつもりなんだけど、(キース・ファンとして
『Dirty Work』というアルバムは、ストーンズの数あるアルバムの中でも特殊なモノで、
ある意味、過去と現在のストーンズのターニング・ポイントだった…と思う。
そして、そういう亀裂や分裂ぎみな問題を抱えながらも、
「奇遇なメンバーの起用」とでも云うべきか、
Dirty Workセッションの延長に、1988年9月発表の『Talk Is Cheap』があった…よな。 
   
これはちょっと反則的かも知れないけど、
ここで、期間限定。俺の秘蔵コレクションから当時のDirty Workセッションの幾つか…
“お試しデータ”として、別サーバーから引っ張っておく。
正規音源ではないため音質とかには文句は云えないけど、
80年代半ばのDirty Workセッションが、いかに当時のキース・リチャーズの怒りをなだめ、
また、のちのエクシペンシブ・ワイノーズ誕生の基礎であったか…。
そんなようなことが覗える…と思う。
   
     Deep Love
   
     Treat Me Like Fool
   
     Too Rude  別テイク
   
     Crushed Pearl
   
     Too Much For Me
   
と、こんな感じで、他人の土俵で相撲を獲ることが好きか嫌いかは別にして、
ボビー・ウォーマックのオジサンのヴォーカル・パートがやに目立つ“INVATION (15分49秒)など、
Dirty Work』のレコーディング・セッションのレアなアウトテイクは、このほかにも数多くあるんだけど、
サーバーに容量制限があってアップ・ロード不能。
ただ、こういうモノは あまり公開されるべきではないので、
あくまで、今回の 椰子の木 騒動の快気祝いとして期間限定。 近日中に削除します
   
 参照:ボビー・ウォーマックのオジサン
   キース・リチャーズは、このアルバムには2曲で参加。
 Bobby Womack
 Resurrection  (release 1994')
   
   
ちゅうことで、Womackオジサンも よせばいいのに、Stonesを相手取って訴訟のいざこざもあったりとか、
Dirty Workセッション前後の時期は色々あった。
中でも、チャーリー・ワッツのドラム・パートをフォローするように現れた
スティーヴ・ジョーダン等の協力の基、エクシペンシブ・ワイノーズはこうして誕生して、
キース・リチャーズは約5年か6年の間に2枚のソロ・アルバムを創ってる。
また、『Talk Is Cheap』のレコーディング・セッションには、
次のストーンズのアルバム『Steel Wheels』にあった“Almost Hear You Sigh ”の原型とか、
How I Wish ”の基になった“BREAK'N ”という、ぜんぜん歌詞がちがうテイクもあった。
で、一枚目のソロ、『Talk Is Cheap』発表後には短い期間でツアーがあった。
   
   アイヴァン・ネヴィル
   ###画像さがしてます###
   THANKS(サンクス)  (release 1994')
   
チャーリー・ドレイトン、スティーヴ・ジョーダン、アイヴァン・ネヴィル、ワディ・ワクテル…
の4人を主要メンバーにしたエクシペンシブ・ワイノーズは、
「大掛かりなショウは考えてない。スタジアムの類いはなし。
3千~4千席の ちゃんとした いい小屋で演りたい」 (by Keith
というステージ演奏は実は、それまでずっと「STONES ONLY」で生きてきた男、
キース・リチャーズの密かに抱いていた、「いつかソロで実現したい夢」の一つでもあった。
そこには、幾つかのストーンズ・ナンバーもセットリストに加えられながらも、
かつてのニューバーバリアンズ時代の試行錯誤はなく、
個人として暖めつづけてきた楽曲が鮮しい【あたらしい】試みと斬新なスタイルで表現されていた。
SHE PUT MARK ON ME ”とか、“Crazy Mix Up The World ”とか、
それまでのストーンズ・ファンは誰も知らないような曲も演奏され、それが今も、
オフィシャルにはない数少ない貴重なLive音源として幾つかあったりする。 オーディエンス録音で音質ワルイ
そしてあの、『Live at the Hollywood Palladium (Dec 15, 1988) 』 Keith Richards & the X-pensive Winos
という脅威のライヴ・アルバムが1991年に発売され、今ではそのDVD映像まであるのは、ご周知の通り。
また、
80年代後半から再びミック・ジャガーとも ヨリを戻して、ファンを安心させたその後のストーンズ活動でも、
90年代のキース・リチャーズは、数々のソロ作を“ストーンズ・アルバム”にちりばめ、
たとえば、1994年の『VOODOO LOUNGE』のレコーディング段階では、
Sparks Will Fly   ☜ オマケ音源…ヤバイ
を単独で歌ってたりする。

そういうレコーディング段階での模様を収めたレアな音源もいくつかある中、ほかには、
Beatlesの“Please Please Please Me ”とか、“Make No Mistake ”のアコースティックとかも演ってる。
ある意味、自分自身の音楽人生の「回顧録」のような感じで、決して「レコーディング用」とは呼べない、
ラフな感じのテイクが多いんだけど、そういうノリが、続く 『Stripped』でも表現されたのか、かつて、
ボブ・ディランがブライアン・ジョーンズのことを歌ったとされる“Like A Rolling Stone ”を皮切りに、
渋谷陽一氏には「VOODOO LOUNGEよりイイ!」などと言わせた仕上がりが、アルバム『Stripped』。
その中で、キース・リチャーズが歌う“Slipping Away ”。その名演名唱によって、それまで、
「あのオッサンは あんまし歌はじょうずではないな…」などという言葉は吹き飛ばされてしまった。
して、(あ~ぁ、この辺の説明は知ってるから書かなくてもいいんだけどぉ、何も知らない人もいるので
1997年の『Bridges To Babylon』では3曲のリード・ヴォーカル。
98年の『No Security』では、
「刺青にロン毛のイカニモらしきオヤジが煙草を咥え、ベロTシャツで腹を隠して女の脇腹に手を添える」
という、それまでのストーンズのすべてのアルバム・ジャケットがあちこちで連想されるような写真…
の、ジャケットのライヴ・アルバムの中で、名バラード “Thief In The Night ”を歌っている。(まわりくどい
 
    No Security
  
ということで、駆け足だけど、20世紀のキース・リチャーズの失跡はこういう感じだった。 (おいおい
んで、問題は(かなり個人的な意味合いも含むけど)、
昨年暮れから今日の今日まで、俺は、さんざんこのサイトで「そのうちな。」などと仄めかしつつも、
KeithRichardsソロワーク特集partⅢ” を中途半端にしてきた。
   
   
badlife/entry-10007158450.html  December 18, 2005
   
ほんとのところは、二作目のソロ、『Main Offender』の内容を中心に、
“キース・リチャーズの現在の姿”まで追っかけた展開にするつもりだったんだけど、
今年3月から4月にかけての来日公演も済んでしまい、あげくの果てに(俺)は、
ツアー休暇中に椰子の木から堕っこちて頭蓋骨にドリルで穴を開けるという大変な手術まであったにも拘らず、
…ごめんなさい。これほどまで先延ばしにして、折角このサイトへ訪れてくれるストーンズ・ファンの方も、
いつしか・・・・になってすまった。すまん。 (誰も見てない、聞いてない、読んでない?
   
今回、2006年7月11日からはじまる欧州ツアー での、“キース・リチャーズ復活劇” に先き駆け、
今日は、もう一つオマケ。
誰かにもしも俺が、「いちばん好きなストーンズのアルバムは?」と訊かれたなら、迷いながらも
『VOODOO LOUNGE』と応える。
                              Voodoo Lounge  
そのレコーディング・セッションテイクから 
                          Thru And Thru  別テイク …これも期間限定でな
   
・・・・なんか、ブートレグ音源でフォローしてるような、質の低い記事になった感じもしないでもないけど、
製作者ご本人には一歩譲ってもらって(?)『Talk Is Cheap』が“奇跡のソロ作”なら、
Main Offender』というアルバムは、その奇跡を利用した当時48歳のキース・リチャーズが、
自分が表現できる限りのあらゆるギターテクニックを自分の中から外へ出すための「確認」としての意欲作だった(と思う)。
そこには、数々のセッションテイクを焼き直しするような きらいはなく、
すべてにおいて、ほとんどが一発録りで、あのアルバムだけにはなぜか、アウトテイクや、
そういった流出音源が巷でバカスカ複製しまくられて不公平な扱いを受けるようなことはなかった。
   (逆に、そういうモノが出回っていれば、大元のCD音源がもっと売れてたかも知れないけど。哀しいことに
   
   それが何を意味するのか? 
   
世の中には、「ローリング・ストーンズなんかには興味ない!」
        「あんなものは化石のひとつに過ぎない」
などという若者や偏屈な女のロック・ファンもいる。 (誰?)
しかし、ストーンズのファースト・アルバムだけは、世界のロックンロールの財産の一つとして、
今日まで、そして明日からも、ずっと、多くの若者を魅了し、その心を奮い立たせるに違いない。
   
1964年4月16日、
“リズム&ブルース色の濃いロックンロール”という、
ただ荒削りでシンプルな12曲が並べられ、そこには、
当時としては極めて異質なツイン・ギターのアンサンブルに加え、
他にあまり類を見ない形で、力強いベースとドラムがコラボレイトされている、
ロンドンの〔デッカ・レコード〕というレーベルから発売された一枚のアルバム。
その黒っぽいジャケットには、タイトルもバンド名もなく、
ただ、スーツをキメタ、イギリスの5人の若造がこっちを見ているだけの写真。
ほぼすべての楽曲のすべてのパートが一斉に演奏される
という形でレコーディングされた このアルバムに込められたスピリットは、
後に数々のアーティストに影響を与え、現在に至る。
 
 First
 
そこから二年前の1962年、
イギリスの片田舎からロンドンへ移り住んだ若者、 (当時の移動手段は電車やバスを利用していた模様
後に結成される6人編成のロック・バンド、ザ・ローリング・ストーンズのギタリスト、
キース・リチャーズ。
40年以上もステージでの演奏に命を燃やし続け、
世界のロック・バンドの頂点に君臨する男、キース・リチャーズ。
 
そして、   
あの最初の“一発録りのスピリット”の奇跡は、永遠に不滅だ。
リズム&ブルースという黒人音楽の素晴らしさを自分達の手で、自分達の持っている力で表現し、
その白人の若造6人組が世界に伝えようとしたモノが何だったのか? 
  
  
    Main Offender
  
それが実は、あの、キースのソロ作第二弾、『Main Offender』の中に克明に描かれている。
冒頭で触れた、リトル・ウォルターという黒人ミュージシャンの旧い音源を
インターネット回線からネットラジオを通じて聴き出した俺も、
「最近はどうして、こういう音が世間から消えちまったのか?」
と、それはかつて、確かに在ったはずの魂のリズム、“人間が創った音”だった。
R&Bやブルース、メンフィス・ソウル、ジャズ、シカゴ、ニューオーリンズ…
その“ブラック・ミュージック”というものは、実にシンプルで、
それでいて色々なモノが凝縮された形として、どれも一曲一曲の完成度が高い。
人によっては踊りやすいし、誰か何者かの心に残る旋律やリズムとしても無駄がない。
   
故マイルス・デイヴィスは、ジャクソン5にいた優秀な若者のことを
「マイケル、奴は白人に魂を売った」
と、言い残して逝った。
そしてキース・リチャーズは、マイルスのグループにいたミュージシャンも起用して
自分のソロ・アルバムを創り、
「いったい、リトル・ミルトンはどうしちまったんだ?
ソウルは どこに行っちまったんだ?」
と云っていた。
また、「あいつがいなかったらストーンズは この世に存在しなかったよ
というキース・リチャーズは、
その6人目のストーンズと呼ばれた、ブギウギ奏法が得意なピアニスト、
イアン・スチュワートが息を引き取る寸前だったかどうか(1985年)
死ぬ直前に、
「忘れるなよキース。
ジョニー・ジョンソンは今もちゃんと生きててニューオーリンズでプレイしてるんだ」
と言い残したことを一時も忘れることなく、
アルバム『Dirty Work』からストーンズの再スタートを決意していた…。
    
    Dirty Work
   
「オレが≪Dirty Work≫に拘ってるのは、
あの時点で“ストーンズ”が大きなチャンスを逃したと思ってるからだ。
この音楽を成長させ、もっと高い次元にまで押し上げるチャンスだった。
ピーターパンのフリをして、プリンスやマイケル・ジャクソン、あるいは、
ワム!やデュランx2とかと張り合う必要はない。
結局は自己認識の問題だ。
ミックはそのレベルで張り合いたがっていた。
オレに云わせりゃ、そのせいで25年のキャリアが台無しになっちまった。
-------
ミックは“今 起こっていること”に敏感だ。ファッションにしても仕事にしても。
一方でオレは、もうストーンズのショウに
黄色いタイツやクレーンとかの大仕掛けは必要ない、
別のやり方があってしかるべきだという考えだ。
けどミックは、とくにあの2,3年前の時点(1985年前後)では、
その、“別のやり方”って意味が判らなかった。
だから奴は逆戻りして、その当時のトップ10に入ってた連中に対抗しようとしたんだ。
-------
(アルバム『Dirty Work』で)どっちが主導権を握ったか、とか。
ミックの場合、それがオレ以上に重要な問題だったんだ。
オレだって奴にはじゅうぶん敬意を払ってる。          …の割にはジャケット写真で中央にいるよ
70年代のオレはクスリ漬けだったから、曲を作るのが精一杯で、
バンドをまとめたりビジネスの話をしたりとかは一切できなかった。
ミックはそれを全部ひっ被ってくれたし、その上でオレを庇ってもくれた。本当に恩に着てる。
あいつは友達の義務をキッチリ果たしてくれた。
オレがクリーンになったのは≪Emotional Rescue≫あたりからだった。
 
    Emotional Rescue
 

『よう、帰ってきたぜ。もう大丈夫。いくらかお前の重荷を分担させてくれ』てなわけでな。
けどその瞬間、オレは敵意を感じた。
喜んでくれるものと思ってたのに、奴はオレが主導権を奪いにきたと考えたらしい。
いわゆる不和ってやつの始まりだ。
オレは全然そんなつもりはなかったんだが、どうやらあいつは
一人でバンドを切り回すのに馴れっこになってて、
今さらその立場を手放す気にはなれなかったのさ。
奴にしてみりゃ、権力闘争ってなわけだ」
                            1988年RS誌より引用 / 一部略
   
と、今回はストーンズの昔話が長くなっちまったけど、
事業の幅や規模がどうあれ、こういった人間関係の確執や擦れ違い、
偏ったライバル意識のようなもんは、今の日本の社会…巷でもゴロゴロしてるし、
世間は頭デッカチで『ふぞろいのドングリ』みてぇなもんで、
どこの職場や事業所の机やロッカールームの陰でも
“足の引っ張り合い”みてぇなもんは有象無象にある…よな。国会なんて、そのイイ例だ。
んで、キース・リチャーズとミック・ジャガーの二人は、
あれだけのロック・ビジネス富豪になりながらも、どうやって、不仲を解消したのか?
40年以上というキャリアを大事にできる今のような“仲良し組”に戻れた(?)のは、
どうしてなのか? 
実はそこに、R&Bのスピリット、ブラック・ミュージックの絆があったんですよ。
   
キース・リチャーズという人は、音楽よりも人間を大事に考えて生きている人で、
自分が幼い頃に貧乏をした想いってのが、
いつかきっと、「チャンスを摑んでやる」という成長の原動力の一つでもあったらしい。
今日はそういうリチャーズの身の上話(のようなもの)は省くけど、
それは一つに、コロンブスが見つけたとされるアメリカ大陸へ
スペイン人によって連れてこられたアフリカ人達が、
長いアメリカ開拓時代の試練を経て、奴隷解放時代には、
差別や貧困から這い上がるための手段が黒人音楽であり、
自分達の生活の慰め、あるいは、心の拠り所だった。
とくに、ニューオーリンズで、白人のクラッシック分野がラグタイムに変わり、
JASS から JAZZ に変化して、ビバップ、スウィング、ヒルビリー、R&B、ブルース、ゴスペル、
そしてロックンロールと発展するまで、(かなり乱暴な発展の道のり解釈だけど
黒い肌の下へ流れる赤い血の色は、歌とリズムにとって代わり、
世界に反抗する白人不良少年少女の心を摑んで行った。
それはまたラジオの電波に乗せ、海を渡り、
やがては、ロンドンやドイツ、オーストリア、イタリアに住む、
裕福な家庭の子供達の手元にレコード音源として届けられた。
その一人が、ミック・ジャガーでもあり、アレクシス・コーナーでもあった。
逆に、レコードも買えないほど貧乏な家庭環境にあったキース・リチャーズは、
幼いながらも生涯、ギターを弾いて世界のヒーローになることを夢見ていた。
そして、母親から買ってもらった安いギターを必死に独学で研究して演奏し、
ラジオから流れるチャック・ベリーやエルヴィスのヒット曲をすべてマスターして頭に叩き込んだ。
一方、アメリカの地では第二次大戦も終わり、揺れ動く黒人差別社会の中、
様々なブルース・ミュージシャンやジャズメンたちが、
次々に楽器を開発し、白人音楽と黒人音楽が世界を二分する時代になった。
そこに、マイルス・デイヴィスやサッチモ、レイ・チャールズ等の存在があり、
それはジワジワと世界各国へ浸透して行った。
その末裔に、ダリル・ジョーンズというベーシストや、バーナード・ファウラーというヴォーカリストがいる。
バーナード・ファウラーは父親に初めて買ってもらったレコードがストーンズの『12X5 』らしい。
                                           12X5  
また、ダリル・ジョーンズというベース・プレイヤーは、
マイルス・デイヴィスやハービー・ハンコック等にも認められた若手(?)のベース・プレイヤーだ。
彼等は、90年代から現在に至るまでのローリング・ストーンズをステージ上で支えてきた。(あの女の人も
ベースとバックコーラスというモノは黒人音楽の基礎、基盤であり、
シンプルこそあれど、R&Bやブルースの形を整えるための要でもある。
ところが、世間のベース・プレイヤーという者は、どうしてそこまで目立ちたがり屋なのか? 
というほど、(ポール・マッカートニーや)ビル・ワイマンは自分の才能を試したいばっかりに、
結束を固めて成長しようとするバンドからハミダシてしまう傾向にあった。
そういう体質(?)に腹を立てた一時期のキース・リチャーズも、
今や世界にその名を轟かせるギタリストの一人として、
たった一枚か2枚のソロ・アルバムしかまだ出してないけど、
ずっと変わらず守り続けていることは、
一つの場所で、最初に決めた通りに、R&Bの命をロックンロールに融合させる追究…。
こんなことは、ストーンズが始めてから今日まで、マネをする者がいたとしても、
それを越えた者はいない。
The Rolling Stones という、現在4人のオジサンを核とするバンドが
世界に生き続ける理由はそこにある。 (すげぇ勝手な論法だな!
   
んで、ストーンズのツアー・ステージでは欠かすことのできない黒人アーティストの一人、
バーナード・ファウラーは、とてもラッキーな人で、1985年ミック・ジャガーの『She's The Boss』という
問題の初のソロ作に参加し、ミック単独で初来日を果たした、ストーンズ外のツアーにも参加している。
そしてその後、“憧れのストーンズ”に正式採用されるチョット前、
Steel Wheels』のレコーディング・セッションが開始された当初(1987~88)、
彼は、ミック・ジャガーにロンドンのスタジオへ呼び出され、
キース・リチャーズと最初に逢った日のことを次のように述べている。
   
「スタジオ入りしてミックとヴォーカルのレコーディングをしていたら、
キース、チャーリー、ロニー、ビルが到着した。
全員揃って本番、そのテープが回りはじめたんだけど、止めてもらったよ。
俺はミックに呼ばれて、単にアイデアを出したり、
ガイドトラックを歌うだけのつもりだったし、自分なりの歌い方しかできないからね。
それでも、キースとロニーが加わって3~4曲レコーディングして、
プレイバックを聴いていたら、背後から強い視線を感じたんだ。
キースが俺を睨んでた。
『どこかマズイところがあるんですか?』 そう訊いたら、キースは、
『どこも悪くねぇよ』 って、俺を睨みつづけ、
『お前を気に入りたくはなかったんだけどよ』
『どうしてですか?』
『お前がミック人派の人間だからさ』
『俺、そんなにマズくないでしょう?』
『お前はイカシタ奴だ。スティーヴ・ジョーダン(ds)もそう云ってた』
そう言いながら握手をしてくれたんだ。
これがストーンズとの初対面だよ」
                      (mar18th05'/beatleg/vol.70より)
と、キース・リチャーズという人は決して、音楽を愛する者を差別はしない…
そういう人柄だということが覗えるエピソードの一つ。
ストーンズにおけるキース・リチャーズとミック・ジャガーの仲直りの背景には、
国境や人種を越えたロック・スリピッツのほかに、
それらを恩返しする意味での黒人アーティスト達の役割があったわけだ。
もっとも、カネや名声に目が眩むことなく、転がり続けることは難しいし、
誰にでもできることじゃないんだろうけどな。たぶん。
   
   
ということで、俺がこのページでブートレグ音源の幾つかを公開したことが
許されると思ってはいない。
消します。 
ご試聴はお早めに。…ちなみに映画『POCpart3』出演と海賊盤を混同しないように。