「明日の福祉」の裏側  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

   
mind resolve / edit 003
   
work sub title : 老人介護支援 2 / 肉体の介護問題
   
   
さて、老人介護問題に対する解答の本題はここから…。
その前にまず、“創った側の人”の言葉を幾つか拝借して、そこから、
今後の鮮しい時代に必要な要素を汲み取って、俺の考察から本題へと展開させてもらう。
   
地球上に生息するすべての生物、
その動植物の種類は60兆ある。
人間の細胞の数も、
同じように“60兆”という数で構成されている。
また人間の脳細胞の数。
これは大宇宙に40億あるとされる、すべての星の数と同じである。
そして、この地球上、この宇宙のすべては、
人間の五臓を対象に創られている。
即ち、人間の体が自然を表し、
地球そのものが人間の姿を表している。
しかも、人間の肉体は心の容器であり、
人類の容れ物が地球である。
大宇宙の中の小宇宙。大自然の中の小自然。
人間は自然の産物。人間は大自然の子である。
   
かつて、“創った側の人”は、このように云っていたが、このことを書いた文献、
あるいは、教えているものは、これまで現世に存在しなかった。というより、
すべての人間、それは歴史上のどんな聖人君子も、
我々“創られた側”には解らなかった事実である。
それは、「心の容器が肉体」という部分ひとつ取っても、そんな簡単な言葉で、
しかも一見、判り易い当り前のことのように思えても、奥が深く、
我々人間が思いつくような発想、言葉ではない。
では、“創った側の人”が何者なのか? 
それをここで説明することは本題から少し離れるので、
できれば別のページ を参考に、気の向くまま探ってもらいたいが、
要するに、“創られた側”ではなく、“創った側”の存在である。
さて、これが老人介護の問題と、どう関係しているのか。
これにはその、“人間の肉体は心の容器”という重大な事実に対する認識が必要となる。
   
mind resolve /edit002  で改めて書き替えた『老人介護支援 /老人の魂の介護問題』
その中でアタックした内容、そこに、
80年も90年も生きて来たその魂は俺たち若い者より利口なはず
と書いた部分がある。それは、
「生きている人間の魂(心)は一日一日ごとに利口になっているんですよ…」 (1996年9月12日)
という“創った側”の言葉の意味を反映させた解釈である。
断っておくが、ここには現代の学者達が言う “人間の脳内のメカニズム”がどうとか、
“親から受け継がれた遺伝子”がどうのという幼稚で浅はかな問題は一切、関係ない。
そういう必要以上の知識は、今日まであらゆる宗教が神の存在を曲解してきた事実と変わりない。
これまで人類が築き上げたあらゆる教育や学問の知識、思想は、“創った側”からすれば、
不毛の土地に生えたように見える幻想の森林。
その樹海の中を探検して、二度と出られない人間の愚かさを物語っている。
そんなふうに見えていたのかも知れない。
   
銀河系をも超える大宇宙の中の小宇宙、
自然の産物である人間そのものが、
自然界の何を解って生きているのか。
また、解ったフリ、解ったつもりで何年、生きてきた人類なのか。
地球、大自然の歴史から見れば、
その一瞬に過ぎない針の先のような人類の歴史、時間の経過の中で、
人間は、どこまで何を征服できたというのか。
考古学者も、天文学者も、生態物理学者も、
自分達で勝手に決めた進化論の礎に、次々にこぞって “嘘”というセメントを塗り固め、
その中途半端な左官屋仕事をいつまで続けるつもりなのか?
自分の人生のオサライの中にさえ、宇宙の歴史、地球の歴史の真実はない。
世の中には、それに気づいている学者もいるが、
年老いた者の記録、旧くなって使えなくなったモノは必ず捨てられる。
これも自然界の道理だ(と俺は思う)。だから、時代は回らない。 ディランの歌は聞こえない
日々、刻々と変わっている時代の中で、
くどいようだが、「時代の流れの中で」ではなく、常に変化している自然界における時代の中で
その物事の道理にあるはずのことを道理から外してしまうお年寄の方々。
学者の学識、教育の歪み、崩壊してもまだあると思っている思想。
それらは、いつまでも下駄箱に納めらているカビ臭い靴のようなものである。
「せっかく、ここまでやったのに…」「やっとここまで築き上げたのに…」などと、
履けなくなった汚い靴はもう誰も必要としない時代。
明治・大正・昭和の常識、20世紀の道徳や倫理を利用して生きる時代は、
もう既に終ってしまっている。
つい最近までは、例えば、米国議会図書館の二千万冊以上ある蔵書、本の内容も、
人間が人間としてこの地上に生きるためには 何かしら参考になったかも知れない。
しかし、宗教も科学も「目に見える世界」と「目に見えない世界」の関係を
自分だけの学習範囲でしか捉えられず、たとえ否定・肯定の論議がどうあろうとも
どちらも統計と比較による推測で、事実を曲解してきたことの方が多い。
それは、「とても疑問に思う」ではなく、学識者達が勝手に断言してしまったことが
いま尚、様々な教育の中で、人々の頭を、自由を、もがき苦しむ生活を混乱させている。
またその事実を認めようとしないのも学識者の何者でもない。
それは調度、もう使い道のない縺れた糸を捨てず、 いつまでもほぐしているような
そんな姿である。
この自然界の中では、自分達が、まだまだ解らないことが多いにも拘らず、
解ったフリ、できるフリをして、させてきた人類…。
高々、二千年程度の期間に累積された浅はかな知識、教育の枠組にある雑多な虚構。
そこから涌き出た社会常識という物差しで、すべての物事を判断できるものなら、
その、えて素晴らしい努力の賜物によって、
世界人類すべての者が幸福でいられたというのか。
   
本来、神に似せて創られているとされる人間 は、
人間が神ほどではなくとも、
“神の遣い”として存在しているような格好で、
嘘を嘘とせず、真実を真実として受け入れず、勝手気まま極まりなく、
この地球上を無謀な使い方をして、そこに住み飼いしてきた。
今後、その科学や宗教の誤りを捨てて、
新たな時代の幕明け に繰り広げられる過酷な事実を受け入れ、
これまでの常識に縛られていた場所から自由に逸脱できる能力、
その柔軟性を一人一人が見出せることができるなら、
これまでのような経済恐慌もありえないし、
絶え間ない争いの末、住みずらい場所を造ることもないかも知れない。
そのためには、
この場所を、この地球上を、我々人類に対して、
誰が使う許可を与えたのか。
誰が破壊することを許したのか。
それを理解するための
“自然界に生かされている道理”を素直に受け入れる必要がある。
「借りて使ってもいい」という許可は与えられたかも知れないが、
「破壊して住みずらくしても構わない」とはされていないはずである。
   
人間の造った学問の知識、学識、教育、宗教が、それほど素晴らしいものなら、
どうして、教育の中で教育によって悩んでいる人がいるのか。
どうして、宗教の中で宗教によって苦しんでいる者がいるのか。
どうして、医学の中で医療によって、死んでも浮かばれないような思いをしている方々がいるのか…。
やはり、我々の社会生活に多大な影響を与えてきたという、
かつての聖人君子や、偉大な人とされている学者達が、
人間が生きるために整然とした”正しい知識”を残せなかったためだと思う・俺も。
最初から在ったものが、今の人類が持つ”必要以上の教育”の中にはない。
それは、ダーウィンの「進化論」にしても、スペンサーの社会生物学にしても、
釈迦やキリストの弟子が二,三千年に渡って説いてきたことも、
そこに、あまりにも”生きるために必要な知識”が不足していたために、
今日、我々人間の生きる現実は混乱し、一人一人が生きる理由さえも見失い、
今も世界中で、人類だけが大自然の法則から外れ、
その結果が、今後、一時的にも地球の地軸を曲げ、
その自転・公転を減速させてしまうような事態を造っていこうとしている。
我々人間が生かされている自然界は、我々が大切に使わせて頂いて、
大切に管理・保管しなければならない
のに、
なぜ、南極と北極の上空の大気の層に穴が開き、オゾン・ホールが拡大し続けているのか。
地球温暖化防止の協議にしても、
最早、人類が何か改善を図ろうとする試みには必ず弊害がある。
人間はどれだけ自然を破壊してきたか。
そしてその本当の結末、
鮮しい時代の本当の幕明け は、まだ誰も経験していない・が、例えば、
2005年7月23日の世界標準時間25日午前1時35分頃、
震度5の揺れを観測した日本の気象庁の地震探知機。
千葉県北西部の震源の深さを約73キロ、マグニチュード6・0と推定。
足立区で震度5強、東京、埼玉、千葉、神奈川の4都県の一部で震度5弱を観測。
予告は予告であって、あくまで本番は、あるかないか未定かも知れないが、
1992年2月2日の未明、東京湾を震源とするマグニチュード5・7、
東京大手町で震度5のちょっとした揺れがあった十三年前、オウム騒ぎがあった年な
   
「近く・・・・・それが横浜なのか、あの辺・・・他の都心に繰り広げられることなのか、
今のうち色々な準備を整えておいた方がいいかも知れないですよねぇ」
「どうなっちゃうんですか?」
「…どうなっちゃうって、それを今ここで私に訊いてどうするの?」
「いや、自分にもあの辺に知り合いとかも多いもんで…」
少し間を置いて、
「…それはもう、今回の関西に起こったような、あんなもんではなくってねぇ。
もう大変な状態になるんですよ。もうメチャクチャにカイメ…」
「それはいつですか?」
「え? いつかって、それは近くなってきてからまた話しますよ、そん時は。
でもそんなに遠くはないですよ。台湾にしても、伊香保…それから草津の周辺…
あの辺にしても。・・・・・だって、もうぉ、そんなに待ってないもん」
「“待ってない”? 誰が?」
「誰がって、俺が…じゃなくって、自然界がだよ」
「ああ、自然界…」
「だからいつも俺が云ってるじゃない。
『もし、世界中の人間ぜんぶが敵に回ったとしても、自然界だけは俺の見方なんだ』 って、
そう云ってるでしょ。自分でも本にそう書いたじゃない」
「はい」
「だから、解らないことは解る人に素直に訊いて、
“事前に知っておく”ということが大切なんですよ」
        (1995年5月27日午後、とある車中にて。/ 実際に録音テープにも記録あり
と、これは、俗に言う“予言”でも脅かしでも八卦でも何でもなく、
“創った側の人”が何年も前から、我々に忠告していたこと、
自然界からの”お知らせ”だった。
それでも今日、何の危機感もなく、今まで通りに過ごすことは、
そうしたい人の勝手で、その人の自由かも知れない。
もう既に、今まで通りではないけどね。
   
7月27日に横須賀に座礁した鯨は、もう進む先には海がないのに
岩場に巨体を擦りつけ、大量の血を流しながらも前へ進もうとする。
かつてカリフォルニアの海岸で集団座礁したイルカの群れ、
また日本各地の沿岸でも、陸地の下を震源とするちょっとした地震の後には
陸地から海へ波動する音波に頭の中を乱されて、シャチなどが座礁することもある。
(海底地震の時はあまりない)
「今回の大きい鯨のようなモノは珍しい」と学者も言うが、
自然界に生息する野生の鯨は、本来、南極と北極にいる別々の仲間同士で
交信できると云われている。
自分達の科学力を過信する我々人類には想像もつかないほどの、
その、優秀な能力を持った鯨という生物が、
あのように自分の身体を傷つけてまで座礁してしまう…
それは一体、何を予兆しているのか?
そしてなぜ、今回は横須賀だったのか?
近所の堀にいる鯰に訊いてみて判る問題なら、誰も不安にはならないだろうが、
今後、必ず別の場所でも変調がある・と思う。(俺はな)
だから毎日、夕方近くなった時には空を見上げ、
その色が異様ではないかどうか。(デビルマンが戦う時のような空の色になってないか
野鳥がどのように飛んでいるか。
軒下にいるはずの鼠や蛇などの小動物を含め、自分が飼っている自慢のペットの様子、
あるいは豚や牛などの家畜の様子など、
できる限り、観察できるモノは観察し、また観察する時間を10分、
5分、2分間だけでもいいから、生活に取り入れておいた方が…いいと思う。
特に、人間の勝手から無闇に埋め立てられた場所。本来なら海であったはずの沿岸沿い地域。
その辺りにはもう、牛や豚はいないかも知れないが、
誰に断りもなく亀裂の入った路面や家の傾きなど、それを察た自分の脳裏の奥底で、
何か感づいている、もう既に気づいているはずの人もいるかも知れないが、
知っての通り、結果だけを見て物を言う学者の頭、気象庁は宛てにはならない。
鹿や猿、熊など野生の動物が身の危険を察知して、安全な場所へ退避できるなら、
人間も、自分で自分の身を守る能力を取り戻し、磨く訓練…
取り戻せないなら、幾らかでも再生されるまで、
精神の軌道修正を図るべき時期にある・と、俺は思う。
その点では、中国という国のある一部の民族は優秀だと思う。
何日か後に起こる大地震を事前に予測し、何万人もの人命が損なわれずに済んだ
という実例もある(興味ある人は自分で調べてくれ)。
   
さて、「何か大切なものを失うかも知れない」という恐怖感を
常に持ち続けている人間の話は、別の機会に回すことにして、
ここまで話してきた内容をどこか頭の片隅にでも置いた状態で、
次へ読み進んでもらえるなら有難い…と、感謝する以前に読んでいる人は誰もいないかもな。
   
この内容は、『人間の設計図 』著者が、20年以上前、NHKの「老人介護問題」をテーマにした放送。
その番組編成部へ投書した内容を基に、一部、書籍用に修正され原稿化されたものである。
   
 今日【こんにち】 、寝たきりの老人に対し、「ヘルパーをもっと増やさなければ」ということが盛んに
議論されている。
 先天性障害者(あるいは事故による障害のほとんど)は別として、人生の途中から、なぜそのような
障害者になってしまったのか。
 その人その人に色々な事故もあり、事情もあるでしょうが、病院の医者の診察も、治療も受けて、
どうして最後に不自由な体になってしまったのか。
 できた結果ではなく、そうなる前に、どうすれば善かったのか。
 今日ほど医学が進歩しているのに、そこに生きる人間は、なぜ、このことについて分からないのか。
 それは他人事ではなく、やがて、多くの人がこのようなことになるかも知れない。
 だから、どこか体の悪い人達も、今、元気に働いていられる人も、
「やがては自分もそうなるかも知れない」と思い、不安な毎日を送り、暮らしていることと思う。
 人は皆、自分の一生を自分の力で動きたいと願ってはいるが、自分の人生の途中で、
人の手を借りなければならなくなる。
 特に、医学の上で老人性痴呆症と言われるほとんどの人は、こうなる以前に、
人並み以上に、社会の中で、人の上に立って活躍してきた人が多い。
 寝たきりの人も、車イスの人も、現在の自分と健康な時の自分を比較したら
残念でたまらないことでしょう。こんなに苦しく切ないことはない。できることなら、
這ってでも、自分のことは自分でやりたいと思うのが、人の心である。
特に、トイレについては、最後まで人の手を借りず、自分の足で行きたいと思っている。
 人間が生きていること、動けることの絶対条件は、血液が流れていることである。
筋肉の中に血液が流れていなければ、動くこともできないし、死んでしまう。
 例えば、車イスの人達は上半身は温かく、腕だけは動かすこともできる。
車イスのタイヤを自分の手で回し、移動したり、
上半身だけを使う仕事についたりというようなことはできるが、
常に下半身の(筋肉が)冷たく、動かせない。
 また、寝たきりの老人も、上半身はよく動くが、下半身は思うように動いていないという人が多い。
 なぜ動かないのか。
 それは、下半身に血液が流れないために、筋肉が硬直し、動かなくなったのである。
だから決して、ヘルパーの養成や介護する人の指導教育の問題、ベッドの開発、車イスの使用法など、
そしてまた、そうしたことに負担が掛かる医療保険の見直しを考えるばかりが重要なことではなく、
実際に今、寝たきりや車イスの人達の体、筋肉がどのようになっているのか。
どうして血液の流れを止めてしまったのか、どうすれば、下半身の筋肉に
必要な血液を流すことができるのかを考えなければ、絶対に治せないし、解らない。
これによって今後、日本の高齢化社会は益々、大変なことになって来ることでしょう。
   
 では、寝たきりの人も、老人性痴呆症の人も、そのように体が不自由になる以前の体は、
どういう体形だったのか。
 人間の体は成人にして、その全体の六十五パーセントが筋肉であり、その筋肉には
網の目のように血管がある。その血管の全部を一本の常態に繋ぎ合わせると、実に、
地球を二周り半も回るほどの長さがあるといわれている。
 その筋肉の中にある血管には常に血液が流れている。
その速さは、どんなに細い血管のどこにおいても滞りがない限り、頭の天辺から足の爪先まで
二十四秒間に一回転するほどの物凄い速さで規則正しく回っている。
 人間は本来、誰もがそのように創られており、人間の体の筋肉、血管、血液の流れというものは、
それほど大切なものおである
 ところがどこか血管に、極端に滞りがあれば、血液の流れが悪くなった場所は、当然、
筋肉が硬くなって、冷たくなるし、その滞りをそのままにしておけば次第に、その人の体形は崩れてくる。
それは決して、「年を取ったから」とか”老化現象”という簡単なことではなく、
筋肉の異常である。
 自然界の川は上から下へ流れ、その途中に、どこか一ヵ所でも流れにくい部分、
滞って詰っている場所があれば、そこから下へ水は流れないし、流れの塞き止められた入江には、
ゴミも溜まれば、水も澱んでくる。
 大自然の中の小自然。同じように人間の体も、その決められた通りに規則正しく流れて
いるなら問題はないが、筋肉にある血管が詰れば、そこから先へ血液は流れない。
動脈硬化、コレステロールと言われる問題も、筋肉の中にある血管内の汚れ、 血液の汚れに問題がある。
 そして、寝たきりの人、車イスの人は、まず、両足の付け根の部分に問題がある。
 それは、男女共に丁度、陰毛の生え際の辺りの場所で、医学(解剖学)でいうところの
鼠頚部【そけいぶ】リンパ節と言われるの場所。鍼灸学の上では、正経十経絡【せいけいじゅうにけいりゃく】中、
足の太陰脾経【あしのたいいんひけい】という経絡線上の衝門【しょうもん】と言われる場所。
   
 
       04hizoukei  経穴を示した下から5つつ目の場所(衝門)
   
 
  『人間の設計図 』 220~223ページ参照
   
付け加えて、『大自然の気による政治革命』という、これまたお蔵入りとされてしまっている
原稿の一部から、関連した内容をご紹介する。
この内容は、初版『人間の設計図』にも、その他、その著者関連のどの文献に於いても、
どこにも公開されていない。 なんで俺が持ってるのか・・・・あとでね。
   
 私がNHKや様々な機関に投書して、それがいつのまにか本の原稿に直して出てきて、
今みなさんが手に持っている『人間の設計図』(完全版) も、全国の医療機関や図書館に
送られてある。それは、いつどんな時でも、私の所へ尋ねてくれば、
「解らないことは何でも教えてあげるよ。特に人間については丁寧に指導するよ」
ということから、みなさんが立ち寄って手軽に開いて見られる、そういう所へ寄贈してある。
中には、「要らないよ」と、断ってきた病院や施設もあるが、各県の大きな図書館へ行けば
必ずある。
「ない」という人、また「どうしても欲しいという」人は、今、自分で買って、持っている人も大勢
いると思う。
 それは、万人に必要な知識。生きるために必要な知識。人間が創られ、この世に生まれ、
育って、やがて死んでゆく。その事実を書いてある。
 最初に出版して売れなかった『人間の設計図』にも、そういう宣伝文句というか、人々に
対する言葉(メッセージ)を付けて、
「この事実(人間の創られ方の事実)からは、なん人も逃れられない」と私は云っている。
 その中に、人間の魂とか、“あの世”とか”この世”についての問題も、色々と出てきて、
普通の人は難しいと思うのか、難しいと感じることも書いてはあるが、さしあたって今、
必要なことは、この世の中をどうして生きて行けるか。
 どうすれば、楽で、健康で、楽しく明るく、これからの世の中を人間として堂々と生きて過ごせるか。
 それが今、みんなが必要としていることであり、またそういうことを指導できる人を指導する、
「指導して次々に、育ってゆく人が絶えない世の中にして行こう」という考えから、私はこの、
『大自然の気による政治革命』という本を○○○と一緒に創って、全国の本屋さんに並べる
ことにした。そして今、日本政府、総理官邸にも、宮内庁にも寄贈されてある。
(注意:『大自然の気による政治革命』という本は、おおよその原稿のみ完成したものの、出版は
されなかったので、ここに書いてある内容はあくまで原稿の中だけで終っている/1998年3月現在)

 それは今、今後これからも特に、問題とされる日本の高齢化社会。その中で、我々人間が
どうやって生きていくかという切実な問題から、それを末端にいる人達。老人介護にあたる人も、
高齢者と一緒に住んでいる家族の人も、その本人達も、これから自分達がどうして生きて行けば
いいのかを、もっと政府が真剣になって取り上げて考えるべきだということで、そうしている。
   
 例えば医学では、老人性痴呆症という病名をつけても、そのはっきりとした原因も解らないし、
治し方も解らない。その病気がなんなのかを、本人が納得の行くように説明できる者もいない。
それは、人間の体が筋肉で創られているということが、まず解らない。
 一人暮らしの老人。自分の自宅で死んでしまう孤独死は、病院で死んで医師による死亡診断書を
書かれてはいないから、はっきりとした死因が解らなければ、変死体として一旦は司法解剖に回される。
そこで始めて、医学なら医学は、人間の頭なら頭を切り開いて、その中を覗いてみて、
「くも膜下出血」だとか「呼吸困難による窒息死」という判断もあれば、
「ああ、この人は生前に脳に障害があった」と言っている。また、脳外科、脳神経内科など、
人間の脳を診るという科だけでも、人間の体が、あらゆる科に分別されている医学では、
生きている患者の頭の中を輪切りにして診る機械を使って検査し、病院のエレベーターを何度も
往復しなければならないという不便で理不尽な診察の結果から、色々と難しく考えて、
「痴呆症の気がある」と言っている。
 それも統計による判断で物事を決めて行く。結果だけを診て言っている。
 人間は部品と部品の組み合わせではないし、その”痴呆症”や“惚け”という簡単な言葉では、
一人、人間の人生を片付けることもできない。
 では、何のために脳細胞が萎縮して白くなってしまったのか。それは医学では解らない。
 人間の脳について研究をしているという世の中のどんな学者が、何か解ったフリをして、どのような
説明が出来たとしても、説明を聞いている人は判らないし、納得できない。説明をしている者はもっと
解らない。
 私は・・・筋肉に血液が回らないために、まず足の方から悪くなって、徐々に全身の筋肉が涸れて行き、
頭の中にも血液の循環がほとんど無くなってしまう。そのために脳も乾いて小さくなってしまう。特に、
人間の後頭部という場所は、どんな人でも大切な場所であり、
      
 人間の体には、そこに非常に太い血管、大きな静脈と動脈が通っていて、人間の上半身と
下半身を繋ぐ重要な場所(筋肉)である。そこから下の方へ思うように血液が流れなくなり、
何か硬いシコリのようなものがある人もいれば、人によっては、その場所に圧迫感があり、
重く痛いという感覚が起きている人もいる。また、そのシコリを手術で取ってしまったという
人も世の中には少なくない。
 なぜ、その部分がそのように しこったり、筋肉が硬くなってしまったのか。
 これについては、男女で別々の原因があるが、まず、人間の体の中の臓器の位置。この
内臓の位置が本来あるべき場所、定められた位置にはなく、下の方へズレてしまっている。
それは、大腸・小腸・膀胱・胆嚢・胃とある腑の部分。女性には子宮・卵巣という大切な臓器
までもがすべて、下の方へ下垂し、足の付け根にある大きな静脈と動脈を圧迫している。
そういう人は必ず、お腹全体の筋肉に内臓を支えておく力がない。いわゆる、幼児体形と同じ
ように下腹部だけが膨れ、筋肉が弛んでいる。
 この内臓の下垂により、両足の筋肉全体に対して血液の循環が悪くなると、膝の裏が硬くなる。
この膝関節の周りの筋肉にも血液の流れる量が非常に少なくなってくると、膝が曲がってしまい、
その人の立った姿を真横から見れば、前かがみの姿勢になっているはずである。
 そのように筋肉が変形し、体形が崩れために、首が重くなり、背中を丸るく猫背になり、
筋肉が硬く冷たくなった場所は、結果的に動かなくなるし、動かせない。
 このようにして、自分の思うように手足を伸ばすことも、曲げることも困難になってしまっている
人達が、現在の高齢化社会の世の中に大勢いる。
 その人達は決して、背筋を伸ばして真っ直ぐには立っていないし、たとえそれは寝たきりの人
であっても、かつて、寝たきりになる直前までは、そのように膝を曲げ、肩を落とし、猫背になり、
顎を前へ突き出すような格好で、足を引き摺って歩いていたはずである。
 そしてそのことを解らず、無理をして動かそうとすれば、痛くなり、変形するのは当然である。
 だから”リハビリ”ということも、無理をすれば、後々、大きな危険に見舞われることにもなってくる。
   
 現在ではそうしたリハビリの施設もあり、様々な機械や器具によって、なんとか不自由になった体を
自分の力で動かせるように、本人も、また、リハビリを指導する人も、大変な努力をしている。  
しかし、そのリハビリによってどこまで、人間の悩み、自分で自分の体を思うように動かしたいという願いが
救われ、解決されているのか。その事態を、国は、厚生(労働)省は、どう考えているのか。
 今後、そこに、どんなに費用を投入しても、どんなに沢山の人を技術的に育て、養成しても、
人を増やせば増やすほど、そこに人件費を掛ければ掛けるほど、そこで使われる設備や機械、器具も、
増えれば増えるほど、介護される側より介護する側の人達が、今以上にもっと悩み苦しむことになる。 
 やがてそれは大きな問題となり、果たして人間は人間を救うことができるのか。
 そして誰が、自分で自分を救うことができるのか。
”バリア・フリー”という言葉ひとつにしても、その人達のどこに自由があるのか。
 すべてが機械、統計による判断で、管理する側も、される側も、決して、その体にも心にも、
人の力では、もうどうにもならない悩みが募り、いっぱいになってしまった時、
果たして、人間は、社会はどうなってしまうのか。
 人間の体の半分以上が筋肉で出来ていて、筋肉は血液によって動くと考える医学があれば、
車イスの人も寝たきりの人も、ほとんどの人が元気になれるに違いない。しかし、残念なことに、
世界中のどこを探しても、”筋肉科”という科もなければ、筋肉を診る医者はどこにもいない。
 私は、この筋肉についてを指導している。そして、『人間の設計図』では特に、
筋肉と血液の流れについてを云っている。
そこは両足の外踝【そとくるぶし】の脇の窪み。(下の図を参照)
そこにある筋肉の血液の流れ、気の流れと関係している。
 
 
konron7
両足の外踝の脇の窪み
(正経十二経絡の7.足の太陽膀胱経絡の崑崙【こんろん】という場所を示す)
   
 従ってその部分に私が気を送ると記憶力が善くなってくる。人によって個人差はあっても、段々と
足の方から背中が温かくなって頭が冴えてくるようになる。これは、正しく鍼を打つことを判っている
鍼灸師なら同じことができる。私は今まで何人もの鍼灸師に、それを指導してきたこともある。
 要するに、人間の後頭部と、その足首の部分と、尿の関係。老人性痴呆症と呼ばれる人はすべて、
人間の膀胱に纏わる気と血の流れに問題がある。
   
医学の上で、癌、心臓病、脳血管疾患と呼ばれる成人病があり、
以前、「“脳卒中”で倒れた人は、農家の人や頑固な性格だった人に多い」と私が云った、
いわゆるその、成人病(脳血栓、脳充血、脳梗塞などの脳血管疾患)による後遺症で、
自分の手足の自由が利かなくなってしまった人も、
またそれが、顔や手に軽い症状として残っている人も、
上半身はよく動かせるのに、下半身が思い通りにはならない。
以前の自分自身の若い頃、つい最近までの自分と比較してみても、
それほど残念で、また自分自身の体のどこがどうなっているのかを判らないまま、
日々を過ごす辛さ、色々な葛藤は、本人にしか解らない。
本人にしか解らないことでも、それを見ている周りの人は、もっと苦しいかも知れない。
それは家族がまだ、健康であれば、それほど心配ではないかも知れない。
ところが、その本人が一人、不機嫌だったり、素直に「こうして欲しい」と言えないだけで、
周りの人は困ってしまう。何も云わず、そのことに耐え、ずっと悩んでいるかも知れない。
だから、寝たきりの人も車イスの人も、介護する人が他人であったなら、
あとはお金の問題だけで、それはどうでもいいことかも知れない。
だが、そのことによって事実・・・今後これから、社会には色々な事件、犯罪も増えてくる。
決して病気になった本人が悪いとか罪を犯した人も、「誰が悪い」ということではなく、
悪いのは、そういう世の中を造ってしまった世の中の教育が悪い。
様々な医療機械や器具、車イスの開発や介護用のベッドを便利にすることが重要なことではなく、
また、この介護の問題、高齢者対策の問題についても、もう少し気の利いた、
しっかりとした人々を育てる指導があり、それを国、政府が勧めて考えていたなら、
何か取り返しのつかない事件を起こしてしまうようなことも、
家庭内に起こるつまらない喧嘩やいざこざもなかったことでしょう。
   
   
「物は手持ちで10年」と言われたように、人が使う物、道具は、その手入れを怠らなければ、
非常に長持ちもするし、場合によっては価値もあがり、
使う人も、壊れて使い物にならない限りは手放せない。
人が造り、使う道具とは、昔からそのように扱われている。
同じように人間の体も、自分自身の肉体。その与えられた道具を、常日頃から手入れをし、
丁寧に、管理・保管を心がけておけば(島田さん、そういう意味での“手入れ”だったんですよ)、
最後まで重宝して使ってゆけるものである。それはそのように人間が創られている。
またそのために、私が奨めてきたのが導引法であり、私の気の指導である。
だから食養法も、気具法も、それを補うためのものは、いつでも自分の身近な所、
家庭内でできることとしてあるが、それ以前にいちばん重要なのは、洗心法である。
要するに、“気づく”ということ。
長年の間、使ってきた自分の体。その、頭の天辺から足の爪先まで
”手入れ”を怠ったてきたことは、もう過ぎてしまった取り戻せない過去であるから、
それは仕方がないし、そういった誰にでも大切な
”生きるために必要な生活の知識”については、今まで誰も教えてはこなかったし、
これまでの教育の中にはどこにもなかった。
だから改めて、今からそれ(肉体の手入れ)を「このようにしなさい」というのも、
そうした本人にとっては無理かも知れない。また教える方も大変である。
それでも、自分自身の痺れる手も、外側へ回しながら歩く足を引き摺ることも、
「これ以上は悪くならないように、現状を維持しながら生きる。
それでも、もしできることなら、今の状態よりほんの僅かでいい、
ちょっとだけでいいから、足も手も何とか動かせる状態に保って、
トイレへ行くにも風呂に入るにも、最後まで、
自分で自分の体を運んで動かせるようにしたい、しましょう」というのが
私の考えではなく、その人たち本人、一人一人の願いであり、希望である。
   
-------------------------------- 以下略 -------------------------------
   
   

世間一般、世の中で言うところの“3大 成人病”のうち、心臓病については 
別の頁(
白い冷蔵庫 』の追記や『サテライト・ロミー 』という物語の一部)の中でも 
いくらか詳しく解説してきた。また“癌”については
インターネット上のウェブログで断片的に書いた部分をひとまとめにしたページを用意したので 
http://ameblo.jp/badlife/entry-10014612599.html  July 12, 2006
いずれどこかで、詳しく取りあげる機会があるまでは、そのページ に目を通すなり、
初版『人間の設計図』の案内板として刊行された
大自然の気による医療革命 』という本の中で、
“創った側”の人が事細かに説明している「癌とは何か」という項目を
ご興味あれば、参考にして頂きたい。
価格も手頃で、勿論、自然治癒力を活性化する“創った側”の気が、
永遠に保たれるように封入されている
不思議な書籍 であることには変わりない。
 また、この中に出てくる“五つの健康法”洗心法、気功法、導引法、食養法も、気具法
その、人間の肉体や心の故障を正しく自分で治す方法や指導の詳細については、
ここでは控えさせてもらうが、『BAD LIFE』130~140頁には、意味あって簡略化した内容を記してある。
 その『
BAD LIFE 』に「人類の道理 」というセクションがある。
 手に取った人が、どこをどのように、どこから読んでも
自由に読んでもらえるように書いて編集した詩や散文、幾つかの童話を鏤めた形式で、
従来の書籍の在り方としては屈折したイメージを抱かれるかも知れないが、
その、「人類の道理 」だけは、意味あって、“創った側”の人の筆によるものを掲載してある。
 初版の『
人間の設計図 』に比べれば比べるなっつーの。、幾分、
持った時に何かを感じる部分が薄いかも知れないし、そこに書かれた内容を基に、
自分自身にある何かを”気づく”ということも、どこか遠い世界の話のように感じるかも知れない。
 それでも、「人類の道理」という項目だけは、何度 読み返しても、
読む人そのものが人間として生きている上では得る部分が多いと思う・ので、
今はもう少なからず、限られた所でしか体験、感じ取れなくなっている”創った側”の気を
世の中に伝えて行こうとする意図として存在する俺の思い…。
どうか汲み取って頂ければ…と願っている。
 もともとは、先にも触れた『~政治革命』に用意された未公開原稿の一部だが、
今日、ここまでの内容を読んで頂いた方であれば、その123~140頁に渡る内容を
改めて判りやすく読んでもらえる・と思う。
 そういう意味では、『
人間の設計図 』の著者が、まだこの世に行き続けているように
書き進めて来たこれまでの内容についても、恐らく、ご理解頂けるのではないかと思う。
 
 
 

なんか、堅苦しい云いまわしで終るけど。
そういうことだ。
冒頭で、危うく、創った側創られた側の立場が混同している部分は、
俺自身の中で、「ちゃんと区別しろよ!」と、厳しく、自分に云い聞かせなければならない
今後の課題でもあるけど、
前回の内容 に比べて、幾らかマシになってると思わないか?
…誰に云ってるの?
 
   
    
                          Bad Life 南