Hang Out  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

 
 
   家庭や職場で出る自分達の身の周りの狭い範囲のゴミをどうするか?
   なんて問題じゃなく、世の中にはもっと大変な粗大ゴミがある。
 
     mind resolve : chapter 008 / Time Waits For No Man 
 
 
 宇宙開発といえども、今の文明にとっては、やっと近い所とされた大気圏外という地球の周囲。
そこへ人類が撒き散らしたゴミが幾つあるのか。何十億円という費用で製造されながらも
直ぐに故障してしまう人工衛星の回収作業。そこに、今後も莫大な予算が投入され、
一つ一つ幾ら丁寧に片付けたとしても、その間には原子炉を積んだ屑鉄が軌道を外れ、
地上や海上に墜ちて来ることもない・とは言い切れない。
 さしあたり、人工衛星や原発がないと生活に事欠いてしまう我々現代人にとって、
便利さの裏側に都合よく隠された事実は何か事が起きてみて始めて公表…暴露される。
「最早、何が起るか判らない。これ迄の常識では考えられない」という一見、混純とした時代、
数年前の「創業百年」といわれた山一証券廃業の実態も、先の宇宙開発の打算によく似ていると思う。 
しかし「正しい情報公開が成されてなかった」
などと各報道の最後の方でよく耳にする言葉に代表されるように、
少なくとも「便利になった」と喜んでいる我々の意識には、
どこか無責任さも感じられる。
 例えば必要以上に普及した携帯電話。今後は衛生通信の機能なども兼ね備え、更に
手軽に便利になる反面、その“便利さの追求”に伴う犯罪も激増すると言われる昨今。
実際は主力産業もなく、行き着く所迄行き着いた“先進国の最期のあがき”という見方もおかしくはないし、
そこから起こり得る電磁波障害、人体細胞組織への影響などは、
「医療保険制度の見直し」を押し勧める政府にとっても、その落し穴は計り知れない。
一方で、オゾンホール拡張や地球温暖化現象が深刻な問題とされる今、
つい十数年前の生活意識と同様、
国の戦後教育でコングロマリット化され過当競争に忙しい今の我々現代人にとって、
まだ想像もつかない事実が起こる迄は、
このような名も無き者の警鐘も単なる戯言に聞こえるだけかも知れないが…。
 物質文明に偏った時代。そこに生きる人間が、本質的な意味で、自然界との享有が
難しくなったことは肯定できるはずである。
 
 
 ジャック・ケルアック, 路上
 
 さて、ちょっと時代を遡って、1940年代アメリカ文学史にその名を残す、ジャック・ケルアック
彼に代表されるビート・ジェネレーション。当時の物質文明に反逆した”ビートニク”と呼ばれる
世代意識は、かつてのアメリカの文学界を始め様々な芸術分野に影響を及ぼし、ヒッピー文化、
カウンター・カルチャー、反抗ムーブメント…と、その流れを受け継いだ世代の主張は、
我々に身近な“音楽”にもその姿形を変貌させて現在に至る。
 ビ・バップ・ジャズ~リズム&ブルース、ロック&ロール、パブ・ロック、パンク~テクノ~ラップ
~ハウス~ヒップ・ホップへとかなり乱暴な並べ方だが、それらの歩みも、
かつてのその、ビート・ジェネレーションの概念を受け継ぎ、またそれは、ちょっと外側に目を向ければ
様々なフォーマットのアーティスト、ミュージシャン達の活動にも見受けられる。
 例えば、“ロックンロール”というジャンルも、その名残の一部として伝えられている一つの文化であるが、
1980年代初頭までは、ロックンロールは“不良の象徴”というイメージが、
それ以前の世代(第二次大戦中に青春を送った人々)の意識の中にあった。
 
 そして戦後60年。世の中は変貌し、これまで安定していたはずの社会形態、政界、財界、医療、
教育現場を問わず、人間社会の海も山も川も関係なく、
あらゆる常識が崩壊の一途を辿りつつある
時代に於いて、
改めて物質文明への不条理を感じることも多いが、
現代は何か恐ろしいことが始まる朝のように、“世代意識”そのものにあったはずの、
物事への“価値観の継承”すら、透明感を失いつつある。
 かつて、人々の生活背景にある文化の生立ちの流れ、何の約束事もなく無言のうちに引き継がれる
価値観の継承には、もっと透明感があったように思う。
 商業的な価値観やメディアに押し付けられたライフ・スタイルの選択には何の個性もなく、
街並みはどこも同じような造り、そこに歩いている人の色も形も、ほとんど変わりなく、
一見、流行から外れて個性的に見えても、隣の街には同じような格好の人が必ず、10人、20人はいる。
 携帯電話に操られ、階級を失った集団は、まもなく所々で一度にまとめて自殺するかも知れない…
というほど、眼に輝きを失った若者が街中を行く。そしてその雰囲気は、そのまま、
朝の通勤ラッシュのホームに立つサラリーマン達の姿の中にも伺える。
実際に、既に彼等の集団のうち何組かは、停車した列車の開いたドア中へ飛び込むのではなく、
電車が止まる前に黄色い線を飛び越えている。
 その世代のうち何人かの、例えば「50年代のロックンロールがリアルタイムだった」などというような、
かつての不良のノスタルジックを感じさせる表現も、次の世代の若者には何の関心もなく、
若かりし頃の彼等が感じ取ったエネルギッシュな世代意識は、どこにも伝わらない。
最早そうしたオヤジ連中の言葉など、非常に便利で危険な携帯電話を使いこなす新しい世代においては、
ほとんどまったく通用しない時代にもなっている。そうした意味で、透明感がない。
 文化、教育、経済思想が、戦前戦後からどんなにアメリカナイズされていようとも、
明治・大正・昭和の常識が引摺られてきた今日、
「生きることがもう限界だ…」と、なってしまう人が増えている。
 
 
そんな中で、どの世代にも共有される存在。現代に生きるローリング・ストーンズは、この国において
“今まで通り”にやって行こうとする組織、階級が急激に潰れ、枝別れし、崩れ去る世の中で、
いわば“財閥”の粋に達しているほど結束の固い組織。
世界のロック産業がどんなに変貌しようとも、自分達にできることを“伝える”というロックンロールの姿勢。
それを生きている限り貫き通す。しかもそれは決して誰にもマネできない。
 例えば『ノー・セキュリティ』の初回版にあった「20世紀最高の発明」と謳われたスリーブのキャッチは、
そういう意味でも頷ける。
 それでいて(?)、どんな信者であろうと、純粋なファンであろうと、マーケットの下にいる我々は常に、
彼等が身近にいるような意識で、自由意思を共有できる。
“自分にできること” それに自信を持って堂々とロックをやっている男の姿。
それを特質として捉えがちな我々は、単にそれに憧れるのではなく、人間として見習うべきではないか? 
 今日、自分に与えられたどんな仕事に対しても、権利を主張することばかりが先に立ち、
自分の本質を曲げ、自ら心を汚しながら生きなければならない日本人は特にである。
と、『ノーセキュリティ 』はそんなことを訴えているように思える。
 
 
戦後教育の弊害により築き上げられた今の多くの日本人の意識、常識観念。
それが産み出す社会の歪みは、これから先も止まることがないかも知れない。
だが、素直さや感謝、道徳心に限らず、自分が生きているという実感、生かされている喜び、
幸福というものは、宗教や教育の思想によって見い出されるものではないし、
自分の心をごまかした努力に基づいてあるものではない。その証しが、現代のストーンズにある。
 かつて、この日本では老舗の音楽評論月刊誌の中で、五木寛之氏がミック・ジャガー
とキース・リチャーズに別々にインタヴューしたという記事があった。
 当日、五木氏は40度近い熱があって、いわゆる“気病い”の身にあったらしいが、
そのページの最期の方で、
「私の身体に何が起こったのか? 僅か30分ずつ、二人に逢って話しただけなのに、
冗談ではなく風邪などブッ飛んで治ってしまった。普通の人間にはない凄いパワーの持主である」
と、そんなことを云っていた。それを読んで、
「こういう実体験が日本の多く批評家に必要なんだ!」
と、FMラジオ各局や他の音楽雑誌に投書した記憶がある。
 そのうちの一つ、海外ミュージシャンの珍しい写真が矢鱈と多い、あの音楽雑誌に宛てた内容の一部が、
以下、旧いフロッピーディスクの中にあった物をプレイバックする。
 
 
40年近いキャリアを持ち、多くの人々に影響を及ぼしたロックバンドは確かにない。
息の長い所で、あのキンクスにしても彼等の功績には及ばない。
 本人にしてみれば、それを何とか絶賛しようとする“物の譬え”だったのかも知れないが、
『ノー・セキュリティ』を一般人より逸早く聴いて、自分自身が麻薬をやったこともないのに、
「2曲目のイントロが出て来た時のゾクゾクする感覚が麻薬に近い…」
などと云っていた渋谷氏1998年RO11月号PAGE:202も含め、ストーンズを知る今の日本人の多くは、
現代に生きるストーンズに対する認識が、その個人個人の人生の歩みのように曖昧で中途半端。
特に、自分の人生の中、保留に保留を重ねて生きてきたような批評家の、
その一つ一つの言葉、発言には、無責任極まりない屑が多すぎる。
 何もそれは音楽情報誌というフォーマットに限られた風潮ではない。が、そうした体勢の一つ一つが
渦となって、例えば「日本でのストーンズ公演は海外に比べて活気が薄い」というのも、
どこか、大騒ぎをしておきながらフランスであっけなく負けた日本サッカーに似ている…。 
 あれほどの規模の公演から、日本のファンに向けて15タイトルという選曲と、あの、辺鄙なジャケット。
「その裏に何があるのか…?」などと想像を巡らすのも馬鹿げた話だが、
西新宿を“聖地”と呼んでコソコソと海賊盤を買い漁っている日本人には、勿体ない気がしてならない。
 理屈を云っても云わなくてもストーンズを聴く己自身。有り難くもこの時代に生まれ、
ストーンズを体験できた己自身。今この瞬間に生きていられることをもっと大切にしたい。
  投書『ストーンズ体験、リアルタイム世代の歪み』(1998年10月)より
 
 
 ザ・ローリング・ストーンズ
 ノー・セキュリティ
 
俺が96年から98年に掛けて書いた白い冷蔵庫サテライト・ロミー 』 
この二つの物語の他に、
灰になる夢という近未来のバイオテクノロジーを諷刺して描いた物語。
世の中の学者連中、あるいは、生きるために必要以上の知識で
学者以上に頭が重たくて歩きずらい連中に向けた最期の読書という物語。
それらものちのち紹介するつもりだが、
俺は架空の物語であっても、その一部がやがて現実のものとなるように、
「絶対にこうなって欲しい」と、神に願って書いている部分もある。
別に手塚さんの真似をしている訳じゃないけど、
一種の“呪い”のようなもので、
それが、その一部が、今後、たった一人の人間に於いて
本当に現実となってしまった時、そんなラッキーなことはない。…但し家族以外の第三者にとってな。
「なんでそんなことをする?」 「どうしてそんなことを書く?」 「アタマ、おかしいんじゃない?」
と云われても、俺は書く。書き続ける。
 
正確には「書く」というより「書かされている」という感覚に近いが、
どうせネット上なんて、みんなクズだ。
夢でも現実でも、ゴッタ返した屑の中にあるものが屑のまま終るか、
誰かがどこかで拾い上げるか、どこでどうなるか、それは密かに楽しみにしている。
もちろん、願望もある。目論見もある。だけど野望ではない。
“架空の物語であっても、その一部がやがて現実となるように、
「絶対にこうなって欲しい」と、神に願って書いている”
と、その本当の理由は、もう少しあとになってから具体的に説明することにする。
・・・・いくらか感づいている人もいると思うけどね…。
そういう意味で、以下、ご参考まで。
できればストーンズの、“Time Waits For No One ” バックに聴きながら読んでみてよ。
できればな。
 
  このアルバムの 5曲目です。
 The Rolling Stones
 It's Only Rock N Roll
 
人類が月面に着陸して月の石を持ち帰ったその一部が、
船の科学博物館で特殊ガラスケースに展示されていたことがある。
かつて、それを修学旅行で見た人も、東京見物、鳩バスツアーで見た人も、
その時は「珍しい…」と思ったかも知れない。でもそれを
「もう一度 見たい」「欲しい」と思った人も珍しいし、いない。
それは今でもあるのか、どこにあるのか。
果して、この地球上に許可なく持ち帰っても善かった物なのか・・・・。
年老いた母親を自分で背負い、階段を登る姿そのを一枚の絵画として、
自分で造った建物の中に展示し、そこへ大勢の人を集客した過去の栄光…。
それを見た人々に“人間の心”にある何かを伝えようとして、
またそれらの功績を「素晴らしい」と言わせるように残された様々な施設、
昭和の遺産。数々の墓石、慰霊碑と同じスタイルで刻まれた”生きた証”…。
今やそれらは錆びて老朽化し、ほとんど誰も寄りつかないような場所となり、
誰に片付けられることもなく道端に転がった空缶や吸殻クズと同じように、
ある物は海の上へ、ある物は山の中腹へ、
ある物は人里はなれた湖の畔で、ある物は崖の下で荒波に揉まれ、
そのまま放置されている。
だが、次の時代に本当に必要かどうかは別として、
利用価値のありそうなモノは、その場所から退かされている。
例えば、NASA(アメリカ航空宇宙局)の所有物だった“月の石”も、恐らく。
 
今もユリカモメから見えるあの場所の屋上で デルタ型の紙飛行機を作って飛ばした思い出がある。
小学校6年の卒業旅行だったか 長谷川君と青木君の“仲良し結束三人組”で…。
その長谷川君が白血病だったことはその時は知らなかったが、
彼は高校一年になる前、F病院で盲腸を持病と誤診され、
盲腸で苦しむ症状を放置されたまま死んでしまった。
誤診は揉み消されたまま。
盲腸と白血病の似ている点は、血液中の白血球と赤血球のバランスが狂ってしまうという点。
経験の浅い医者にはその見分けがつかない人もいるらしい。
だから何かの学習マニュアルを参考にするような調子で、
その患者のかつてのカルテを必死になって読んで、そこに「白血病の気がある」と判れば、無理もない。
盲腸は放っておいて白血病の処置で対応するよう周りに指示する。
経験豊富な疑問に思うナースさんがいてもだ。
ましてや無能な医学知識で頭がいっぱいになった将来有望な若者に、
人間の創られ方など、解る以前に探る暇もない。
一人を治す以前に簡単に死なせてしまう医学。
本人達は薬屋が持ってくる新しい薬の情報や新しい医療器具を使いこなすためにご苦労な毎日。
そしてまた似たようなことを繰り返す。
ゲッソリと痩せこけて死んだ人は何を悟って死んだのか、あるいはもっと生きていたかったのか、
友達の夢の中へも出てきて、笑いながら”手招き”してることもある。
…最近は俺の夢の中に長谷川君は出てこなくなった。
毎年、同じ時期になると必ず出てくるから最後に云ってやった。
「もう一緒には遊べねぇんだよ。お前とは。死んじまっただろ。死んだんだよ。お前は…」と。
それっきり出てこなくなった。俺が27の時。だけど俺は、あんなに仲よしだった一人なのに、
葬式にも行かなかった。未だに線香一本も立てに行っていない。
かつての同級生にも妻にも「行けばいいじゃない」と云われるが、
行かない。
南 大空はそんな男だ。
行ってしまうと込み上げる怒りを抑えきれなくなって、何をするか判らない自分が恐い。
 
自然界、野生に生息するハコベ。 よく土手とかに生えている普通の草
そのハコベとゴボウ。牛蒡もちゃんとしたのがいい…農薬使ってないヤツ
この二つを その人の自分の手の平で一杯ずつ、土瓶に入れて煎じる。
カップ4杯の水が2杯になるまで煎じる。虚の人は実の煎じ方。実の人は虚の煎じ方で…。
要するに体格のいい太目の人なら実。
この場合は、はじめに沸騰させてから直ぐに弱火にして約一時間。
反対に虚の人。痩せている人は、最初から最期まで弱火でコトコトと煎じる。約一時間くらい。
その出来上がった2杯を朝と晩に毎日飲む。
すると白血球と赤血球のバランスが悪い人は次第に整って来る。
と、この内容は『本草綱目』にも出ているが、
別にこれで全国の骨髄バンク登録者が今スグどうにかなる訳でもない。
またそんなことを知っている医者もたぶんいないし、どこの漢方薬局でも何の薬剤師であっても判らない。
なぜなら、本当に人間に必要で正しい知識を教えている人がいない。
まず、全国のありとあらゆる学校、教材、カリキュラムにない。
それを指導する指導者を育成する講座もない。
ただ新聞とかで、生涯学習について巧い事を並べてカネを儲けようとしている人は大勢いる。
騙される方も通信教育の情報が素晴らしいと思って受講する。
そして平々凡々とした日常が過ぎてゆく。
人々はまた朝刊を捲る。
トップから社会面へ、三面からテレビ欄へ映るその片隅には、
全国の杜撰な病院医療の実態。診療所の悪行の数々…。
その一つを明らかにした記事が載っている。
 

その悪名高き“F病院”。
他にも悪いことはいっぱいやってるけど、…そのうち暴露される。
そうしようと思ってる人が次々に控えてる病院の待合室。
隣町のチェーン店でも、系列が同じT外科、同じ通りにあるI産婦人科も、
病院医療の杜撰な医療行為の実態は、その町ばかりでなく、
絶対に隠し通そうにも隠し切れない。必ず公表され、マスコミをはじめ大勢の人に叩かれる。
病院経営者は今まで通りには生活しては行けない。そんな所にあった豊かさは消えてなくなる。
徳川の時代は必ず終りを告げる。
そして、明治も大正も昭和も、そこにあったシキタリはすべて、
どこにも通用しなくなる。時は待ってくれない。バックにいたエイタロウさんの時代も、もう終わりだ…。
と、昨日、ユメモグラに乗りながら、そんなことが脳裏を過ぎった。
 
改札を出て、埼京線に乗り換え、大宮でまた乗り換えて…
家へ着いてから、まず俺はステレオのスイッチを入れた。
「日本の夜明けは来るのかぁっ!」の、Yuji Honjouの“Hang Out”
を聞きながらテレビのチャンネルを回すと、
またもや『プロジェクト・エックス』。
昨日はソニーのトランジスタ・ラジオのネタをやっていた…。
 
さて、江戸時代に生きた平賀源内先生にも
「もう少しあとになって生まれたかったよ」と言わせるほどの(?)新しい時代の幕明け
日本の高度経済成長期と呼ばれた時代に
アポロ11号の宇宙飛行士が月面に下り立った光景を
自分の家庭で初めてのパナカラーで観た・という人も多い。(俺は再放送で見た)
その当時、日本の学校教育で教えていたその頃までの天文学では、
太陽系の並び順を太陽を中心にして「水・金・地・火・木・土・天・海・冥」と言って来た。
それから十年、二十年と経ち、NASAのスペース・シャトル計画が進む中、
惑星探査機ボイジャーなどによる調査により、
海王星の手前に冥王星があることが判り、「水・金・地・火・木・土・天・冥・海」と改められた。
そして、21世紀に入ってからは、なぜか、
またもや、
「水・金・地・火・木・土・天・」と戻している。
どっちなんだよ! …どっちでもいいか。 
また、「地球の誕生は、いつ頃なのか?」という考古学、天文学の推測も、
それまでは、地球上に飛来する隕石などから
「45億年前だろう」とされていたが、著しい科学の発達によってか、
「47億年前」と、学校教科書等への記述も改めようとする動きもあったりと、
そうした幼稚な学説を始め、新しいところで最近では、
1996年、木星に激突した大隕石の異変はもとより、ヘールボップ彗星の存在がある。
あれ一つ、ここ数年とも言えず、今日の今日まで、「10億キロもある」という光の尾を放つ彗星が、
人間が地球上に存在する以前から宇宙空間、銀河系に在ったことは、
20世紀末に生きている殆どすべての人間には解らなかった。
自分達の目に見えて初めて、「在った」と確認し、
計算によって「4千年ぶりの接近…」などと言っている。
では、その計算をした学者が、天体観測施設の職員が、
放送大学なる所で天文学を選考しているイイトシの男性が、
かつて社会で指導者とされてきて定年退職した人達が、
4千年前に自分が生きていたというのか・・・・。
 
銀河系をも超える大宇宙の中の小宇宙、
自然の産物である人間そのものが、
自然界の何を解って生きているのか。
また、解ったフリ、解ったつもりで何年、生きてきた人類なのか。
地球、大自然の歴史から見れば、
その一瞬に過ぎない針の先のような人類の歴史、時間の経過の中で、
人間は、どこまで何を征服できたというのか。
考古学者も、天文学者も、生態物理学者も、
自分達で勝手に決めた進化論の礎に、次々に挙って “嘘”というセメントを塗り固め、
その中途半端な左官屋仕事をいつまで続けるつもりなのか?
自分の人生の御浚いの中にさえ、宇宙の歴史、地球の歴史の真実はない。
世の中には、それに気づいている学者もいるが、
年老いた研究員の記録は、たとえNASAであっても焼却処分を惜しまない。
時代は回らない。ディランの歌は聞こえない。
刻々と変わっている時代の中で、
旧くなって使えなくなった物は必ず捨てられる。
その物事の道理にあるはずのことを道理から外してしまうお年寄の方々。
学者の学識、教育の歪み、崩壊してもまだあると思っている思想。
それらは、いつまでも下駄箱に納めらているカビ臭い靴のようなもんだぜ。
「折角ここまでやったのに…」「やっとここまで築き上げたのに…」などと、
そんな履けなくなった臭い靴は誰も必要としない時代。
明治・大正・昭和の常識、20世紀の道徳や倫理を利用して生きる時代は、
もう既に終ってしまっている。
つい最近まで、例えば…
 
 
  おまえが知っている大地を失い 大いなる認識へと
   おまえが生きている生命を失い より偉大なる生命へと
   おまえが愛した友のもとを去り  より大きないつくしみへと
   故郷よりも優しき土地へ 大地よりも大いなる土地へ
そこにこそ 大地の柱が築かれ
   そこにこそ 世界の良心は向かう
   風は舞い上がり 川は流れる            
                      トマス・ウルフ
 
(書籍:デイヴ・マーシュ著『 明日なき暴走―ブルース・スプリングスティーン・ストーリー 』より引用)
 
 
ということが、自然と人の関係の中で多少なりとも成り立っていたし、
そうした整然とした自然界の秩序がなんとか守られていたように見えた時代は、
「遥かな年月がこれを築きあげ, 人間はただ これを傷つけることしかできない」
と、かつて、そのコロラドの土地を見つめながらリンカーンが言い残したことも、
人間が人間としてこの地上に生きるためには 何かしら参考になったかも知れない。
しかし、宗教も科学も「目に見える世界」と「目に見えない世界」の関係を
自分だけの学習範囲でしか捉えられず、たとえ否定・肯定の論議がどうあろうとも
どちらも統計と比較による推測で、事実を曲解してきたことの方が多い。
それは、「とても疑問に思う」ではなく、学識者達が勝手に断言してしまったことが
いま尚、様々な教育の中で、人々の頭を、自由を、もがき苦しむ生活を混乱させている。
またその事実を認めようとしないのも学識者の何者でもない。
それは調度、もう使い道のない縺れた糸を捨てずに, いつまでもほぐしているような
そんな姿である。
この自然界の中では、自分達が、まだまだ解らないことが多いにも拘らず、
解ったフリ、できるフリをして、させてきた人類…。
高々、二千年程度の期間に累積された浅はかな知識、教育の枠組にある雑多な虚構。
そこから涌き出た社会常識という物差しで、すべての物事を判断できるものなら、
その、えて素晴らしい努力の賜物によって、
世界人類すべての者が幸福でいられたというのか。
 
本来、神に似せて創られているとされる人間は、
人間が神ほどではなくとも、
”神の遣い”として存在しているような格好で、
嘘を嘘とせず、真実を真実として受け入れず、勝手気ままに極まりなく、
この地球上を使って、そこに住み飼いしてきた。
今後、その科学や宗教の誤りを捨てて、
新たな時代の幕明けに繰り広げられる過酷な事実を受け入れ、
これまでの常識に縛られていた場所から自由に逸脱できる能力、
その柔軟性を一人一人が見出せることができるなら、
これまでのような経済恐慌もありえないし、
絶え間ない争いの末に住みずらい場所を造ることもないかも知れない。
そのためには、
この場所を、この地球上を、我々人類に対して、
誰が使う許可を与えたのか。
誰が破壊することを許したのか。
それを理解するための
”自然界に生かされている道理”を素直に受け入れる必要がある。
「借りて使ってもいい」という許可は与えられたかも知れないが、
「破壊して住みずらくしても構わない」とはされていないはずである。
 
人間の造った学問の知識、学識、教育、宗教が、それほど素晴らしいものなら、
どうして、教育の中で教育によって悩んでいる人がいるのか。
どうして、宗教の中で宗教によって苦しんでいる者がいるのか。
どうして、医学の中で医療によって、死んでも浮かばれないような思いをしている方々がいるのか…。
やはり、我々の社会生活に多大な影響を与えてきたという、
かつての聖人君子や、偉大な人とされている学者達が、
人間が生きるために整然とした”正しい知識”を残せなかったためだと思う・俺も。
最初から在ったものが、今の人類が持つ”必要以上の教育”の中にはない。
それは、ダーウィンの「進化論」にしても、スペンサーの社会生物学にしても、
釈迦やキリストの弟子が二,三千年に渡って説いてきたことも、
そこに、あまりにも”生きるために必要な知識”が不足していたために、
今日、我々の現実は混乱し、一人一人が生きる理由さえも見失い、
今も世界中で、人類だけが大自然の法則から外れ、
その結果が、今後、一時的にも地球の地軸を曲げ、
その自転・公転を減速させてしまうような事態を造っていこうとしている。
我々人間が生かされている自然界は、我々が大切に使わせて頂いて、
大切に管理・保管しなければならないのに、
なぜ、南極と北極の上空の大気に穴が開き、
オゾン・ホールが拡大し続けているのか。
地球温暖化防止の協議にしても、
人間はどれだけ自然を破壊してきたか。
そしてその本当の結末、
鮮しい時代の幕明け は、まだ誰も経験していない。(お待ち兼ねの人もいます)
 
時は待ってくれないぜ。