空気、食物、水、SEX、次に人間に必要な音楽  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥
    
mind resolve : chapter 016 
テーマ:
生きるために必要な生活の知恵   
   
   
    仮題: 音楽を聞くという道具について…
   
   
これまでの教育、学問の上では、
日本全国、全世界の学校、理科の教科書でも教えてきた通り、
太陽の周りを公転する惑星は、今のところはまだ、9つとされている。
実際にはあと三つ、海王星よりずっとずっと追い所にあるらしい。
あるか・ないかは、天文学上では色々な推測、憶測もあり、はっきりとしてはいないが、
「ない」と断言できる者もいない。
要するに、太陽を中心に12の惑星が規則正しく、自転と公転をしながら進み、
太陽系の動きを構成している。
それは、人間の体に経絡というものが正経で12本。それぞれがすべてに関わり合い、
人間の身体のあらゆる臓器や機関と関連を持ちながら気血の流れる道筋としてある。そして、
「人間の身体と自然界は対照的な創りにある」
それを説いた“創った側の人”は、こう云っていた。 
   
「一年が12ヶ月あり、その365日という日の数は、人間の体の関節の数と同じである。 
そしてこの関節は、骨と骨で組まれている場所は一ヵ所もない。 
すべてが筋肉によって覆われ、筋肉によって繋がれている。
大自然の中の小自然、自然の産物である人間は、筋肉が動くことによって生きている。 
そしてその大自然、銀河系を超える大宇宙にあるすべての星の数が40億あり、 
人間の脳細胞も、およそ40億ある。
また、地球上の生命の種類の数。およそ60兆という数は、人間のからだ全体の細胞の数と同じである。
その細胞で構成される筋肉の中には、網の目のように血管が張り巡らされている。
だから筋肉は、血液が流れることによって動く。
そしてその毛細血管までも、すべての血管を もし、一本の状態にすると、その距離は、 
我々人間が住み飼いしているこの地球を二周半する長さになる。 
それは丁度、月と地球を往復する距離と同じ長さでもある。 
月と地球の引力の関係から潮の満ち引きがあり、 
本来、人間は満ち潮時には死ねず、また引き潮時には産まれないとされている。 
そしてその海の水。地球上の陸地以外の場所。その海洋全体の塩分の濃度は、
人間の体にある塩分と比例している。
そして塩分とは、人間の体の中で腎臓という臓器と深い関わり合いを持っている。
その腎臓は膀胱という腑の部分と陰と陽の関係にあり、決して切り離して考えることはできない。
人間の体にあるそれほどまで長い血管。その血管を流れる血液を常に濾過しているのが 
腎臓の仕事であり、
その濾過されたもののうち、体に必要のないものは膀胱から尿道を通して尿として体外へ排尿される。 
だから、膀胱の延長には男女両性の性器。子孫繁栄のために各々に備えられた生殖器がある。
このことから、腎臓という臓器は、“子供を造る臓器”でもある。
また、腎臓という臓器は、人間の体の中で「骨」をその持分とし、常に塩分を好む臓器である。
それは、五味五臓【ごみごぞう】と言われる中で、「しょっぱい」という味を要求するのが 
腎臓という臓器であり、人間の腎臓は常に、塩分を必要として骨を守っている。
例えば、栄養学の上で様々に計算された食事、献立、カロリー計算によって、世の中では 
「塩分控えめ」だとか、「カルシウムを補う」とか、色々に言われてはいる。 
戦後の学校給食もすべてが、一つの学問によって管理されている。
その一方で、「骨粗鬆症」とか「ガラスの骨」と呼ばれるお年寄りや子供の体の問題が現実にある。
まず、人間は、食べた物が体の中に入ってからどうなるのか。 
そして何か食べる以前に、一人一人の体が要求する味、その人が好む味。 
それは「
苦い」ということも、「辛い」「甘い」「しょっぱい」「酸っぱい」という五味が、それぞれ
心臓肺臓肝臓腎臓脾臓
という五臓。臓器が要求して必要とする味がある 
ということが解っていない。
その学問によって計算し、目の前に用意された食事。それが本人が好む・好まないに関係なく、 
制限された物であれば、当然、人間の体はおかしくなってくる。むしろ、人間は、 
かつてのように自然界、野生に生えた草を食べて生きていた方がまだ健康だったかも知れない。
だから人間の体(特に、腎臓という臓器は)、一年365日、四季を通して、 
その人その人の体の状態から、常に、必要な塩分を補給することで骨を守っている。
しかも、母親の胎内で育つ胎児。受胎して人間の形になってゆく過程で、まず骨の部分。要するに、
人間は母体の中で、背骨。脊椎から造られて行く。このことからも判るように、人間の腎臓。そして
その腎臓という臓器が必要とする塩分という物は、男女共に、 
子供を育てることに重要な役割を成している。
そして私は、大自然の中の小自然、人間は自然の産物であると云っている」

   
と、ここまでを読む限りでは、人間の誕生と海の関係。この地球上に人間が創られた時に、 
海洋が、どう関係していたか。また、「海の水がなぜしょっぱいのか?」 
ということは具体的にされていない。
ただ、“創った側の人”は、学者やおかしな図鑑などにある進化論とは別に、
「創る時には数を決めて、神の姿に似せて創った…
ということを話していたこともある。
どういう意味か? その先も今のところまだ定かではないが、
今後、それを明らかにする者が現れることを
俺は信じている信じたい
テレビの特別番組や本の中で、それはそれは尤もらしく騙られている“進化論”や“神話”には、
よく注意深く聞いていると、不審な点、嘘が見え見えになっている部分が多い。
考古学者や生態研究をしている連中が浅はかに考察し、仮説を立てる分には、
第一線で活躍中の漫画家の仕事と変わりはないむしろ彼等の方が素晴らしいので、それはそれで、
そのままスポニチにでも掲載されておけばいい。 
だが、勝手な想像を巡らせた頭で「こうだ」と断言してしまうことは、おかしいし、危険である。
何億年も前から見てきてもいない地球や人類のことを“解ったフリ”をしても、 
それは、泥棒の始まりでしかない。宗教も同じく。
“創った側の人”が、あの10月14日にも云っていたように 、やはり、 
それを“証明する力”が必要なのかも知れないが、 
それを大勢の人が認められるようになるためには、 
生きた者が生きた者を生きた者の目の前でどうにかしない限り、 
それによって元通りの階級が人類に整わない限りは、誰も目覚めないし、気づけない・かも知れない。 
これについては今後、『失われた人類の階級 』(仮題)と題して、この『mind resolve』の中で、
解説(/実行)してゆくことにする今の状態だと何年かかるか知らんが…
   
さて、先ほどの続きになるが、人間の身体と自然界の関係について、“創った側の人”は、こう続けている。
   
「地球上の湿度と人間の体の水分の量は、春夏秋冬により多少の誤差はあっても、その全体の
65パーセントと決められている。 
そしてその水分調節をしているのが、臓器の中では特に、膀胱と腎臓である。
この、腎臓という臓器は体の中のどの部分にあるのか。
そのように大切な人間の背骨というものは、人間の頚椎、脳髄の部分にまで繋がっており、 
人間は誰もが、その背骨の下にある腰椎を囲んだ腰の部分に、左右の腎臓を背負っている。 
しかも、この二つの腎臓は、筋肉に囲まれ、支え、守られている。 
腰壁【ようへき】、腰の筋肉とは非常に重要な筋肉である。
また母親の胎内で正常に育って行く胎児は、五感の中ではまず、音を感じる。要するに耳を使い始める。
この、人間の頭の部分、顔の両側に空いている穴。二つの耳は、やはり脳の中から、頚椎、脊椎、腰椎に
繋がる神経もあれば、血管もあり、非常に密接な関わり合いがあって、耳が聞こえるようになっている。
つまり、この耳というものも腎臓と関係しているものである。
だから、難聴とか「耳が遠い」「聞こえない」ということも、現代の医学。耳鼻咽喉科などでは色々と
考えてはいるものの、どうして耳ばかりを診て、耳だけを考えるのか。
それは、結果的に「耳が聞こえない」「音がしない」というだけであって、 
実際はそうしたことを訴えるその人の、腰の部分。腎臓を囲む筋肉と、腎臓の機能、 
腎臓の仕事に問題がある。
人間の体の中に網の目のようにある血管。その中を流れる血液は常に、腎臓によって濾過され、
肝臓へ送られている。それが腎臓という臓器の仕事である。
ところがもしも、腰の筋肉が冷えたり、硬くなるということになると、腎臓機能は低下し、
そこに纏わる様々な臓器や出先機関にも影響を及ぼしてくることになる。
例えば、医学の上で「突発性難聴」と言われる、よく原因の解らない症状も、 
決して耳ばかりに問題があるのではなく、
またそのことを直接、腎臓だけを考えればいいということではない。
その人が、自分の(腎臓を守る)腰の筋肉が、どうして悪くなってしまったのかを考えなければ、
決して、耳も、腰も、腎臓も、治るものではない。
また、「突発性難聴」と言われた人は、必ず、両手首の関節より腕側、 
その手首から腕へ伸びる骨と骨の間の筋肉にも問題がある。
それは、経絡線上である外関【げかん】という場所
正経十二経絡の10.手の少陽焦経 
【てのしょうようさんしょうけい】の経絡線上の経穴のこと)

 
   10syouyousannsyou  ### 
 
例えば、「難聴」と言われた人は、その部分を自分の手で、少し強く押してみるだけで、耳の奥の方で、
ガサガサと動くものがある。 
また、私がそこ(手首の外関)から要らないものを抜く
(詰っている気の流れを促すために 
邪気を抜く / 気血の滞りをよくするために瀉す【しゃす】の意)
と、 
そうすると、本人の耳がだんだんに聴こえてくる。
右の耳なら右の手に、左の耳なら左の手首に、左右、双穴【そうけつ】の場所の気の流れ、
筋肉にある血液の流れを出している。それは、温灸という物を使っても、私の気具【きぐ】を使っても、
自分自身で同じようにできるはずである。
要するに、人間の両方の手首にあるその場所は、後ろ肩の部分から耳の陰、そして、
耳の奥の鼓膜の周りの筋肉へ繋がっている。そしてそれはまた、口の中の舌の奥の筋肉、
舌を両側から支える筋肉にも関係している。
だから、「耳が遠い」「聞こえない」という人は、思うように自分の舌が回せない。
それは決して「言語障害」という簡単なことではなく、手首のその部分と、やはり、 
腎臓という臓器に纏わる流れとしてある両足の裏。その土踏まずの真ん中の辺り、 
そこに気と血の滞りがある。その部分は、「湧き出る泉」と書いて
湧泉【ゆうせん】といわれる場所
(正経十二経絡の8.足の少陰腎経 
【あしのしょういんじんけい】中の経穴)

 
   08syouinjinkei  NEWyousen08jinkei  
 
そこが悪い。
そして先天性なものは別として、もし、完全に聞こえるように治すことを考えるなら、 
腰の両側にある腎兪【じんゆ】と膀胱兪【ぼうこうゆ】
(正経十二経絡の7.足の太陽膀胱経  
【あしのたいようぼうこうけい】の経絡線上の経穴)

 
   7taiyoue  konron7   
 
その部分の(筋肉にある血液の)流れを(自分で)回してやる(/ 補って行ける)ようにしなければならない。
特に、腰の筋肉は両脚の裏側の筋肉と関係して、常に、人間の体の中の腎臓という臓器を守っている。
そして左右対称に腰に背負われている腎臓は、両方の耳と関係している。
このようにして、耳は耳だけでなく、また、腎臓は腎臓だけでなく、 
体のあらゆる部分と関連を持って、人間の体はすべて、そのように創られている。
だから決して「耳が悪い」「耳が聞こえない」という結果だけでなく、治す前、自分自身で治すためにも、
そこには必ず原因があるということを知っておくべきである。
   
最近では、医学に役立つ優れた機械、器具が様々に研究、開発され、それはまた我々人間の
生活の中にも役立つ物として、テレビもあればラジオもあり、非常に大きな音を立てて走る自動車など、
そうした便利な物がなければ生きては行けない世の中になっている。
そうして人間は今以上にもっともっと便利さを追求し、様々な機械、器具を造ろうと努力し、研究している。
その中で、耳が聞こえない人に対して造られた補聴器。最近では、手術をして直接、耳の陰の部分に
埋め込むという物もあり、それは決して、耳の中で音を聞こえるようにする物ではなく、
機械から伝わる振動を骨に響かせ、それを感じたことで、 
後ろにある物音や人の声を頭の中で判断できるように開発され、研究されている。
そうした精密な物まで造っておきながら、人間はどうして、耳だけを考え、また、骨だけを考えるのか。
医学や科学、企業経済、学問というものは、実に浅はかで 
人間を解らない。また解らなくさせてしまっている。

   ---------------- 以下、略 ----------------
   『大自然の気による政治革命』未公開原稿「草を食べる時代と心霊政治」の一部より抜粋
 
 
ということで、ここから先の内容は、 
医学、政治、宗教、経済の内容とは別に、かなり複雑そうでもないか?な内容になるので、 
それはまた別の機会に、おそらく、順を追って“創った側”の言葉を紹介することができると思う。
   
さて…。
実は俺も、20歳の時に、俗に言う「突発性難聴」と言われる症状になり、はじめは右の耳から、 
それから幾日かして左の耳も、耳の側に腕時計を当ててみても、 
秒針の回る音が聴こえない状態になったことがある。
幸い(?)、その頃から“創った側の人”に接近遭遇宇宙人ではないしていたので、 
(今も)大嫌いな病院へ行くこともなく、
自分で自分の耳を元に戻すことはできたが、かれこれ二週間近くは耳が遠く、 
何か幕を被せた状態になって、物音がボボーボーっと聞こえていた(ドンパッチ君の相棒ではない)
耳を澄ませば、サー~という音が聴こえる状態。 
で、どうしてそうなったか? 
それ以前に本人、俺自身は、
「もう大好きなFENの放送も、音楽も聴けない。ザザやU2も、ローリングストーンズも、 
マトモに聴くことはできないまま、この耳は治らないで、このまま生きて行くことになるのか…」

などと、それはそれは臆病で、極めて勝手な、自分の身体に対して無責任な状態。
そういう心境から抜け出る馬鹿が一つ利口になるには、やはり、
“創った側の人”によるアドバイスが重要な役割を果たした部分は大きい。
当時を想い出せるだけ想い出して、
できるかぎり、今日の自分と過去の俺。その違い、成長も踏まえた上で (再編集 2007-04-18 一行挿入) 
ここに会話を再現する。
群馬県高崎市八千代町にあった“五健法会”の事務所にて。
1987年、長閑な春の日。…五月頃だったか? 
   
「聴こえないのぉ?」
「はい」
「いつから?」
「一週間くらい前かな…朝くらいから、なんか、耳の中が詰ってるような感じがして、
最初、耳クソが溜まってるのかなと思って、耳掻きでガリガリやってやったんですけど
昨日になってからもっと聞こえなくなってきた」
「それで今はどう? ここへ来て私の顔を見てからは?」
「いや、あんまり変わらないです」
「じゃ、これでどうかな…」
と、“創った側の人”は椅子に座っている俺の右肩、やや後ろに立って、
自分の右掌を俺の右耳に近づけると、その手をゆっくり上の方へ離して行った

「今度はどう?」
「…まだ聴こえないです」
「そう。…もうちょっとだね。ほら、これでどうかな?」
と、同じ動作を丁寧に繰り返す
「あ、なんか耳の中が詰ってる状態が変わってきてる」
「ねぇー。ほら、もうちょっとだ」
と、しばらく引いていた手を下ろして、今度は俺の目の前に(いつのも自分の席へ)腰掛けて、
「筋肉の問題なんでしょ」
「筋肉?」
「うん、鼓膜は震えて音が聞こえるようになってるんだけど、その鼓膜の周りの筋肉が硬くなってるみたい」
「?」
「反対側の耳はどうなの?」
「ああ、はい、こっちはまだ割りと聴こえてる。…でも、この耳は鼓膜が詰ってるってことですか?」
「いや、詰ってるんじゃなくって、動かなくなってる。硬く冷たくなって」
「鼓膜が?」
「筋肉が。…膜の周りにある膜を支えている筋肉。そこに血液が回って行かなくなってる」
「…ああ、じゃあそれは太鼓の皮を思いっきり張って突っ張った状態みたいに?」
「タイコ? …太鼓はどうか知らないけど、内耳も外字もまったく問題ないみたいよ」
「?(…どうして耳の中を見てもいないのに判るのか?)」
「ただ筋肉がダメなんでしょ。…ゆかりちゃん」
と、当時“創った側の人”の所にいた事務員で俺の母方の親戚のお姉さんを呼んで
「この子にあとで耳の導引を教えてあげてくれないかなぁ」
「はい」
「耳の導引? ってなんですか?」
「そういう体操があるんですよ。自分で治す方法として ココで教えてる」
「?(なにか怪しい)」
「だから、あとでそれを教えてもらってみて、自分でやってみればいい」
「治るんですか?」
「うん。…でもそれは耳だけど、耳だけが悪いわけじゃないんねぇ」
「?」
「腰はどうなの?」
「…ああ、今ちょっと重いです。ちょっと前に、前橋のディスコで踊った時にだいぶ腰を捻ったせいか…」
「デスコで?」
「はい、つい調子に乗って…そのあとから耳もおかしい。…何か関係あるんですか?」
「関係ないんねぇ、それは」
「関係ない?」
「だって、そのデスコって処、オレ、行ったことはないけど、みんなで踊ってるわけでしょ」
「はい。音楽デッカイ音でガンガンとやってます。耳にもあんまりよくないかも知れない…」
「そこで踊ってる人、みんなが耳が遠くなっていったなら話しは判るけど、そうではないわけでしょ?」
「…はい」
「だた、そこへ行く以前に、踊って遊んで帰ってきた以前に、自分の体がどうだったかだよ」
「はぁ…」
「別に突然、耳がそうなったわけでもないし、耳より先に もっと別な所に問題があるんですよ」
「腰だけじゃなくて?」
「うん、腰だけじゃなくって、全体。」
「ぜんぶですか? 頭も?」
「アタマもって、頭はそれでいいんですよ頭は。そのままで。でも、その頭で動かそうとしてる体がダメで、
体に問題があるたあめに結果的に耳に出てきたんでしょ。筋肉の異常が…」

「異常?」
「うん、異常ですよ、その頭…頭じゃなくって、その体が。…まずねぇ、なんかこぉ、非常に冷たくなってる」
「何が?」
「からだ全体、筋肉そのものが。非常に冷たく、冷えて硬くなってるために必要な燃料が回って行かない。
今こうして見た目には丈夫そうで、元気には見えるんだけどねぇ、 
もうぉ、『この子、生きてるの?』っていうくらい、硬いんですよ」

「…死後硬直ですか?」
「なに? 死後硬直? …うん、それに近いかも知れないですよ、まだ生きてるうちから」
「・・・・。」
「それで今はどう? 耳はどうなったかな?」
自分で腕時計を耳に当ててみて
「・・・・・まだ聴こえない…聴こえないなぁ…」
「じゃぁねぇ、ここ押してみて、ここんとこ」
“創った側の人”の人はそう云いながら身を乗り出して、 
俺の右の手首の骨と骨の間の筋肉(外関)を指差す

「ここですか?」
「いや、もっと上の方。それはねぇ、手首を手前に起こしてみて」
「はい」
「もっとちゃんと、いっぱいまで」
「いや、これ以上は…」
「ええぇーっ、そんなに硬いの? どれ・・・・ああホントウだぁ」
「・・・・」
「それじゃぁ大変ですよねぇ…そんなに硬いと…。まあそれでもいいから、
今いったように手首を起こしてみて、そうすると三本、皺ができるでしょ。
その真ん中のいちばん長い皺だ。そこへ反対側の指2本を当てて(第二関節を手首の中心に合わせて)、
その指2本のスグ横。その窪んだ所が、さっき云った鼓膜の、耳の部分と繋がってる」

「ここですか?」
「うん、そこ。そこは鍼灸学上で言う外関【げかん】という場所。今そこを自分で強く押してみて」
と、云われるままに夢中で押し捲る俺
「あ、耳の中がゴソゴソしてる…」
「ああ、してきたぁ」
「はい、なんかガサゴソ聞こえて…虫が入ってるみたいに…」
「ムシ?」
「いや、そんな感じで何か動いてるように聴こえます」
「そう。…じゃぁやっぱり耳じゃないじゃない」
「はい」
「で、どうかな今度は?」
と再び“創った側の人”は、今度は自分の膝の上に構えた右手の指先を俺の方へ向けて、
気を送っている状態で…
「ほら、これでどうかな…」
その時、俺の耳の中で、丁度、登山中に気圧の変化で詰る状態と同じような感触があり、
俺は咄嗟に、自分の鼻を摘んで、口を閉じて内側から耳の中へ空気が抜けるように力を入れてみた。
すると、

「あ、通った!」
「通ってきた?」
「はい。…ああ、さっきよりだいぶ聴こえるようになってきた…」
「ねぇーっ。耳じゃなかったでしょ」
「はい。…ここ(手首)と耳が繋がってるわけですか?」
「うん。全部ね」
「ぜんぶ?」
「耳も目も鼻も口も全部だよ」
「ああ、そういう意味の全部で…」(まだよく判っていない
「そこはその反対側、内関【ないかん】という場所と表裏を成してる。中国ではそこ(外関)に鍼を打って
反対側に通す」

「串刺しに?」
「うん、こういう(30~40センチ位の)長い鍼をぐっと差して、
そこへ灸を当ててみたり、そうやって(気血の)流れをよくしてる」

「痛くないんですか?」
「ぜんぜん、ちっとも痛いことなんてないよ。それは、砲弾鍼【ほうだんばり】と言って、先が丸くなってる。
日本の鍼医者というか、日本で鍼灸をやってる人が持っている鍼は先が尖ってる。だから血も出る。
本来の鍼はもっとずっと長さがあって、血なんかひとつも出ない。経穴【つぼ】も正確に定めて打つんですよ」
「ここで先生もやってるわけですか?」
「ココではやってはいないけど…どうして? やってみたいの?」
「いや…」
「だからそれは決して、『今こうなったから、ここをこうしよう』ということではなくって、
常に自分で自分の体を管理して、病気でも何でもそういうことにならないようにやってるんですよ」

「今でも?」
「今でもやってますよ。でもここでは今は鍼ではなくて、温灸というものがある。
それを使って、自分で自分の体を手入れして行くように、ここへ来たみんなにも紹介してる」

   
と、こんな会話の内容で、その日から“耳の導引”という行と温灸を併用して、
耳は元の状態に戻すことができた。
   
音楽を聴くという意味では、今も俺にとって「耳が聞こえる」ということは非常に大切なことで、それこそ、
「音楽がなければ生きてはいけない」というほど、普段の生活の中では重要な位置にある。
そういう意味では、TheRollingStones のキース・リチャーズが、あるインタヴューの中 で云っていた、
「空気、食物、水、SEX、次に人間に必要な音楽。
いかなる芸術形態や表現形式にも先立つコミュニケーションの手段」
1989年PB誌にて

ってことも、俺は非常に共感できる。(…酒と煙草はそん次か?)
で、それを聴くための道具、“人間の耳”というものが、どれほどまで大切かということも、
そうした過去の経験からも判るように、
自然界に生きる、生かされている上では、ある意味で、自分に与えられた生きるための道具。
どんなに素晴らしい楽器やアンプ、オーディオ装置を持っていても、
それを使って音楽を聴くための自分の耳。それを聞こえるように構成している肉体そのもの。
その道具の役割を素直に受け止めて、自分で自分の肉体を管理・保管するということを
常に心がけて、毎日の生活の中で実行していることが大切だと思う。
一人の人間の一生なんて、長い間生きてきた地球そのものの命からすればホントに短いもんだけど、
その一生の中でも限られている、自分ができること、自分の役割を常に正常に認識するためにも、
頭の中(精神)と肉体のバランスを保つためのコントロールは、他人がやってくれることじゃない。
自分がこの世に産み落とされる以前から、精神と肉体は同時進行で動いているのに、
偏って、精神だけ鍛えるとか、向上して行こうとすることが、そもそもおかしいと思う。
それは何の宗教にしても、どこの立派な会社の特訓にしても似たような理屈を並べるだけ並べて、
あとは、それを最後まで実行できなかった自分が、自分を責めて終ってる。
例えば世間にあるどんな自己啓発書の紐を解いてみたところで、
そこにどこまで今の自分の肉体が着いて行けるかってことも、
そういう本を読めば読むほど、俺は怪しく思うし、
紙に何か字が書いてあって“本”という物体として、
テーブルの上や本屋の本棚に存在しているという事実以外は
すべて嘘に思えてくる。
だから、本物か偽者かどうかを見極めるには、まず、自分自身が今、本物かどうかだ。
それは他人には判らない。
へんな知識や思想でフィルターを被せられていない状態で
自分で自分を認められるかだ。
子供の頃、素直だった時ようにね。
 
 
つづくよ。
 
 
 
 
 
 
      http://ameblo.jp/badlife/entry-10002850915.html