福祉の未来に消え失せる大和魂 | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

 
 
  聞く所によれば、明治36年生まれのお爺さんは、
広島出身(父親も同じく)で、この間の戦争中は、
呉の造船所で軍事産業に従事していた。
もちろん、有名な戦艦、「大和」を造る職務の遂行にも携わっていたと云う。
 瀬戸内の荒波の中、岩場に縄で身体を縛りつけ、
自分達で造った大砲の試験とか、
甲板や船底の鉄板の厚さの設計や測量など、
職業軍人として中尉というそれなりの位もあり、
かのアティーナ爆撃によるヒロシマ・モナムールの勃る寸前まで、
呉市内に残っていたらしい。
 原爆投下の当日は、
一足先に行っていた家族の疎開先(東京都八王子市)へ向かう列車の窓から、
美しいきれいな茸雲(生前の本人の表現)も観たと云う。
「爆心地から 2.0キロメートル」と記された旧い朱色の被爆者手帳を
なぜか俺も持っている。
 
 
      記事中より
 

 
 
 attack Title : 敗戦60年、「福祉の未来」に消え失せる大和魂
 mind resolve : chapter 017
 未公開 『 Half Life 』 より
    
この内容も未公開の原稿、『Half Life』の一部からもので、
今から8年前の俺自身のことになるが、
今後の“mind resolve”の実行に必要な俺自身のテキストとする。

   
     
仮題: 開けていい蓋、いけないフタ
  
                          平成9年12月10日 未明
      
 西暦1966年、雪の降る夜、俺は産まれた。
 その年の秋も終わり、やがて緑が息吹く蘇る季節を迎えるには少し早い
昭和41年11月19日23時丁度。
この存在がまだほんの3800gだった時、どのように創られ、どういうふうに生れ、どう育ち、死にゆくのか、
その約束は誰とも交わしてもない。ただ、この自然界に、押す人がいて引っ張る人がいて、
「口で吐いて鼻で吸う」という肺呼吸ができるようにしてもらった。
 世の中に姿を現わした俺の姿を見て、心から喜んだ両親の、遠く置き忘れられた笑顔は、
今も、あの家のどこかにある何枚かの色褪せたカラー写真を見ても、よく判ると想う。
その幾つかの写真背景に覗ける街の色、建築中の大きな建物や鉄橋、木の電柱や公園の造り。
それらは大切に育てられる子供の成長。その過程と平行するかのように、
戦後日本の急速な復興を物語っている…。
 必要以上に豊かさを追求し、必要以上に知識を高め、必要以上に見栄を張り続ける。
 そうやって、どこまでも限りなく昇りつめようとする日本という国。
この俺自身の存在も、この国の中にある。
 そして今、この俺自身の分身ではないような新しい存在。
俺の子供も、この国に生まれた日本人として存在する。
 ある意味で、“敗戦”、“終戦”という事実が還暦を迎えた戦後60年の日本の歩み。
 幾つもの“肝心なモノ”を置き忘れ、また置き去りに生きてきた大人達の打算。
“その日暮し”に宛がった戦後教育の弊害による社会の歪み【ひずみ】
それらを高度経済成長期の誤算として、結果的に”偽りの発展”だったということを誰が認められまいとも、
有形・無形の財産として今も各地に残っている過去の栄光の姿は、
明治・大正・昭和に建築された建物の老朽化にダブって映る影の中にある…。
今後、人類の発展、世界がどうあろうと、もう誰も引き返すことのできない所に位置する日本人。
ここまで来るには大勢の人の並々ならぬ努力があった。
「こんなはずじゃなかったのに…」
その台詞を吐く数は、現在、大人よりも人数の少ない子供に多い。そういう現実がある。
 そんな奇形な社会構造が構築される中で、かつての父親は二十八歳、母親は二十四歳だった。 
父親は、俺が産まれる前、「男が産まれた時には是非、その名前を貰いたい!」と、
お爺さんの考えた名前を従兄弟の叔父さんと取り合ったという話を聞いたことがある。
その叔父さん夫婦には、俺より何ヵ月か先に女の子が産まれたので、父親の望み通り、
その名前が、三代目の長男として産まれた俺に付けられることになった。
そのお爺さんが考えた俺の名前の中に、「大」という文字が使われている。
 いつだったか最初は確か、敗戦後の国有鉄道退役後(列車ダイヤ組立てなどをやっていた)、
電車に乗っていたお爺さんが吊革に掴っていて思いついた名前だったと聞いてはいたが、
その話も最早、定かではない。
 母親の要望だったと思うが、俺は小学校一年の時、
お爺さんの友人が経営していた習字の塾へ通わされていた。
 妙に堅苦しい雰囲気の中で、筆を持つ手も緊張して書き順も定まらない。
習字の先生は、そんな下手糞な字についての云々を差し置いて、
半紙の脇に小さく遠慮して書かれた名前を見ると、ことあるごとに大声で、
「この子は実に素晴らしい立派な名前をお爺さんから貰い受けた」
と、同じ塾通いのみんなを前に、俺の頭をパサパサ撫でながら、
単に名前だけを誉め称えていたのを覚えている。
 その習字の先生とお爺さんがとても仲が良かったことは、
後にゲートボールを競いあっていたことでも判りやすかったが、
あれがどんな意味あって、それほどまでに俺の名前を絶賛していたのか。
そのことも今は確かめようもないが、 
 今日でも、七十代、八十代、九十代の人たちには「大和魂」という言葉も通用するほど、
「大和」という言葉は戦前から戦後も、それこそ太古の昔から至る所で使われてきたし、使われている。
どうやら俺のお爺さんは、その「大和」という言葉の一文字「大」を使って、俺の名前を考えたらしい。
親に訊くと、「考えすぎだよ…」という返答もあるが、その親でさえ、俺の名前の由来は判らない。
ただ、自分が尊敬する親(俺のお爺さん)が考えた名前を
俺が産まれる当時、“立派”だと考えたかどうかどうかは別として、瞬間的にピンと来た背景には、
それまで自分が送ってきた人生において意味があったと思う。
(その、三十年以上も前の事を覚えてる親でもないけどな)
 …と、ここまでは、世の中で右寄りに偏った方々だけでなく、
何人かの戦争体験者にも共感してもらえそうな話でもあり、
日本の歴史というものを重んじれば、幾分、聞こえのいい話かも知れない(自分ではまったくそうは思ってない)
そんなふうに考えれば、あの習字塾の先生の気持ちも判るような気もする。
でも実は、この名前には、もっといわく憑きの話が由来する…というより、
いま現実に生きている俺の家族だけでなく、
 太平洋戦争が終るまで仕込まれ続けた思想教育の中に生きた人々。その友情の絆や契り…。
それは、自分達の過去が決して無駄ではなかったと思いたい人々の願いに込められたものだったのか、
あるいは、新しい時代に生きなければならない自分達の人生を、
改めて「やり直そう」とした決意の象徴だったのか、
あるいは、今も残る戦争の爪跡の中で、どこか罪深い自分達に対しての“戒め”だったのか。
 戦争を知らない世代の俺の表現がどうあれ、おそらく、日本人のお年寄りの持つ意識にあったのは、
その辺りが妥当な線…と思う。
 その証拠に、「大」という文字を使った名前の他に
「太平洋」の「洋」を宛てて考えられた名の案もあったらしい。
聞く所によれば、明治36年生まれのお爺さんは、広島出身(父親も同じく)で、この間の戦争中は、
呉の造船所で軍事産業に従事していた。
もちろん、有名な戦艦、「大和」を造る職務の遂行にも携わっていたと云う。
 瀬戸内の荒波の中、岩場に縄で身体を縛りつけ、自分達で造った大砲の試験とか、
甲板や船底の鉄板の厚さの設計や測量など、職業軍人として中尉というそれなりの位もあり、
かのアティーナ爆撃によるヒロシマ・モナムールの勃る寸前まで、呉市内に残っていたらしい。
 原爆投下の当日は、一足先に行っていた家族の疎開先(東京都八王子市)へ向かう列車の窓から、
美しいきれいな茸雲(生前の本人の表現)も観たと云う。
「爆心地から 2.0キロメートル」と記された旧い朱色の被爆者手帳を、なぜか俺も持っている。
   
        
LittleBoyNote
    
 さて問題は、俺の名前が何か意味あって「大和」という文字、言葉に関わっているのではないか
という疑問(個人的な)。
そして、その意味に因んで命名されたことが今日に至るまでの、この三十年余り、
俺と俺自身の周囲に、
どんな影響を及ぼしてきたか…ということだ。

 
 ここで、ここまでを読んで涙を流しているお年寄の人が、もしも、もしもいるなら、その方は決して、
ここから先を読まない方がいい…かも知れない。
 俺の書く俺の事実は、現代に生き残った戦争体験者の人生における“無責任さ”に、
強く衝きつけるものがある。
 それを知って、残りの人生を再び、
本来の自分自身として自分らしく堂々と生きられる覚悟をお持ちなら話は別だが、
肉体的にも精神的にも、そんな元気な人を、真実を捻じ曲げて報道するテレビの中以外で、
俺は見たことがない。
「俺は違うよ!」と、自信を持って云えるなら今すぐにでも連絡してもいい。
 携帯電話で、###-####-####。…情けなくも震える手で、どうかお掛け間違いのないように。
 何度と止まないお年よりのマチガイデンワも他人には迷惑だが、
例えば世間の“振り込め詐欺”というビジネスは、
「こうして!」という言葉に、ただそのまま従ってしまうようなお年寄りの、
そういうダラシのない隙を狙ってくる。
掛ける方も悪質かも知れないが、何も不審を抱かず乗せられる方も悪くないとは云えない。
被害にあったこと(自分で招いた結果)に、その本人がどんなに困惑していても、本人以上に周りの者は
もっと迷惑している。もっと肉体的にも精神的にも元気を出して、逆に連中からカネを巻きあげればいい。
「そんなの無理でしょ」ではない。
それくらいの溌剌さがないために、今にもその肉体から魂が脱け出てしまいそうなフラフラの格好で、
他力本願な人生を送っている年寄りが多い。
 そんな情けない世の中をそのままにしておく世間もおかしい。国もおかしい。
まず、戦後の学校教育、戦後の社会教育の常識がおかしい。
 もう使い物にならなくなったことばかりを今まだ、新しい世代に押し付けている。
 それに何の疑問も感じることもなく、何の反省もすることもなく、
ただ成り行き任せに生きている この国の高齢者。
それが全部ではないにしろ、その方が多い。事実と違うと言うのなら、電話してきてみて。待ってるよ。
もし、俺のスグ手の届く処にある電話が非通知で着信していない限りは、俺は必ず受話器を耳にあてる。
そしてそこからが友達の第一歩だ。 (…今さら爺さん婆さんと友達になってどうするよ?)
俺は聞きたいことが山ほどある。どうしても。例えば、
「どうしてこの国がこんなふうになっちまったのか?」 
応えられなくてもいい。
それなりに自分が思うことを云ってくれ、なんでもいい。
「男は女を利用して大きくなる」とか
女は男を利用して幸せになるとか、
その程度のことでも、自分が体験してきた事実なら、
それを俺に伝えることで何か気が晴れるのなら、どんな内容でも聞く。
そして俺はそれを参考に生きてゆく。“次の世代に使えるモノ”なら子供にも伝えてゆく。
もし、電話が鳴らなかった時。その時はもう、俺のこの行動が遅かったのか。
核家族された世の中に、他人同士、それほど隔たりのあるような、
かつての社会の明るさは微塵の欠片もない場所に俺達は生きているのか。
それほどまでに、もう元気なお年寄はいなくなった世の中だった…ということなのか。
この内容を知るべき人間。そのお年寄りの周囲に
読んで聞かせる愛情を持った者が一人もいない世の中なのか。
あるいは、誰に読まれることなく、ネットのクズに埋もれてゆく宿命にある戯言で終るのか…。
いずれにしても、俺だけが残念に終る問題ではない。
 
肉体的な部分と、精神的な部分で、現代の高齢者がどのように“ダラシナイ”のかについては、

他のページで判りやすく丁寧に書いているので(たぶん)、そちらを参考にして戴ければ、
「なんてヤツだ、お前には年寄りを労わる気持ちはないのか!」と言うくらいが関の山の、
権利の主張の先に立つ、ちっぽけな腹立たしさも薄らいでくるはず…です、ので、どうかそういう方は、
それらのページをプリントアウトして、湯呑に茶でも注しながら、ゆっくり読んでみるか、
あるいは、今の視力には もう合わなくなってしまった老眼鏡を捨てて、誰かに読んでもらうか…
“素直になる”ということも、残りの人生に必要だと思う。俺はな。
今後は「認知症」の問題に限らず、もっともっと具体的に“人間の創られ方”の事実を掘り下げて、
白内障や緑内障、癌や“細胞の老化”についても、世の中では教えなかった、教えていない、また、
教えることのできない事実、実例、体験などを基にした内容を、正確に、克明に、
なるべく判りやすく伝えていく所存。…そういう挑戦的な構えで俺は踏ん張り続けて、この先を書く。
…一人でも多く生き残っているうちにな。
 

父方の親戚一同もすべて知っておかなければならない事実としても、
謎めいた部分を解かなければならない問題がある。
 そのことは、平成9年3月28日、享年92歳。俺のお爺さんが死去した後になって
少しずつ明らかにされた事実に基づく。そしてその事実は、普通の人間の目には見えない世界で多分に、
生と死の狭間(ちょっと大袈裟だが)、俺のこれまでの人生を左右してきた。
 これは、酒を酌み交わす通夜の席で、俺の父親と、父親の弟にあたる俺の叔父さん。
そして三十年前のその当時、俺の父親と何を思って名前を取り合ったのか(?)
例の従兄弟の叔父さん。
この三人から、俺がしつこく聞き出した話になる。
 
 俺の父親は四人兄弟で、一番目が父親の姉、二番目が父親、三番目が大手新聞社に勤める叔父さん、
四番目に俺と俺の弟が子供の頃よく、『グリとグラ』などの絵本を読んでくれた叔母さんがいる。
だから死んだお爺さんにとって、俺の父親は“長男”ということになる。
 ところが実際は、「五人兄弟であった」と、俺は子供の頃から薄々と聞かされていた。
父親の上には、お爺さんとお婆さんにとって最初の男の子供として産まれた“長男”がいたと云う。
だから本来の“長男”という人は、今は亡き俺の伯父さんに当たる。 俺が子供の頃には確か、
「…お父さんのお兄さんは山登りが好きで、いつか崖から落ちて死んでしまったんだよ」と、そう聞かされていたが、
それはある夏休みのお盆、法事の時に、お婆さんに聞いた”自分に都合のいい嘘”で、
事実を知らない、また教えたくはない孫に対しての慈しみから出た言葉だったのかも知れない。
その、子供の頃のうる覚えの記憶を、つい最近まで、俺はずっとそう信じてきた。
しかし、ウイスキーの普ジ茶割りを 好む、
“酒で人生を駄目にした”と云われた父親が、
この数年前(俺が24歳の時)、
「俺の兄貴は自殺したんだ。お母さんにはそんなこと云うなよ。知らないんだから…」と、
日々の疲れを凌ぐために酔った口から、一度だけ漏らしたことがあった。
その時ちょっとだけ気になった態度を示したが、正直な所、
「何で自殺したのか?」という疑問…というより興味が湧いた。
悪戯に“面白さ”を含めた興味ではなく、なぜか自分の意識の中にオーヴァーラップするものがあった。
なぜなら、その当時、俺の頭の中にも確かに、“自殺願望”が存在していたからだ。
正確には、人間の死というものに対する興味。特に、“自殺”という人の死に方には、
過去の俺(三十年間)にとって、非常に神秘的で、ある意味で、優美なことのようにも思えていた。
ところが、その意識が、自分の生き方をどれほど馬鹿げた所へ陥れてしまうことになるのか…。
「もう自分さえも信じられない」という思いが“神の存在”をも否定する意識と変るまで、時間は掛からなかった。
 そこには、触れてはいけないモノ、開けて見てはならないモノ、
自分が生きる上で関わる必要のない思想。
またロックミュージックや住んでいた場所の影響もあったかも知れないが、
「自分で自分を苦しめてただけだったな…」と気づいたのは、随分と後になってからのことだった。
しばらくは身近に“死の気配”を感じながら、「死」。ただそれだけの問題に対する執着心、その愚かさが、

日常を過ごす自分の頭から離れなかった。
 
 
俺の自殺願望と、「いつか必ず実行してやろう」という犯罪意識が解消された点については、
これまでも別のページ で打ち明けてきたが、要するに自殺は、“自然界の大罪”。
「親よりも先に自分から勝手に死ぬ」という行為が、自然の摂理に反する大罪ということは勿論だが、
”生きる”という、本来、人間に与えられた義務の遂行を勝手に放棄することは、
自然界における叛逆行為として、何よりも重い罪であるということを
今の俺は、そう認識できている。(お蔭様で
で、俺自身も、もう一度復習する意味で、ここに改めてその内容を記す。
#####
俺にとっては、かなり前のことになるが、
17歳の時、一人の存在に対し、「自分の生涯をかけて…」という思い込みから、
ある晩秋の夜、「一緒に死んでも構わない…」と応えてくれたにも拘らず、
結局は青春の1ページのように終わってしまった恋を二十代半ばまでずっと引き摺っていた。
 そこには、肉体と、それを容器とすると云われる心。その両方のバランスを崩してしまうことで、
“自分の名前”に由来するある問題から、目に見えない世界と共鳴し、
自殺願望を抱いてしまう“心の歪み”が俺の中にあった…と、自分で自分を分析している。
 それから十年後、世の中の腐った医学により、母親が「精神分裂」という病名を付けられることになってからも、
息子である自分にはどうにならず、何もできなかったこと。そして、
自分がやりたいことが常に遠ざかってしまう下手クソな人生の歩み方。
友達の悩みにも何一つ手助けにならない自分の存在…(他人のことなど心配する余裕はない)。
なぜかそうしたすべてを予兆するかのように、17歳の時、
「十年後、27歳になって『本当にもうどうにもならないな』と、
その頃になっても今と何も変わらなければ、自分で自分の命を断つ。
それでも少しはマシで、『あと五年くらい生きてみよう』と思えたら、とりあえず頑張ってみて、
その時になって、『やっぱり駄目だな』と思ったら、32歳の冬、必ず自殺しよう」
と、そう決心してしまった(馬鹿なヤツ)。
 巷の自己啓発関連の様々な本や、役者のテキスト(『俳優修行』など)、
あるいは、ウェブスターの辞書にも、
それが生きている人間の役に立つかどうかは別として、似たようなことが載っているかも知れないが、
 これまでの自分の経験から、悪いことでも善いことでも、
一度、自分自身で心から、「そうしよう!」と決めてしまうと、
人間の人生とは本当にそういう道を辿ってしまうもので、
黄金率のスピードやサイクルは、善い方向より悪い方向へ進むことの方が速い。
その思いは、つい最近まで、“おかしな癖”や“思考の物体化”として残っていた。
 そういう甘ったれた頭で生きていた自分。まだ世間の世の字も知らず、
精神の成長を止めるように、自殺願望という“関所”から先へ進めなかった自分。
それほどまでに弱く、強がって生きていたことは、
この二十年以上の月日の中で、だいぶ解けてきたように思える。
 
 そのために、大勢の人に助けられ、
中でも“創った側の人”には、たくさんのことを気づかせてもらい、
こんな自分にも生きることに喜びを感じ、
生かされていることへ感謝できる気持ちを取り戻せるようにしてもらった。
 つい昨日まで父親も、
「お前たち兄弟を産んだ母親が、医者に精神分裂と云われて、
その病気が遺伝しなければいいと、俺はそれだけを願ってるんだ…」と云っていたり、
その常識も反映されていたのか、「どこか異質な存在、紙一重…」
というレッテルを、周囲に貼られたこともある。 …今もあんまりかわりねぇか?)
頭がおかしい人間の扱いを受けたことも、
毎日のように、他人から罵られ、批判され、比較され、決めつけられ、時には殴られ……。
 正直云って、生きることを「大変だ…」と思って、
疲れるだけの状況へ自分で自分を陥れる生き方は、
二十七歳まで、それほど変わっていなかったかも知れない。
 十八歳の8月12日 、新潟へ海水浴に行って帰らなかった、あの時のままの自分であれば、
どこかのテロリズムに、きっと身も心も委ねていたか、
あるいは平成九年の神戸市須磨区の惨状より早くに
自分がそれを演じていたか。確かに心の底から拳銃が欲しい時期もあった。
“創った側の人”のお陰で、人を騙したり殺めたりする職に就かずに済んだが、
誰にも何にも迷惑のかからない生き方で、
自分が創られた通りに生きることに気づかされたことは、
今後、どんなことがあっても命を張って伝えていこうと思う。
「世界は変わる、そこに自分の持っている力も役立たせる」と思っていた十代後半、
二十代を経て、今日までの自分には、常に軌道修正され、
自分でも軌道修正しながら、僅かでも、最初に与えられた目的に近づいていることが確認できて来た。
 今までのように、人間として生きなければならないことを、
どこか苦しく感じたり、自分の心(神の魂)を敵に回し、自殺願望を掲げることで、
本来の姿から逃避する嘆かわしさもなく、やるべきことを確実にやり遂げ、
安心して死ぬことができる人間…。
そういう人間になれるよう、充実した楽しい毎日を送る自分を取り戻している。 (…一応な。)
 
 あの、運命の“27歳”を迎える前年、平成5年9月14日午前、とある車中で、
“創った側の人”に、
「それは若いモンが通る関所みたいなもんだ…。
俺もあった、そういう時期が。
誰でも若い時、一度は考える。だから関所だ」
 と、そう云われた言葉の落ち着いたトーンに、少しばかり気がほぐれたが、
その時そこで「その念いを捨てたい」という自分の気持ちをグズグズした口調で口走った後、
静かに走る車の後部座席から聞こえてきたのは、
「できるもんならやってみな、俺の前で、そんなこと…。
見てて手伝ってやるから…、やれるもんならやってみればいいじゃない…」
 という言霊だった。
 俺は22歳の時にも、やはり、“創った側の人”に心を洗われている。
 それは、鰈の唐揚が美味い京国料理の、ある小料理屋で、正直にも抜け抜けと生意気に、
自殺願望を持っていることを打ち明けた時のことだった。
「う~ん、それは困ったねぇ。
…あのね、自殺するといことは何よりの罪だよ。
世の中にある犯罪の、最も悪い、最高の罪だ。
…だってねぇ、生きているんじゃないんだよ、生かされているんだよ。
だから自然界に対する物凄い罪、大罪だよ、それは。
この世に創られて産まれた人間が、
親よりも先に、自分から勝手に死ぬなんてことは、
それほどの大罪、自然界に対する叛逆行為はないよ」
 その言葉を発する眼を見れなかった俺の横で“創った側の人”は続けて、
「生きることは義務だよ。義務の遂行だよ。それこそ、鳥でも、昆虫でも、草も木も、
どんなものであっても、自然界に生命を持っているならば…。
生きることは限りなく義務の遂行でしかないよ」
 そこに淡々と温かく聞こえた、その大切な応えを聞いて、
ただただ涙するばかりの俺の横で、先生は、
「まぁ飲んでよ」と優しく、酒を注いでくれた。
 今でも時々、自分の手元の温かい徳利を、
気の利かない自分よりも先に傾けてくれる姿を想い出してみると、
あの日の洗心、突っ張った心が癒されたことを痛感する。
 それからの五年間、27歳までは、夏が過ぎ行く度、様々な葛藤の中で過ごした。
 考えて眠らない日もあれば、考えて疲れる自分をごまかしながら、
相変わらず他人の不幸を笑い飛ばしたり、誰かを愚弄して平気で傷付ける台詞を吐いては、
後でその自分を懲らしめるために職を転々とした。
次から次へ解決の着かない問題を独り抱え込んでは、
その一つ一つを蹴散らすかのように酒に溺れ、時には腹癒せに器物を破損する…。
そういう馬鹿げた人生を歩んで「当たり前だ」という自分を演じてきた。
 そんな歪んだ生活の中、幾つか、怪しくおかしな癖や悪趣味もあった。
 ひとつは、刃物を握り、しばらくヤエバの輝きを見つめながら、身近な物でその切れ味を確かめること。
二度か三度、先の尖った物を実際に人に投げつけたこともあったが、ある映画の最後で、
アランドロンが、悪役の相手の隠し持っていた拳銃より先に、
手元の銀のペーパーナイフを相手の胸に刺すシーンには憬れた。
また、勤め先の電動工具を使い、鋼の破片を鋭く研いで
“世界にたった一つしかないナイフ”を自分特性に作ってみたり、
完成すると必ず、それを板切れなどに投げつけ、狙いを定めた場所に美しく刺さるまで訓練する。
 自分の手で拵えた刃が勢い良く、ストンッ!と、
建物の壁や床に刺さる瞬間の感触、心地好さは、何とも云えない感覚で、
おそらく時間が許す限り、いつまでもやっていた・そういう時期もあった。それはまた、
小学校低学年の頃、もの心ついてから間もないうち、
既に自分の中に存在していた“独り遊び”の世界だったようにも想える。
 最早、誰の身に何時、何が起こっても、まったく不思議ではないほど自然が崩壊した今日、
もしもあのまま運悪く、何か大きな災難に見舞われていたなら、
おそらく、“北関東のゾディアック”になっていたかも知れない。
 もっとも“自殺する”という犯罪行為よりはマシだったかも知れないが…。
 とにかく刃物は、怖いけど大好き、鋭敏な刃渡りの輝きにはいつも魅了された。
 通学する自転車のサドルの下にも刃物を仕込み、電車に乗るときもバスに乗るときも、
街でタクシーを拾った時も、常に携帯していた。(今は全部しまってあるよ)
 その悪趣味(軽犯罪法違反行為)が、どうして自分の中に在ったのか!? 
#####
 話は少し前に戻るが、それも、例の“自殺した伯父さん”と関係があったことが、
やはり、つい最近になって判った。
 戦時中、広島の土地で自殺した父親の兄。お爺さんが最初にこの世に授かった息子、長男も、
生前はどこか異質な存在で、自ら仕込杖などを作り、
弟(俺の父親)に隠し持っていることを密かに教えたり、
「お前、学校で誰かに苛められてないか」などと、
どこかで試す機会を仄めかすように云っていた、とも聞いた。
 その人の名前は「カズ マサ」というらしい。
 下の字はともかく、上の「カズ」は、例の「大和」のうちの一文字、「和」。
これもお爺さんが命名し、その“自殺した人”は、21歳まで「和正」という名前で、
ちゃんと(?)人間の形をしてこの世に存在していた。
「どんな犯罪者も、裁かれる以前に、何がどんなに精神鑑定しようと、
どの心理学の何者が、誰に、どう言おうとも、
その者の心、精神に問題がある以前に、まず肉体に問題がある」
と、“創った側の人”は云っていた。
 要するに、この自然界の道理として、人間の肉体と心の関係が、本来、具体的にどうなっているか? 
ということである(…自分の場合、必要以上に筋肉が硬く、
日の出・日の入りに従う肝臓機能に問題があった)。
 このことも徐々に説明してゆく(既に別のページで公開済)が、
「どこか異質な存在だった」とされるその人も、
小さい頃から病弱だったわけではなかったかも知れないが、
きっと何か“肉体の支障”があったはずである。そのヒントとなるような話が一つある。
 それは、その人が子供の頃…、と云っても、普通に会話をして言葉を喋るようになってからも、
寝小便が多かったらしい…。
初版の『人間の設計図 』にも幾つか解説されている中で、夜尿症や寝小便、これらが、
腎臓と膀胱の関係は勿論のこと、脾臓(お腹全体の筋肉)と全身の筋肉との関連に問題があるという、
“人間の創られ方の道理”を踏まえて考察すると、ちょっとした言葉一つからでも、
「その存在がどう 在ったか」という部分は、断片的に見えてきて、
やがて一つの事実として つなぎあわされる。
 
当時、世の中がまだ、「お国は勝っている」と思い込まされ、みんな意気込んで、
その思想に命を捧げていた時代、
俺のお爺さんは、
「寝小便には鰻の肝が効く」と誰かに聞けば、呉市の戦艦造船所の仕事へ出かける前、
毎朝のように、暗いうちから近くの沼へ出掛け、息子(和マサ)のために沢山の鰻を釣ってきたという。
 当時、弟であった父親も幾度と連れて行かれたことがあったので、よく覚えている事らしいが、
それほどまで可愛がられ、大切にされながら、21歳という若さで自ら命を断ったことには、
家族一同、随分と長い間、“暗いモノ”を世間に隠し続けてきたと思う。
 敗戦当時(俺もまだこの世に産まれる前の時代…
…まだある程度は、自然と人間の関係に調和が保たれていた時期では)、
おそらく親族、身内に自殺者がいたなんてことは、どこか世間に対しても後ろめたく、
「恥」とされていたのかも知れない。
特に、「生き神様のために…」「お国のために死ぬ」という思想教育の世の中では、
その一筋に反した行為そのもの、
本人の、その自殺の理由がどうあれ、
「非国民」「国賊」という範囲の扱いに入るような「恥」だったかも知れない。
…ある意味で、当時の世の中においては。
また当時は、広島出身=「ピカドンの毒をもらい受けた連中」というような
そういう差別的な風潮もあったような世の中、
そうした世間がつくる”おかしなレッテル”が蔓延っていた時期には特に・である。
 その、人間としての”恥”も、ある一方では、様々に騒ぎの種とされ、
そして今日も、ある意味で(それが未遂であっても)“自殺”をテーマにすることで、
一時的にも自分の名を世に知らしめている人達…、芸術家や著名人も数多い。
 「こんな時代に生きていることが嫌だ」と、自分から死んでしまったのか何なのか、
その人達にとっては悪い云い方になるかも知れないが、
「それが一体どうした!」
と、腹を抱えて嗤うほどではなくも、正直云って、今の俺は彼等を嘲けてしまう。
勿論、俺の父親の兄、21歳で自害した“和マサ”本人に対しても同じだ。
戦後の社会情勢の中で、歌に文学に演劇の世界にと、
このうえなく愚か者と思う…悪いけど。
 “創った側の人”によれば、
「生きている人の心、自然界に生かされている人間の魂は、一日一日、利口になっている」 という。
 確か、平成5年9月12日以来、そのことを教えてもらった現在の俺には、
生前、その人達が、どんなに優秀であったとしても、
自分から勝手に”魂の成長”を途絶えさせたようにしか思えない。
そして最近では、
「最早、神や仏も人を救わない」
 また自分だけ何かに選ばれたつもりなのか、ただ自分勝手な生き方の者を前にして、
「自然が崩壊する前に人の頭が崩壊する」
とも、“創った側の人”は云っていた。
 それらがどういうことなのか。たったそれだけの言葉に、広範囲に渡る深い意味があって、
様々に気づかされることも多いが、国内外を問わず、身近にある周囲の状況を見ても…。
何より、今日までの自分をよく見つめてみても頷けることばかりである。
だからきっと、自殺を実行してしまった魂は、どんなに優秀な神父が祈ろうと、
どんなに偉い坊主が持っている経文であっても、何を基に誰がどう拝もうが、
もう二度と浮かばれないし、
次に蘇ることもできないと確信している。(俺はな)
 さて、父親の兄「和マサ」という名前の自殺した人は、
なぜ、どうして、自分から命を投げ出したのか? 
…正確には何のために死んだのか? 
 俺にとっての「何で自殺したのか?」というその疑問は、具体的な質問に変わる。
 
 
mind resolve : chapter 018へつづく。 
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